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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

731愚鈍凡夫:2004/04/17(土) 20:23

>>725:地名さん、個人的意見を述べさせて下さい。

あくまでも「天台・伝教」はセットで、三師勧請の場合は「妙楽」、四師勧請の場合のみ「章安」も勧請するというのが蓮祖のルールだと思います。
したがって、日憲師の記述は理解しがたいものがあります(ひょっとして、個人的に「伝教」「妙楽」が嫌いだったりして・・・・・。)。
日憲師の記憶違いという可能性もありますが、戸田さん、小平さんが見た漫荼羅(現在の「戒壇之本尊」)とは違う漫荼羅の相貌について述べている可能性もありますね。
個人的に「伝教」、「妙楽」が勧請されていないのに「章安」が勧請されているのであれば、それは蓮祖漫荼羅ではないと思います。

732平和創価:2004/04/17(土) 21:56
独歩さん
昨夜私は2ちゃんねるの「日蓮正宗の大御本尊様は写真が公開されています!」
のスレで184のレスを受け取った者です。「霑志問答」の全容をできるだけ
詳しく教えて下さい。玉野日志の9箇条の質問に日霑上人がどのように答えたの
かお教え下さい。『日蓮正宗教学小辞典』創価学会教学部編P236には、「日
霑上人がすべて大破折を加えられ玉野日志は大敗北を喫した」と書かれています。
玉野日志の9箇条の質問と、日霑上人の回答を詳しくお教え下さい。

733犀角独歩:2004/04/17(土) 22:51

732 平和創価さん:

わたしは他の掲示板を見ることがないので、他でどのような議論があり、また平和創価さんがどのような立場の方であるかも存じ上げません。ですから、どのような骨子でわたしに両山問答の内容についてお尋ねになるのかやや斟酌しかねるところがあります。
同問答は富士宗学要集第7巻35〜154頁に載っています。ご自身でお読みになるのが一番ではないでしょうか。

冨要はお持ちですか。お持ちでないといけませんので、わたしのサイトに置いておきます。ダウンロードしてお読みになってみてください。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ryozan_mondo.zip

だいたい問答というのはどちらも勝ち鬨を上げるもので、一方の勝利宣言を鵜呑みにしても真実は見えません。わたしの個人的な感想を記せば、同問答は北山志師有利ながら勝敗を決せず、終了していると感じます。霑師は幕末の火事で文献が燃えてしまって答えられないというほどですから、勝利というにはほど遠いところがあります。すなわち、

「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

「旧い記録を取り調べて逐一解答申し上げるべきですが、去る慶応元年丑(午前2時〜4時)2月28日の夜、大石寺は居房は残らず罹災し、古記録を入れて置いた書庫もみな延焼してほとんどがなくなり、いまは何ら考証に備えるべき書類はなく、もちろん、わたしのような僧がなかなか解答に及ぶべきところでもありません。よろしく哀れみくださりたく仰ぎ奉ります」

と記すわけです。こんな逃げ口上とも取れる発言をした霑師が大勝利とは言えないとわたしはこの問答を読みます。まあ、しかし、それはわたしの判断です。平和創価さんご自身の読後感とは相違するかも知れません。ご一読のうえ、ご判断ください。

734平和創価:2004/04/18(日) 08:40
独歩さん
御返事有難う御座います。御丁寧なメールに感謝いたします。さて全ての御真筆
御本尊をメールで見ることができると独歩さんは仰っていましたが、私はそのア
ドレスを知りません。教えて頂ければ幸いです。

735犀角独歩:2004/04/18(日) 09:53

平和創価さん:

以下のサイトです。ただし、メールで見られるのではなくて、PCならば閲覧できます。

Nichiren Shonin Gohonzon Shu
O'Mandalas by St. Nichiren [1222-1282]

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

736犀角独歩:2004/04/18(日) 11:52

【733の訂正】

先に挙げた文は霑師のものではなく、布師、明治11年12月17日のものでした。
謹んでお詫びし、訂正申し上げます。

737平和創価:2004/04/18(日) 12:17
>>735 >>736
独歩さん
貴重な資料と御意見大変有り難う御座います。私も真剣に研究して参ります。

738犀角独歩:2004/04/18(日) 12:26

平和創価さん:

弥四郎漫荼羅に関しましては、既に小稿を記しサイトにアップしてあります。

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

また、この内容は少部数ながら、小冊子を造り、配布もいたしております。
ご参考に今日していただければ幸甚です。ただし、ここに記すことはほんの触りの序文に過ぎず、詳しくは近く発刊する『図解必携 大石寺本尊鑑別』をご高覧いただければと存じます。

ますますご精進をお祈り申し上げます。

739空き缶:2004/04/18(日) 12:29

犀角独歩さん、こんにちは。
 
 富士戒壇論、と聞きますと「園城寺申状並びに御下文」を思い出します。
 なかなかてがかりもつかめず、あきらめかけていますが。。。。。

 興師に関する文献では、ご承知の通り「三時弘教次第」「本門弘通事」にそのさわりが出てくる程度ですね。

 ただ既刊書に未掲載の重要文献が未だに多々あるという事実から、古寺・由緒寺院・各宗の本山格寺院などが真実を明らかにする為にもっと協力しあって、法義法門の研鑚ができればと強く思います。

 地名さん、「時師の代に造立」は今でも私の最も支持する戒壇本尊造立年代です。最初は道師の代に造立と考えていました。この二師には、宗祖正御影(等身大の御尊像)を失ったこと、万年救護本尊を相伝できなかったことという、代替品作成の動機があると思ったからです。
 その上、現日蓮正宗管長職にある阿部師は、教学部長時代に「主題と花押は日禅授与のご本尊」「他の部分は時師か有師のころの筆」という鑑定結果を示しています。最初は時師の代に紙幅版の戒壇本尊が完成し、有師の代に彫刻されたのかと考えていました。
 でも今は、時師の代に宮城県内で彫刻された板碑の一種ではないかと思っています。ここの掲示板で皆さんのお考えを聴聞させていただき、もっと知識を深めたいと思います。

740犀角独歩:2004/04/18(日) 12:30

またもや訂正、恐縮です。

738の

誤)ご参考に今日していただければ幸甚です
正)ご参考に供していただければ幸甚です

741犀角独歩:2004/04/18(日) 12:38

空き缶さん:

>「園城寺申状並びに御下文」

わたしはこの状には否定的なのですが、けれど、空き缶さんの熱意と研究には敬意を表します。今後、納得の行く確証をお示しいただけることがあれば、そのときまた再考させていただこうと思っております。

> 時師の代に造立

わたしはこの考えを看過しません。ただし、ここのところ記してきましたように、板漫荼羅と腰書き、さらに後ろの半丸太(厨子?)が一字の造立されたとは考えていません。しかのみならず、河辺メモが言うところは、仮に時師造立漫荼羅であったとしても、そこに脈絡を考えずに考証することが真実を見極める方途であることを、敢えて記させていただきます。この点は、先よりご紹介申し上げている『図解必携 大石寺本尊鑑別』の続編で記すべくただいま準備いたしております。その節はご高覧を賜れれば幸甚です。

742愚鈍凡夫:2004/04/18(日) 16:32

空き缶さん、横レス失礼します。
富士年表を見ると、「紫宸殿本尊」の図顕が1280(弘安3)年3月となっていて、日有師が模刻したのが1445(文安2)年11月6日ということですよね。石山では「戒壇之本尊」の身替わりとして模刻したと主張していますが、事実が違っているとすれば、何故日有師は「紫宸殿本尊」を模刻したのでしょうか。また、模刻してどこに安置するつもりだったのでしょうか。
また、不思議に思うのですが、「日有申状」に「紫宸殿本尊」のことが記されていないのは何故でしょうか。天皇家へ「紫宸殿本尊」を献上するので、"天下太平・五穀豊穣"を祈願してもらいたいといった記述があっても良さそうなものですが。
日目師も「園城寺申状」、「御下文」、「蓮祖生御影」を本門寺本堂に奉納せよと遺命なされていますが、「紫宸殿本尊」についてはふれていません。
これらのことは、何を意味しているとお考えでしょうか。
よければ本門寺本堂に奉納する3点セットと絡めて、空き缶さんのお考えを伺いたいのですが。

「御会式奉読立正安国論並御申状 3.御申状」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/SHIRYO3/Moushijyo/

743平和創価:2004/04/18(日) 19:42
独歩さん
日露上人と玉野日志の対話に対する議論がまだあるのですが、独歩さんから
頂いた資料だけで大丈夫でしょうか?また資料があれば送信下さい。

744空き缶:2004/04/18(日) 22:23

愚鈍凡夫さん、こんばんは。レスありがとうございます。

 有師と紫宸殿本尊に関しましては、あまり関心をもってこなかったのですが、個人的には有師の紫宸殿本尊彫刻は京都遊学と何か関係があるのではないかと推察いたします。(これは某創価学会系の掲示板にて昨年カキコしたことがあります。)
 
 ただし、該当する曼陀羅本尊が「紫宸殿本尊」とよばれるようになったことや、戒壇本尊の身代わり説等も後世に出てきたものと思っています。
 
 「紫宸殿本尊」と「京都」につきましては、れんさんが詳しいのではと思いますが、れんさんいかがでしょうか?(急にふってすみません)

