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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

531五月雨:2004/03/15(月) 13:33

>>505 犬は吠える、されど・・・さん、初めまして。

>さて、どこがどう違うか指摘するには大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌
>を教えてあげないといけない訳ですが・・・もったいないから教えません。

大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌の“どこで”正しい本尊だと分かるのでしょうか。
実は私は今度大石寺に参詣し、ご開扉を受けます。
私も戒壇本尊の真偽説には興味がありますので、ご教示戴けましたら大変に
有難く存知ます。
もったいないと仰らずに、着目すべき相貌をご提示下さいませ。

>真剣に法を求めるならば、何事も書物の上だけでなく、実地に見聞して確
>かめていくべきかと存じます。

本当にそうですよね、実地に見聞することはとても大事なことですね。
私もしっかり実行したいと思いますので、どこに着目すべきかを仔細にご教示ください。
ご教示通りにしっかり拝見して参ります。また、その結果をここでお知らせしたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m

532三学無縁:2004/03/15(月) 16:00
おひさしぶりです。
活発な論議が展開されているようで、とても参考になります。
れんさん、愚鈍凡夫さん、犀角独歩さん、ほんとうにありがとうございます。

さて、505で、「犬は吠える、されど・・・」さんが、

>他門関係のいい加減な伝聞記録

と、書かれていました。
他門よりなされてきた石山批判、特に「弘安二年十月十二日」の日付のある、楠板彫刻の「本門戒壇の大御本尊」批判が、仮に「他門関係のいい加減な伝聞記録」であったとしても、それは仕方のないことであろうかと思います。
何故ならば、件のいわゆる板漫荼羅が、広く一般に公開されておらず、また、文字の鑑定や材質の鑑定もなされていないわけで、これでは正確な記述を求める方が無理でありましょう。

たとえば板漫荼羅の大きさについても、諸説あるわけです。
 <竪五尺横二尺四寸>
このように記したのは、下総峰妙興寺大法院日憲、後の京都本法寺六世東光院日憲で、『当家諸門流継図之事』での記述です。
では、この記述が「いい加減な伝聞記録」であるとして、実際のところ板漫荼羅の大きさはどれほどなのでしょうか。

 <長四尺七寸五分 横二尺二寸五分 厚二寸二分>
これは、遠霑講寺の「沙門完則」による記述です。
ちなみにこの遠霑講寺とは細草檀林のことです。
御承知の通り細草檀林では大石寺の僧侶も数多く学んでいましたし、講師だけでなく化主も輩出しています。
また化主となられてから大石寺の住職になられた方もいるわけです。
この「沙門完則」が、石山僧でないならば、細草檀林において石山から来た僧に板漫荼羅の大きさを教わったことになります。
ただ、この記述は、『大石寺宝蔵略目録』と題する書にあるもので、「他門」の僧侶が略とはいえ、わざわざ大石寺の宝蔵目録を書くものでしょうか。

 <厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>
 <丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>
さらにこのような記述もあります。
<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、久遠阿闍梨、本寿院日量によるもの。
<丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>の記述は熊田葦城によるものです。
熊田葦城の記述は明治四十四年、西暦一九〇九年、未だ石山信徒になる前のものですが、由比一乗居士から板漫荼羅の写真を提供され、また、石山関連の記述は由比氏だけでなく、石山本山の僧侶からも取材したものです。
ちなみに当時の石山住職は五十七世阿部日正上人で、五十五世日布上人、五十六世日応上人の二人も健在でした。
つまり、この熊田葦城の記述は信頼のおける記述と考えてもよさそうです。

ところで、「久遠阿闍梨本寿院日量」ですが、石山四十九世の日量上人のことです。
そして<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、文政六年、一八二三年、『富士大石寺明細誌』に書かれています。
当時の石山住職は四十九世日荘で、日量は本山塔中寿命坊に隠居していました。

以上四つの記述・記録のうち、明らかに他門のものは日憲のものです。
日量のものは当然として、完則および熊田葦城のものも、情報のソースは石山関係と考えて問題はないと思われます。
そうすると石山系情報の三つに、僅かではありますが寸法の違いがあることになります。
もっとも、違いといっても3センチメートルから9センチメートルていどですから許容範囲内といえないこともありません。
ただ、何故、僅かとはいえ違う数字になるのかはわかりませんし、これらの記述において、以前の数字を訂正してもいないのはどうしてなのでしょうか。
これでは「他門関係」どころか「石山のいい加減な伝聞記録」と言われても仕方ないのではないでしょうか。

これらは石山において、蓮祖の「出世の本懐」である「一閻浮提総与」の「本門戒壇の大御本尊」と誇称される「弘安二年十月十二日」の板漫荼羅に関する記述なのですから、このような違いが記録されること自体が不自然という気がします。
もっとも、正確に鯨尺で計測したのではなく、目分量で大体の数字をいったものであるのならば不自然とはいえないかもしれませんが。
しかし不自然ではないとしても、やはり「石山のいい加減な伝聞記録」という印象が残るのは如何なものでしょうか。

