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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

613おっくん:2004/04/03(土) 03:20
みなさま、はじめまして。普段は某落書き掲示板に出入りをしている法華講員です。

大御本尊が偽作であるという主張はよく聞きますが、こちらの皆さんのお話について、どうも
腑に落ちない点があります。伺ってもよろしいでしょうか?

こちらの掲示板諸氏は、伝日量上人筆「富士大石寺明細誌」を引用されることが多いみたい
ですが、日亨上人は富士宗学全集編集の際、この書について、

「  編者曰く量師の正本を見ず一二の転写本に依る誤字多けれども強いては改めず、
少しく訂正を加へ全文延べ書と為す、又此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども
写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要あるより、
全然誤謬に属する所には傍に○○点を附し、疑義に属する分には△△点を施して、
読者の注意を惹かんとす」

と、注意を喚起されています。この点を考慮されての引用・論述なのでしょうか?

614空き缶:2004/04/03(土) 11:47

 皆様お久しぶりです。
 議題より超脱線しますが、大石寺歴代の直筆本尊が売りに出されていました。
 ↓
 http://item.easyseek.net/item/21625644/

 ずいぶんといいお値段なんですね。

615犀角独歩:2004/04/03(土) 11:47

609 三学無縁さん:

> 完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではありませんね。

これはまったく同感です。明細誌は手放しに信頼できないところもありますが、しかし、堂宇・重宝の記述などは疑う理由はありません。「大石寺は日興上人已来、仏像はない」なんて現石山義を鵜呑みにしている人は全文をオミットするでしょうが。
そもそも石山では霑師は、志師の問に

「去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記しているわけです。これは1865年の石山火災を伝えるところで『富士年表』にも記載されるところです。ここで霑師は古記録がほとんど燃え文証を示せないと言っているわけです。ところが『富士年表』では、石蔵=大て石寺文書、石文=大石寺文書と載り、前者は200近く、後者も70ほど、挙げられているわけです。燃えなかったのか?と訝しがるしかありません。

> 条々事

この点については是非とも著作にまとめていただくことをお願いします。
わたしは三学無縁のお考えに深く賛同するところです。

> …削損…後加

これはまったく呆れ果てる所行です。
れんさんも指摘されていましたが、通称「紫宸殿本尊」と言われる漫荼羅も授与者部分を削り取ってわからなくし、紫宸殿本尊に仕立て上げてしまいました。天皇を騙そうというのですあれば、いい度胸と言うしかありません。

弥四郎漫荼羅にしても個人授与の紙幅を元に「本門戒壇本尊」を造ってしまうわけですから、これはもはや開いた口が塞がらないところがあります。

後加についても三学無縁さんは指摘されていましたね。
『諫暁八幡抄』、最初に発表した写真では「日蓮」としかなかったところを、次の写真では花押が描かれていたという話、実に吃驚しました。まあ、どんな言い訳を石山がしているのか知りませんが、花押まで書き足してしまったとしたら、もはやなにをかいわんやです。

近年、創価学会が寛師漫荼羅の授与者名を消して印刷して頒布を始めた時、さんざんと非難した石山でしたが、わたしが所属していた寺院では本堂板漫荼羅の授与者名「願主法華講総講頭池田大作」という名前の部分を埋めて黒く塗ってしまいました。わずか1日の作業でした。本堂畳の上に降ろされた漫荼羅に職人さんが作業していた光景を忘れません。いまから思えば、漆などの正式材料を使っていれば、1日2日で作業が終わるはずも、乾くはずもないわけです。つまり、速乾性の科学材と塗料を使っていたのでしょう。日蓮・仏のように扱えと指導する本堂漫荼羅に対してかくたる処置でした。

> この数日間、ホントに寝不足…責任をとって下さい(笑)。

ここ数年のわたしの仏教再考は、四半世紀、疑義と資料を呈示し続けてくれた三学無縁のお陰、詰めの終盤にいたったいま、多少の寝不足が我慢していただければなりませんよ(笑)

616犀角独歩:2004/04/03(土) 12:16

611 地名さん:

>目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。

三学無縁さんがご指摘されるとおり、完則師は石山真師の弟子。すなわち、石山僧と目されます。となると、弥四郎漫荼羅を正確に写したものであることになり、相貌を知るうえで重要な資料といえると思います。

>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で精道師が書いているとおり、弥四郎漫荼羅には「釈提桓因大王」が勧請されているというのに、これがありません。
釈提桓因はつまり帝釈でその対の梵天もない、天照八幡も勧請されていないうのは考えがたいところですが、完則師図は看過できないわけです。
この四つの諸尊は図顕が予想されていたところですから、驚かされました。

>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。

この諸尊配置も予想に反していました。

>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。

これまた、予想に反しています。また、弥四郎漫荼羅を写真で見ると「經」旁の下、「日」との間に数行が確認され、これが讃文と予想されます。それにもかかわらず、完則図では既述のとおり左右に分かれて写されているのです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

>讃文の「仏滅‘度’後」、

これも「仏滅後」であると言われるところですので、予想と反したわけです。

>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。

この「右」の一文字だけで三学無縁さんと小一時間も議論が続きました。
「右」というのは文字通りその文節の右を言うわけですから、通常は前文を予想させる冠頭語です。しかし、完則図で見る限り、右には何も文章は見当たらないわけです。もちろん、慣用的に「右〜」という書き出しは是ですが、しかし、造立縁由を刻んだ以上、この「右」の一字は実に不自然です。実際、石山歴代が伝える腰書文は「為〜」から始まるのであって、これら文献と一致しません。

詳しくは、これまた本にまとめようと思いますので、この辺までとさせてください。

617犀角独歩:2004/04/03(土) 12:18

613 おっくんさん:

はじめまして。ご指摘の点を知らない人はここの常連ではおりませんよ(笑)

618愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 14:34

おっくんさん、初めまして。こういう日亨師の御指南もありますよ。

「便に乗じて申し上げておく。富士宗学要集の凡例に書いておいたとおり、要集は教科書ではなく、信行聖典でもないから、もっぱら研究書であるから、中には薫猶相雑り、純雑交互し、正反同懸する返のものもあるから、最終篇には、書目にこれを判名せしめて幼学を謬らせぬようにするつもりであることを、ここに念記しておく。」(富士日興上人詳伝下巻)

まず、あり得ないことを排除するために「家中抄」「富士大石寺明細誌(宝冊)」を引用しているのです。

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり(家中抄)

「古伝に云わく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ聖人に献ず等云云」(富士大石寺明細誌)

これが歴史的事実であるとは誰も思わないでしょう。

619犀角独歩:2004/04/03(土) 16:31

愚鈍凡夫さん:

以下を補足させてください。

「御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之れを日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云」

でも戸田さんみたいに

「この肉が七百年のあいだに、だんだんだんだんふえて、ちょうど、まさに歯を包まんとしている。これは説明つきますか。しかも脈打っているのですよ、汗かいているのですよ、生きているのですよ。こういう不思議なものはありますか」

とまでは言っていません(大笑)

冨要は研究用資料ではあるけれど、反系はそれでも割愛されています。『緒言』に亨師は編纂の姿勢をしっかりと明記しています。

「本書は大部の富士宗学全集中の要篇及び其の他の古文書新文献の中より編集したものであるから時代に依り学匠に依り自然に醇雑相交わり正傍反のい三篇に大別すべきも、本集には成る可く反系の書は省いた。
 正系必ずしも完美ではなく傍系大いに依用すべきものもある」

さらに都合の悪いところは改竄、削除するところも少なからずあるわけです。
また、冨要における編纂は純粋に研究資料とは言えず、現石山教学に都合の悪いところは‘調整’されており、学的姿勢としては批判される点は多くあります。

三学無縁さんが、何冊かガリ版製本の冨要を貸してくださったのですが、一瞥して活字版との比較はちょっとした研究所が出来上がると思えました。

また、また冨要の記載寛師文と文段集(顕師編学会版)は記載内容が異なっています。このような事情は寛師文に限るものではないところに不快感が伴います。

以上のような実態と漫然と集団信仰に沈没し、そのアナウンスを墨守して飼い慣らされてきたが自身からの脱却がここ富士門流信徒の掲示板における各氏の研鑽であったとわたしは観察します。

巨大化した集団は、ご都合で資料を改竄添削し、ストーリーを創っています。その肺腑を鋭く切り開いて腸(はらわた)を引きずり出さなければ真実は見えません。

620犀角独歩:2004/04/04(日) 06:10

閑話、完則図に就き、三学無縁さんとの会話。少し書かせてもらいます。

ただし、これは真偽云々といった考証ではありません。フリートークといったところです。ですから、特に事実を論及する類のことではありません。それを前提としてお読みいただければと思います。

先に挙げたとおり、完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が勧請されていません。たぶん、これは作為的な諸尊配置であると思えます。
「原本は蓮師のものか」と問われれば、わたしは「違うだろう」と答えます。

「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」と問われれば、わたしは「なかった」と答えます。ですから、本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考えます。本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅はその意味で後世教学的な姿勢に属する意図が看取できます。その姿勢に基づき、戒壇本堂を建立するのに当たり、安置漫荼羅を制作しようとなったのでしょう。

この場合、堂塔伽藍は石山であれば北山を模し三堂が基本となるでしょう。本堂・垂迹堂・御影堂です。しかし、ここでは漫荼羅・御影一所に安置し、本堂・御影堂を一宇とすることが考えられました。これは「正慶二年発酉二月十三日」文書に見られるとおり、「本堂には御影を収めること」が定められているからではないのかとわたしは想像します。するとその造営は御影・本堂と垂迹堂の二宇ということになります。

