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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

52独歩:2002/05/03(金) 22:57

○「本仏」の意味の変遷

(1)本仏とは寿量品の釈尊

法華経のなかに「本仏」という語彙は見出せません。
「本仏」という成句は、初期天台資料に既に見られます。

天台『法華文句』(9壽量品16)
如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。
如來とは 十方三世の諸佛二佛三佛本佛迹佛の通號なり。

などと言い、その名を挙げますが、実際のところ、詳しい説明がなされているわけではありません。その解説はむしろ妙楽に拠ります。

妙楽『玄義釋籤』(15釋名蓮華)
開迹顯本即識本佛之所從生。
開迹顯本は 即ち 本佛之所從の生を識す。

つまり、本仏は迹仏に対する語であって、五百塵点成道の“釈尊”を意味するものでした。すなわち、伽耶・始成正覚の仏(迹仏)・寿量品三合論で顕わされる久遠成道釈尊(本仏)を言うわけです。つまり、迹を開いて本を顕わしたわけです。
本仏の意味は以上でした。ですから、純粋な用法に従えば、釈尊以外に当てはめるべき語でないことは、あまりにも明らかです。

実は日蓮聖人に、この語の使用はほとんど見られません。真蹟のみで追えば、

『大学殿事』弘安元年(1278)五七歳
日蓮が云はく、迹仏は長者の位、本仏は法王の位か

のみです。

(2)本仏と一念三千・自受用

「本仏」語に潤沢な意味を冠せられるようになるのは、やはり、中古天台本覚思想の、それも伝教に仮託された『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身」と、展開される凡夫本仏論によってです。

ここでネックになってくるのは一念三千と自受用身でしょう。日蓮本仏論に馴染んでいる人にとって、本仏・一念三千・自受用身は一つにまとめられる当然の原理のように考えられがちですが、実はこの“常識”が“操作”されたものであることに気付く必要があります。

実は天台・法華三大部には「一念三千」語の使用は見出せません。これを使うのは妙楽です。

妙楽『玄義釋籤』(4釋名三法妙)
止觀中不思議境一念三千非思量分別之所能解。是故立此不思議名。
止觀の中の不思議境一念三千は思量分別之所 能く解するに非ず。是の故に此の不思議の名を立てる。

また、「自受用」の使用も法華三大部には見られません。これまた、妙楽によります。

妙楽『玄義釋籤』(12釋名三法妙)
應身即水月者。諸水非一故。報身爲天月者。自受用報非多故也。
應身即水月とは 諸水は一に非ざる故。報身を天月と爲すとは 自受用報(身)は多に非ざる故なり。

以上のことから、つまり、天台には本仏観はあったけれど、少なくとも、語彙の用法としては一念三千も、自受用身もなかったわけです。そして、一念三千・自受用身は妙楽が展開したものであったということです。


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