745愚鈍凡夫:2004/04/18(日) 22:56

空き缶、レス有り難うございます。
空き缶さんは、日有師が模刻した文安2年(1445)年11月6日の板漫荼羅は、「紫宸殿本尊」ではなく、「戒壇之本尊」である可能性が高く、「紫宸殿本尊」の名称が後世の創作である以上、「日興上人御遺蹟事」・「日有申状」に記述がないのは当然であり、少なくとも日有師の時代に「紫宸殿本尊」はなかった。したがって、本門寺本堂に奉納する3点セットとは関係がない。
との主張と理解してよろしいでしょうか。

746空き缶:2004/04/18(日) 23:28

 愚鈍凡夫さん、私は有師の彫刻したものは「紫宸殿本尊」であると思います。ただ、その当時該当する曼陀羅本尊が既に「紫宸殿本尊」と呼ばれていたかが疑問です。

 戒壇本尊は今のところ時師造立を支持しています。但し以前れんさんに指摘を受けた通り、正資料の不足による決定的な証拠に欠けているのが現状です。
 
 せいぜい時師が御影を造立したのは、富士年表によれば10月13日であり、「有師物語聴聞抄桂跡上」にて、「御端書、右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、弘安二年十月十三日云云」とありまして、日付が10月13日となっているところが気になるところです。

747空き缶:2004/04/18(日) 23:35

 書き忘れました。
 
 紫宸殿本尊と本門寺本堂に奉納する3点セットとは、現状では関係がないと思っています。

748愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 00:05

空き缶さん、どうも。
あのね、空き缶さんに「紫宸殿本尊」と「本門寺本堂に奉納する3点セット」の関係について質問した理由は、以前、

№082
図 顕:弘安3(1280)年3月
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:(削損シアリ)
所 蔵:不 明(大石寺?)
寸 法:3紙

この紙幅漫荼羅が「紫宸殿本尊」のオリジナルではないかとの話になったことがありました。
その時に浮かんだ考えなんですが、「紫宸殿本尊」とは、授与書が削除されたオリジナルではなく、模刻した板漫荼羅のほうではないかと思ったわけです。日有師はこの板漫荼羅を天皇家に献上するつもりであったのではないかと思ったのですが、「日有申状」によってその期待は打ち砕かれました。 (;´д`)トホホ
それで、ひょっとしたら例の「本門寺本堂に奉納する3点セット」のことと関連した資料の中に、「紫宸殿本尊」について書かれた資料が残っているのではないかと思ったわけです。それで、空き缶さんが3点セットを追いかけているのを思い出して、質問した次第です。悪しからず。

749愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 00:36

訂正

誤→空き缶、レス有り難うございます。
正→空き缶さん、レス有り難うございます。

です、悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

750空き缶:2004/04/19(月) 01:07

愚鈍凡夫さん、そういえば朝廷も京都でしたね。

 富士年表によれば順番は、京都遊学→「紫宸殿本尊」の彫刻だと思うのですが、私は有師が京都遊学中に日隆教学の摂取と併せまして尊門との交学の中で模刻された「紫宸殿本尊」を目にされたのではないかと思っています。
 「有師物語聴聞抄桂跡上」の「日尊住本寺に模刻の本尊を彫申されたりと云云、此の由能々聞くべしと思案候処に・住本寺同宿来り候間委細尋ね候へば、住本寺の本尊にはあらず、上行寺の本尊なり、此の本尊には我が判を成されずして私の意趣を彫り付られたり、其意趣は日尊是を刻彫すと書かせられたり」ここに出てくる模刻本尊って違いましたっけ?

751愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 06:18

皆さん、お早うございます。
朝早くからこんなカキコしていたら、犀角独歩さんに「人のこと、言われへんやろ」とお叱りを受けそうですが。 (^^ゞ

空き缶さん、どうも。

「今板御本尊を刻彫し尊師高祖の御真筆を写し奉る事なるべし、開板行したる事には非るか、仍尊師刻彫意趣を書き付け玉ふ御判形を極めず候間の当家の化儀能々御心得決定信心故謬らざる儀と御褒美し玉ふなり、然して御本尊に御判形在る事当家にて唯授一人の相伝なり、尊師之を守る故に御一生の内御自筆の本尊一向に之無きなり。」(有師物語聴聞抄佳跡上)

話は横に逸れますが、
「尊師高祖の御真筆を写し奉る事なるべし、開板行したる事には非るか」とあって、「然して御本尊に御判形在る事当家にて唯授一人の相伝なり、尊師之を守る故に御一生の内御自筆の本尊一向に之無きなり。」とあるのは矛盾していませんか?

ところで、
「今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐は時人の口伝を記するものか、後人能々之を尋すべし、但柚野浄蓮授与の板御本尊今岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊の写なり、端書に云く応永廿七年大伴浄蓮に之を授与す云々」(有師物語聴聞抄佳跡上)

1420(応永27)年、浄蓮授与の漫荼羅は、誰が模刻したのでしょうか。日有師が「紫宸殿本尊」を模刻したのが1445(文安2)年とのことですから、それよりも早いことになりますね。しかし、浄蓮授与漫荼羅が紙幅であったとすれば、誰が模刻しようと年代的には問題ないかも知れません。

ただ、「有師物語聴聞抄佳跡上」に
「日因私に云く此の丁聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り之に准して之を思うに恐くは是南条日住の聞書なるべし或は亦日有上人の御直記なるか。」
とあります。鵜呑みにするのは考え物だと思いますが、いかがなものでしょうか。

要するに、小生が疑問に思っているのは、
①もし当時(日有師在世)、「戒壇之本尊」が石山に存在していたとしたら、何故「戒壇之本尊」を模刻せずに「紫宸殿本尊」を模刻したのか。これでは身替わりの役目を果たせないように思う。
②もし、日有師が「戒壇之本尊」の身替わりとしてではなく、別の目的で「紫宸殿本尊」を模刻したのであれば、その目的は何で、何処に安置するつもりだったのか。
そこで、天皇に献上し、紫宸殿に安置してもらいたかったのではないかと推察したわけです。
③記録として残っていないが、上奏の際、蓮祖漫荼羅(レプリカを含む)を持参した可能性はないだろうか。
ということなんですよ。 (^_^;)

752空き缶:2004/04/19(月) 13:33

愚鈍凡夫さん、こんにちは。
 
 時師の代に御影が造立されたことは、大石寺も認める史実だと思います。私は時師〜有師の間は大石寺は何をもって「本尊」としていたかが疑問です。御影でしょうか?他の御筆曼陀羅?それとも興師書写の曼陀羅本尊?
 
 上古における大石寺の御本尊、あるいは大石寺の本堂安置の本尊、これ自体が不明瞭なので「身代わり説」は極疑問です。
 日尊師が模刻した板曼陀羅が、「紫宸殿本尊」と同じであるということは以前れんさんが「日興門流上代事典」を引用してご紹介下さったことでしたね。
 
 私は有師は一山の本尊と呼べるものが定まっていなかった時代に、これを定めた人なのではないかと思うのです。それが時師の代から伝わる御影と有師の代に彫刻された通称「紫宸殿本尊」ではないかと思います。
 戒壇本尊が大石寺に遷座されるのは、もっと後のことだと考えています。だいたいは主師のころではないでしょうか?その後「身代わり」に格下げになった「紫宸殿本尊」はチョッと可愛そうな気がします。

753犀角独歩:2004/04/19(月) 16:06

743 平和創価さん:

返事が遅くなりました。
霑師にしても、志師にしても資料はたくさんあるでしょう。
目的とされているところはわたしはよく理解していませんが、両師どちらかに理があるというより、それぞれ言い分に納得できるところもあり・できないところもありというのが現状です。もし志師の言を取って霑師の劣勢、もしくは石山の過ちを論証しようとするのであればおやめになったほうがよいでしょう。

石北両山、互いに叩けば埃が出るところ、先行した志師の指摘は鋭利なところがありながら、叩き返されれば、北山への難疑に切れの悪さを見せるという具合です。しかし、それだからと言って霑師の完全勝利とは言い難く、読めば霑師の答えは叙用耐えるほどのものでもありません。また、志師も完全を期すことなく、さして意味のある議論になっているとは思えません。

だいたいこの頃の石北両山は往来があったうえで、この議論をなしているわけです。また、ここに讃岐本門寺の件が絡み、問答の裏に『大石寺誑惑顕本書』による三山の揺らぎがあり、さらに志師が疑義を呈した『宝冊』は亨師ですら「量師の正本を見ず…此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要ある」というのであって、これを取った志師に、敢えて霑師は反駁を企てている事情は考慮するべき点は多々あります。

どちらかが勝利と言うより、どっちもどっち、取るべきところは取り、捨てるところもまた多い両人であるというのがわたしの評価です。

754犀角独歩:2004/04/19(月) 17:02

空き缶さん:

所謂「戒壇之本尊」が造立を主師の頃と充てられるのは陽師の、以下一節からの類推でしょうか。

「…御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅…」(祖師伝付録)

陽師がこの二つを見たとすれば、その相貌が違うからこそ、別意に記したと思えます。となれば、この二つは別相貌であろうと思えます。また前者は板、後者は紙幅であると想像できます。陽師の拝観は元和3(1617)年のことで、石山住職は15代昌師で、14代主師も存生の時代ですね。拝観の四箇月後、主師は没しています。

わたしはこの時点で、既に紫宸殿本尊‘伝説’が成立していたことにやや驚きがあるのですが、反面、「日本第一」と言いながら、尤も着目すべき「戒壇之」という形容詞が記されていないことから、少なくともその段階で腰書はなく、また、その板本尊が戒壇本尊であるという伝説も成立していなかったと思うのですが、如何ですか。

755愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 18:46

う〜ん、空き缶さん。

> 私は時師〜有師の間は大石寺は何をもって「本尊」としていたかが疑問です。御影でしょうか?他の御筆曼陀羅?それとも興師書写の曼陀羅本尊?