伝興師の垂迹義は天照大神と見えますが、これに八幡大菩薩が加わることは八幡社が省略されるとき是となるでしょう。となれば、垂迹堂の勧請は天照八幡となります。

別に天照八幡を勧請した堂宇(宮)を造営するわけですから、御影堂(本堂)安置の漫荼羅にその勧請があれば、重複することになります。故に完則図の如く、天照八幡は勧請されていないのだろうか?というのが三学無縁さんと語り合ったところでした。

もう一つ。
戒壇建立はこの当時、すでに『三大秘法稟承事』を依拠としていたと思えます。想起されるのはこのなかに「大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」という一節があるわけです。帝釈は御筆漫荼羅では「釈提桓因」です。

梵天帝釈は戒壇建立後、ここを踏むというわけです。である故に、諸尊勧請から梵釈が意図的に省かれたのではないのか? そんな想像に花を咲かせて議論は盛り上がりました。

もちろん、これらは試論であって、なんら決定打でもありません。

ちなみに三学無縁さんが、図として、わたしに呈示してくださったのは『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は完則図のほか・日憲(当門諸流事)図、『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つでした。さて、このなかに如何なる真実が隠されているのか。議論は何時間と延々と続きました。

621地名:2004/04/04(日) 13:19

620について

>完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が
>勧請されていない。
>これは作為的な諸尊配置である。
>「原本は蓮師のものか」と問われれば「違うだろう」。

「作為的な諸尊配置」でありしかも「原本は日蓮のものではない」と思われる。


>「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」…「なかった」と答える。
>本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考える。

日蓮にその用意がない点。


>本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅は…後世教学的な姿勢に属する意図が看取。
>…安置漫荼羅を制作しようとなった…。

後世の作。
以上が重要なポイントだと思いました。

622犀角独歩:2004/04/04(日) 17:57

621 地名さん:

> 原本は日蓮のものではない

木下師は稲田師の説明を受けて弥四郎漫荼羅を「よせもの」と表現しているわけです。
一幅の御筆漫荼羅を原稿にして彫ったのではなく取り合わせたというわけです。
それで少なくとも二舗の御筆漫荼羅が使われているのだろうというわけです。
諸尊の文字・讃文・腰書は写真ではまったく確認できません。

仮に諸尊の字が蓮師のものであってもこれもまた「よせもの」の可能性はあります。
また、一舗の御筆漫荼羅から採ったとしても、取捨は出来ますし、足りなければ宝持ってくることも出来るわけでしょう。それでも揃わなければ、書き込んでも公開するわけではありませんからばれるわけもありません。

わたしは、諸尊はいちおう御筆漫荼羅のものを使っているのではないのかと想像しています。

623地名:2004/04/04(日) 18:35

622については

580で独歩さんが記された以下の内容を言われているわけですね。

>『板本尊偽作の研究』(再版)…を手に取ってみた。
>第8章『稲田素海老師の説』と紹介し、

>「板本尊は四つの部分に分けて考察すればよい。
>十界座配の部、日蓮花押の部、仏滅後二千二百余年と云う韻文の部、為現当二世造立如件云云の制作縁起
>この四つの部分に分けて考えればよい。
 
>第一の十界座配は勿論、原本は御真筆、
>第二の日蓮花押も原本は真筆であるが、第一の十界原本とは違う。他の日蓮曼荼羅の日蓮花押を模写したものだ。

>即ち、十界座配の原本と日蓮花押とは模写した曼荼羅が異なるのだ。
>宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。

>第三の仏滅後二千二百余年と云う韻文と、
>第四の為現当二世造立如件云云の制作縁起は、
>宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である」(P38)

>こんな造りの板漫荼羅を編著者・木下師は香具師の「よせもの」と言っている…。

>木下師は老師の説を受けて、原本真筆を、十回座配を弘安2年11月増師授与漫荼羅・
>日蓮花押を所謂紫宸殿漫荼羅のものと勘ぐっています。しかし、これは少なくても後者は違います。

>あと木下師が弘安2年2月、小泉久遠寺控(うつろ)字漫荼羅に着目していました。
>…板漫荼羅の題目は弘安2年の「經」の字体と一致しないのは言うまでもないので、
>なぜ、この年代に師が注目するのか…。

かってに抜粋してすみません。

624犀角独歩:2004/04/04(日) 18:47

> 623 地名さん:

有り難うございます。仰るとおりです。

625地名:2004/04/04(日) 20:16

独歩さん

620の
>三学無縁さんが、図として呈示してくださった
>『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は

>完則図のほか・
>日憲(当門諸流事)図、
>『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、
>『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つ。

>このなかに如何なる真実が隠されているのか。


独歩さんの「仏教再考」の「所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽について」を
熟読してみます。

柳沢師の「石山本尊の研究」しか所持していませんが、

同書P38-39の戒壇本尊図は、釈提桓因大王等が書かれています。

それに対して、石山高僧と見られる完則師の図にはないのはなぜか?

626愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 20:37

横レス失礼します。
もっとも単純で合理的な解釈はどうでしょうか。
すなわち、「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」は複数存在したと。さらに言えば、今の奉安堂に安置されているのは初代ではないと。

627犀角独歩:2004/04/05(月) 04:46

地名さん:

拙文、ご高覧賜れるとのこと、感謝申し上げます。
この文は、もっとも重要な点は省略しています。
その点はご理解ください。

愚鈍凡夫さん:

さすが。大胆発言ですね。
完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。
でも、どうでしょうか。どう思われます?

628地名:2004/04/05(月) 06:43

627について

>完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
>なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

日蓮花押でなければ確かにそうですね。
しかしなぜ、奉行所等へ届け出る公式文書に虚偽報告したのか。

>もっとも重要な点は省略。
>その点は理解を。

その点はよく理解していますので大丈夫です。



でも

629愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 09:48

>>627:犀角独歩さん、根がいい加減なものですから、御免なさい。
m(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・

> 完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
> なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

完則師の現物を知りませんから仮定の話ですが、
コピーであると印象づける必要があったと言うことでしょうか(何のために?)。それとも諸尊の座配を写したのであれば、漫荼羅書写の慣例に従って「日蓮 在御判」としたのでしょうか。他の可能性もあるような気がしますが。

①みんなが本当のことを言っている。
②誰かが嘘を言っている。
③みんなが嘘を言っている。
どれでしょうね。

630犀角独歩:2004/04/05(月) 10:29

629 愚鈍凡夫さん:

ここなんですよ、ポイントは。
柳沢本は不鮮明な写真を大きく伸ばして類推したそうで手放しに信頼できないが捨てがたい。木下本は出所が不明記。完則本、日憲本は坊さんが信仰面から写したものであるから、真正直、あるいは却って信仰を守る面から敢えて嘘書いたりもありも考慮すべきと思っています。

話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、この差は何であるかご承知でしょうか?

631犀角独歩:2004/04/05(月) 10:41

地名さん:

虚偽の報告をしたと限ったわけではないのですが、その可能性も視野に入れようということです。
それにしても、目録になぜわざわざ相貌図まで付けたのか。壇林提出書類ならではのことでしょうか。
今で言えば、寺から大学の仏教学部研究室への提出書類のようなものであると考えられるわけです。
とすれば、正確な報告と見るべきと思う点はあるのですが。

632愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 11:06

要するに、どれも決め手に欠けるということですね。

> 話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、この差は何であるかご承知でしょうか?

小生は、古文書の知識は持ち合わせていないので分かりません。
ただ、原本からの写本、さらに、写本からの写しといった資料としての信頼度の違いかなと思いますが。

633犀角独歩:2004/04/05(月) 13:59

632 愚鈍凡夫さん:

愚鈍凡夫さん、また地名さんがこの考証に加わってくれることを有り難く思います。
多くの皆さんに種々の可能性を考える機会を与えることにもその意義があります。

> どれも決め手に欠ける

いや、そうとも言えません。
柳沢本は不鮮明な写真からの解析、木下本はその出所がわからず。しかし、完則図・憲師図は写した座配そのものの証憑性は高いと個人的には思っています。

ただし、身替が造ったことが度々取り沙汰される石山のことですから、写されたものが身替のほうであった可能性はあるのだろうかと考えてはいます。

仮に拝観された弥四郎漫荼羅が身替のほうであったとしたら、これは信仰上許されることなのだろうかという疑問がわたしにはあります。

また、たとえば近年、宝蔵から奉安殿、正本堂、奉安殿、奉安堂へと次々と安置場所を遷された弥四郎漫荼羅のすべての同一のものであったのか、それとも複数体であったのか。また秘かに言われるように実は体内仏がありそちらが本体であるとか、その実否はわかりませんが、しかし、「身替本尊」の存在は石山も認めていることです。
身替は造ったということはそれを替わりに安置していた時期があったということでしょう。お参りをするほうは身替として知って拝んだのか、それとも本物であると思って拝んだのか。しかし、拝観者が身替だと最初から知っていたら、そもそも身替の意味はありません。けれど、身替を拝ませることがそもそも信仰上許されることかどうか。なおさらに、蓮師真筆でないことを承知したうえでその奉安堂宇の供養を募ることが道義的に許されるかどうか、わたしはこの点を「宗教批判の原理」から考えているわけです。

弥四郎漫荼羅を考えるうえで、こんな思考視野の規模もあるということですね。

634犀角独歩:2004/04/05(月) 16:14

―633からつづく―

この身替ということについて、敢えて脱線します。
もう随分、前のことなのですが、わたしがまだ学会員であった頃、『創価学会重宝展』が開催されたことがありました。四半世紀も前のことになるかも知れません。

そこでいわゆる学会の重宝と言われるものが展示されていました。たとえば戸田さんが獄中で使った牛乳瓶の蓋で作った数珠とか、池田さんが若いときに使った割れた鏡(私の履歴書に書かれた感動の品)なんかが陳列されてあったわけです。並んで、池田さんの会長就任時の胴上げ写真なんかもありました。

