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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

10川蝉:2002/04/23(火) 14:33
9独歩さんへ。

「…無作の三身は覚前の実仏」の句は
「守護国界章巻下」(伝教大師全集第二巻567頁)にあります。
この句について、浅井円道師が「日蓮聖人と天台宗」(山喜房刊)に於いて、「無作三身考」の項目で論じています。
↓以下は浅井円道師の見解の要略です。

「報仏智常章第三」にあり、この章には文句寿量品の通明三身正在報身の法華仏の常無常に関する問答が述べられてあり、凡夫が実仏であるか否かという類の凡夫論とは無関係である。この句に凡夫実仏の意味を付与すれば、一章の趣旨に反する結果になる。

この句は六祖の止観輔行巻第一の「権教三身未免無常、実教三身倶体倶用」の句の換言であると思われる。
伝教の「有為報仏」とは六祖の「権教三身」、「無作三身」とは「実教三身」の句に相当することになる。

法華玄義では、円教の四諦を無作の四諦と称するが、伝教は円教三身を「無作三身」と呼んだのである。
故に無作三身とは寿量品で開顕された倶体倶用の実教三身の換え言葉にすぎないのであって、これを無作本覚の凡夫の意味に解することは、考えすぎである。

「無作の三身は覚前の実仏」の「覚前」とは、「覚る前(まえ)」の凡夫と読むべきではなく、「覚ってから前(さき)」の仏と読まねばならぬ。
もし「覚る前」の在迷の凡夫の意味であるとすれば、これと対句であるべき筈の「有為の報仏は夢裏の権果」の「夢裏」と同意になり、その反対語ではなくなる。
(「覚る前」の在迷の凡夫でも、覚れば報仏と成るのであるから、夢裏の権果と成ってしまう、故に反対語ではなくなる。と云う意味か。ー川蝉注)

徳一との論争書を見ると、伝教の仏性論は真如随縁論によって行仏性の悉有を論証するのに汲々たる段階であった。故に凡夫実仏などの極限的円教教理を説く教風は伝教には全く無かったと考えた方が伝教の意を得た見解である。

等と趣旨を論じています。
以上、ご参考までです。


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