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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
537
:
犀角独歩
:2003/09/06(土) 11:21
―536からつづく―
人法の立て分けで言われる「法」は正法、あるいは妙法であって、つまりは妙法蓮華経の五字である、その五字には一念三千が包み込まれている。では一念三千とはなにかというと、方便品に「諸法実相」という法華経にのみ説かれる真理(法=正法/妙法)なんだとやりだす展開でしょう。そんなことから、妙法蓮華経とは宇宙の真理であり、それを説いたことを記された経典が法華経典であるから尊い。でも、経典は経典なのであって、実はその経題である妙法蓮華経こそが本尊であり、無始已来仏と共に常住してきた真理なんだとかやり出すのが天台の系譜を踏む蓮師の考えだというのが「教学」なのでしょう。この有力な基礎が興師写本を遺す本尊問答抄でした。わたしはこれは「興師作なのでは?」と問答さんに疑問を投げかけたことがありました。蓮師の思想と思えないからです。
また、「諸法実相」は什の漢訳仏典の捏造だというのがわたしが主張してきたことで、この点は坂本幸男師辺りも言及していました。しかし、日蓮学者は諸法実相鈔も含めて、その疑義を認めたがらない。当たり前で、認めれば、一念三千論自体が崩壊してしまうわけですから。でも、わたしは正直にいきたいと思います。まあ、これも置きます。
そこでさらに、その宇宙真理を墨に染め流して書いたのが漫荼羅である。漫荼羅は法本尊だという所以です。だから漫荼羅正意だとこうなってくる。さらに寛師以降になると、その漫荼羅の中でも本懐の漫荼羅があって、それが石山にある「戒壇之大御本尊」である。それ以外の漫荼羅本尊は方便であって、日蓮真筆でもダメと言いだす。けれど、石山の歴代住職は唯受一人の血脈を受けているから、その人間が書写した漫荼羅は功徳があるとまで言うわけです。これは、すごい発想です。日蓮真筆漫荼羅はダメだけれど、石山歴代住職が書写したほうはいいと言い切ってしまうわけです。もはや、正気の沙汰とも思えません。まあ、これも置きますか。
ガンコさんが言いたいのは釈尊より法華経が勝れていて、その法華経は妙法蓮華経であり、これが本尊であって、だから漫荼羅正意が正しい、こんなところでしょうか。しかし、これは蓮師の「所顕三身無始古仏」とは違うでしょうね。
なおわたしは、蓮師に漫荼羅正意ではなかったと思います。三学無縁さん辺りとも話したことですが、蓮師は漫荼羅を拝んでいたんでしょうか。だいたい、釈迦一体仏を終生随身されたものの、では蓮師が終生随身された漫荼羅なんかあるのでしょうか。「戒壇之大御本尊」と言いたいでしょうか。でも、それを示す証拠は何一つない。「戒壇之大御本尊」の歴史的資料は江戸時代の精師まで現れることはありません。この時点での造立であるとわたしは断言してきたわけです。
また、興師は漫荼羅正意論者である、というより日蓮御影信仰者でしょう。石山の漫荼羅正意論は道師辺りからだとするのは執行師でした。
ただし、漫荼羅正意論を生み出す素地はやはり興師に求められるべきではあるかもしれません。漫荼羅には実に鄭重に扱っていた様子が窺えるからです。『白蓮弟子分与申御本尊目録事』は興師が御影堂を重須に創した年に書かれたものと見えます。
わたしがいちばん着目しているのは、蓮師が興師に授与したという要山蔵の漫荼羅です。
「文永九年太歳壬申正月元旦 問答第一 行戒智徳筆跡符法の沙門日興に之を授与す」
とあるといいます。これが本当ならば、「漫荼羅書写、付法共に興師へ」と胸を張れそうな脇書ですが、富士年表にその記載を載せません。真筆とは言えないものなのかも知れません。
話が横道に逸れました。のちに同じようなことを言い出す派はありますが、漫荼羅正意は富士の発祥であることは間違いないでしょうが。
しかし、その派祖への恭敬と影響から、その考えに固執すると蓮師の祖意は見えなくなるとわたしには思えるわけです。この点でも、ガンコさんの頭が柔らかくなると、もっと視野が広がるだろうと、投稿を読ませていただいているわけです。
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