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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
536
:
犀角独歩
:2003/09/06(土) 11:21
> 535
ガンコさんが言いたいことはわかります。
問題にしているところは、いわゆる日蓮教学の大問題です。この件は、過去にも何度もみなで話し合ってきたことですね。
この問題を話し合うときには、「法華経」がなんであるのかをまず定義しなければいつまで経っても噛み合わないでしょう。通常、法華経というのは法華経“経典”を指します。となると、これは蓮師の教学・歴史観では当時から2230余年前に、釈尊が、インド、霊鷲山で御歳72歳から80歳の8箇年の間に教えを説かれる有様を経典にしたものということになります。ですから、この場合、法華経は釈尊が生み出した前提になりますね。
ところが法華経の本文を読むと、法華経は過去の仏様も説いていたと、こんな記述が出てきます。ここで言われる法華経はインド応誕の釈尊が8箇年の間に説いたものではなく、過去の仏もみな法華経を説いているとなってくるわけです。
序品に「…日月燈明…是の法華経を説きたもう」と、こうあります。つまり、昔、日月燈明仏が世に出て法華経を説いたと序品から、いきなりこう来るわけです。すると法華経は、お釈迦様がインドに出て説いたものを言うのではない、となってきます。
これをずっと遡ると、もしかしたら法華経はお釈迦様を含む一切の仏様が成道する以前からずっとあったんじゃないのかという法華経神話がここに発生します。そして、ここでいう法華経とは経典を指すのではなくて、(南無)妙法蓮華経という正法、あるいは妙法と言われる「法」のことなんだと、論理が飛躍していきますね。こうなってくると法は永遠常住だから、仏様より先にあり、その法を師として仏も成道したんだ、こうなっていくわけでしょう。
実際、法華原文を読んでも、たとえば提婆達多品では「仏…吾過去無量劫の中に於て法華経を求めし」などとあります。釈尊と法華経、どっちが先か、法華原文に拠れば、これは間違いなく法華経が先です。つまり、ここまでではガンコさんの考えは正解です。ですから乗明書は別にしても、その考えはあっていると思います。
ただ、問題その先にあります。
提婆達多品の記述にしても、ここでいう法華経は釈尊が説いた法華経ではなく、過去仏が説いた法華経です。しかし、こうなってくると、釈尊一仏を一切の根本としようとする法華信奉者にはまことに都合が悪い。お釈迦様は一切の根源であり、お釈迦様より古いように見える仏に関する記述は、実は方便なのであって、本当は根本はお釈迦様なんだと、こうやりだします。一切の仏の成道よりお釈迦様の成道が先だと言おうとしたのが寿量品の久遠実成だとも言い出します。
それでも、飽きたらず、実は五百塵点は過去の特定の時を指すのではなく無始なのだ、だから、法もお釈迦様も無始古仏なんだとはじめるわけです。これは蓮師も足並みを揃えるわけでしょう。ここで展開されるのは人本尊・法本尊でそれが一箇であるというものです。仏を掴まえて人とはよく言うものだとわたしは恐れおののきますが、まあ、ここで言いたいことは仏/法の無始性でしょうね。富士ではこの無始無終の仏を「日蓮」と置き換えてしまうわけですが、この考えは蓮師はあるはずはありません。日蓮本仏論は天台本仏論の焼き直しであり、その天台本仏論は釈尊本仏論の焼き直しと見えます。
では、無始古仏という考えが、では法華経創作者にあったかといえば、それはなかったでしょうね。法華原文を読む限り、そんな思想は窺えません。三身にしてもそうです。法華経創作者は三身論などまるで問題にしていません。あるのは久遠仏思想、阿弥陀信仰と同じ仏の寿命の量り知れない長さです。まあ、それは置きます。
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