533三学無縁:2004/03/15(月) 16:14
つづきです。
さて、「他門のいい加減な伝聞記録」ということなので少々。

石山ではさまざまな「相伝書」「相承書」をもって自門の唯一正統性を誇り主張しています。
主なものは以下のとおりですが、( )の中は写本で、書名の下は主な掲載書の略号です。
富要=富士宗学要集。新編=学会版御書。聖典=正宗聖典。新定=昭和新定御書。平成=平成新編御書。

御義口伝(上巻石山本、下巻要山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
身延相承(要山日廣本、西山日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
池上相承(北山日出本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
本因妙抄(要山日尊本、石山日時本、房山日我本、日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
百六箇抄(北山日山本、房山日我本、西山日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
御本尊七箇之相承(房山日悦本、房山日山本)
 富要    聖典 新定
教化弘経七箇口決大事(房山日悦本、房山日山本)
          新定 平成
寿量品文底大事(房山日悦本、房山日山本)
 富要    聖典 新定 平成
産湯相承事(房山日悦本、房山日山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
上行所伝三大秘法口決(房山本、要山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
本尊三度相伝(房山本、要山本、石山蔵日源本)
 富要
三時弘経次第(要山本)
 富要    聖典       歴全
本門弘通之事(正本石山蔵)
                歴全

以上は石山で、「従日蓮日興相伝」とされるものですが、石山所蔵の正本は「本門弘通之事」だけで、他は全て「他門」の写本です。
御義口伝は石山の上巻写本と要山の下巻写本でセットですが、要山本は元亀年間のもので石山本は年代不詳です。
いずれにしても御義口伝石山写本は石山と要山が通用していた時代のものと考えてよさそうです。

日興跡条々事(案文・正本石山蔵?)
 富要    聖典 新定 平成 歴全
日興遺誡置文(房山日我本)
 富要    聖典    平成 歴全
富士一跡門徒存知事(重須日誉本)
 富要    聖典    平成 歴全
五人所破抄(重須日代本、要山日辰本、下条日諦本)
 富要    聖典

これらは興師の著作および興師の意によって書かれたものということですが、「日興跡条々事」以外は正本もなく、主な写本も他門のものばかりです。
このように見てみると、石山のいう「相承」「相伝」のほとんどはもともと石山には無かったものであるということがわかります。
つまり石山のいう甚深の相伝とか相承、そしてそれを元にした教学は「他門関係のいい加減な伝聞記録」を利用して成立している、ということにほかなりません。

なかには、「もともと大石寺にあったものが写本され他門に流出した」というひともいるかもしれませんが、それでは原本はいつ無くなったのでしょうか。
石山は北山のように武田の軍勢に荒らされ重宝を強奪されたという事実はありません。
何度か焼亡していますから、そのときに焼けた、というかもしれませんが、「本門弘通之事」と「日興跡条々事」は残っているわけで、他の重要な「相伝書」が残っていないのは不思議です。
それから、石山でいうところのいわゆる「日時写本」ですが、これらについては石山において「六世日時上人のものではない」「同名異人の筆である」という意見があります。
これは複数の学僧、複数の能化の発言で、なかには「堀上人は違うといわれた」という発言や、同名異人を特定した発言もあります。
かりに同名異人の筆ということになれば、いよいよ石山上代には独自の相伝がほとんど無かったと考えられそうです。

それから、いわゆる紫宸殿の本尊ですが、本尊集によれば削損があるとのこと、傷物を皇室用にという発想はスゴイものがあります。
しかも、削損ということは、石山が創建当初から当該本尊を持っていたならば歴代のだれかが、真筆本尊に傷をつけたということになりませんか。
もしくは、いつの時代かに入手し、石山に都合の悪い文字を削り取った、ということが考えられます。
つまり、当該本尊も、もともとは自山のものではなかった、と。
さらに、当代は「師資伝の本尊」とかに名称およびいわれを改変しましたが、傷物を師資相伝するなどという発想にも、なにか苦し紛れのような感じを抱かざるをえません。
石山にとって、本尊とはどのような意味をもっているのでしょうか。

以上、ひさしぶりの書き込みなのにしつこく長々と書いて申し訳有りませんでした。

534犀角独歩:2004/03/15(月) 17:31

三学無縁さん、横レス失礼します。

四半世紀のご研究の成果、披瀝いただきまして有り難き次第です。
「隣家の権利書」とわたしが評した石山相伝の有様、その具体的な資料をご呈示いただき、改めて興味深く拝読しました。

また、板漫荼羅の資料文献、さすがに整理されておられますね。
しかし、板としての記録、半丸太とは達師以外は言わない点、どうにも合点が行かないものです。

535犀角独歩:2004/03/15(月) 17:51

舌っ足らずなので、もう少し補足します。
三学無縁さんがご提示くださったとおりに板漫荼羅の厚さは通じて2寸2分、飽くまで「板」としての記録です。

熊田葦城氏は厚さを記していないわけですね。ここの部分、注意が引かれました。
そして、近年では達師がいきなり「半丸太」発言。元来、半丸太であれば、一目瞭然のわけですから、そう諸記録に残ってきてもよさそうなものですよね。不思議ですね、これは。