けっこう感動して帰ってきたわけですが、とある先輩が「あれ、レプリカなんだ」といとも容易く言ってのけました。わたしは吃驚して「そんなことないでしょう」と反論した。すると「あっちこっちで同時開催するわけだから、しようがないよ」と、こうでした。わたしが眉をひそめていると、追い打ちをかけるように「あそこに飾ってあった写真、あれ修正してあるんだよ」と。「どういう意味ですか」と訊ねると「池田先生が嫌いな渡辺一郎を消してあるんだ」と言います。「そんな馬鹿な」と吐き捨てるように言うと、「じゃあ、これを見ろよ」と2枚の写真を本棚から引っ張り出しました。全く同じと見えた写真、片方からはたしかに渡辺一郎さんが消えていました。学会に疑問を抱いた瞬間でした。

昨今、顕師の芸者写真をコンピュータ処理して出して顰蹙を買った学会であったわけですが、写真の改竄はずいぶんと前から行われていたわけです。では、学会が間違っているのかと言えば、先にも話題に出した『大石寺重宝展』、ここで陳列された品々もレプリカであると警備に当たっていた青年が教えてくれたものでした。この点に関しては、わたしは実否を確認したわけではありませんが、さもやありなんといったところでしょう。

美術館、博物館では「複製」は必ず記述するのが道義です。まあ、こんなことを宗教団体に望む方が間違っているのかも知れませんが、わたしは判然としないものがあります。

635愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 18:11

犀角独歩さん、どうも。

ひょっとして、
「戒壇之本尊」って、3つに分解できるような構造になってませんか。
台座の上に半丸太の平面が正面に来るように取り付けて、そこに板漫荼羅を貼り付けるといったような・・・・・。
この構造ならメンテナンスも簡単ですし、「身替わり」とやらも、半丸太である必要もないわけですから。
犀角独歩さんも、このことがいいたかったりして・・・・・。 (-_-;)
考えすぎだろうか・・・・・。

636犀角独歩:2004/04/05(月) 22:06

635 愚鈍凡夫さん:

これは可能性としては「有り」ではないでしょうか。
ただ、わたしはいちおう証拠主義者(笑)ですから、これが云いたいことと言うわけではありません。

なお、裏側に何かありとすれば、さらにパーツは細分化?することになりますでしょうか。

637地名:2004/04/05(月) 22:51

独歩さん

609の三学無縁さんの以下の内容がかなり重要ですね。

>完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではない。
>現石山が言う所の重宝との異動も然り。

>文書の執筆者名が現在の説と異なっていたり、
>有ったはずの真筆マンダラが現在では無くなっていたり、と。

>要山系での条々事の引用は、亨師の説を用いれば文章的には案文つまり草本となる。
>しかし、肝心の正本の全貌が見えません。
>日精の引用も案文ということになります。

>四文字削損された跡があるものが正本だとすると、
>写真で公表されているものということになりますが、
>実はこれも亨師の説からすれば正本ではありえない、ということになる。

>条々事も紫宸殿マンダラも、さらには日禅マンダラも、文字の削損がある。
>しかもマンダラの文字削損は授与書きもしくは脇書・添書部分。

>石山にとって都合が悪いから文字が削損された、
>これ以外に考えようがあるでしょうか。

>文字削損とは逆に後加もありました、戦後のことですが。
>石山の重宝、というよりも日蓮門下の重宝で。

>…はたして石山に蓮師や興師に対する信仰・尊崇・敬慕があるのでしょうか。

638地名:2004/04/05(月) 22:58

独歩さん

以下について、可能な範囲でもう少し解説してください。

629愚鈍凡夫さんのコメント

> 完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
> なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。
完則師の現物を知りませんから仮定の話ですが、
コピーであると印象づける必要があったと言うことでしょうか(何のために?)。それとも諸尊の座配を写したのであれば、漫荼羅書写の慣例に従って「日蓮 在御判」としたのでしょうか。他の可能性もあるような気がしますが。

①みんなが本当のことを言っている。
②誰かが嘘を言っている。
③みんなが嘘を言っている。
どれでしょうね。


630犀角独歩さんのコメント

ここなんですよ、ポイントは。
1.柳沢本は不鮮明な写真を大きく伸ばして類推したそうで手放しに信頼できないが捨てがたい。
2.木下本は出所が不明記。

3.完則本、4.日憲本は、坊さんが信仰面から写したものであるから、真正直、
あるいは却って信仰を守る面から敢えて嘘書いたりもあり
考慮すべきと思っています。


>話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と
>「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、
>この差は何であるかご承知でしょうか?

この差が何か教えて下さい。

639愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 23:03

こんな写真を撮るのはS学会員だと思いますが、寂しいものがありますね。
わざとらしく、写真に写っている首題を黒く塗りつぶしているところがいかがわしい。

「【7】下村八幡宮 第52世日霑、第62世日恭本尊2体同座!」
http://fujinomiyaboy.fc2web.com/shiryousitu_houbou_simomura_index.htm

640地名:2004/04/05(月) 23:04

633の独歩さん

>柳沢本は不鮮明な写真からの解析、
>木下本はその出所がわからず。

>しかし、完則図・憲師図は写した座配そのものの証憑性は高いと
>個人的には思っています。

ということは、憲師図についてはいままでコメントされていないため不明ですが、
完則図は座配が異常のような気がしましたが、この方が信憑性が高いのですか。

ただし、身替が造ったことが度々取り沙汰される石山のことですから、写されたものが身替のほうであった可能性はあるのだろうかと考えてはいます。

641地名:2004/04/05(月) 23:28

独歩さん

楠山師の「大石寺本尊真偽問答」では弥四郎漫荼羅について、
「勧請の諸尊については、大石寺一門の妙興寺日憲師の記録によると、

「上段が釈迦・多宝・四菩薩、
次段が文殊・薬王・弥勒・舎利弗・迦葉・大梵・釈提・大日・大月・明星、
次段が天台・章安・転輪・阿闍世・提婆、
次段が鬼子母・十女・天照・八幡、
その下に日蓮花押(御判)」

柳沢師の本では、「マイクロ写真にて「AO版」(畳1枚程の大きさ)まで拡大して検証した結果、
上記が章安に対し、妙楽の違い程度とほぼ同様のような気がします。

642地名:2004/04/05(月) 23:34

独歩さん

>「板本尊偽作の研究」(再版)木下日順師
  第8章『稲田素海老師の説』

この書籍はどのあたりで手に入る、あるいは閲覧できるでしょうか。

643おっくん:2004/04/06(火) 02:48
みなさま、こんばんは。
愚鈍凡夫さま、犀角独歩さま、ご丁寧なお返事ありがとうございます。
べつに、いちゃもんをつける訳でもなかったのですが…。お許しください。

>>618
>これが歴史的事実であるとは誰も思わないでしょう。

私もそう思います。また、昔ならいざしらず、今の法華講員もそう思っていることでしょう。
ですから、なんでまたそういった引用をされるのか不思議に思ったわけです。

あと、しろうとの疑問なんですが、
犀角独歩さまの『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について 』HPにおいて

>板漫荼羅とは紙筆漫荼羅を下絵として彫刻したものを言う。

とおっしゃっておりますが、御本紙を板にお写ししたのではなく、板に直接御染筆という
可能性はないのでしょうか?
しろうとの疑問ではありますが、よろしくご教示の程おねがいします。いろいろ聞いてすいません。

644犀角独歩:2004/04/06(火) 05:21

地名さん:

>> 花押…「判」「御判」「在御判」
> この差が何か教えて下さい。

この点は実はわたし自身、よくわからないのです。
祖書写本は「日蓮花押」となっているのが一般的ですが、古文書では一貫していません。亨師は『化儀抄註解』で「判形」という語彙で言っています。これはたぶん、花押を指すものと思われます。
しかし、「判」という場合は文字通り押印である場合も考えられます。もちろん、日蓮に押印は考えがたいのですが、他の古文書類ではあり得ないというわけでもないでしょう。
また、漫荼羅書写の様式は、よくれんさんがご指摘くださるとおり、実は一貫していないのであって、「日蓮」「日蓮聖人」「日蓮御判」「日蓮在御判」と区々です。
特に上代の書写漫荼羅ではこの傾向は顕著なのです。そこで完則図では「在御判」、憲師図では「御判」の差があるとき、原図を正確に写した場合、それぞれそのように彫ってあった可能性は看過できないであろうと思うわけです。もちろん、単に花押の所在を「判」「御判」「在御判」とすることももちろんあり得ます。しかし、この点は確認できません。それ故、疑問を呈したわけです。

> 日憲師の記録…
> 柳沢師…ほぼ同様

もう少しよくご覧になってみてください。

>>「板本尊偽作の研究」(再版)木下日順師
> …どのあたりで手に入る、あるいは閲覧

これはどうでしょうか。
裏表紙奥付では

埼玉県飯能局区内
振替東京144698番
本門社

と記されるばかりです。神田の古書店、立正大学図書館、佼成図書館にあるかどうか。
木下師は既に鬼籍には入られたとのことでした。
ガリ版刷りA444頁の小冊子ですが、しかし、一読の価値はあります。

645犀角独歩:2004/04/06(火) 05:57

643 おっくんさん:

> 御本紙を板にお写ししたのではなく、板に直接御染筆という
> 可能性はないのでしょうか

わたしはこの可能性を達師の説法自体が否定していると思うわけです。
同師は反丸太である弥四郎漫荼羅は「まさかりみたいな手斧で削られておる」と言っているわけです。つまり今の鉋のように板面を平滑に処理できないという意味でしょう。
蓮師は紙面を木槌で叩いて平滑に整え、そこに一挙に筆を滑らせるように図させれることを常にしたのです。これは桐谷征一師が御筆漫荼羅を科学的視点から観察記すところです(いま大曼荼羅の世界を考える)

