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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

30川蝉:2002/04/27(土) 10:28
独歩さんへ。

相変わらず焦点ずれのコメント横入りで失礼しました。
独歩さんが
「初発心時とは修行の初めの時期だから未だ未悟の状態であった仏が上行等の菩薩を教化出来ないのでないか?」
と云われているのかと受け取り、前のコメントとなったのです。私の受け取り様が悪かったようですね。

>ところで、引用の釈義の菩薩と本尊抄における「無始古“仏”」
>は、どのような会通となるとお考えになられますか。

やはり、この質問の意趣が掴めませんが、「無始古仏に初発心時という成仏する前を想定する事は矛盾があるのではないか?」と云う意味の質問でしょうか?。

私が提示した天台諸師の文が
因より果に向かう(凡夫が菩薩行を積んで仏果を目指す)菩薩行を経て、寿量品の釈尊は五百塵点劫の昔に成仏したと、成仏の初めを想定しているようですね。

もし、初めがあっても、その初めが遙か過去である事を「無始」と表現しているものならば、無始の古仏は初住位の時から、未全開ではあるが仏の活動を行っていたのだから、後から振り返れば、初住位の時も含めて無始の古仏と表現し得るという考え方もあります。
また、一番目の仏は無始と表現出来るほどの昔に始覚したとしても、元々仏であったと覚ったので、無始の本覚を始覚したのであるから、始覚の時点で無始の仏となる。と云う考え方もありますね。
しかし、学者の指摘によれば、
「内薫自悟仏」説といって、仏は無窮に存在し続けるものでなく、最初の仏がいて、その仏が無師独悟し、後にその仏の説いた教えによって次の仏が生まれる事になると云う文句記にある妙楽の説明に対して、
「文句記講義」の痴空(1780〜1862)は記」に於いて、
「法(実相・法性)は本来迷悟が相依って(円融して)成立しており、衆生も仏も倶に始終が無く永遠に存在するものとされる」(文句第一巻の注)と批判しているとの事です。

指摘した学者(田村完爾立正大教授)が、さらに、
「痴空の迷悟二界論を十界において論じれば、本有十界となる。仮に本有十界が成立しなければ、十界互具が普遍性を持たなくなり、十界互具等に基づく一念三千の実相観が不完全なものになってしまうだろう(取意)」(大崎学報156号・17頁)

と、痴空の考え方に賛意を述べています。

痴空のこの考え方は、「始めに九界だけが存在していて、その中より発心修行して、悟りを開いた仏が初めて出たと、云うのでは、本有九界説であって、本有十界説ではないことになる」と云う考えが含まれているようですね。

宗祖も本有十界説ですから、宗祖が云う所の「無始古仏」は、初め迷っていた状態の者が菩薩行を志し、積功累徳の結果、成仏したという従因向果の成仏の仏とは異なると見なければなりませんね。

「無始古仏」とは、喩えると王位にある者が王としての実務を行うにつれて、いよいよ王としての資格が具わり、真に王の資格が有ることが証明されていく様に、従果向因の教導(菩薩行)を行い続ける仏であると思います。寿量品にある「本菩薩道を行じて」とは、こうした従果向因の教導(菩薩行)を指しているのだろうと思います。

田村完爾立正大教授は
「日隆・日辰両師の説は、宗祖日蓮の如く三世十方の諸仏を久遠本仏釈尊に統一せしめようとするものであるが、両師は、日蓮の採用しなかった智邈の諸仏展転説と湛然の内薫自悟仏を自己の教学に採り入れたため、二人とも日蓮の説と異なる釈尊観を立ててしまったといえる」
と論じています。

「初発心の弟子」の意味は、二つの解釈を並記する学者と、「釈尊によって発心させられた弟子」とのみ解釈する人が居ます。

「目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり。」(法華取要抄)

「令初発道心とて幼稚のものどもなりしを、教化して弟子となせりなんどをほせ(仰)あれば大いなる疑なるべし」(開目抄)

等の文より見れば、釈尊によって発心させられた弟子と云う意味の方が強いように思われます。

しかし、「初発心」で検索してみると、釈尊の初発心時の弟子と解釈出来るのかなと?と思われる文もあるようですね。

もし「釈尊の初発心時の弟子」と解釈するとしても、その「釈尊の初発心時」とは、本有仏界としての無始古仏が従果向因の教導をし始めた時と解釈すべきではないのかなと思われます。


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