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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

100愚鈍凡夫:2003/05/04(日) 13:39
川蝉さん始めまして。
御教示有り難うございます。

お手数ですが、2つほど、確認させてください。
「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(「聖人御難事」)
との文証の、「仏は四十余年」は『九横の大難』を指すが、「天台大師は三十余年伝教大師は二十余年」は、
>両大師の公場対決を指していると解釈できます。
そして、「余は二十七年なり」は、
>「開宗の日よりすでに27年を過ぎ、数々の法難を受けているが、まだ諸宗の高僧達と公場対決を果たしていない」と云う意味の文と解釈すべきと思います。
ということで、意味が違うと言うことですか。

それから、
曼陀羅が「本門の本尊」だとすると、それは何れかの曼陀羅を指して、「本門の本尊」とすると言うことですか(例えば戒壇之本尊とか)、それとも御筆の曼陀羅全てを「本門の本尊」とするということですか。
だとすると、
「今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」(「日眼女造立釈迦仏供養事」)
「されば画像木像の仏の開眼供養は法華経天台宗にかぎるべし、其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間二には五陰世間三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(「四条金吾釈迦仏供養事」)
これらの文証との整合性はどうなるのでしょうか。
2つのはずが、3つになってしまいました。
御教示下されば幸いです。


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