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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

391ガンコ:2003/08/07(木) 16:23

教主釈尊の御宝前とは? その2

地涌の菩薩は・・・釈尊五十年の説法を最初から最後まで聞いていたわけでもなければ、法華経の説法を全部聞いていたわけでもない・・・とんでもない連中であります。
いまの各教団では、集会に遅れて来るものや途中で退席するものはやる気のないものと見るでありましょう。
しかし法華経においては彼らが主役なのです。おそらく釈尊のすがた・かたちを克明におぼえるということなら、もっと他に適任者がいたことでしょうけど、もっとも重要な儀式においてそれを克明に記憶するのはその当事者以外にはいない。つまり、大聖人の御曼荼羅の相貌が顕しているものは釈尊のもっとも重要な説法であり、儀式なのであります。
そうは言っても、大聖人が上行菩薩の再誕であって二千余年の昔を記憶せられていたなどとは、おそらく誰だって信じがたいと思うことでしょう。ですから、あくまで経文の説相よりイメージを喚起せられたと拝して一応は構わないと思うのです。
すなわち、「日蓮は凡夫なり。天眼なければ一紙をもみとをすことなし。宿命なければ三世を知ることなし。而れども此の経文のごとく・・・」(閻浮提中御書)との仰せのごとくであります。
そうしますと、「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひしが・・・」(新尼御前御返事)と仰せあそばす寿量品に建立する所の本尊の相貌は教主釈尊のお顔なんかではなく、まさしく妙法五字の大曼荼羅となるわけであります。
このことを上行菩薩の立場で考えると、釈尊がいよいよ重大説法をあそばすギリギリ直前に大地の底より涌出せられた・・・まさしく教主釈尊の御宝前に馳せ参じたわけでありまして、つまり、この光景が御本尊の相貌そのものなのであります。
よって、教主釈尊の御宝前とは、即物的には大曼荼羅安置の御宝前でありましょう。そして、イメージは法華経の説相に示されるごとくでありましょう。
だいたいにおいて、御書には「法華経の御宝前」という御表現が多くあって、「教主釈尊の御宝前」は異例中の異例であります。その必然的な理由は次項で考えることにしますが、その前に法華経の御宝前とは何かについて触れておきます。
すでに申し上げたように、曼荼羅の相貌は虚空会の儀式をかたどったものであります。また、以前の投稿で「御衣並単衣御書」を引用し、法華経は一字一句すべてが仏であるとの仰せから、そこには提婆等の悪人をも包含せられている意味があるので、まさしく法華経と大曼荼羅はまったく同じである、と申し上げました。
つまり、大聖人が仰せられる法華経の御宝前とは大曼荼羅安置の場所と考えてまったく問題ないと思うものであります。


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