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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

377ガンコ:2003/07/27(日) 06:07

南無妙法蓮華経は大聖人の専売特許か?

「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。」(開目抄)
「法華経をよむ人の此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。」(報恩抄)

大聖人の当時は、すっかり法華経が忘れ去られてしまっていた・・・と思っていたら、それは違うようです。だいたい源頼朝が法華経を重んじたことから、鎌倉武士は伝統的に法華経を読んでいたものと思われます。問題は法華経と諸経を並列的に読んではいけないということ。「天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌」(如説修行抄)との仰せに続いて、「法華経より外の諸経は一分の得益もあるまじき」とまで仰せられるわけですから、今日の日蓮系教団が他宗と妥協的に共存共栄をはかろうものならば、それは大聖人に背いていることになりましょう。では逆に、次のようなケースはどうなりましょうか?
「私は日蓮を嫌いであるが、法華経は好きである。よって日蓮には弟子入りしないで、ひとりで(もしくは別のグループを作って)法華経を信仰していこうと思う」
つまり前項の釈迦宗の発想をもってすれば、大聖人を信仰しているわけではないのだから、法華経を正しく読むことさえ出来れば大聖人に依る必要はない、法華経は大聖人の専売特許ではないのだから・・・と考える人がいてもおかしくないと思います。
では、南無妙法蓮華経はどうなのでしょうか? これが今回のテーマであります。
困ったことに、南無妙法蓮華経は日蓮大聖人がはじめて唱えたものではない、ということなのだそうです。ジョンノレンという人が別の掲示板でこのことについて論じておられたのですが、どういうわけかその掲示板は閉鎖になってしまいました。あ〜、コピーしとくんだった。ぜひともジョンノレンさんにはこちらで再投稿されることをお願い申し上げます。
要するに、大聖人以前の文献で南無妙法蓮華経と書かれているものを紹介してくださっているのですが、あらまあ〜こんなにたくさんあるの? というのがわたくしの感想でした。もうこうなると、お題目も大聖人の専売特許とは言えなくなりそうです。妙密上人御消息には、「日本国の人々は、法華経は尊とけれども、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱へまじ」とあります。しかし、また逆に現代人のチャッカリ感覚をもってすれば、次のようなケースもありましょう。
「私は日蓮を嫌いであるが、題目は好きである。よって日蓮には帰依しないで、ひとりで(もしくは別のグループを作って)題目を唱えていこうと思う」
つまり前項の釈迦宗の発想をもってすれば、大聖人を信仰しているわけではないのだから、お題目を正しく唱えることさえ出来れば大聖人に依る必要はない、お題目は大聖人の専売特許ではないのだから・・・と考える人がいてもおかしくないと思います。
いやはや困ったものであります。では、いったいに大聖人の専売特許とはなんであろうか? あっ、そうだ、あれがあるじゃないか!
「日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。」(富士一跡門徒存知事)
まさしく御自筆の御本尊こそ日蓮大聖人の専売特許であります。そして、御自筆の御本尊こそ正像未弘にして一閻浮提未曾有の大曼荼羅であります。日蓮大聖人がいわゆる“本法所持の人”にてあらせられるのであれば、この御本尊こそ教主釈尊より譲られしところの本法にほかならない、と言うことが出来るのではないでしょうか? 詮ずる所、末法においては日蓮大聖人に帰依せずんば法華経を持つとも無益なり、ということになるだろうと思います。


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