そんな拘りのある蓮師がささくれ立ち一様に整わない板面に墨を置かれるでしょうか。また、仮にそうされたとしても、あそこまで整って書せるものでしょうか。わたしは不可能だと思えます。

紙幅原本は亨師の言であるというのは七師外道さんのご指摘でした。(参:84)
そして、この紙幅原本は北山で盗難に遭って紛失したとも言います。

たぶん、この話は二つの話が織り混ざっています。一つは紙幅が事実である、一つは盗難に遭った御筆漫荼羅、これらは別のものであるとわたしは考えます。何故ならば、興師が授与された漫荼羅には「日興上人」「二千二百三十余年」と記される際だった特徴があったと思われるからです。しかし、弥四郎漫荼羅はこの条件を満たしていないからです。

もちろん、本質的な問題はもっと根深いところにあります。すなわち弥四郎漫荼羅の造立話は文献で見る限り精師以前には遡れないという事実です。なにより、「為造立…本門戒壇願主弥四郎…敬白」という腰書は欄外に書かれているのであり、漫荼羅相貌とは何の関係もない彫刻時の制作者の縁由を刻んだものです。つまり、仮にこの原本が蓮師の御筆であったとしても本門戒壇とも、弥四郎国重ともまったく関係がないということです。なお、「弘安二年十月十二日」という日付はこの縁由のあとに記されたもので、通常、蓮師が日付干支を記される相貌右下「大増長天王」横という定位置から外れたうえ、「太才己卯」を失しています。つまり、この日付と漫荼羅原本はなんら関係がなく、後世の勝手な関連づけであることが窺えます。

なお、わたしが板漫荼羅を模刻と言ったのは、仮に直接、板に書いたとしても、それを彫ったのは‘伝説では’中老法師であるというわけですから、蓮師ではないので、ご本人の作とは言えないという意味です。基の字は蓮師であっても、これは法師作と言うことになります。「うまい彫刻だ」と話だと言うことです。

646犀角独歩:2004/04/06(火) 05:59

【645の補足】

桐谷師が言うのは紙面を木槌で叩いて書された有様ばかりで、その前文の達師の言とは関連はありません。

647地名:2004/04/06(火) 06:38

独歩さん

完則師:『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。
>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。
>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。
>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。
>腰書は「右為現当二世…」と記されている。
>讃文の「仏滅‘度’後」、
>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。


大石寺一門の妙興寺日憲師の記録によると、
上段が釈迦・多宝・四菩薩、
次段が文殊・薬王・弥勒・舎利弗・迦葉・大梵・釈提・大日・大月・明星、
次段が天台・章安・転輪・阿闍世・提婆、
次段が鬼子母・十女・天照・八幡、
その下に日蓮花押(御判)


柳沢師
上段:釈迦・多宝・四菩薩
次段:普賢・文殊・薬王・弥勒・舎利ほつ・迦葉・釈提桓因大王・大梵天・大月・第六天・大明星・大日
次段:十羅刹・鬼子母神・阿じゃせ王・提婆・転輪・大龍王・阿修羅
次段:天照・八幡
以下略

以上ですが、いかがでしょうか。

648犀角独歩:2004/04/06(火) 07:46

647 地名さん:

『大石寺本尊真偽問答』は取り敢えず置いてください。
窪田本(憲師図)と柳沢本の比較は以下のとおりです。

諸尊_|日|柳
───┼─┼─
釈迦_|○|○
多宝_|○|○
上行_|○|○
浄行_|○|○
無辺行|○|○
安立_|○|○
文殊_|○|○
普賢_|○|○
弥勒_|○|○
薬王_|○|○
舎利弗|○|○
迦葉_|○|○
大六_|×|○
大日_|○|○
大月_|○|○
大梵_|○|○
明星_|○|○
釈提_|○|○
鬼子母|○|○
十羅刹|○|○
転輪_|○|○
阿闍世|○|○
阿修羅|×|○
龍王_|×|○
龍樹_|×|○
天台_|○|○
章安_|○|×
妙楽_|×|○
伝教_|○|○
提婆_|○|○
天照_|○|○
八幡_|○|○

649愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 12:12

今、おや〜っと思ってパソコンで検索してみました。

蓮祖漫荼羅で妙楽大師が勧請されている漫荼羅は34舗ありますが、章安大師が勧請されているのは2舗しかありません。弘安元年(1278)8月の№53、№54です。
関係ないかもしれませんが、章安大師が勧請されている漫荼羅には妙楽大師が勧請されています。

650れん:2004/04/06(火) 18:50
愚鈍凡夫さん。参考資料ですが、寺尾英智師著「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(雄山閣出版)に掲載された千葉県法華経寺曽存の蓮師マンダラの日等師臨写本を見ますと、法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日のマンダラには章安大師が記されています。ちなみに興師書写十界円具のマンダラにはほとんどの場合、龍樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教の六師が記されております。右ご参考まで。m(__)m

651犀角独歩:2004/04/06(火) 19:38

れんさん:

横から質問させてください。

> 興師書写…龍樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教の六師が記…

これはある面、興師書写の特色といってもよいでしょうか。

652愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 20:10

れんさん、有り難うございます。
蓮祖は、弘安年間には諸尊の座配のイメージが完全に固まっていたと思います。
人師・論師の段は、
「天台大師→伝教大師」というパターンと、
「天台大師→妙楽大師→伝教大師」との2つのパターンがあったと思うのです。
したがって、「章安大師」がこのパターンの中に入る場合、必ず「天台→妙楽→章安→伝教」というパターンになると思うのです。
だから、れんさんがご教示下さった「法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日の漫荼羅」には「妙楽大師」が勧請さていなければならないと思うのですが(3年ほどの違いがありますが)、どうでしょうか。
お手数ですが、ご教示願えれば幸いです。 m(_ _)m

653れん:2004/04/06(火) 20:22
犀角独歩さん。興師書写…龍樹・天親・天台・妙楽・伝教の六師が記…これはある面・興師の特色…。そうですね。現存する蓮師マンダラに興師の六師勧請と同じ座配のものは無いのですが、強いて言えば、蓮師弘安元年八月のマンダラと弘安三年以降の蓮師十界円具マンダラを融合させているのが興師書写十界円具マンダラの特徴といえますから、犀角独歩さんの仰る通り、六師を記すのは、興師書写の特色と言ってよいと思います。m(__)m

654愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 20:24

訂正です。流れからいえば、
「天台→妙楽→章安→伝教」ではなく、
「天台→章安→妙楽→伝教」が正解ですね。
(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ m(_ _;)m ゴメン!!

655れん:2004/04/06(火) 20:33
愚鈍凡夫さん。法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日の蓮師マンダラ(日等師臨写本)には首題の経字の右に章安・龍樹・天台が、経字の左に天親・妙楽・伝教が記されています。私も愚鈍凡夫さんのご見解に賛同いたします。右ご参考まで。

656地名:2004/04/06(火) 21:13

645 独歩さん

>本質的な問題はもっと根深いところにあります。
>すなわち弥四郎漫荼羅の造立話は文献で見る限り精師以前には遡れないという事実です。

通常言われているのは、有師ではないのかと言う訳です。

しかし「造立話は文献で見る限り「精師」以前には遡れないという「事実」」
と言われることについてもう少し説明願えますか。

>「為造立…本門戒壇願主弥四郎…敬白」という腰書は欄外に書かれているのであり、
>漫荼羅相貌とは何の関係もない彫刻時の制作者の縁由を刻んだものです。

欄外ですか。

>つまり、仮にこの原本が蓮師の御筆であったとしても
>本門戒壇とも、弥四郎国重ともまったく関係がないということです。

>「弘安二年十月十二日」という日付はこの縁由のあとに記されたもので、
>通常、蓮師が日付干支を記される相貌右下「大増長天王」横という定位置から外れたうえ、
>「太才己卯」を失しています。

定位置からも外れているわけですか。

>つまり、この日付と漫荼羅原本はなんら関係がなく、
>後世の勝手な関連づけであることが窺えます。

657愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 21:33

れんさん、有り難うございます。
違ってたら、

「体は大人で、頭は子供。迷探偵御難か!お前は!!」
っていわれそうでした。

658犀角独歩:2004/04/06(火) 23:29

れんさん:

有り難うございます。実に参考になりました。

愚鈍凡夫さん:

> 天台→妙楽→章安→伝教

これはわたしには理解できません。天台・章安・妙楽・伝教が時系列ですね。

> 地名さん:

> 有師ではないのか…
> しかし「造立話は文献で見る限り「精師」以前には遡れない

この点なのですが、要はこの記事を伝える浄師の本資料に当たれないと言うことです。
有師彫刻説は宝冊、誑惑顕本書にたしかに載りますが、両方とも浄師に係ります。
では、この浄師の言の正本は?と問うとその原本に当たれません。ですから、本人直筆資料としては精師より遡れないと言う意味です。

