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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
103
:
ガンコ
:2003/05/04(日) 20:07
(し、しまった、眠れる獅子に手を付けてしもうた)
川蝉さんの理路整然たるご所論に敬意を表するものです。
>「弘安二年に出世の本懐である板本尊を造った」と云う解釈は恣意的解釈
ええ、ですから上のほうで申し上げたんですよ、そこまで欲張るつもりはないと。常識的な思考力があれば、聖人御難事が戒壇本尊の証明にはならないことはだれだってわかるものです。
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。」
ここではっきりしていることは、釈尊・天台・伝教は出世の本懐を遂げた、と大聖人は御考えでいらっしゃることです。では、御自身はどうなのか? このことをわたくしは申し上げているのです。
わかりやすく言えば、「出世の本懐を遂げ給ふ」が「余は二十七年なり」に係るかどうかという読み方の問題です。わたくしには“余は二十七年にして出世の本懐を成就せり”との仰せに読めるのです。
たしかにご引用の如説修行抄の御文は同じおもむきかと思います。ただし、決定的に相違するのは出世の本懐を仰せられるか否かです。むしろ次文の「仏の九横の大難に及ぶか及ばざるかは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし・・・」に注目し、さらに御難事抄の後文「仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし・・・」を拝するならば、天台・伝教をも退ける大聖人の御確信からして、本懐成就の御宣言を遊ばしたとして、なんら不自然はないと思うのです。まさか、“天台・伝教は出世の本懐を遂げたけど、余はまだである” なんて仰せられるとは思えないです。
諸人御返事の後半は「・・・我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚幸甚。」とありました。正直に申し上げますと、わたくしはこの御書をよく存じ上げませんでした。いま拝しますと、まるで広宣流布は未来のことであると密示せられているように思えます。川蝉さんは本懐成就の文意としてお挙げになられたわけですが、すると大聖人は御一代の間に出世の本懐を遂げ給わなかったということでしょうか?
わたくしは戒壇の大御本尊が偽作だったらどうしよう、などとこの先の身の振り方を考え考え御法門を学んでいるものです。
いまだ法門に暗いものですから、川蝉さんがいずれの門流に属してらっしゃるか見当がつきませんが、前々よりご活躍のほどを拝見しておりました。
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