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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

41川蝉:2002/04/28(日) 12:44
独歩さんへ。続きです。
私は今のところ、この論点に関しては本化妙宗の山川智応居士と高橋智遍居士の所論を特に参考にしています。

山川智応居士の「開目抄研究」にある見解の意趣を紹介します。

<宇宙は一体のものであるが、その固有の活動には両面がある。すなわち法性縁起と無明縁起である。
法性縁起の活動を以て、宇宙の真実相を得たるものとし、無明縁起の活動は宇宙の実相を晦ますものとする。
両縁起が無始より法界即ち宇宙に固有し、各因果によりて活動する。
どうしても無始から絶えざる無明縁起の活動に対して、無始からの絶えざる法性縁起の活動というものがなければならぬことになろう。
その無始以来絶えざる法性縁起の活動を「三身常住三世益物」といい、その主体を仮に「本仏」と名付け、その無辺無尽の化導の跡を「六或示現」と名づけ、
本尊抄に、寿量品の仏をば「五百塵点乃至所顕三身 無始古仏也」とある。五百塵点と数が限られていれば、決して無始でなく、天台も「玄義」に「これより久しいのは東方五百塵点の国を過ぎるとあるを、四方を以て喩えとする」などと説いていらるる。しかし日蓮聖人はさように見ずに、無始を譬説せられたものとせられたが、その無始のはじめに「我本行菩薩道」したとなれば、やはりはじめから仏界があったのでなく、はじめは菩薩であったのではないかとの疑問があるが、それは無始の仏界無始の法性縁起の因行面をいったので、無明縁起から法性縁起に入らんとしたものではない>
(開目抄研究・304〜308頁)
と本仏の無始について論じています。

高橋智遍居士は
<無明と法性とが両方ともこの宇宙の始まりから活動しているんだ。という事を寿量品で説き明かされた。
仏様が本来この大宇宙に地獄界が動き出すと同時に仏界が動いている。
「至理に名無し、聖人理を観じて万物に名を付ける時」(当体義抄)とあります。「聖人理を観じて万物に名を付ける時」凡夫じゃない、聖人なんです。これが本仏なんです。
宇宙には法界を一貫した真理がある。その法界を一貫した真理が動き始まると、仏様という人格が出てくる。
我本行菩薩道というのは、久遠の仏がご自分のお心の中に持っていらっしゃる九界の心を浄化する、九界の心をば仏界化する事が、我本行菩薩道なんです。

この仏界所具の仏界はこれは本覚なんです。仏界所具の九界は覚用なんです。本覚はこれは本果です。覚用はこれは本因です。この本因が働いて本化の菩薩を教化したことなどが「我本行菩薩道」、こういう事になってくるのです。>
(昭和四十年五月大阪市成正寺にての講義速記録)

>どうして初住即妙覚の釈とつながるのか、わかりません。そもそ
>も「初住即妙覚の釈」とはいずれの出所を言うのでしょうか。

玄義の第五上で十住位を説明する部分に「華厳に云はく、初発心の時便ち正覚を成じ、諸法真実の性に了達す」と挙げられているからではないですか。

>“従果向因の教導”とは、どのような意味なのでしょうか。

すでに仏である本仏釈尊の修行は、喩えれば、すでに王位に在る王が国民の為の政務を行い、その善政を行えば行うほど、ますます王としての徳が具わっていくと云うようなものと云う事です。
「我本行菩薩道」の菩薩道とは、喩えると、一国民が王位を得るために努力するに喩えられるものでなく、既に王位に在る王が全国民の為に徳政を行う事に喩えられると云うことです。それを「従果向因の教導」と表現したのです。

『玄義私類聚巻』は読んだことがないので、『玄義私類聚巻』で云う「従果向因」の概念と同じか否かはわかりません。

お願い。引文はなるべく訓読でお願いします。それから巻数も添えて頂きたいです。漢文苦手なので。


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