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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

383ガンコ:2003/07/30(水) 19:14

曼荼羅正意の問題点

「仏は文字に依って衆生を度し給ふなり。」(蓮盛抄)
「仁王経に云はく・・・人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」(立正安国論)

上記の御書をもって直ちに曼荼羅正意に結び付けようとすれば“切り文”との批判を受けることになりましょう。わかりきったことですが、蓮盛抄の御指南は禅宗の教外別伝不立文字に対応するものであって本尊についての仰せではないし、立正安国論の引用部分は全然関係ありません。だいいち仁王経が本尊の説明であるわけがない。
しかし、ここにおいて申し上げたいことは、大聖人は文字に対してこだわりをもっていらっしゃる、ということが推察できるのではないか? と思うのであります。

「法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。・・・応化は真仏に非ずと申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。」(御衣並単衣御書)

この御文を拝するとまさに御文字御本尊の優位を感ぜずにはいられないところであります。大聖人の御曼荼羅は仏菩薩をはじめとする十界の聖衆を文字で顕したものであり、法華経の六万九千三百八十四文字には提婆や阿闍世も含まれることを勘案すれば、その一字一句に至るまで「仏なり」との仰せは意味合いにおいてまさに御文字御本尊と法華経は全同ということになろうかと思います。法華取要抄の「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。」とは、御本尊をもっとも略したすがたが妙法蓮華経の五字であり広くはいわゆる十界曼荼羅・・・いずれにしても羅什の六万九千三百八十四文字から見れば肝心肝要を顕したものが大聖人の御文字御本尊と考えられます。

さて、曼荼羅正意の問題点は申すまでもなく、大聖人はまったく仏像を御認めあそばさなかったのかといえば決してそうではないというところにあります。
日眼女釈迦仏供養事などの一体仏造立の問題・・・とか、
あるいは忘持経事の「教主釈尊の御宝前」とは何か・・・といった問題をクリアしなければなりません。


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