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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

39独歩:2002/04/28(日) 12:21

―38からつづく―

非常に雑駁な言い方をすれば、因位に地涌菩薩の結縁を見る動きは本覚文献とその肯定論者に見られるの点で臭みを感じます。この考えは即座開悟の如き、菩薩道による成仏という法華経の説相を結局否定するもので、その意味で釈勝経劣の過ちを犯していると私は感じるのです。

そもそも地涌菩薩の出現は久遠成仏とその寿命の長遠を示す寿量品の前品に置かれるのであって、ここでは釈尊の成仏が伽耶始成ではなく、久遠成道を示すことに目的があります。地涌の結縁を釈尊自身の発心の時とするのは、父子一体、師資一体などという本覚義にとっては便利でしょう。しかし、釈尊と地涌菩薩が、「仏菩薩は同等であるけれど、五十二位から見た覚り程度の差を示すもの」であるという点は教理展開上でもちろん確認できましょうが、法華の説相と異なるのではないのかと個人的には思うわけです。これはしかし、日蓮本仏論の如く、上行菩薩とも自受用報身如来(仏)とも仏菩薩等価的に宗祖を見なす宗祖信仰にとっても誠に都合のよいものであり、使われ方に但し書きを付したくなります。

実際のところ、法華経の説相では釈尊自らの久遠成道を示す時に弟子地涌菩薩の結縁を言うのであって、彼等が滅後の教導者であるとするのを自らの久遠成道によせて論じています。ここでは、自らが菩薩であったときに六万【(江−エ)+亘】河沙の弟子がいたなどとは書かれていないわけです。

釈尊が久遠成道ののちに第一番に弟子にしたのが地涌菩薩であり、その後、下方の空中にあって住していたので伽耶始成後の弟子は知らず、久遠成道は久遠の出来事であり、その久遠の出来事を知っている地涌菩薩にその広宣流布を命じたというのが法華経のコンセプトでしょう。ここでは、菩薩時に菩薩を弟子にしたなどということは、何も記されていません。

結局、菩薩が菩薩を弟子にしたというのは後天的な解釈であって、法華経の説相と一致しないので、どのような碩徳の語ることであっても叙用せずというのが私の考えです。しかし、ここで冒頭で掲げたような教理展開の歴史的な変異を考慮に入れるとき、日蓮・天台・法華から、現日蓮信仰の是非を論ずるという段階的な考証の意義がぼやけてしまうという憾みを感じるわけです。

しかし、上述の整理は、ともかく苔泥塗れになって本体のみ得なくなっている日蓮聖人の本意、また、天台思想の原形、さらに解釈に振り回されない法華経そのものが説くところをまず闡明にしなければならないと私は考えてきました。

ただ、たしかに顕正居士さんが仰るとおり、「中古天台や富士派の教学は高く評価」されるだけの内容をはらみ人々を魅了してやまないものなのだと思います。それをそれとして、受容する信仰する在り方を、信教の自由からも否定してはいけないのかもしれません。ただ、「日蓮聖人の思想とは異なるものであるという立て分けが必要」であり、この後者の強調が現代の私の主要な書き込みの基礎となっています。

なお、博学篤信の志・顕正居士さんから「富士派教学批判にもおおく頷いております」などというお言葉を頂戴できることを汗顔の至りです。しかしながら、37にまとめられる中古天台、日蓮本仏論、日蓮思想、そして、顕教・密教のことなど、そのお考えの一端を拝され、浅薄な理解ながら、了納すべきところであると思いました。ご無礼の段、ご容赦いただければ有り難く存じます。


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