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ゾ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」(御伝土代 日興上人御伝草案)

とありますから、漫荼羅正意であることは確かだと思います。ただ、本堂に安置していた漫荼羅がどれかは分かりませんが。

空き缶さんの説を受け入れ、日有師が造立した板漫荼羅が当時の石山の本尊だったとして、その模刻漫荼羅のオリジナルが何故「紫宸殿本尊」と呼ばれるようになったか(これは何故「紫宸殿」なのかという意味です)。そして、それはいつ頃なのかといった疑問が沸いてくるのです。
まあ、「戒壇之本尊」・「紫宸殿本尊」の名称は、時期は分かりませんが、祖滅後に命名されたと個人的には思っていますが。
要は、「戒壇之本尊」・「紫宸殿本尊」の肯定説、否定説両方を比較してみたいのです。そうすることで、これらの漫荼羅に課せられた使命と生い立ちが見えてくるのじゃないかと思うのです。

> 時師の代に御影が造立されたことは、大石寺も認める史実だと思います。

その通りだと思います。ただ、石山・重須の正御影伝説が事実だと仮定して、重須が建立された時には例のミニチュアを入れて三体あったと思うのですが、空き缶さんはどう思われますか。しかし、証拠が残っている正御影の中で最も古いものは池上本門寺のものだと言われていますね。

ところで空き缶さん、

「当宗の御堂は如何様ニ造タリトモ皆御影堂也。十界所図の御本尊を掛奉り候へとも高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也已上。」(聴聞抄)

「十界所図の御本尊を掛奉り候へとも高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也」とあるかと思えば、同じ「聴聞抄」に、

「一、当門流ノ起請ノ次第、其ノ寺ノ住持ヨリ案文ヲ給テ其ノ起請ノ主ノ執筆ト相封シテ御影堂ノ正面ニテ書テ其ノママニ本堂ノ正面ニ奉レ備御カネヲ参ラセテ檀那モ執筆モ倶ニ住持ノ前ニ参リ此ノ起請ヲ住持ニ参ラスル」(聴聞抄)

とあって、「御影堂」・「本堂」が別棟となっていることが記されています。 (゜ペ)ウーン
「高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也」ならば、本堂に安置する本尊は何なんだろう。と思ったりして・・・・・。 (;^_^A アセアセ…

「三師御伝土代」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu5_1.htm

「有師物語聴聞抄佳跡上」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_9.htm

756みかん:2004/04/19(月) 21:04
>>708-709
独歩さん。上代についてのわかりやすいご説明ありがとうございました。
大変参考になりました。上代という言葉は、伝統的に使われているわけですね。
ありがとうございました。大変興味深く、理解が進みました。
私自身でももう少し調べてみます。

757空き缶:2004/04/20(火) 11:39

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、こんいちは。

 私的には「主師の代に造立」というよりも「主師のころに遷座」と考えています。造立時期はやはり時師のころを支持しています。

 御伝土代の記述にある御本尊は、恐らく現在西山本門寺にて所蔵される興師書写「大石持仏堂本尊」を指しているのではないでしょうか。
 同曼陀羅本尊中の讃文に「謗者開罪於無間」とあり「罪ヲ無間に開く云云」の御伝土代の記述と符合します。

758空き缶:2004/04/20(火) 11:42

 訂正です。

 >こんいちは。→こんにちは。

 スミマセン。

759問答迷人:2004/04/20(火) 11:50

空き缶さん 始めまして

>御伝土代の記述にある御本尊は、恐らく現在西山本門寺にて所蔵される興師書写「大石持仏堂本尊」

凄いご指摘です。「大石持仏堂本尊」をなぜ西山本門寺が所蔵するようになったのか、その経緯に興味が沸きます。ご存知でしたら、ご教示いただけませんでしょうか。ご存知の通り、御遷化記録も西山本門寺所蔵です。なぜ御遷化記録が西山本門寺にあるのか、その経緯も今のところ、なぞです。興師の晩年に盗難に遭ったものが西山にあるのか、別の本なのか・・・

760犀角独歩:2004/04/20(火) 12:01

756 みかんさん:

ご丁寧なご挨拶、有り難うございます。
ますますのご研究と執筆を期待しております。

761犀角独歩:2004/04/20(火) 12:25

757 空き缶さん、また皆さん:

問答さんも仰っていますが、わたしも同様の驚きを感じました。
ご指摘の漫荼羅は「元亨三年八月廿九日」筆のものを言うのでしょうか。
脇書は「大石持佛堂本尊日代闍梨」ですね。となれば、西山に蔵されることは不思議はないのですが、しかし、重須本堂の興師が指名した2代住持が重須持仏堂ならぬ、大石持仏堂本尊を授与されたのか、実に興味が惹かれます。これはいったい何を意味するのでしょうか。

やや関連しますが栃木信行寺所蔵に「嘉元四年卯月八日」「白蓮持佛堂安置也」と記される興師漫荼羅があります。

「大石持佛堂」は大石寺内でしょうが、「白蓮持佛堂」とは、石北どちらにあったのでしょうか。また、持佛堂・御影堂・本堂はそれぞれどのような異義付けの差があるのでしょうか。

762空き缶:2004/04/20(火) 12:38
 
 問答迷人さん、はじめまして。
 ご存知の通り「大石持仏堂本尊」は正式な授与書は「大石持仏堂本尊日代阿闍梨」となっていますので、大石持仏堂の管理者は日代師であった可能性が高いですね。
 興師書写本尊には他にも「謗者開罪於無間」の讃文がみられるものが多数ありますが、ことさら本尊紙上に「大石持仏堂」とありますと先にあげましたような愚論をいいたくなってしまうのです。(真光寺の板曼陀羅も「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」とありますが「謗者開罪於無間」の讃文はみられません。)
 但し、この私の愚論は「若鷹」という創価学会系の掲示板にて「宿坊」のハンドルでカキコされている方より否定されています。
 根拠が煮詰まっていませんが、同本尊を西山に遷座したのは日善師ではないかと考えています。

763空き缶:2004/04/20(火) 12:46

 犀角独歩さん、堀日亨師は「富士日興上人詳伝」にて「大石持佛堂」と「白蓮持佛堂」は同じものといわれているみたいですね。

764犀角独歩:2004/04/20(火) 12:57

763 空き缶さん:

有り難うございます。
そうなんですか。しかし、これは石山ずりの考えですよね。
興師の言と雖も納得いきませんね。
空き缶さんは、真光寺興師漫荼羅も挙げてくださいましたが、そうなると当時の大石寺には持仏堂が三つあるか、あるいは三舗漫荼羅が奉掲されていたか、あるいは三度取り替えたことになります。ちょっと納得できるところではありませんよね。

まあ、わたしは仏像・漫荼羅・御影の三点セットを興師における初期の三宝観ととらえているところがあります。仏像(仏)・法(漫荼羅)・御影(僧)です。となると、仏像安置が持佛堂であろうと通仏教常識で捌きたいところです。漫荼羅正意(わたしに言わせれば漫荼羅偏向)の富士門ではコンセンサスが得られないことはわかっているのですが。

765犀角独歩:2004/04/20(火) 12:58

【764の訂正】

間違えました。

誤)興師の言と雖も納得いきませんね
正)亨師の言と雖も納得いきませんね

766空き缶:2004/04/20(火) 17:15

犀角独歩さん、興風談所は重須大坊内に「白蓮持佛堂」があったのではないかと推察していますね。(興風11号)

 なにやら決定的な資料はないようで。

767空き缶:2004/04/20(火) 17:56

 犀角独歩さん、真光寺の板曼陀羅ですが「富士大石寺持仏堂」という呼称に少々疑問が残ります。大石持仏堂と同意だとは思いますが、興師の代から「富士大石寺」と呼ばれていたのでしょうか。

768愚鈍凡夫:2004/04/20(火) 20:56

横レス失礼します。
「讃者積福於安明、謗者開罪於無間。」の一節は、「依憑天台集」の最後の部分で伝教大師が天台大師を褒めちぎる処に出てきますが、伝教大師が天台大師を慕うように、日興師も蓮祖を慕っていた。そんな気持ちも込められているのでしょうか。

「今吾天台大師、説法華経、釈法華経。特秀於群独歩於唐。明知。如来使也。讃者積福於安明、謗者開罪於無間。雖然、於信者為天鼓、於謗者為毒鼓。(今吾が天台大師、法華経を説き、法華経を釈す。特に群に秀でて唐に独歩す。明らかに知んぬ。如来の使なることを。讃せん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く。然りと雖も、信ぜん者に於ては天鼓と為り、謗らん者に於ては毒鼓と為る。)」(依憑天台集 天台大師振法鼓於天竺文出三論宗吉蔵請天台大師書)

「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」(法華文句記・巻4)、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」(依憑天台集)

因みに蓮祖漫荼羅の場合、要文を調べてみると意外なことに、「法華文句記・巻4」の文証が引用されている漫荼羅は6舗しかなく、そのうち、№59の漫荼羅だけが「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」とだけ記されていて、あとは、「依憑天台集」の「讃者積福於安明謗者開罪於無間」がセットになっていますね。

№53
図顕:1278(弘安1)年8月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№54
図顕:1278(弘安1)年8月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№59
図顕:1279(弘安2)年2月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」

№60
図顕:1279(弘安2)年2月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№61
図顕:1279(弘安2)年4月8日
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№67
図顕:1279(弘安2)年10月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

769空き缶:2004/04/20(火) 21:29

 愚鈍凡夫さん、おっしゃる通りですね。興師書写本尊も「讃者積福於安明謗者開罪於無間」とあるときは「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」がセットになっています。

770空き缶:2004/04/20(火) 21:37

 犀角独歩さん、『所詮「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』はかなり好評ですね。

 他の掲示板でもリンクされているのが、多く見かけられるようになってきました。板曼陀羅からの覚醒に多大な貢献をされていると思います。

 ところで「図解必携 大石寺本尊鑑別」は何時頃の出版となりそうですか?