その他リフレインをしていただいた部分はまさにわたしの主張です。

659愚鈍凡夫:2004/04/07(水) 08:00

皆さんお早うございます。

犀角独歩さん、
結果が早く知りたくて文章をまとめずにそのまま書いてしまったので、分かりにくい表現になりました。

人は、同じ作業を何年も続けると、作業手順や構図などがパターン化してくるものです。このことは、蓮祖の漫荼羅図顕にもいえるのではないか。と思いました。。

このことを当てはめてみれば、例えば、漫荼羅に勧請されている人師ということで天台宗の流れから言うと、
「天台→章安→妙楽→伝教」ですが、
蓮祖には勧請する諸尊に対し、序列があったように思うのです。要するに、図顕する諸尊の数によって勧請する、しないといったルールがあったように思うのです。
このことから天台宗の人師を蓮祖の序列と思われる順番に並べ直すと、
「天台→伝教→妙楽→章安」ということになると思います。
「天台・伝教」はセットになっていますが、「妙楽・章安」に関しては、3人勧請する場合は「妙楽」、4人の場合は「妙楽・章安」共に勧請するということだと思います。
したがって、「章安」が勧請されているならば、必ず「妙楽」も勧請されているはずだと確信するに至りました。
それで、れんさんが「章安」が勧請されている漫荼羅の情報を下さったので、その確認をれんさんにお願いした次第です。

660犀角独歩:2004/04/07(水) 08:44

659 愚鈍凡夫さん:

なるほど。納得です。

661犀角独歩:2004/04/07(水) 11:02

れんさん、ご賢察をお聞かせください。
先に興師書写漫荼羅に独自の特徴ありとのご教示をいただきました。
では、興師は独自の書写様式を確立したのかということが問題になります。わたしは手許にあった蓮師漫荼羅は限られており、その御筆に準じたことは一つの要素と想像するのですが。この点は如何でしょうか。また、どのような理由で独自性がしょうじたとお考えであるかご教示願えませんでしょうか。

662れん:2004/04/07(水) 19:39
犀角独歩さん。興師初期のマンダラは、弘安元年八月日の蓮師マンダラを主に書写しているので、興師の手許に弘安元年八月のマンダラがあった可能性があります。興師書写十界円具マンダラのベースは弘安元年八月の蓮師マンダラであると思います。ただし富谷日震師の日興上人正傳には興師は弘安五年八月三十日、興師へ授与の蓮師マンダラを主に書写したとありますので、興師へ授与の弘安五年八月三十日の蓮師マンダラは六師勧請であったかもしれません。興師書写のベースは弘安元年・五年の蓮師マンダラで案外独自性は無いかもしれません。右ご参考まで。

663犀角独歩:2004/04/07(水) 19:42

れんさん、有り難うございます。
大変に参考になりました。

664地名:2004/04/07(水) 22:32

木下日順師の本では、有師より少し前に偽作されたのではないかと思うと。
一説には時師の偽作と言われていると。

小泉久遠寺の「うつろじ」の曼荼羅・弘安二年二月・宗祖御真筆
この曼荼羅の十界の座配が全部墨(文字)の部分がくり抜かれている。

そして、稲田師から四つの部分に分けて考察すればよいと聞いたと。
日蓮花押は紫宸殿御本尊だと思うと。

なるほどなあと思いました。
感心させられたのは客観的に論じていることです。

たとえ偽作であっても御利益ありと最後に述べられている点は
師のおおらかさを感じました。

以上はあくまで感想です。

665地名:2004/04/07(水) 22:55

日蓮の花押について、
大黒喜道師の「弘安元年宗祖花押の変化をめぐって」
(「興風」第10号・平成7年1月発行・興風談所)

を読み始めています。
佐藤進一氏の好著「花押を読む」の啓発によっていると。

書かれてから10年近く経っているので大黒師の論も
さらに深化していると思いますが、少しずつ読み進めていきます。

山川智応師の「日蓮聖人の花押に就いての研究」昭和8年
鈴木一成師の研究などにも言及。

666犀角独歩:2004/04/07(水) 23:03

664 地名さん:

稲田老師、また木下師の類推はなかなか興味深いところはありますが、残念ながら、外れています。伝「紫宸殿本尊」は弥四郎漫荼羅の素材になっておらず、その身替の素材になっているばかりであるというのが、わたしの分析です。

667地名:2004/04/07(水) 23:22

日蓮は身延で何を拝んでいたのでしょうか。

鎌倉
「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置し…」「神国王御書」建治元年

身延
「案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ
合掌して…」「忘持経事」建治二年

これは釈尊一体仏か漫荼羅か。

弘安二年「兵衛志殿女房御返事」
「…法華経の御宝前に申し上げて候」

これは「弥四郎漫荼羅」か釈尊一体仏(法華経をその前に置かれる)か。

弘安二年以降お弟子檀那は何を拝していたのか。
石山は板漫荼羅というのですが。

668地名:2004/04/07(水) 23:38

独歩さん

666について

>稲田老師、木下師の類推…残念ながら、外れている。

そうですね。独歩さんは既にこれらも確認された上で「一読」をと言われたわけですから。


>伝「紫宸殿本尊」は弥四郎漫荼羅の素材になっておらず、
その身替の素材になっているばかりであるというのが、わたしの分析です。

なるほど、そうですか。
勉強になりました。

669地名:2004/04/08(木) 00:06

615で独歩さんは以下のように述べられています。

>れんさんも指摘されていが、通称「紫宸殿本尊」と言われる漫荼羅も
>授与者部分を削り取ってわからなくし、
>紫宸殿本尊に仕立て上げてしまいました。

>弥四郎漫荼羅にしても個人授与の紙幅を元に「本門戒壇本尊」を
>造ってしまうわけですから、これはもはや開いた口が塞がらない…。

670地名:2004/04/08(木) 01:02

独歩さん

ざっとですが再度今までに記されてきたところを拝読してみました。
有師でもなく時師でもない(やや広く取れば道師から影師)とすると、

精師なのでしょうか。1632年から1645年にかけて二度にわたり登座されています。
そして、御影堂に戒壇本尊をおまつりされた。

671犀角独歩:2004/04/08(木) 06:36

地名さん:

> 日蓮は身延で何を拝んでいた…

仰せのとおり、釈迦一体仏であるとわたしは思います。
蓮師の在世を考えるときに、わたしたちは現在の奉安を無意識に指示していると思うわけです。つまり、蓮師は宗祖なのであるから、身延の草庵は寺院であり部屋は本堂であり、中心は須弥壇となっていたはずだという勝手な想像です。わたしはこの固定観念がすべての判断をも惑わしていると思うわけです。蓮師の住んでいたのは文字通りの草庵であって、仮の庵です。狭い部屋に仮初めに台を設け、そこに行脚、流罪に随身していた仏を置き、註法華経を供えた。そんな風景であったのでないでしょうか。

> 670

わたしは弥四郎漫荼羅がいつのころに造られたのかと問われれば、やはり精師ではないのかと思うわけです。ただし、これは一時に完成したとは限らないとも思います。当初板漫荼羅が彫られた。これはれんさん、空き缶さんがお考えになるように時師まで遡れるかも知れませんし、伝・浄師言の如く有師かも知れません。しかし、その後、精師の時代に腰書を記した台座に据えられ、ここにはじめて本門戒壇本尊とされた可能性はあるでしょう。また、その逆もあり得ると考えることもできます。

量師、因師、完則師、憲師、誑惑顕本書いずれの資料も「板」であると書き残しています。霑師ですら「板本尊」というわけです。それが突如、達師に限り「半丸太」であるというわけです。
中世の資料が「厚二寸二分」というのは石山の一方的な通知をそのまま記したのか・実際に計測したのか、これはわかりません。しかし、量・因・霑師は石山の歴代です。実際に弥四郎漫荼羅に触れることができる人であったのでしょう。その人らが「板」であると書くのですから、字句どおり、少なくとも当時は板であったのではないでしょうか。では半丸太に仕立てられたのはここ100年のことなのか?、これはまったく想像の域を出ないために、なんとも言えません。ただただ達師の言を不可思議と思うばかりです。しかし、幕末から明治、廃仏毀釈という未曾有の弾圧を経た日本仏教界の中にたしかに石山も入っているのでしょう。このときに何かが起こったというのはよく語られる談話でしょう。

通り一遍に弘安2年から現在まであの漫荼羅が同じ形状であったという固定観念が事実を見つめる視点を枉げているのかも知れません。

672愚鈍凡夫:2004/04/08(木) 11:43

横レス失礼します。
日達師の「御影堂に"戒壇之本尊"を安置していた」という言葉の意味を考えていたのですが、
「戒壇之本尊」造立当時は、単なる「板漫荼羅」としてしか認識されていなかったのではないでしょうか。この「板漫荼羅」が「人寄せ漫荼羅」の使命を受けて、いつしか「戒壇之本尊」に変身させられた。ということではないのでしょうか。
しかし、ただの「板漫荼羅」では、他の寺院にもあるから、独自性を持たせるために「半丸太」に貼り付けたか、彫刻し直した。ということではないでしょうか。
あくまでも推察の域を出ないですが。

673犀角独歩:2004/04/08(木) 12:19

愚鈍凡夫さん:

> いつしか「戒壇之本尊」に変身させられた

わたしはこの可能性を、実は三学無縁さんと話し合っているのです。
達師は御影像の後ろに弥四郎漫荼羅が置かれてあったというわけです。

わたしがそれを読んで直ちに思い出したのは開扉された御影堂の宮殿厨子のことです。
『明細誌』によれば「仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸」とあります。

板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmで15cmですから大きさの割合は良いでしょう。
しかし弥四郎漫荼羅は「四尺七寸五分」すなわち、1m42cm5mmです。御影のほぼ1.5倍です。これは実にバランスが悪いでしょうね。しかし、したの腰書台座がなければ案外、いい大きさかも知れません。どちらにしても御影の1.5倍の高さがある板漫荼羅が後ろにあったとしたら、須弥壇全体のバランスからして収まらないのではないのか?という疑問が生じるわけです。つまり、その段階では腰書台座部分はなかったのではないのか?とわたしは考えたわけです。

実際のところの例の腰書が文献上に現れるのは量師『明細誌』であり、因師『有師聴聞抄佳跡上』であって、精師『年譜』の段階では腰書文としては記されていません。しかし、「南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主」とあるばかりです。

