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池田教ってどんな宗教?
129
:
犀角独歩
:2003/10/29(水) 12:54
Leoさん:
> これらは『富要』、「富士一跡門徒存知の事」
仰るとおりです。
> (漫荼羅は美術と異なり、アナロジーになっていましますが)御筆漫荼羅とそれ以外を区別するのは、絵画などの芸術家オリジナルの美術を想像するとき、納得できるように思います
いえ、これは analogy とはなりませんでしょう。
むしろ、蓮祖が特定の個人に図示下付した漫荼羅が他の衆生、あるいは自分自身に充てたものでもあると考えようとするほうがよほど類推、あるいは拡大解釈というものだとわたしは思うのですよ。
たとえば蓮祖が興師に漫荼羅を図示して下付したとします。このとき、蓮祖は図示しながら、興師との関係に思いを巡らせ、興師その人のご自分との関係、行学の軽重、性格その他様々なことに思慮を巡らせて、その漫荼羅の相貌を決定されていかれたと思います。文字一文字一文字に興師への慈愛も籠めて書されていかれたでしょう。蓮祖の漫荼羅は分類するのが憚れるほど、様々な図示相貌がありますね。その相違は、もちろん、蓮祖ご自身の心象と大きく関わってお出でであったでしょうが、それとともに、授与者の有様によっても変わっていたのだと想像できます。
図示のそのような性格から考えるとき、一舗一舗の漫荼羅は授与者のためのオリジナル創作であって、その授与者のためのものであることがわかります。漫荼羅のこのような側面を考えるとき、授与者が明記された漫荼羅を他者が我がものの如き扱うのはほとんど意味をなさないことになりませんか。ただ、その授与者が没し相続される場合、新たにその意味を籠めようとしたのが興師の添書であったと拝察されます。たぶん、この段階では蓮祖が弟子と定めた師弟の次第から蓮祖没後継承された教導権を、次代の師と認める授与者の相続者がそれを受け容れる形で継承されることになるのでしょう。
しかし、700年前の上述の如き心的交流を拝することは、既に現在にあっては御存生の昔に思いを馳せ、聖筆をただ仰ぎ見るばかりです。かつて筆をふるった聖人の息遣いとそのご心情、それを受け取った弟子・檀那の喜び、そして、相貌の差異に見られるその意味に深い思いを注ぎたくなります。
このような次第がある以上、安易に利益のために御筆漫荼羅を複製にすること自体、蓮祖の御意を穢すものであるとわたしには思えます。
もちろん法華道場の諸尊勧請の法式のためという側面は想像できるわけで、この場合、かくのごとき儀としての扱いは没後永年と意味をなすでしょう。しかし、この場合、わたしは御筆、オリジナルであることに意味があると考えます。
Libraさんとはこの点、話し合ったことはありましたが、コンセンサスに至ることはありませんでした。この理由は、そもそも漫荼羅本尊というものの意味に関する理解が異なっていたからでした。もちろん、そのような意見の相違をもって彼との友好関係が損なわれたわけではありませんので、また、機会があればこの点の議論は続行してみたいと希望しています。
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