771犀角独歩:2004/04/21(水) 06:13

空き缶さん:

>『所詮「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』…他の掲示板でもリンク

そうですか。リンクを貼ってくださっている方がいらっしゃいますか。全然、知りませんでした(笑)

>「図解必携 大石寺本尊鑑別」は何時頃

お心を掛けていただき、有り難うございます。
4月28日に発刊しようと思っていたのです。ところが、なかでネットその他で未公開の漫荼羅があり所蔵寺院に、その掲載許可を願っているためにやや遅れています。

772空き缶:2004/04/21(水) 18:26

犀角独歩さん、私がみたのは創価学会系の掲示板で「信濃町富士宮研究所」というところです。

 2チャンでも話題に上がっているみたいです。私もつい「大聖人門下掲示板」(ここは日蓮宗系の極めて真面目な掲示板です)にてアピールしてしまいました。

 私のコミュニティーにもリンクをはらせてください。

 >4月28日に発刊・・・掲載許可を願っているためにやや遅れています。
 
 真実が明かされるのには、ズバリといった発刊予定日でしたね。しかし、少々遅れても中身の価値は変わることはありませんので、首をなが―――くして待つことにします。

773愚鈍凡夫:2004/04/21(水) 19:18

「ああっ、キリンさんだ。」 〜> ̄ )〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「そら、蛇やろ」(by 外野席)

空き缶さん、今晩は。

> 真光寺の板曼陀羅も「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」とありますが「謗者開罪於無間」の讃文はみられません。

とのことですが、「富士年表」によると、

寛文12年(1672)閏6月13日 下総中田真光寺板本尊造立、願主本行院日優(裏書)

となっています。したがって、この板漫荼羅は大石寺六壺の模刻漫荼羅を再模刻したものではないでしょうか。「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」と彫刻されているのは忠実に再模刻したことを示していると思うのですが。

ところで、六壺の板漫荼羅には「乾元四年八月十三日」と識年号が記されているそうですが、何故、歴史上存在しない年号が記されていると思われますか。

774空き缶:2004/04/21(水) 19:46

 愚鈍凡夫さん、こんばんは。

 >六壺の板漫荼羅・・・歴史上存在しない年号

 まるで「御義口伝」のようですね。かなり怪しいですね。

775れん:2004/04/21(水) 20:53
空き缶さん・愚鈍凡夫さん。乾元四年の年記がある真光寺・六壺の板マンダラの原本は偽作でしょう。真光寺板マンダラの首題の蓮字の特徴的な終筆は確実な興師書写マンダラでは正和年間にのみ見られるもので、先ず年代が合いません。故に興風談所刊「日興上人御本尊集」の目録から外されています。m(__)m

776空き缶:2004/04/21(水) 21:31

 れんさん、お久しぶりです。お待ちしていました。
 れんさん、春休み中に中伊豆の實成寺に子供達と見学に行ってきましたよ。周りには何にも無いところでした。
 本堂の板曼荼羅?は、主題と不動・愛染のみで、自署花押も無いものでした。子供達と一緒では何も出来ず終わってしまう為、今度は一人でこっそりと行きたいです。

 >真光寺・六壺の板マンダラの原本は偽作
 
 やはり、

 >興風談所刊「日興上人御本尊集」の目録から外されています。

 なるほど、しかし「偽作」といえども紙幅の原本はあったと思われますか?

777れん:2004/04/21(水) 21:57
空き缶さん。お久しぶりです。中伊豆の実成寺に行かれたのですか。日蓮宗寺院大観によると伊豆実成寺には目師の聴講見聞録・興師マンダラ・目師マンダラ・日尊師マンダラが所蔵されているとのことですから、御虫払いの時でも一度は拝観したいものです。 >偽作といえども紙幅の原本はあったと思われますか。
仰せの通り興師筆のパッチワークの紙幅の原本はあったと考えます。m(__)m

778愚鈍凡夫:2004/04/21(水) 22:47

あっ、れんさんどうも。さすがですね。

何故、乾元四年ではなく、嘉元三年(1305)としなかったのでしょう。
言っては何ですが、日目師の流れは、時代考証がメチャクチャなところがありますね。
「大石持佛堂本尊日代闍梨」を日代師が持っていってしまったので、仕方なく、偽造したんでしょうか。それにしても、ほかに興師御筆の漫荼羅が石山にあったと思うのですが、レイアウトが気にくわなかったのでしょうかね。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

779犀角独歩:2004/04/21(水) 23:30

空き缶さん、有り難うございます。
よろしくお願いします。

> 六壺の板漫荼羅

これは面白いというか、まったく皆さんの博識には感心します。
東京品川妙光寺の本堂の板漫荼羅は、六壺漫荼羅でした。

れんさん、これはパッチワークなんですか。
当時、わたしは「六壺と同じ日興上人の御本尊」と有り難がっていたのに、この手のことはけっこう卒業したと思ったのにまだ身近でありましたか。いやはやです。

愚鈍凡夫さん、そうなると、六壺が大石寺持仏堂であった、あるいは、持仏堂にあった漫荼羅を六壺に安置した、どちらなのでしょうか?

780空き缶:2004/04/21(水) 23:54

>聴講見聞録・興師マンダラ・目師マンダラ・日尊師マンダラが所蔵

 れんさん、そうなんです。しかし、継命新聞社の「日目上人」に實成寺所蔵として目師曼荼羅や聴講見聞録がでていなかったことが気になります。

 尊師曼荼羅については「尊師実録」に

一、 本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻六人の老僧面面に之を書写し給へり、然るに異議は無く其の後は面面末流、初心後心、戒行の有無、曾て以て之を糾明する事無し、面面に之を書写云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之を閣く富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘に云く、仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提内未曾有大曼荼羅也云云、予も又此の義を存ずる之所、日興上人御入滅後、一門跡に面面争論出来、互に偏執を成し邪論を起して、人人面面に之を書写し奉る云云、然れば則ち仏意は測り難く聖意恐れ有り所詮吾が一門に於ては、本義の如く一人之を書写し奉るべきか云云。『日蓮宗宗学全書2巻』

とあり、實成寺の伝「尊師曼荼羅」は「尊師実録」の記述と矛盾し怪しいともいわれています。

781愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 00:35

犀角独歩さん、どうも。

初代の「六壺」は、確か日興師の時代に創建されたことになっていますよね。6部屋に分けられていたことから「六壺」と呼ばれるようになったとか。
その内の一壺を「持仏堂」としたのではなかったでしょうか。

782犀角独歩:2004/04/22(木) 08:59

愚鈍凡夫さん:

> 六壺…一壺を「持仏堂」

あ、そうでした。どこかで読みました。
しかし、この漫荼羅も贋作でしたか。
たしか先の六壺は本尊書写の場所といわれたものでした。
となると、贋作漫荼羅の下で「戒壇之本尊」と違う相貌の漫荼羅を「奉書写之」、つまり、弥四郎漫荼羅を書き写すと言いながら、違うことを書き、これは「内証を写している」と訳のわからない言い訳をしている石山の漫荼羅を書写といったい何なのか、改めて考えさせられるものがあります。

783愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 12:44

犀角独歩さん、偽作でなければ説明つきませんよね。

空き缶さん。

> 「富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根源を立てんが為なり云云」

この「日興上人御遺戒也」は口伝と言うことなのでしょうか、それとも、真蹟遺文にそう記してあるとの意味でしょうか。
それでは、重須で日興師が漫荼羅書写し、同時期に日目師も石山で書写していた事実をどう捉えればよいのでしょうか。
日尊師とすれば、漫荼羅乱発を防ぐ意味もあったのでしょうが、「歴代住職=大聖人」といった一極集中的法主絶対論に根拠を与える結果になってしまったように思うのですが。

ところで下記のHP、面白いですよ。

「血脈について」
http://nakanihon.net/nb/ketumyaku.html

784犀角独歩:2004/04/22(木) 14:45

783 愚鈍凡夫さん:

血脈相承問題ですか。
ご紹介のサイトはよくまとまっていますが、久保川論文などでも言われた「血脈二管論」「大衆預論」がモチーフになっていますね。あと色濃い顕師に対する怨恨と排斥観、これが文章の質をがたんと下げてしまっているのが惜しいですね。

