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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
379
:
アネモネ
:2003/07/27(日) 12:28
ガンコさん
質問方々、少しばかりレスをお許し下さい。
>日蓮大聖人は釈迦宗の中興の祖か?
「宗」で捉えるよりは、「教」と捉えたほうが適切ではないでしょうか。宗教の中のひとつに数えられる教、つまり「仏教」もしくは「釈迦仏教」ですね。
仏教、キリスト教、イスラム教、道教、儒教、密教…宗教の教えにはいろいろあって、その中でも日蓮は仏教を依教とする立場をとられ、なおかつ天台の義に立ったわけですね。その流れでいえば、天台も日蓮も仏教(釈迦仏教)の中興の祖と捉えることはできるかもしれません。ただしこれは、天台の義が正しい仏教といえるならばの話ですが…。
しかし、日蓮を本仏と立てるならば、もはや日蓮は中興の祖などではなく、釈迦仏教に対する日蓮仏教となりますでしょうか。これも、日蓮を本仏と立てることが、日蓮自身のお考えであったことが立証できたとしての話となりますでしょうけど…。
>このさい名前はどうでもいいのです。釈迦宗の本尊は何か? これが問題なのであります。釈迦宗だからといって、釈迦を本尊にしてはならない、法華経を本尊としなさい、これは私の義ではなく先師方(釈尊、天台)の義である、というのが本尊問答抄の御指南であります。
天台も日蓮も、法華経が釈尊の直説だと信じて法門を立てているわけですが、しかし残念ながら考古学的に釈尊の直説ではなかったことが証明されてしまっているわけですね。
この時点で、天台の義は釈尊の義ではなかったことが、立証されてしまったといえるかと思われます。
たとえば、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろ(拾)いい(出)ださず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり。」における、その文の底に沈めたといわれる「一念三千の法門」からして全く成り立たないことになるのではないでしょうか。
そのことに対して納得のいく理論を示すことは出来ますでしょうか。それが示せない限り、私としては日蓮の法門が真に正しい仏教であるということは、とても信じ難いものなのではないかと思っています。
これらは、幾度となく折に触れこの掲示板で議論されてきたことですが、ガンコさんは、そのような法華経、天台、日蓮…これらの限界を、どのようにご自分の中に捉えて納得されていらっしゃいますでしょうか?
>まさしく御自筆の御本尊こそ日蓮大聖人の専売特許であります。
日蓮直筆の曼荼羅ということでしょうか。
>そして、御自筆の御本尊こそ正像未弘にして一閻浮提未曾有の大曼荼羅であります。
これは、大石寺のあの板曼荼羅のことですか?
板に彫られたものですから、日蓮直筆の曼荼羅とは言い難いものと思われますし、その板曼荼羅を日蓮が本当に立てたものかどうかさえ、限りなく怪しいわけですね。
ですから、「御自筆の御本尊こそ正像未弘にして一閻浮提未曾有の大曼荼羅」と言い切れるものではないと思われます。
恐らく、そう伝えられてきたという、その「言い伝え」を信じているといったところかと思われますが、しかしこれは日蓮を信じているつもりが、「言い伝え」を信じているという点、厳密には日蓮を信じているのではなく、言い伝えてきた人々のことを信じているわけで、その微妙な摩り替わりを、ガンコさんはどのようにお考えになりますか?
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