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『河辺メモ』について

4メモ追跡班:2003/01/06(月) 17:23
 「流出元が本人」を100%否定しませんが、おそらく違うでしょう。
 実は『河辺メモ』は、いくつか存在するのです。
 まず1つは、本当のメモ(メモのメモ)。つまり、その場の臨場で記したメモのこと。2つ目は、その『メモのメモ』に基づき、下書きを起こした『メモ』。そして3つ目には、記録として保存を目的にした清書の『メモ』があります。このうち清書分は、少なくとも直筆とコピー2部の3つが存在します。直筆は河辺師の手元に、コピーは法○院と総本山に届けられるとのことです。
  
 大御本尊に関する流出メモが、どれに該当するのかわかりませんが、河辺師の釈明談話(平成11年7月10日付・宗門「お知らせ」)によれば、『メモのメモ』または『下書きメモ』のようです。しかし『清書メモ』の可能性も否定できないでしょう。
 『メモのメモ』と『下書きメモ』は、おそらく清書されれば捨てられるのでしょうから、本人でなくても他人が入手し暴露することができます。また『清書メモ』(コピー分)であれば、本人の預り知らないところで流出していくことが考えられます。

 『河辺メモ』の流出は、札幌・日正寺住職時代のこと。日正寺は、河辺師在職中に離脱在勤僧侶を出しております。問題となった『河辺メモ』の第一報は、離脱僧の集まりである憂宗護法同盟が発行する「同盟通信」(平成11年7月7日付)でした。また“「C作戦」を裏付ける『河辺メモ』の存在”というスクープを最初に報じたのは、「創価新報」(平成6年1月1日付)でした。
 さらに、この大御本尊に関する流出メモの日付は昭和53年2月7日ですので、日正寺住職の前、東京・妙因寺住職時代を含め、平成2年年末までは学会関係者の出入りや親交は多数あり、いくらでも入手する機会はあっただろうと想像できます。つまり、相当早い時期に学会側が『河辺メモ』を手に入れているとの推測が成り立つのです。
 最近出版された学会の暴露本の著者は、長年山崎正友氏の下で裏工作に携わってきた人物だけに、著述内容や出版意図を素直に額面どおり受け止めることはできません。

 『メモのメモ』あるいは『下書きメモ』であれば、『メモのメモ』は書きなぐりのため、主語や事実関係、てにをは等が不確実で、『下書きメモ』は未整理状態のため、いずれも不全であることは免れません。となると、河辺師の釈明:記録ミス云々は一応筋が通っております。
 また、このメモの流出による騒ぎによって、河辺師は日正寺から大願寺への移転を命じられております。札幌(地方)から東京(中央)への配置換えという点を除き、寺院の格・世帯数・講員数等を比すれば明らかに降格ですし、大布教区支院院長等の役職を全て解かれ一住職に下げられました。河辺師にとって、メモ流出による利得はないように思われます。
 つまり「流出元が本人」ならば、その目的やメリットが依然として不明だということです。
 
 ところで、『河辺メモ』(直筆清書分)の全てが行方不明なのだそうです。
 河辺師の逝去に伴うドサクサの間に、大願寺から忽然と消えてしまったとのこと。御遺族や主な遺弟も行き先がわからないらしいのです。河辺師の病気療養で代務者の任で副住職として派遣された○○師が、河辺師本人やご遺族・遺弟の許可がないまま、法○院へ『河辺メモ』(直筆清書分)の全てを引き渡し、その功績で大願寺住職の命を受けたとの噂が流れております。真相はわかりません。

 大御本尊に関するメモの部分についても、流出した分の前後が明らかになれば、当時教学部長だった阿部師(現・御法主上人猊下)の発言の意図も、もっと明確になろうと思われ、誠に残念な事態です。
 宗門にせよ、学会にせよ、『河辺メモ』を秘匿した方が好都合なのかもしれません。『河辺メモ』は、この30年余りにわたる宗門と学会の軋轢の歴史を、河辺師の関わる範疇だとしても、余すことなく書き綴っているおり、第1級の資料であることは間違いありません。
 それだけに宗門と学会、どちらにとっても不都合な記述が残されているのでしょう。3部の清書分のうち、どれかでも公になることを望むものです。


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