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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

107川蝉:2003/05/05(月) 12:07
103 :ガンコさんへ。
>わたくしには“余は二十七年にして出世の本懐を成就せり”との
>仰せに読めるのです。

宗祖は佐渡に於いて開目抄・本尊抄を著し、大曼荼羅を図顕し法門を開示したので、佐渡流罪中に、出世の本懐を遂げられたとすべきである。そこで、弘通開始より二十七年後に至って、初めて本懐を遂げたと云うことは言い得ない。
ゆえに、「余は二十七年なり」を「弘通開始より二十七年後の弘安二年に本懐を遂げた」と云うように解釈出来ないこと。
宗祖は本門の法門を開示することが大目的であるとともに、もう一つ公場対決が大きな願いであった。そこで、公場対決をもう一つの本懐と考えた場合、弘通開始より二十七年後の弘安二年の現在でも、公場対決が実現していない。ゆえに、やはり、「余は二十七年なり」を「弘通開始より二十七年後の弘安二年に本懐を遂げた」と云うように解釈出来ないこと。
の二点を述べたのでした。
ゆえに、「出世の本懐を遂げ給ふ」が「余は二十七年なり」に係ると見ないのです。私は愚鈍凡夫 さんへのコメントに紹介した日蓮聖人遺文全集講義第二十三巻のように解釈するのです。

>すると大聖人は御一代の間に出世の本懐を遂げ給わなかったとい
>うことでしょうか?

本門の法門の開示宣説という第一義的本懐は佐渡在島中に遂げられましたが、もう一つの大目的の公場対決は成就しなかったことは事実ですね。

>わたくしは戒壇の大御本尊が偽作だったらどうしよう、などとこ
>の先の身の振り方を考え考え御法門を学んでいるものです。

別に偽作でも曼荼羅御本尊ですから御本尊になり得ると思います。板本尊が唯一絶対の御本尊だから板本尊を信仰の対象としなければ駄目だと云う主張が駄目だと思うわけです。
自分の所属している教団の教義の誤りを指摘されることは、まじめな人ほどつらく苦しい事ですね。徐々に正確に、宗祖の教えを学んで、正しいと思う事を受け入れて行くより仕方ないでしょうね。その結果、所属の教団の教えと異なる思想を持つようになって、教団としっくりいかないように強く感じてきたら、無理なく身の振り方を決めることも出来ると思います。


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