わたしは血脈の断不など基本的にあるのは当然、そもそも「蓮興目已来の大石寺」などと言うこと自体、神話に過ぎないと考えますから、やや徹底差に欠ける憾みがあると読みました。大石寺は目師に始まる興師にとって居心地の悪かった寺。目師を実質継いだのは郷師であるから、道師の段で、大衆も何もあったものではなく、いったん、ここで終わっているのではないのか…、極端に言えば、こんな具合に想像しています。南条家支配、そして、仙波檀林の影響、有師にいたって隆門・禅律師の影響も吸っていく石山。要法寺を邪義と言えるほどの清流は無しと見ます。だいたい、興師その人が蓮師教学とは異なる漫荼羅偏向論者であって、御影という仏像に代わる造像家であるという観察は石山圏の人は案外しませんね。

二、三気になる点。
まず「稚児貫首」ですが、これは所謂時代性の風習と言うことを考慮すべきであって、子供だから駄目なんていう安直な批判は意味をなしませんよね。たとえば、チベットのダライ・ラマは当代が逝去すると直ぐに転生者探しを始めてその子供を見出すと法王にしますね。生まれ変わり信仰の石山でもこんなことは言えるのであって、「法主上人は霊山の大聖人の許から遣わされた」という信仰があれば、生まれて直ぐに「法主」に指名されても不思議はありません。子供でも殿様になり、天皇にもなった中世のことです。稚児貫首が軽蔑的にとらえられたというのは現代的な感覚に過ぎないでしょう。

稚児貫首に関連して、石山の役僧と話したことがありました。その人は、石山の坊で生まれたのですが、生まれると役ある坊さんが集まってきて、身体をくまなく改めたと言います。男のか、健常体か、はてはホクロ一つないことを確認すると、特別な人の生まれ変わりであると判断され、その段階で将来が約束されることになったということでした。
まあ、これが誰とは言いません。が、五体満足、生まれ落ちた場所、これでその子供は時には遣使還告の菩薩と見なされる考えが石山にはあるということです。そのうえでの稚児貫主です。稚児貫首蔑視が正信会の共通認識化しているとすれば、この点はもう少し研究されるべきではないのかとわたしは考えます。

785犀角独歩:2004/04/22(木) 14:45

―784からつづく―

次に「大衆」ということ。該当の文章では大衆が何かとてつもない役割を果たして蓮興目已来の石山血脈を守ってきたような論調ですが、果たしてそうでしょうか。そんな大それたものでもないだろうというのがわたしの石山観です。また、「大衆」を現代語の一般大衆のように使用しているのでは?と読めてしまう箇所がありますが、古来、仏教語で「大衆」と言えば「衆僧」に相場が決まっていますね。これを一般大衆みたいな使い方をしてしまえば、これは御書に「学者」とあるのを取って、「(いまの)学者に何がわかるか」というようなものです。現代とその用法は違います。「大衆論」が、顕師不相承・だから大衆にあり、「日蓮大聖人を正しく仰ぐ」○会なんて理論を用意すれば唯授一人論と同轍の浅慮であるとわたしは思うわけです。(○は正信会・創価学会・顕正会共通)

あと一点。「御朱印」のことが書かれています。中世石山が朱印を受けていたと言うことは、彼らの言葉で言えば、謗法の国・その幕府から布施を受けていたということと同義ではないのかとわたしは考えます。本来、国主に法を持させるべき‘お祭りごと’として申状を奉読して法要をやっていたところで、法を持ちもしない幕府から朱印をもらって安堵されることは、要法寺の邪義云々と言うより、立正安国論、遺誡置文、その他、蓮興目三祖の精神に悖る大堕落ではないのか、これは血脈が大衆が引き継いだならば、なぜ糾弾しなかったのかと疑問が残るわけです。「こら国家諫暁はどうした。安堵される方が大事なのか、御身可愛さか。蓮師の立正安国の大精神というはどうした。置文の誡めはどうしたんだ」と詰問したわけです。

…とまあ、いろいろ書きましたが、愚鈍凡夫さんの紹介にケチをつけようなどと言うことでもありません。また、紹介のページはnbさんのところでしょうか。そのご本人に難癖を付けようと言うわけでもありません。むしろ、多くの資料をサイトにアップされている点を敬意も表します。ですから、以上のような点をもう少し練って、石山神話の崩壊にもう一役筆を振るって欲しいと思えばまでのことでした。

なお久保川論文が出た頃、石山では『久保川論文の妄説を破す』というこれまた高飛車な侮蔑表現で題名を付けた文章を発表しています。正信会(同会をわたしは高く評価する面も多々ありますが)のアナウンスを読むとき、併せ参考にするとなかなか面白いところがあります。わたしはどちらによるものでもないので、実に客観的に俯瞰するばかりです。
それにしても‘憎悪対象がある’文章は、どうもストレートに落ちてきません。その感情部分を削除するなプロセスを経なければならず実に面倒臭く感じます。厳正に資料から読みとるという学的・科学的な姿勢が信念体系から書く文章には常に欠陥がついて回ります。最初に結論ありき、これではただの手前味噌です。どんなに料理したところで手前の味にしかなりません。同じソースを使っても、守るべきものによってその解釈が変わる、守るべきものがあって書く文章は自讃毀他が臭く、根本を見極める点で判断がぶれるきらいがあります。ですから、その根治的な部分を考えるのが当掲示板であって欲しいと願うことになるわけです。
…、しかし、愚鈍凡夫さんの博読には、いつも感心させられます。
ご紹介有り難うございます。

786犀角独歩:2004/04/22(木) 16:13

> 784、5の自己レス

どうも紹介サイトの感想を書いたら、愚鈍凡夫さんに言っているような文と取られかねない運びになってしまっていますね。そんなつもりはありません。
どうかご判読ください。

尤もnbさんは異論はおありでしょうか。
ここで議論ができれば有意義であると考えますが、叶わないでしょうか。

787犀角独歩:2004/04/22(木) 17:43

六壺の模刻本尊の話が出ましたので、ついでに所謂「譲座本尊」について。
と言ってもお尋ねです。冨要に限る資料で恐縮ですが、

「一御座替の本尊を日目に授与したまふ是れ則大石寺御建立の年の御筆」富士門家中見聞抄目録(日精)

「当山建立は正応三年十月十三日に之を成就し畢る、日興上人同日の御内に此の寺を以て住寺日目と之を定む、御座替の御本尊是れ其の証拠なり、但し大石寺付属の譲状は元徳四壬申三月即正慶元年なり、此表趣の御遺状なり」有師物語聴聞抄佳跡上(日因)

「一、日興上人筆座替大本尊竪七尺一寸五分横三尺六寸 一幅首題の下日蓮在御判左日興奉書写之右日目授与之依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大漫茶羅なり」富士大石寺明細誌(日量)

「(右下)正応三年十月十三日之を写す日興(十六枚の大幅)(左下)日目に之を授与す、 総本山御座替本尊」富士史料類聚(日亨)

手元にある『日興上人御本尊集』を見ると中央題目・日蓮在御判右横に「日興花押」、左に「日目授与之」でその記述が一致しません。

あと、これはまるでうる覚えなのですが、石山虫払法要の時、客殿安置の模刻の前に、この紙幅漫荼羅を奉掲して、その際に「右に日興上人花押、左に日目上人花押」と説明された記憶があります。これは記憶違いであったのか、それともいま客殿の模刻には目師花押があるのか、以上の点、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけませんでしょうか。

788犀角独歩:2004/04/22(木) 17:53

真光寺板漫荼羅とはこれのことでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/sinkoji_itamandara.jpg

789空き缶:2004/04/22(木) 18:54

犀角独歩さん、まさしくこの板曼陀羅だと思います。

790愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 20:33

犀角独歩さん、有り難うございます。

> 手元にある『日興上人御本尊集』を見ると中央題目・日蓮在御判右横に「日興花押」、左に「日目授与之」でその記述が一致しません。

とのことですが、

> 「一幅首題の下日蓮在御判左日興奉書写之右日目授与之依て座替と号す」

古より、日本では南面を向いて、日の出の方角(左)が上座、日没の方角(右)が下座とされていますよね。このことから言えば、上座・日興師、下座・日目師となるわけですから、向かって右が日興師、左が日目師になるのではないでしょうか。

791れん:2004/04/22(木) 20:41
犀角独歩さん。譲座本尊の紙幅原本では、日蓮在御判の右に「正応三年十月十/三日/写之/日興花押」左に「日目/授与之」とあります(日興上人御本尊集所収の御筆写真による)。ですから日興花押・日目花押との御虫払いの際の説明は間違いです。ちなみに石山十四世日主師には譲座本尊示書という著作があり、示書の上段には弥四郎国重云々の弥四郎マンダラの腰書・下段には日興御判客座御隠居、日目授与之嫡子分本座と譲座本尊の説明が記されています。堀日亨師は「戒壇本尊の弥四郎国重の文は日主上人が初めて写して御座る」とコメントしています。

792れん:2004/04/22(木) 20:56
客殿の譲座本尊摸刻板は江戸期の日永師の造立ですから、摸刻板にはもちろん「日目花押」は無いと存じます。m(__)m