ここら辺は想像の域を出ないのですが、以上の事実から類推すると以下のようなことが言える可能性はあると思います。

・御影堂安置段階で腰書台座なし
・宝蔵に遷したあと、『年譜』の記述と本門戒壇本堂に置かれていた経緯から台座に腰書された

案外「本門戒壇之」というのは‘本門戒壇’本堂にあったこれ、という意味と考えられなくもないと思うわけです。

まあ、これも推論に過ぎませんが。

674犀角独歩:2004/04/08(木) 12:24

【673の訂正】

誤)板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmで15cmですから
正)板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmでその差15cmですから

675犀角独歩:2004/04/08(木) 14:17

一つ書き忘れました。

もし御影堂に半丸太の弥四郎漫荼羅が安置されてあったら…。想像すればわかりますが、前に御影像が出っ張り、うしろに半丸太が出っ張るわけです。要するに丸太一本分の漫荼羅御影が厨子に収まっている形です。しかし、内裏の設計はそんな形であったようには見えません。これは実に考えづらいでしょう。やはり「厚二寸二分」7.26cm の板と考えたほうが自然です。

676犀角独歩:2004/04/08(木) 14:27

おっと、大間違いをしてしまいました。
1尺は30.3cmでしたね。
となると、

いまの御影堂板漫荼羅は
仏壇宮殿の中板漫茶羅
竪三尺六寸(118cm)×横二尺(60.6cm)
日蓮聖人木像
居長二尺八寸五分(86.35cm)

弥四郎漫荼羅
竪四尺七寸五分(140cm)×横二尺一寸五分(65.1cm)二寸二分(6.6cm)

となりますか。以上の数値で673を読み直してください。
失礼しました。

677犀角独歩:2004/04/09(金) 16:20

ほとんどつぶやきに近いですが、石山系集団の言い分を聞いていると、まるで弥四郎漫荼羅を弘安2年10月12日1日で出来上がったような勢いで書き立てています。

しかし、そんなことはどだい無理です。図示だけならば1日の作業であっても、その半丸太の素材を削り整え、彫刻の下準備をするだけでもどれほどの日数が掛かることか。まして、彫るのにどれだけの日数が掛かることか。さらに漆を掛けて金箔を貼るまでの作業をすれば、たぶん半年近い時間が要するのではないでしょうか。


さらにつぶやけば、自分がなぜ斯く信じるようになったのか、その自分史をいま一度辿ってみる作業をわたしはすべての人に勧めます。

「日蓮大聖人は御本仏であらせられる。本門戒壇之大御本尊は大聖人の出世の本懐である。これを受け継いだのは日興上人である。われわれは国立戒壇の願行を推進するところに成仏の直道がある」

こんなことを活動と体験、教学の「研鑽」で確信するに至って信者としての自分があるわけです。しかし、「本当なのだろうか」、そう疑いを持つことが実は「入口」であることに気付くことは至難の業なのかも知れません。

実際の科学的な証拠という側面からすれば、実は蓮師が2月16日に生まれたことでさえ、はっきりとはわかっていないというのが現実です。それでもいくつかの確かな証拠の線を結べば、蓮師を素描することはできます。けれど、日蓮本仏、弥四郎漫荼羅、日興唯受一人、国立戒壇…、石山系で熱烈に騙られ、人々を動かしてきたものは、その素描と著しく相違していることを真面目に自己責任で調べた人たちは知っているわけです。

しかし、体験に基づいて…その体験が強烈であればあるほど、人間関係として濃厚であればあるほど…構築された信念体系は強固なものとなります。そしてその経験は自己存在と深く関連付いていますから、それを否定するあらゆる情報を否定する形ではたらくことにになります。この壁を越えて、真実を垣間見るのは、やはり至難な技なのかも知れません。また、それまでの人生の一切を否定することにも成りかねないこの作業を貫徹することは強い痛みと不快感が伴うことも事実です。

しかしそれでも、わたしは真実を見つめる勇気を持つべきであると、敢えて進言したいと思います。

678無言 三郎:2004/04/09(金) 21:38
略 貴言は核心中のその中を突いておるようです、、。 スッゲー発露かと存じまする、、。

679犀角独歩:2004/04/10(土) 00:11

> 678

これはわたしの言へのご賛同でしょうか。
であれば、有り難く拝受申し上げます。

680地名:2004/04/10(土) 02:15

648 独歩さん

窪田本(憲師図)と柳沢本の比較

諸尊_|日|柳
───┼─┼─
大六_|×|○
阿修羅|×|○
龍王_|×|○
龍樹_|×|○
章安_|○|×
妙楽_|×|○

異なるのは上記の諸尊だけですね。
先日以来毎日眺めているのですが、よくわかりません。

681犀角独歩:2004/04/10(土) 07:47

地名さん:

> 異なるのは上記の諸尊だけ

「だけ」ですか。そう理解されますか。
憲師がいう諸尊は章安はともかくとして、八部衆(天・龍・夜叉・阿修羅・乾闥婆・緊那羅・迦楼羅・摩護羅伽)の龍と阿修羅が作為的に落ちています。ここにはそれ故のコンセプトが存すると思われます。憲師の図どおりであれば、この弥四郎漫荼羅が示すのは、八部衆を除く世界観であるとなりませんか。

一つ、わたしが解けない謎を一緒に考えてくださいますか。

憲師『当家諸門流継図之事』に

「…日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」

と、あります。この御判の「其の下に横」「右の脇」というのはそれぞれ、どこの位置になると思われますか。わたしはこの意味が皆目理解できません。特に「下に横」というのが、何のことか意味がわからないのです。

682犀角独歩:2004/04/10(土) 13:37

柳沢宏道師『石山本尊の研究』を眺めていたら、阿部開師(顕師父)の漫荼羅が載っていました。備考に「創価学会草創期に日蓮正宗入信者に下付」と記されています。
なかなか歴史の皮肉を感じさせるものがあります。

また『聖教新聞』81号から転載したという写真は、戸田さんの後ろに例の模刻漫荼羅「大法広通慈折広宣流布大願成就(本尊)」が写っています。写真中、戸田さんの話を聞く人の横顔は若き池田さんのようで、特徴的な後頭部は竜(年光)さんではないかと思えます。

座配図を見ると、この漫荼羅、柳沢師が『日蓮上人』掲載グラビアの弥四郎漫荼羅をA0サイズまで伸ばして解析したという座配図とほぼ同じでした。

相違点は
・釈提桓因大王が帝釈天王
・二千二百二十余年が二千二百三十余年
・「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」がある
という差だけです。

小さくてよく見えませんが、弥四郎漫荼羅の特徴的な愛染の形・經旁の止筆という二大特徴をちゃんと‘書写’してあるようでした。

あと恭師の貞明皇后授与漫荼羅も『聖教新聞』第61号掲載としての転載されているのです。戸田さん当時、平気で漫荼羅の写真が載っていたということになり、この点も興味深いと思ったものです。

683地名:2004/04/12(月) 20:29

681 独歩さん

松本佐蔵「弘安二年大曼荼羅と日興師」昭和5年発行、興門資料刊行会覆刻平成13年のP51−52で

「什宝 記録中 摘録
  一 本門戒壇之板大曼荼羅日蓮聖人筆
     十界勧請 御判ノ下横ニ並ベ 為現當二世造立如件
     本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白
     弘安二年十月十二日矣」

p52に
 日蓮花押図示  右為現當二世
  同  図示  造立如件
  同  図示  本門戒壇也(之か字が明瞭せず)
  同  図示  願主 弥四郎
            国重
         法華講衆等
            敬白 」

684地名:2004/04/12(月) 20:46

683

「右」は「造立」と同じ並びです。
「法華講」も一字下げです。 書き込みの関係で崩れましたが「横並び」です。

p52には
「大正十五年名古屋岩倉等二ヶ所において慈龍窟受持一行の信徒一類がこの本尊の
腰書に就いて疑いあり迚講演会を開く
道本(松本佐造のこと)この講演を聞き後
石山日柱師に
その実否を聞く
柱師曰
勿論御正筆なり

横に並べられたるは、かくの如し迚一紙に記さる
すなわち下に記する如し」

このことではないでしょうか。

685地名:2004/04/12(月) 21:02


>憲師がいう諸尊…八部衆(天・龍・夜叉・阿修羅・乾闥婆・緊那羅・迦楼羅・摩護羅伽)の龍と
>阿修羅が作為的に落ちています。
>ここにはそれ故のコンセプトが存すると思われます。
>憲師の図どおりであれば、この弥四郎漫荼羅が示すのは、
>八部衆を除く世界観であるとなりませんか。

なるほど。六道はすべて勧請されているはずだということですか。

686犀角独歩:2004/04/12(月) 22:30

地名さん:

横並びというのは、句が行になって横に並んでいるということでしょうか。
憲師の記述もそうでしょうか。判然としませんね。

> 右…造立…本門戒壇也

これが「也」であるとき、いったい、本門戒壇は何を指すのでしょうか。腰書きの上は漫荼羅本尊であって、戒壇という壇でもなければ建物でもありません。だいたい「右」とは何を指しているのでしょうか。おかしな縁由文であると思うわけです。

> …六道はすべて勧請されているはず…

そうですね。そのコンセプトが意味するところはよく理解できませんが、ともかくこの座配は八部衆を作為的に避けたというばかりの意味です。

687犀角独歩:2004/04/12(月) 22:36

> 柱師曰
> 勿論御正筆

これは、腰書きも蓮師の字であると柱師が答えたと云うことなのでしょうか。
石山歴代住職の言としてしっかりと記録しておきたいところです。
達師は「二千二百二十余年」と書いていないような迷言を吐きました。
併せて記憶に留めたいと思います。

