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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

390ガンコ:2003/08/07(木) 16:18

教主釈尊の御宝前とは? その1

大聖人の思い描かれる教主釈尊像とは申すまでもなく霊山八年の釈尊、なかんずく八品所顕、さらには一品二半、そして究極は「但題目の五字なり」との仰せに尽きているわけで、いわゆる仏像を安置せられていたとは考えられません。
本宗においては“八品所顕の本尊”という言い方はしないそうですが、曼荼羅の相貌じたいはいわゆる虚空会の儀式をかたどったものであることは否めないと思います。つまり大聖人が教主釈尊を思い描く時にはつねに、二仏並座・本化上行等の四菩薩・以下迹化他方ら諸の聖衆がうち列なる、あの大儀式のイメージにおいて以外にはありえない、と考えるものであります。
さて、教行証御書には「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。」とあります。これは考えようによってはじつに変な御言葉であろうと思うのですが・・・なぜならば、釈尊は爾前の時も迹門の時も本門の時も同一人物のはずです。ようは発迹顕本するかしないかの違いであって、釈尊であることに変わりはないはずなのですから。もし三沢抄の御指南をも併せて忠実に守るならば、佐渡以前の日蓮大聖人は物の数ならず、と申し上げなければなりません。ところが本宗においては絶対にそういうことは言わないのであります。
これによって何がわかるかといえば、大聖人はあくまで経文の勝劣を本とせられていることで、釈尊のすがた・かたちではないということであります。ちなみに教行証御書をもう少し丁寧に引用すると「・・・日蓮が弟子等は臆病似ては叶ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。・・・」となります。
だいたい、われわれシロウトが仏像を見たって名札が付いてないと誰だかわからない。おそらく、ちょっと精しいくらいの人だって、手指のカッコウで判断しているわけであり、仏像をお顔でわかる人はいないでしょう。だって、みんな同じに見えるんですもの。しかも、あんまり写実的ではないんだから。
それでは大聖人御自身は釈尊のお顔をご存知であられたか? 「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。・・・」(三大秘法稟承事) いわゆる面授口決が本当のことなら大聖人は釈尊のお顔を知っていらっしゃることになりましょう。
しかし、そうであっても大聖人は釈尊像を仏師に彫らせることも自ら刻むこともせられなかった。それはもちろん「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず。」(本尊問答抄)であるから当然ですが、つぎの観心本尊抄の御文を拝するとより理解が深まるかと思います。
「我が弟子之を惟へ、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林最後にも訪はず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来たらず本門の六品には座を立ち、但八品の間に来還せり。」


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