793空き缶:2004/04/22(木) 20:56
 
 愚鈍凡夫さん、「日興上人御遺戒」の件、私も気になるんです。確か御伝土代には「日興上人御遺告」というのが出てきたと思います。

 一大聖人の御書は和字たるべき事
 一鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事
 一一部五種の行は時過たる事
 一一躰仏の事
 一天目房の方便品読む可らすと立るは大謗法の事

目師以降は正確な資料も少なく、疑問がたくさん出てきますね。
道・郷・尊の三師にいたっては、わからない事だらけです。

794犀角独歩:2004/04/22(木) 21:21

空き缶さん:

有り難うございます。やはり、そうですか。
この写真は『富士宗学要集』(資料類聚別冊・昭和17年12月5日印刷/12月10日発行・編集権発行者堀日亨・発行所折線書房)版の巻頭グラビアに載る写真です。


愚鈍凡夫さん:

わたしが違うと言ったのは要は同じ本尊のことを記しているはずなのに左右が入れ違ったり、花押の有無があったり、「写之」が「奉書写」となったりする出入りがあるのは何故かという問なのです。何故こんなことが起こるのかという意味です。どうお考えになりますか。


れんさん:

「目師花押」、やはりあるわけはないですよね。それで正解であると思うのです。
もう少し、この時に聞いた話を記すと、この「日興花押」は興師自身、「日目花押」は目師に促して興師が書かせたというものでした。またこの模刻は精師という説明であったとも記憶します。こうなるとかなりわたしの記憶が曖昧なのか、それにしては妙に「物語立て」で覚えているので、そうとも言えないと頬を抓っています。

> 譲座本尊示書

この書についてもう少しご教示願えませんか。この書が主師真筆である確証はあるのでしょうか。また、この書はどこに載り、また、亨師の言は何に載るのでしょうか。
できれば、

> 示書の上段には弥四郎国重云々の弥四郎マンダラの腰書

この正確な記述をご開示いただけませんでしょうか。
よろしくご教示の程、お願い申し上げます。

795犀角独歩:2004/04/22(木) 21:24

794、間違えました

誤)発行所折線書房 (そんなわけありませんね)
正)発行所雪山書房

796空き缶:2004/04/22(木) 21:31

 犀角独歩さん、

 >『富士宗学要集』(資料類聚別冊・昭和17年12月5日印刷/12月10日発行・編集権発行者堀日亨・発行所折線書房)版の巻頭グラビア

 そうなんですか、私はてっきり先に話題に上がっていました「石山本尊の研究」からだと思いました。
 
 れんさん、「譲座本尊示書」は歴代法主全書第2巻以外に、掲載されている既刊書ってあるんですか?もしあれば私も知りたいです。

797れん:2004/04/22(木) 22:21
犀角独歩さん・空き缶さん。譲座本尊示書の主師筆の写真が興風談所刊行の興風紀要創刊号八十ページに掲載されてます(ただし譲座本尊の解説部分のみ)。筆跡は大石寺図絵と同じで確かに主師筆です。弥四郎曼陀羅の腰書の部分は掲載されてないのでどの様になっているかは分かりませんが、池田令道師の「富士の立義と血脈相承についての私見(下)」(興風紀要第二号所収)の註22には『この上段が「弥四郎国重云々」の戒壇本尊脇書になっている』と記されています。亨師のコメントは杉谷香道師筆録総本山五十九世日亨上人講述に収録されてます。m(__)m

798愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 22:49

それぞれ表現が違うのは、印象を記したものでしょうか。それとも、本当にそのように記されていたのでしょうか。もし、そのように記されていたのであれば、複数存在することになりますね。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

それにしても、「譲座本尊」は、日興師が命名したものでしょうか。
日興師が日目師に授与したことが慣例化し、代替わりの度に書写漫荼羅を授与したことで、「譲座本尊」と呼ぶようになったのでしょうか。
まあ、「唯我与我」の儀式は証人がいないから、その代わりに「譲座本尊」をもって住職を譲座されたことを証明するといった意味なんですかね。
そうすると、「譲座本尊」は石山に何舗あるんでしょうか。

799愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 23:09

空き缶さん。

「日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之レを記す」(三師御伝土代)

とあって、空き缶さんが引用されている文に続きますが、「唯授一人血脈相承」のことは記されていませんね。

日尊師と日道師とでは、解釈が違うということでしょうか。それとも、別々に御遺告があったということでしょうか。しかし、日道師が「唯授一人血脈相承」のことに触れていないのは面白いですね。

800空き缶:2004/04/22(木) 23:27

愚鈍凡夫さん、日尊師の後を継いだ日大師は御本尊書写をされています。
 日尊師が御本尊書写をされていなかったとすれば、日大師はいったい誰から御本尊書写の相伝を受けたのか疑問です。
 ちなみに日大師書写の御本尊も主題の下は恐らく「日蓮在御判」(恐らくと書いたのは、写真が不鮮明で主題下に「日蓮」までは確認できますが、「在御判」までは私の肉眼では確認できません。)となっていると思われます。
 相貌は弘安年式です。私の我見で判断すれば、興尊流の書写形式を継承していると思われます。(以上、本山要法寺刊「日大上人」巻頭グラビアより)

801空き瓶:2004/04/22(木) 23:33
 妙蓮寺の客殿の御本尊は弘安三年になっています。
 原本は無いそうです。
 東金本城寺の御本尊は猿島富久成寺の弘安三年の板本尊
 です。

802空き缶:2004/04/23(金) 00:21

すみません、主師の遺文が出ているのは「歴代法主全書」の1巻でした。謹んで訂正いたします。

803地名:2004/04/23(金) 00:57
「日亨上人講述」杉谷香道筆録、平成13年3月発行、日目上人奉賛会のP44
紫宸殿御本尊の事の中にあります。
引用しますと
「日有上人文安二年の寫本尊には紫宸殿とは書いてないが、案ずるに始め須津之辻、
鳥窪本傳寺の什宝であったであろう。」とあり、

次いで
「又、戒旦本尊の弥四郎國重の文は日主上人に至りて初めて寫させ御座る。」

ご参考まで。

804地名:2004/04/23(金) 02:01

「創価学会の罪悪」日蓮宗文庫のP126〜127に北山本門寺貫首・片山日幹師が次のように述べています。
「大石寺の管長、堀日亨師とは親しくおつきあいをしておりました。私の山にもしばしばこられて、私の山の宝物をみせてあげたり写真まで撮らせてあげたものでした。
中略
幸いにして聖筆鑑定の最高権威稲田海素先生は、堀師とは仲がよく、あそこのご遺文をみな対照しておられますが、その時に板本尊を見られたというので「どうでしたか」と聞きますと「ありゃあ、真っ赤なニセモノだよ」といっておられました。略」

また、二箇相承についても日幹師は
「これは大石寺側だけでなく北山本門寺でも富士門流は昔からこの二箇相承というものを盾にして本当のものは富士門流にあるといってきた…中略
私ども富士の本門寺においてこれを否定するのはおかしいのですが、これは偽作も偽作もはなはだしいものなのです」(この記事は6月28日本妙寺で行われた発言をまとめたもの。文責は編著者にある)

このような見方もあるというご参考までです。

805地名:2004/04/23(金) 02:33
高橋粛道師「日興上人御述作考1」平成5年第4版、仏書刊行会P415で
「日興上人から付属を受けたとする証拠に「譲座本尊」がある。譲座本尊とは日興上人が日目上人に座主の位を譲ったことを証する御本尊である。日主上人は日興跡条々事示書に「大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法体御付属」(歴全1巻459頁)とて、唯授一人の証しとして正応三年の譲座本尊を授与されたと述べている。又、同じく日主上人は「日興御判客座・御隠居、日目本座・嫡子分」といい、更に「此御本尊の御示(しめし)がきは日興上人より日目上人法水血脈唯授一人なり是は法体付属」と記するように元徳四年に先立つこと約40年前に日目上人は付属を受けていたのである。しかし、未だ御本尊の御書写が晩年までないから、本宗では正応三年の付属を内付と呼んでいる。」とあります。
ご参考まで。

806地名:2004/04/23(金) 03:01
宮崎英修師「大石寺・板曼荼羅について−その価値と成立」のP65で、
「…この事実より、また上の類推により板本尊は日有の彫ったものと考えても間違いないであろう。そして本品は日有が彫刻後そのままどこかにしまいこんだのを病気の為に甲州杉山にかくれたので(家中抄其他)自然にわすれられ、これが十世日乗、十一世日底の代になると石山では歴史不明の時代で次の日鎮の代になった時に蔵中の内より世に出され始めたのではないか。家中抄によれば日乗、日底両師の行跡は不明で、日鎮は若年の頃には四国方面並に東西に遊化することあまねくこの師の時に至って諸堂が整備され、「本堂・御堂・垂迹堂・諸天堂・惣門」が建立されるに至った。その寂年は大永7年(1527)71才であるという。そこでこの板本尊が本堂建立の際に燭光を浴びたのではなかろうか。…
日精によって祖像・板本尊と共に日法製作という現在伝承の板本尊となったものである。」
一つの見方としてご参考まで。