688犀角独歩:2004/04/12(月) 22:52

ばらばらと書いて恐縮です。

> 弘安二年十月十二日矣

これもまた興味深い一節です。
「矣」は所謂、終尾詞で、これが付いているとするのはご呈示の文献ばかりです。

【矣】音イ「也」より語気が強く、きっぱりと言い切るときに使う。
(『新補漢文提要』新塔社 P44)

「本門戒壇也」ときて「弘安二年十月十二日矣」とまたきっぱり。
文面どおり読めば、弘安2年10月12日に(本尊ではなくて)本門戒壇が建立されたという意味になりますね。不謹慎ですが、思わず吹き出したくなります。

689犀角独歩:2004/04/12(月) 23:05

どうも、今日はばらばらと済みません。

わたしが吹き出したくなると言うのは、腰書きには「敬白」とある以上、「弥四郎国重法華講衆等が本門戒壇を弘安2年10月12日に本門戒壇の造立の以上の通りであると敬って申します」という意味になっている点を言うわけです。

もしこの文が「正筆」、すなわち蓮師の文章であるならば、蓮師こそ弥四郎国重であり、それも、誰に対してか知りませんが、「敬って白(もう)す」書いたことになるからです。柱師というのは、まさか冗談を言ったわけではないでしょうし、松本氏がこれぐらいのこともわからず、大まじめで書き残しているとなるとほとんど‘漫談’ではないかという意味です。

もし弥四郎国重・法華講衆に書いて与えるのであれば、必ず、「授与」となるでしょう。ここが「敬白」となっているのは、造立者が、蓮師・あるいは仏その他‘恭敬の対象に敬って申し上げる’からにほかなりません。ならば、この文は蓮師の文であってはならず、必ず他筆でなければ辻褄が合わないことになります。「馬鹿も休み休み言え」と言いたくなります。こんなことを大まじめに書いて本を刊行する松本氏なる人物は漢文の基礎も知らないか、いやさらに知らないのは柱師かと嗤いたくなるわけです。

690地名:2004/04/13(火) 21:33

独歩さん

上記数項目にわたりご指摘いただきましたが
松本師に同調しているから掲載したわけではなく

「…横に並べ…」とはどのような意味かについて
色々と探したところそれが同師の本であったということです。

本に記載されている通りに記したつもりなのですが
この本には、横に並べて記載されています。

これは本を見ていただくしかないのですが、
そうですね

木下日順師の本の冒頭に富士大石寺板本尊十界座配の漫荼羅が掲載
されていますね。

そこに「為現当二世…」と記されていますが、これと同じ配置です。
この図は、これが右に寄っていますが、松本師の本は花押の下にあり

ます。だから「…御判の下横に並べ」とあるのではないでしょうか。

691犀角独歩:2004/04/13(火) 21:42

地名さん:

言葉足らずで申しわけありません。
資料をご提示いただいたことに感謝しております。
上述したことは知名さんに疑義を呈したのではなく、あくまで松本氏、柱師のおかしな天を舉げたものです。
まず、お詫び申し上げます。

692地名:2004/04/13(火) 21:46

686について

>横並びというのは、句が行になって横に並んでいることか。

はい、これは上述したとおりです。

>憲師の記述もそうか。

憲師の「当流…」という本を探しているのですがいまだ見つけることが
できないでいますので、同師のものがそうなのかどうかはわかりません。

憲師の本はどこにありますか。

> 右…造立…本門戒壇也
>これが「也」であるとき、いったい、本門戒壇は何を指すのでしょうか。

「也」は、松本師の本でも「也か之か字が明瞭せず」と記されています。
「右」については、松本師の本は「右為現當二世」とあります。
しかし、木下師の本は「為現当二世」です。

693地名:2004/04/13(火) 21:52

691について

いえいえそのように…。
こちらこそ木下師の御本をご紹介いただき感謝しています。

「大石寺明細誌」「おう惑顕本記」も例のガリ版刷りでしょうか
拝読させていただきました。

694愚鈍凡夫:2004/04/13(火) 21:57

横レス失礼します。

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
やはり、"取って付けた言葉"ということでしょうか。 (^_^;)

695地名:2004/04/13(火) 22:02

松本師のものは、松本師の質問に対して柱師が「横に並べられたるは斯くの
如し」として、「一紙に記さる」として記されたものです

木下師の本の図との違いのみ書きますと

松本師 右 あり
木下師 右 なし

「造立如件」 同じ

松本師 「本門戒壇也」(也か之か字が明瞭せず)
木下師 「本門戒壇願主」

松本師 「願主 弥四郎
        国重」  願主は弥四郎と国重の中央に記されています
木下師 「弥四郎国重」

「法華講衆等
    敬白」 両師とも同じ  以上です。

696地名:2004/04/13(火) 22:10

681について

憲師『当家諸門流継図之事』に

「…日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」

とあるわけですね。

松本師の本にはここの部分が
「十界勧請 御判ノ下横ニ並ヘ…」と斯かれています。

そして、これは古書の摘録だと。いま手元に「家中抄」がないので
確かめられないのですが(家中抄以前には記されたものがないと思いますので)

697地名:2004/04/13(火) 22:15

694 愚鈍凡夫さん

>やはり、"取って付けた言葉"か。

すみません。そうなのかどうか私には何ともわかりません。
ただ客観的実証的中立公平に考究したいと思っています。

698地名:2004/04/13(火) 22:18

695について

またずれてしまいました。

松本師
願主 弥四郎
   国 重

  願主は弥四郎と国重の中央に記されています


699地名:2004/04/13(火) 22:33


687について

> 柱師曰
> 勿論御正筆

>これは、腰書きも蓮師の字であると柱師が答えたと云うことか。

これは、そう言っているのか、
そこまでは言っていないのか私の国語力では少し自信がありません。

正文は上記したとおりですが、略記すると、慈龍窟、清水梁山師のことでしょうか。
慈龍窟たちが「この本尊の腰書について」疑いあり、講演会を開いたので松本師

が聞いた後で柱師に聞いたところ「勿論御正筆なり」と言われて一枚に「横に並べはこのようだ」
と記されたというところでしょうか。

700地名:2004/04/13(火) 22:40


688について

> 弘安二年十月十二日矣

「矣」と松本師の本では記載されています。
ただこれは木下師のものやそのほかの本には記載されていないので

もしかしたら誤記かもしれません。
私も記していてへんだなあと思ったのですが原文に忠実のほうが
いいと思い記しました。 以上です。

701犀角独歩:2004/04/14(水) 07:47

地名さん:

> 憲師の本はどこにありますか

わたしは『日蓮聖人の本懐』(増補版)P197に載る「当家諸門流系図の事」で見ました。
記述によれば日宗全18ノ149頁に記載されているとのことです。

> 「大石寺明細誌」「おう惑顕本記」も例のガリ版刷り

『大石寺明細誌』は志師の批判書として本門社からガリ版で
『誑惑顕本書』も、やはり、ガリ版で同社からだと思います。
現物は手に取ったことはありません。


愚鈍凡夫さん:

> 取って付けた言葉

所謂、腰書はまさにこの表現がピッタリだとわたしも思います。
けれど、どこから「取ってきた」のか? この点がわかりません。
中世の文献では「弥四郎国重」は波木井円師、あるいはその嫡男とするのが通説となっていたと窺えます。精師、完則師は嫡男説、憲師は円師説です。
腰書の記述は一様ではなく、頭に「右」が付くもの・付かないもの、「本門戒壇之願主」「本門戒壇願主」と之が付くもの・付かないと様々です。
行の字配りに至っては地名さんが指摘されるとおり、これまたバラバラです。
木下本、松本本は紹介されましたので、以下、完則図・柳沢図も紹介しておきましょうか。

【完則図】

右為現當
二世造立如件

本門戒壇之

願主 弥四郎
   国重

法華講衆 敬
     白
弘安二年十月十二日

【柳沢図】

右現当二世
造立如件
本門戒壇之
  弥四郎
願主
  国重
     敬
法華講衆等
     白
    十月
弘安二年
    十二日

諸尊勧請の下に横幅いっぱいに広がって書かれています。
なお、わたしが憲師の言う
「日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」
を挙げたのは判下に横・右脇という位置関係がどうにも理解できないからです。
記述どおり書いてみれば

  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白
  弘安二年十月十二日
日蓮御判 右現当二世造立如件

となり、句節が入れ替わってしまうだろうと思えるわけです。
尤もこのほうが「右」の意味は取れることになりますが、たぶん、これは違うだろうと思うわけです。

702犀角独歩:2004/04/14(水) 07:52

レイアウトが崩れました。

完則図は願主の下に2行に分けて弥四郎/国重
法華講衆等の下に2行に分けて敬/白

柳沢図も願主、法華講衆等は同じ
さらに弘安二年の下も2行に分けて十月/十二日

です。

703犀角独歩:2004/04/14(水) 18:41

とある方から資料の提供を受けて今更ながらに気付いたのですが、北山本門寺で「万年救護本尊」と言えば、弘安3年5月9日の禅師授与漫荼羅を言うのですね。ちょっと、新鮮でした。たしか、同寺で戒壇本尊と言うも、これであったような。

成句が持っている固定観念に読む側が惑わされてはいけませんね。
本仏といえば、ある信念体系下では釈尊を指し、他の信念体系では日蓮を指します。
まあ、あるところでは○○先生を指してしまうわけですから(爆)

