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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

53独歩:2002/05/03(金) 22:58

―52からつづく―

(3)次々に主語を奪う

さて、先に挙げた一念三千即自受用身から、さらに「出尊形仏」という一語をもって人法一箇というまったく新説を展開します。これは言わば連想ゲームであって、一念三千は自受用身で一つ、自受用身は尊い形を出た仏、すなわち人間、だから、人法一箇というわけです。まったく勝手な論理展開と言うしかありませんが、早坂鳳城師の指摘するところに拠れば恵心流口伝法門には天台本仏論があるといいます。すなわち、上述の連想ゲームで言いたいことは、天台と説かれた一念三千は一箇であるということです。すなわち、これが天台本仏論です。

日蓮本仏論者であれば、真上の記載を読み、「?」と思われることでしょう。つまり、上の説明は天台本仏を論ずるものではなくて、日蓮本仏を論じる基本理論であるからです。まったくそのとおりなのであって、つまり、寛師は上述の中古天台の解釈をすっかり“いただいて”天台を日蓮に置き換えて日蓮本仏論としたのに過ぎなかったのです。ただ、寛師の場合は、さらに一念三千を南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と言えば曼荼羅、曼荼羅と言えば、ただ弘安二年大曼荼羅(戒壇之本尊)とおまけをつけて、人法一箇とするわけです。

整理すれば、「本仏」は天台に見られます。この場合の用法は本門仏の意であって、久遠釈尊を意味します。日蓮聖人自体の用法はこの意味に限られています。
中古天台本覚思想において、まず天台本仏論が台頭し、それを真似て日蓮本仏論が形成されて行ったわけです。

重要な点は本仏は元々久遠釈尊を指し、そう言っていた天台を今度は本仏と言い、その釈尊・天台に従っていた日蓮を本仏というに至るという点です。
このようなことが正しい考え方であるとは、私には思えません。


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