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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
40
:
川蝉
:2002/04/28(日) 12:43
34 独歩さんへ。
>宗門教学史を背負って書かれるものもありますね。法華経を根本
>とすることが大切であろうかと思います。
仰る通りですね。
「涌出品」に
「まさに仏道を得たまいしとき、初めて発心せしめ教化示導して、阿耨多羅三藐三菩提に向わしめたりと云う」
とあるのですから、「初発心の弟子なり」の意は「上行等は釈尊によって発心させられた弟子」と解釈すべきでしょうね。
「文句」の「従涌出品を釈す」の項にも、また嘉祥大師の「法華統略」「義疏」を見ても、「久遠釈尊が初住位の時に教導した菩薩であるか、妙覚位を得てから教導した菩薩であるか」についての問題には触れていません。
上行等は、一番最初に本仏釈尊の弟子に成った菩薩であると受け取ることが、最重点で、釈尊の菩薩時期に弟子に成ったのか否かの検討は戯論なのかも知れませんね。
本化聖典大辞林の解説に有ったように、天台大師も
<初発心時便成正覚の初発心をば、十住の初めの初発心住と見て、便成正覚とは一分の無明を破し一分の法性を証するが故に、一分の正覚を成ず。>
と見ているので、初住位から教導出来るとすれば、久遠釈尊も初住位時に上行等を教導したのであろうと云う推論は可能ではありますね。
>ここらは本有で捌かないと駄目なのでしょうか。天台止観の
>無明癡惑本是法性。以癡迷故法性變作無明。
実のところ、この点について、まだ私も考えが纏まっているとは云えないので、深入りしたくない所なのです。
「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし。」(開目抄・学会版197頁)
「十界久遠の上に国土世間既に顕れ一念三千殆ど竹膜を隔つ」
(本尊抄・249頁)
と有りますね。
久遠釈尊に凡夫の時があって発心修行して初めて成仏したと立てると、いかに遠い過去であても無始の仏とは云えいので、本有仏界が無かったことになりますね。
もし釈尊が成仏した時点で、真の十界互具が成立するものならば、今世、ガヤの成道の時点でも真の十界互具が成立した云えることになりますね。しかし宗祖は「ガヤの始成正覚では真の十界互具が成立しない」と云う考えですね。
とすると、「無始と云われるほどの過去であっても始成正覚であれば、真の十界互具は成立しない」と云うお考えなのではないかと思われます。
本有仏界が無いと「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて」が成立しないので「真の十界互具、百界千如、一念三千」も成立しないことになりますね。
ですから本有十界の概念は極めて重要なものであることは確かですね。
もし釈尊が成仏した時点で、真の十界互具が成立するものならば、今世、ガヤの成道の時点でも真の十界互具が成立した云えることになりますね。しかし宗祖は「ガヤの始成正覚では真の十界互具が成立しない」と云う考のようですね。
とすると、「無始と云われるほどの過去であっても、迷いの衆生が始成正覚したものであれば、真の十界互具は成立しない」と云うお考えなのではないかと思われます。
>天台止観の無明癡惑本是法性。以癡迷故法性變作無明。
良い着眼だと思います。
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