要は、目玉になる成句と如何にリアルに‘関連づけ’ができるかに集団と指導者の命運が係っている構造を理解する客観視をもてるか否かです。

尤もこれは地獄=邪宗、成仏=自分たちと単純に信じられる子供騙しとも共通しています。

顕正会員と話したら「自分たちの組織以外は功徳はない。創価学会は正本堂以降、功徳を失った」(笑)、創価学会は「世界平和を実現する唯一の団体」(笑)それぞれ自分たち以外の情報はまったく見ずにこう言い切ります。自分たちが情報操作されていることに気付いていません。この事情は所謂「本門戒壇之大御本尊」という日蓮筆・日法彫刻の真筆…彫刻ならもはや真筆ではないのだけれど…プロパガンダを鵜呑みにしたうえで、自分の個人的体験(個人的リアリティ)から、それは絶対に正しいと決めつけてしまうわけです。

キーワードと個人体験が関連づけられれば、宇宙創生から未来永劫まですべて説明解釈できるのがカルト理論です。

権威と認められるご立派な御仁のお言葉だから間違いがない…、こういった自らで事実を究明しようという手間を省いた‘思考停止’が人生をそのものを狂わしてしまう…、これはわたし自身の実像であり、所属した集団と信徒の偽らざる実像です。

しかし、操る側が、目玉商品が贋物であることは先刻ご承知なのです。
学会を含む石山系集団に共通した風景です。

704愚鈍凡夫:2004/04/14(水) 18:58

記録を残した先人たちが、見間違いや記憶違いでなく、見たまんまのことを描写しているとすれば、「戒壇之本尊」が複数存在することになりますが、腰書を改行して記してあるのは単にスペースの問題でしょうか(そこ以外に記すスペースがなかったという意味)。逆に、その場所でなければならない理由があったのでしょうか。それとも、もっと他の意味があってのことでしょうか。
そもそも何故、不自然な表現で記さなければならなかったのでしょうか。それに、裏ではなく表に彫刻してあるのは何故でしょうね。これは、相手に読ませる目的であると思えますが、読むと当然、「弥四郎国重」って誰? ってことになりますよね。 (-_-;)
逆から言えば、蓮祖在世に「戒壇之本尊」の発想自体がなかったことを示唆しているといえるかも知れませんね。だから、"願主"に無名の人物(架空の人物?)を立てるしかなかったのかも知れません。
しかし、いずれにしてもやっかいですね。国重さんは。 (?_?)
どこかの○(マル)田先生でないだけましですか。

705犀角独歩:2004/04/15(木) 08:13

> 「戒壇之本尊」が複数存在

わたしの主張は一貫して是の如くです。更に言えば、本尊部も、腰書台座部も、それぞれ、別のパーツとして、そうであったろうと考えています。更にさらに身替本尊は有師のものばかりではなく、もっと多かったのかとも考えるわけです。(尤も有師造立板漫荼羅が‘身替り’だとは考えていません)

そして、今のは何時の時代に作られたもので、何を素材にしたのか…、その考証は、それ以前の歴史資料でやれば、読み間違えてしまうということです。実は(公開の投稿で記しきれませんが)この点までは結論は出しています。しかし、わたしがわからないのは、いったい、いつから、腰書台座が付けられ、板が半丸太になったのかということです。また、この二つの出来事は時間差で実施されたのであろうとは予想するものの、時代が特定できないことです。

所謂「本門戒壇の大御本尊」が身延で造立され、それが今に至るという宗内の‘常識’から離れないと何事も見えません。

> 「弥四郎国重」って誰?

造立当時の‘常識’としては波木井円師、あるいはその嫡男でしょう。
弘安2年10月12日という時間設定からすれば、その段階で、円師は興師の教化で蓮師を招き寄せ、蓮興二師は身延在山というストーリーです。この場所で最も有力な檀那と目されるのは円師を置いてないわけですから。

先にも記しましたが、精師・量師・完則師は嫡男説、憲師は円師説でしょう。
これが当時の支配的な伝説となっていたのではないでしょうか。

まずは造立当時はどう考えられていたか、次にその伝説が本当かどうか、そして、実在か非実在かと論を進めるべきだと考えます。近代、志師などにこの伝説に疑問を挾まれ、史実とも反することから、この説は消え、それにとって代わって、弥四郎国重蓮師己心人物説が宗内で一般化され、現在にいたるという流れがあるわけでしょう。

近代与えられた‘宗内常識’を除けて、その時代に立って考えることから始めないと、この考証は失敗します。

706犀角独歩:2004/04/15(木) 14:23

先ほど、三学無縁さんからご連絡が入り、以下の点、ご指摘を受けましたので、報告旁々アップします。

「右為現当二世
 造立如件
 本門戒壇之
 願主 弥四郎/国重
 法華講衆等 敬/白
 弘安二年十月/十二日
大石寺日胤筆正模本尊(東京常泉寺蔵を底本とし、大石寺亨師資料類聚二三九にある伸書のもので校正した)」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』P397)

/ で区切ったところは前文の下二行に分けて書かれていることを示しています。
これで腰書については、ほぼ出揃ったことになるでしょうか。

707みかん:2004/04/15(木) 16:42
オフトピック。本論とは関係ありません。
「上代?」
日蓮法華宗の教学においては、「上代」というのはいつごろをさすのでしょうか。
またその用法は、古くから見られるのでしょうか。

このスレで「上代」という言葉が多用され、「初期」「以前」「昔」
というほどの意味をさしているようです。
また『日蓮宗上代教学の研究』、『日興門流上代事典』といった本もあるようです。

が、学問の世界、特に国文学史では、上代とは「およそ奈良時代」の事をさします。
>>600 番で独歩さんが使っているのも、おそらくこの意味だと思います。
そのことは関連領域の、歴史学、仏教学、思想史学の人も当然しっています
ので、上代を奈良時代という意味ではなくて、「初期」「昔」という
意味で使うことはまずあり得ません。
鎌倉、室町時代であれば「中世」という言葉を使うのが普通です。

日蓮系の教学、宗学の人が上代を別の意味に使っているのには、少し驚いています。

708犀角独歩:2004/04/15(木) 17:00

みかんさん:

極めて学的な常識からのご指摘有り難うございます。
尤もなご意見であろうかと存じます。

けれど、日蓮門下はやはり日蓮を基準として「聖滅」などとも言うぐらいですから、その狭い世界での特定の、語彙の使用はあろうかと思います。

殊、石山系において「上代」の定義は以下の亨師の言に基づいているのではないでしょうか。

「『上代』とは・宗祖開山時代を云ふ・但し明治当代より云へば有師時代とても上代と云ふべし」(有師化儀抄(水鑑沙弥)註解)

まあ、この定義が一般的な学問の語法と相違している点は意識していましたが「富士門流信徒の掲示板」という範疇での議論ですから、この世界で言う碩学亨師の定義に基づいてきました。たぶん、他の方も同じであろうと思います。

しかし、もちろんのこと、富士門流という範疇を出て、記述する場合に、上述の「上代」の定義は意味をなさないことは当然のことでしょう。

709犀角独歩:2004/04/15(木) 17:08

石山文書で「上代」の用法を雑駁ながら拾えば以下のとおりです。

有師化儀抄(南条日住)
一、上代の法には師範より不審を蒙る族らをば一度訪ふべし、二度とは訪ふべからずと云ふ大法なり
一、謗法の妻子眷属をば連々教化すべし、上代は三年を限りて教化して叶はざれば中を違ふべしと候

有師物語聴聞抄佳跡上(日因)
此大石が原と申すは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得…
上代地頭奥津方とは日行上人・日時上人両代の間…
・日郷・弟子中納言阿闍
上代・下山の三位阿闍梨日順と申しけるは・高祖の御弟子の中老の衆…
上代等と者祖師、興師、目師の御代也

有師化儀抄(水鑑沙弥)註解(日亨)
去れば上代日目上人十三回の御卒都婆を日道上人題目計り遊し…
上代にも殊の外不信なる人有り・高祖聖人身延山御住の御時…
「上代」とは・宗祖開山時代を云ふ・但し明治当代より云へば有師時代とても上代と云ふべし…

710愚鈍凡夫:2004/04/15(木) 22:09

>>703:犀角独歩さん。
読み直していて、ふと思ったのですが、

> 北山本門寺で「万年救護本尊」と言えば、弘安3年5月9日の禅師授与漫荼羅を言うのですね。ちょっと、新鮮でした。たしか、同寺で戒壇本尊と言うも、これであったような。

ということは、
北山では「本門寺に掛け奉る本尊=戒壇之本尊」という図式があるということでしょうか。
石山のように「御影堂=本堂=戒壇堂」なんてのも有りだったりして。 (-"-;A ...アセアセ

711犀角独歩:2004/04/16(金) 01:21

710 愚鈍凡夫さん:

さすが。そうですよ。ですから、同じ成句を使っても指しているものが全然違う石山・北山・保田という図式があるということです。

で、その前提として、万年救護、戒壇本尊などという成句が、現物よりも先行しているという時系列を考慮しないと読み間違えると、わたしは指摘したわけです。

712空き缶:2004/04/16(金) 01:24

 興風談所の「御書システム11」がダウンロードできるようになりましたね。
 今回のバージョンアップでは、御本尊資料が新たに加わっており、現存・曽存の170の御本尊について出ています。
 「もしや」と思い、順次調べていったところ、案の定「本門戒壇大御本尊」が出ていました。脇書は「 本門戒壇之願主弥四郎国重 / 法華講敬白 / 弘安二年十月十二日右為現当二世造立如件」となっていました。「法華講衆」ではなく「法華講」となっていたのは単なる間違いだと思います。
 出典は富士宗学要集8巻となっており、大きさは富士宗学要集1巻の「有師物語聴聞抄佳跡上」の記述どおりでした。
 さすがの興風談所も、この問題には深く触れないようです。
 しかし、他の御本尊資料等を含めこのシステム自体の資料的価値は大変すばらしいものと思います。しかも無料でダウンロードして使用できるところに感動さえおぼえます。


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