807地名:2004/04/23(金) 03:09

731 愚鈍凡夫さん

>日憲師の記憶違い…可能性あり…戸田さん、小平さんが見た漫荼羅(現在の「戒壇之本尊」)とは違う漫荼羅の相貌について述べている可能性もあり…

漫荼羅複数説に立てばその可能性も否定できないかと思います。
しかし浅学ですのでこの点についてはよくわかりません。
独歩さんの御本を是非拝見したいと思います。

808地名:2004/04/23(金) 03:24

729 独歩さん

>‘戒壇’の理論化を見ることはなかった。
>たしかに蓮師の至極は三つの法門ではあったけれど、
>戒壇は未完の儘であるので完全に解いていないと言えよう。

「日興上人全集」等で日興に戒壇思想があったかまだ未調査ですが、
日蓮ではどうかについては、山上弘道師「日蓮大聖人の思想(四)」興風13号のP88の脚注(184)で
「特に弘安二年以降「身延後期」には、真偽未決の「三大秘法抄」を除けば、戒壇問題には触れられていない。」とあります。
ご参考まで記します。

809地名:2004/04/23(金) 03:39

739 空き缶さん

>地名さん、「時師の代に造立」は今でも私の最も支持する戒壇本尊造立年代。
>最初は道師の代に造立と考えていた。
>この二師には、宗祖正御影(等身大の御尊像)を失ったこと、
>万年救護本尊を相伝できなかったことという、
>代替品作成の動機があると思った。
>その上、阿部師は、教学部長時代に「主題と花押は日禅授与のご本尊」「他の部分は時師か有師のころの筆」という鑑定結果を示している。
>最初は時師の代に紙幅版の戒壇本尊が完成し、
>有師の代に彫刻されたのかと考えていた。
>今は、時師の代に宮城県内で彫刻された板碑の一種ではないかと。

ありがとうございます。「板碑」説について可能でしたらもう少し教えていただけますか。

810地名:2004/04/23(金) 03:43

772 空き缶さん

>「大聖人門下掲示板」(ここは日蓮宗系の極めて真面目な掲示板です)
>私のコミュニティーにもリンクをはらせてください。

この2つのアドレス差し支えなければ教えていただけますか。
空き缶さんの掲示板等で勉強したいと思いますので。

811犀角独歩:2004/04/23(金) 09:14

れんさん:
空き缶さん:

有り難うございます。参考になりました。
腰書部分が写っていないのは何故なのでしょうか。
主師の次第によっては、わたしは腰書の成立を精師前後から主師前に考えを変えることも吝かではありません。しかしそのためにはまだ資料が不足しています。示書は自分のメモを読み直したら、やはりずいぶんと前に意識したことがあったのですが、「未決部あり」と記し弾いていました。

愚鈍凡夫さん:

示書を採れば本尊による譲座というのは主師に既に見られたことになりますか。
ここに日興・日目の両者の名前があることを見て、わたしは即座に『御伝土台』の「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という一節を思い出しました。石山ではこれを蓮興二師合作と読みますが、わたしは漫荼羅中に「日興上人」の四文字を蓮師が書かれたと読んできたわけです。木下師も同様の説でした。この場合、日蓮花押と日興上人が併存することになります。弘安二年興師授与漫荼羅(紛失)では蓮興、正応三年興師書漫荼羅では(蓮)興目がその紙面に載るという類型を示すことになります。
尤もわたしは興師唯授一人など指示するわけではありませんので、これをもって血脈相承を論じようと言うわけではありません。ただ、漫荼羅中に自名と上人号を書き込んでもらった興師が、今度は目師に同じくしたと考えることは可能かと思います。蓮師は熱原の報奨として、興師は上野大石に寓居する報奨として、それぞれの意味があったのかもしれません。


地名さん:

種々資料のご呈示、有り難うございます。

蓮師は、やはり戒壇義不説で没したと考えるべきなのでしょうね。
興師については昨日、山岳無縁さんと話しましたら『本門弘通事』を挙げていました。

「迹門比叡山 日枝山 吾山 御社
 本門富士山 蓮花山 大日山」

これはまた『三時弘経次第』

「比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。…
 冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」

これを興師戒壇義と採るべきか否か。わたしは悩みます。
むしろ像末弘教の違いとして、像法:迹面本裏、末法:本面迹裏の相違によって、比叡山迹門寺に対して、富士山本門寺の勅許を求める範囲ではないのかと思えます。もちろん、この延長線に迹門戒壇と本門戒壇の対比は帰結する可能性はあります。

この点を考えるとき、わたしは蓮興二師に決定的な違いを感じるわけです。
蓮師は実質的な権力者、幕府・北条(武家)に立正安国論を呈したのに、興師は天皇に申状を呈している点です。時代性の隔壁と言えばそれまでですが、コンセプトそのものの相違を感じます。

812愚鈍凡夫:2004/04/23(金) 12:01

地名さん、レス有り難うございます。

漫荼羅相貌の表現の違いについて、
私義を交えずに見たそのままを記した例もあるでしょうが、見た印象から自己の解釈を記したものもあるように思います。
こういったことは、それぞれが事実を述べていると仮定した上で、あり得ない可能性を一つ一つ排除していくしかないのではないでしょうか。

蓮祖漫荼羅の場合、これは小生の悩みの種なんですが、讃文の「二千二百余年」、「二千二百二十余年」、「二千二百三十余年」の違いが、いかなる根拠によるものか分かりません。
ただ言えることは、弘安3年(1280)8月以降、「二千二百三十余年」に統一されているということですが、これすら何故なのか分かりません。事実がそうであるというだけです。
この年のこの月に、何らかの心境の変化があったのかも知れませんが、理由は分かりません。
ただいえることは、蓮祖はその時々の想いに任せて漫荼羅図顕したのではないかということです。したがって、直感的なものであって、論理的に説明しうるものではないのかも知れません。

「大聖人門下掲示板」は、小生もたまにカキコしています。但し、空き缶さんと違ってボケをかましに行っているようなものですが。 (^◇^;)

「大聖人門下掲示板」
http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/

813空き缶:2004/04/23(金) 16:54

 地名さん、こんにちは。
 「大聖人門下掲示板」は愚鈍凡夫さんのレスにあるとおりです。愚鈍凡夫さんフォローありがとうございます。

 私のコミュニティーは、ほとんど手をつけておらず、来訪者もほとんどありません。地名さんのお役に立てる内容は、現在皆無です。
 念のためこちらです。→http://groups.msn.com/daihonnzannmyouhonnji
 現在は妙本寺ではなく、この春に訪れた中伊豆の實成寺の写真を掲載しています。

814空き缶:2004/04/23(金) 17:22

 犀角独歩さん、「日興跡条々事示書」については、故伊芸益道師も「日興跡条々事への復帰―大石寺法門研究序説―」の中で、「示書は第十四世主師の書とはいわれているけれども、確かなことはまだ検証したことはない。」と言葉を濁しています。

 やはりなにかありそうですね。

815地名:2004/04/23(金) 21:54


812 愚鈍凡夫さん

ありがとうございます。お礼まで。

816地名:2004/04/23(金) 21:55

813 空き缶さん

ありがとうございます。お礼まで。

817地名:2004/04/23(金) 22:38

724 独歩さん

>川澄師は亨師批判をしているか。

「阡陌陟記」川澄勲著、1991年、オレンジ出版をざっと見た感じでは、評価が相半ばというふうにしか私の力量では言えません。

例えばP520「今の法門の根本は亨師によって教義として編成された本仏論から始まっているようである。これが大正元年には戒壇の本尊の真蹟説にまで発展していったものと思う」もしかしたら応師と間違っているのかとも思いましたが。
刊行にあたってでは「大石寺では既に堀上人の立正での科外講義のために、本因・百六箇抄及び相伝ものについては殆ど二本線をもって消されている…」
一方で「亨師60年の成果である富士宗学全集は…」とも。

818地名:2004/04/23(金) 22:58
川澄師の上記書P211に板本尊について記述あるので参考まで

「…摺形木は逆さ文字を彫るが、板本尊はこれとは逆に紙本尊から板に、
しかも右文字をそのまま右文字に移している処に何かがありそうである。
文底本因の一つの表し方であろう。
そして、板本尊は、上代において宗祖・開山・有師に限られていた。
そこにも何かがありそうである。」

譲座本尊について、参考まで
P225「主師は譲座本尊といい、精師は御座替り本尊という。譲座の語には釈尊から上行、上行から日蓮ということも含めて歴代に無理なしに考えられるが、精師の御座替りには、前貫首から現貫首へという意味しか感ぜられない。主師の場合は法門という感じが強い…」
P226「この本尊の中央の南無…経を日蓮体具の妙法という。宗祖己心所具の妙法であり、向かって右が興師、隠居座、左が目師、嫡子分である…」

819愚鈍凡夫:2004/04/23(金) 23:28

横レス失礼します。
川澄勲氏に関する、こんなサイトがあります。

「川澄勲研究会」
http://homepage2.nifty.com/houmonken/index.htm

820犀角独歩:2004/04/24(土) 08:16

817 地名さん:

有り難うございます。
参考になりました。

821犀角独歩:2004/04/24(土) 09:19

814 空き缶さん:

有り難うございます。

何かわたしは思うのですけれど、たいがい非公開のものというのは「あやしい」ですね。隠しておかなければならない理由がある見ざるを得ません。

この前、とある日蓮系雑誌を眺めていたのですが、現存する複数の『立正安国論』真筆、そもそもあれは全部が全部、蓮師の真筆なのか?という疑問を率直に記されていました。
これは各山に格護される「日蓮聖人真筆本尊」と言われるものもしかり、山中師『本尊集目録』に載る所謂聖筆もしかりですよね。それぞれ由緒寺院の尊厳を傷つけないと言うお計らいが学的研究を妨げています。

