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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

3独歩:2002/04/16(火) 00:25

いちりんさん:

なんだかお久しぶりという感じです(笑)

整理いただき、有り難うございました。とても参考になりました。

私は、亀太郎さんとのやりあいの中での日蓮の捉え方で「あ、ここだな」と思ったことがあるんです。それは、つまり、二極思考という点です。

つまり、日蓮は仏か・凡夫か、聖人か・凡夫か、もっと言えば、拙い凡夫なのか・閻浮第一の聖人なのか、「どっちなんだ」という二極思考。しかし法華経というのは、十界互具のわけなんですよね。凡夫に仏を観、仏に凡夫を観る。何々だと決めつけるのではなく、全部、ひっくるめて真実であると考えるのが法華の開会ということなんでしょうね。

ですから、拙い凡夫であるけれど、法華経のお力、本尊抄で言えば釈尊の因行果徳を妙法蓮華経によって受け継ぐ、それによって聖人のような力を発揮できる。つまり、拙い凡夫であり、閻浮第一の聖人であると、すべて包含して全部、真であるというのだと思うわけです。

ところがそれを聖人か凡夫かどっちだと白黒、善悪、優劣をつけてどっちかに考えないではいられない。実は、これは仏教ではなくて二極思考、社会心理学で言うステレオ・タイプ、フロムの言い方を借りれば権威主義的パーソナリティというわけですね。

フロイトがナチズムの研究で、全体主義、殊にカリスマ崇拝をする人々の心理を分析したときに見出した特徴が、この権威主義的パーソナリティでした。すべての善は自分たち、すべての悪を他の人々に。自分たちは優秀だ、劣った民族は滅ぼしてもよいとまで、やってしまった心理構造と、この二極思考は共通している点は看過できないと思うわけです。

法華経信仰は、個人でやっていると開会ですべて一仏乗から見て寛大な慈悲の精神に至るのですけれど、カリスマ崇拝が入り込んだ瞬間に二極思考が噴出し、差別の原因となって愚かなヒロイズムに転落してしまう。そこでは器物崇拝と神秘主義が威力を発揮するわけですね。

私は、この視点を見失った日蓮信仰は極めて危険であり、社会的害悪となるものであると考えています。

ともすれば国家主義に取り入れ易く、全体主義、カリスマ信仰、器物崇拝、神秘主義に危険性をもっている日蓮仏教を、どのように活用するかは個人の節度と常識に基づく信仰によって修正されるものであると私は思うんです。


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