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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
34
:
独歩
:2002/04/28(日) 00:31
30 川蝉さん:
無始古仏のご説明有り難うございます。
> 「初発心の弟子」の意味は、二つの解釈を並記する学者と、「釈尊によって発心させられた弟子」とのみ解釈する人が居ます。
「釈尊によって発心させられた弟子」という意味はわかります。どうも学者と言っても、それぞれの門流を背負った僧侶の方々でしょうから、宗門教学史を背負って書かれるものもありますね。法華経を根本とすることが大切であろうかと思います。
ただし、田村完爾立正大教授の隆・辰師解釈の説明は興味が惹かれました。
しかし、ここらは本有で捌かないと駄目なのでしょうか。天台止観の
無明癡惑本是法性。以癡迷故法性變作無明。
がまず浮かぶので痴空の議論は少しずれているような感じがします。まあ、大した意味で申し上げているわけではありませんが。
本化聖典大辞林の説明の、「初發心時便成正覺」は華厳経を拠り所とする天台以前から一つのテーマでしょうか。いずれにしても、ここでいう便成正覺は、無上正等覚とは違う、「一分の正覚」という点はわかります。
しかし、「圓教初住成佛能百佛世界化衆生也。」という玄義に基づいた仁王経の疏文が、どうして初住即妙覚の釈とつながるのか、わかりません。そもそも「初住即妙覚の釈」とはいずれの出所を言うのでしょうか。
また、ここの説明は能化の教導の始まりを論ずるものであるのか、やや不明と感じました。
あと、川蝉さんがいう「「釈尊の初発心時」とは、本有仏界としての無始古仏が従果向因の教導」の“従果向因の教導”とは、どのような意味なのでしょうか。「従果向因」が『玄義私類聚巻』が出典であることはわかるので、私としては、この説明は本覚的と感じるのです。川蝉さんは本覚を脱却した方かと思っていたので、「あれ?」という感じでした。
もっとも、本尊抄の「無始古仏」なにより「教主釈尊五百塵点已前仏也」は本覚論抜きには解せませんが、晩年の聖人はこの点を脱却していったのだから、本覚論より始覚論見地で見るべきではないのかと個人的には考えています。
まあ、ちょっと、雑談のようになってしまいました。申し訳ありません。
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