わたしは興師古写本しか遺さないものは、たとえ禄内でも直ちに蓮師真筆と見る勇気は湧きません。まして、歴代の時師写本なんかはまるで信用する気が起きません。なおさらのこと、どうも富士系で言う文献考証は直ちに信頼することにおそれがあります。

もちろん、これはれんさんをご教示くださった示書の真偽を斜に見るということではなく、蓮師門下の学的・科学的考証は甘く徹底したところがないために真実が隠蔽されている嫌いを嘆くことです。

822れん:2004/04/24(土) 17:19
日興跡条々事示書は歴全に主師著作として掲載されているものの、御筆写真等は公開されておらず、故伊芸師の言葉の如くそのまま主師の著述と断定することは不可能ですね。譲座本尊示書も弥四郎曼陀羅の腰書の書写部分は公開されてないので、独歩さんの仰る通り、譲座本尊示書をもって弥四郎曼陀羅腰書の初出文献と断定することは現時点では不可能で残念ですね。さて時師写本ですが、御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等は、興風談所の研究により、時師筆と異なることが確認され、現在は上記文献等の時師筆は否定されています。m(__)m

823地名:2004/04/25(日) 01:32
811 独歩さん
>蓮師は、やはり戒壇義不説で没したと考えるべきなのでしょうね。
>興師については…三学無縁さんと話しましたら『本門弘通事』を挙げていた。
>また『三時弘経次第』
>これを興師戒壇義と採るべきか否か…悩む。
>むしろ像末弘教の違い…像法:迹面本裏、末法:本面迹裏の相違…比叡山迹門寺…富士山本門寺の勅許を求める範囲ではないのか。
>延長線に迹門戒壇と本門戒壇の対比は帰結する可能性あり。
>この点を考えるとき、わたしは蓮興二師に決定的な違いを感じる…。
>蓮師は実質的な権力者、幕府・北条(武家)に立正安国論を呈した…興師は天皇に申状を呈している点…。時代性の隔壁と言えばそれまでだが、コンセプト…の相違を感じる。

執行師「興門教学の研究」P97〜103で「…日興の著としては「三時弘経次第」と「安国論問答」の二著にすぎない」と記されています。
「…日興の確実なる著作または消息によって、その思想を考察してみよう。「三時弘経次第」には、正像末の三時について、弘経の次第を述べ、この三時を昔・迹・本に配当し、末法当今は迹門に基づく像法の時代と異なり、法華の本門に基づき、久成釈迦仏の法が、本化上行の垂迹としての日蓮聖人によって顕示される時であると見なしている。つまり、日蓮聖人を弘経の四依の立場で解するもので、仏勅を受けて釈尊の法を弘める導師とする。
この点、石山の教学が、釈尊と日蓮聖人との使命を異質的なものとして、末法にはその救世主としての久遠の本仏が出現することを予告(言)されたのが、釈尊であり、その予告に応じて出現されたのが、日蓮聖人であると見るのと根本的に異なるものである。」と。

824地名:2004/04/25(日) 02:15
続き
望月歓厚師の「日蓮宗学説史」のP71〜73で「(三)戒壇について」の項で「戒壇論が後世石山一派の特色ある主張となりしと雖も興師の当代にこの思想ありしやは研究の余地ありといふべし。」
「…「五人所破抄」(宗全二・82)…「門徒存知事」(宗全二・125)…「百六箇」(宗全二・25、29)…「産湯相承」(宗全二・33)…「身延相承」(宗全二・33)…是等は皆同一系統の思想にして、決して興師の教学と認むる能はず。
興師に於て延山離山当時の思想は「美作房書」(弘安7年)…「与波木井書」(正応元年)「…いずくにても聖人の御義を…」…決して富士を後世の夫の如く中心壇場と考えたるには非ず。「いずくにても」との言は明白にその旨を語るに非ずや。故に富士移転後も決して明白に富士会談を主張しおらず。「本門寺棟札」(宗全二・111)の如きも何等戒壇とするの根跡無し。「三大秘法口訣」裏書に「受持即受戒也、経云是名持戒…持経之処即戒壇也、法界道場云々」(宗全二・14)といふもの又之れが反証にあらずや。
故に興師は戒壇論に於て決して後世の所謂富士戒壇説を主張したるにあらざれども、又決して富士興隆の意志無かりしといふにはあらず。彼の「三時弘経次第」(宗全二・53)に比叡山に対比して富士山を列ねたるものの如きは此の一例なるべし。然れども、決して戒壇建立地とまでは主張せざりしならん。彼の延山に対する愛慕の言よりも将に然るべきを思ふ。若し一旦離山したるが故に悪言を放ってまでも富山を興隆せしめんとすとするが如きは、興師を傷けるものあり。併し、五一異見の一項に叡山戒壇踏不の義あり。伝説の如く昭師系が叡山戒壇を踏めりとせば、必ず興師は極力之を非難されしなるべし。これ他の教義上よりその然るべきを論断するを得るなり。」と述べられています。ご承知の事と存じますがご参考まで。

825地名:2004/04/25(日) 02:25
続き
上記の書のP76〜78で「富山戒壇論(富山中心論)…処破抄−門徒存知−産湯相承等…
…富山中心論が戒壇建立となり、王城移転を論ずるに至っては、興師のものにあらず。本尊も四士造立論より継子論となり、聖筆大曼荼羅論となるは、板本尊論に至る経路にして、又、興師のものと考へられず。…」と。ご参考まで。

826地名:2004/04/25(日) 02:47
「日興跡条々事」について「日興門流上代事典」P562では
「なお、大石寺日精「家中抄」の自筆正本「富士門家中見聞稿本零編」(研究教学書六・343)が本書に解釈を加える中に、
「日興宛身所給等者是板本尊事也。   今在当山也」と記されているが、同書(の)頭注等は日精正筆には
「…  …    是万年救護御本尊也。今在房州妙本寺也」と書かれていたのを、
大石寺第31代・日因が引線・抹消して
万年救護→板、
房州妙本寺→当山
と改字した事実を指摘している。」と記されています。ご参考まで。

827地名:2004/04/25(日) 10:58

稲田海素師の「日蓮聖人御遺文対照記」P115〜127には
「明治36年1月11日 富士大石寺(貫主大石日応上人)より御真蹟拝照せしむべきに付来山すべき旨の書状に接し…翌日江川家の本立寺を辞し、大石寺に詣る
直に塔中の寂日房を宿所に定められ、毎日8時より夜12時まで5日間録内外の御聖教37章を拝照し、外に録内外に漏れたる聖教編共に13章拝写せり…中略…

己上の御真蹟等を拝照せし時、監督の旁ら終始熱心に拝照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山滞在中は勿論、其己後も御遺文拝照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の読者に代て一言以て之を感謝す、
猶ほ此外に遺文三十の巻(四十二丁)の日朗上人より日興上人への御書の御真蹟、拝照せし上に参考として拝写せり、又當山には興師の御消息多々あり、其中少々拝照せり、堀師は全分之を拝写す、且つ其中に日頂上人の御消息一通あり、此も後日老僧集編纂の為めに拝写せり…中略…

同22日 當山の霊寶拝見も無事に結了せし故に、午後3時より寂日房を辞して西山に過ぎり…」ご参考まで。

828地名:2004/04/25(日) 19:15

821

山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると「大石寺の多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存されている。これらの殆どの文書の中に日亨上人は朱筆を点々とお入れになっておられる。」とありますね。
「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
堀ノート等の公開などしてくれるといいのですが…。

829犀角独歩:2004/04/26(月) 08:00

れんさん:

> 御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等…時師筆と異なる

やはりという感じです。
それにしても、いまだにこれらの旧説が漫然と信じられ続けているわけですね。
説の刷新は常に孤高の人たちが認識し、旧態依然とした過ちにしがみつく人々の顰蹙を跳ね返しながら、事実を定着させていかなければなりませんね。

830犀角独歩:2004/04/26(月) 08:26

地名さん:

いつもながら、有り難うございます。
たいへんに参考になりました。
富士事戒壇論も蓮興二師にその確たる具体性を見ないことはほぼ間違いのないことと認識しました。

> 山口範道…多宝蔵…「御書目録日記」…日時上人筆のが多宝蔵

この人は、種々の一般の僧俗が読めない古文書やら、亨師の字が読めることから、たいそうなことを言っているように見えますが、凝視すると顕師のご機嫌伺い・御身可愛さ護教で説を枉げ、学的襟度は丸でないですね。いわゆる宝の持ち腐れとはこのことであると思うわけです。石山の都合ような発見をつなぎ合わせて、皆に重宝がられても、不節操に縫い合わせただけではただの雑巾です。

時師説はれんさんがお示しくださった研究が事実なのであろうと認識します。
山口師のいい加減さを示す好例を呈示いただけ、ロムの皆さんには対象の便宜となったと拝察いたします。

> 多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存

これはしかし、石山所蔵のものという意味ではないでしょうね。
よく引きますが、布師が志師の詰問に窮して

「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記したわけですから、これを補完すべく各地から亨師が苦労して明治以降に集めた文書類という意味なのでしょうか。

> 堀ノート等の公開

同感です。望まれるところですね。
亨師が他山で語った資料なども、一読してみたいものだと常々思っている次第です。


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