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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

380アネモネ:2003/07/27(日) 12:28
(つづき)
>日蓮大聖人がいわゆる“本法所持の人”にてあらせられるのであれば、この御本尊こそ教主釈尊より譲られしところの本法にほかならない、と言うことが出来るのではないでしょうか?

ここに至った結論とは、真理としての結論というよりは、ガンコさんの「そう信じたい」という願望的結論かと思われるところですが…。
つまり、「この御本尊こそ教主釈尊より譲られしところの本法にほかならない…と信じたい…」ということではないでしょうか。

>詮ずる所、末法においては日蓮大聖人に帰依せずんば法華経を持つとも無益なり、ということになるだろうと思います。

先ほども記述したことですが、日蓮の限界、天台の限界、法華経の限界…といったことの検証もぜひ視野に入れて論じて頂きたいなと思いました。限界があるはずはないとするところでの論法は、とても無理があるものと思われ、立証には至っていないと思います。

例えば法華経が、仮に釈尊の義であるとしても、日蓮が依経とした法華経は羅什が訳したもので、法華経原典と比較しても、忠実に訳されたものとは言い難いといわれていますね。そこからして既に一念三千の法理は崩れてしまっているともいわれていますが、そのことひとつをとっても、ガンコさんはどのように説明されますでしょうか。

また、末法の計算にしても、釈迦ご在世の正確な年代がはっきりしないのですから、いつから末法が始まるのかは非常に曖昧模糊としています。
日蓮の時代は、釈尊入滅が紀元前949と考えられていたわけですが、近年の科学的調査に基づく説では釈迦入滅は元前544〜383年頃というのが有力です。
それで計算するとなると、2000-544=1456 2000-383=1617で1457年〜1618年頃が末法となるでしょうか。
となると、日蓮の生きた時代はまだ末法には入っていないことになってしまいますから、「末法においては日蓮大聖人に帰依せずんば法華経を持つとも無益」などと言い切れるものではないでしょう。
日蓮に確固たる上行の御自覚があったにしても、それは日蓮の単なる思い込みもしくは勘違いだったということも言えるかと思われます。
その点はどのように説明されますでしょうか。


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