536三学無縁:2004/03/15(月) 19:06
独歩さん、どうもです。
板、ということと、丸太の唐竹割り、ではずいぶんと違いますね。
あらゆる木造建築は、伐採した木を乾燥させなければ建材として使用しません。
これは伐採して間もない木材は水分などを含んでおり、乾燥すると湾曲したり亀裂を生じるからです。
では、件の板漫荼羅に使用した木は充分に乾燥させてから日蓮さんは「造立」したのでしょうか。
石山の最新の見解では、件の年月日に日法師に彫らせたといっているようです。
これは『日蓮正宗入門』に記述があったと思います。

まあ、原木の状態についてはあれこれ想像しても仕方ないことですが、石山が日法師彫刻説をあらためて主張しはじめたのには驚きました。
石山では離山に際して日興師は何一つ持ち出さなかったという見解と、一切の重宝を奉じて離山したという正反対の意見がありましたよね。
かりに持ち出したとするならば、その重宝にはどのようなものがあるのでしょうか。
ご消息やその他の真筆御書が当時の身延にあったとは考えにくくありませんか。
日蓮さんが出したものが日蓮さんの手元に残っている道理がありませんから。
もっとも残っていたのは清書前の下書きだったというなら話はべつですが。

さて、板漫荼羅ですが、現在の石山では身延にあったものを運び出したと主張しているわけです。
尊いものなのですから、当然、牛馬に担がせたり荷車を引かせたりはしませんよね。
すると遷座のときのように弟子たちが肩に担いで、身延山から上野村の南条持仏堂まで運んだということですね。
ここまでくると、百貫坊の復権まであと一歩というところでしょうか。

それから、厚さのことですが、達師の話は、上部の厚さについてでしたね。
では、下部はどのくらいなのでしょうか。
半丸太、ということなのですから、底面は半月形をしていることになります。
横が60センチ以上ある丸太をどのような角度でカットしたのでしょうか。
当時、のこぎりはあったのでしょうか。
マサカリとか斧で割ったり斬ったりしたあとでチョウナで整えた、ということを示唆もしくは暗示する主張なのでしょうか。
いやはや、石山の主張するところは本当にわかりずらいです。

537犀角独歩:2004/03/15(月) 23:53

三学無縁さんと掲示板上でやりとりできるなど、恐悦至極です。

わたしは人権を侵害されるような文句を言われれば、それにいちおう反論もしますが、あんなものを信じ込まされていた自分、未だかつて信じ込まされている人々、これは被害者以外のなにものでもないと思うわけです。

蓮師の真筆であれば、歴史的な価値がありますが、たかが板に彫った彫刻、それも蓮師となんの縁も縁もない後世の捏造を、蓮師のものであると信じ込まされ、それを否定する人間を憎悪するように心理操作されていることに気付けない被害者に同情の念を禁じ得ません。しかも、その人々に敵愾心を燃やされることも重々承知しています。かつての自分の姿ですもの、わかります。

そのなかで三学無縁さんは数少ない我が導きの師です。かつて板漫荼羅信奉者であったときに投げかけた数々の無礼を莞爾と受け止めていただき、いまにお付き合いくださるその懐の深さはいまのわたしの在り方のお手本になっております。

改めて、ここに謝辞を述べ、今後のご指導・ご鞭撻を謹んでお願い申し上げるものです。
稽首

538犀角独歩:2004/03/16(火) 07:16

三学無縁さんが指摘されるとおり、

> 件の年月日に日法師に彫らせたといっている

というアナウンスは物理的に不可能だと思います。

身延を実地見聞すればわかりますが、原材となった楠が浮かんだという七面山(標高1982m)は身延山(標高1153m)の頂上から見える近隣の山なのであって、そこから直径60センチ以上、長さ2メートル近くもある原木、池に浸かっていたわけですから十分に水分を含んでいるものを旧暦で言えば11月雪積もる季節に道すらまともにない身延山中の草庵まで運ぶことも困難なことでしょうし、その樹を乾かすだけでも何年も掛かるでしょうし、さらに彫刻し、漆をかけたとすれば、その作業も半年、1年という単位の仕事となるでしょう。草庵跡に直ぐ側には草庵を復元した建物がありますが、その規模を見れば、そこに蓮師その他が居住し、その傍らで、2メートル近い原木から板漫荼羅を制作することができるかどうか。周囲は雪深く、そして、鬱蒼とした原林、急勾配の斜面です。いかにも身延という実地見聞もしたことがない人間が創作した物語であると思うしかありません。

また、板漫荼羅は熱原法難を機縁として作られたと言います。信徒が投獄、拷問、斬首に至る悲惨な逼迫した出来事であるわけです。ところが、この板漫荼羅の原木からは御影像も造ったというわけです。まず掌に載る三寸ばかりの像を造った法師はそれを袖に入れて蓮師の基に持参して見せると、にっこりと笑って允可したというわけです。方や、信徒が引っ立てられてむごい仕打ちに遭っているときに自分の像を見て笑っているというエピソードはあまりにもかけ離れています。

真面目にそれぞれの話を考証すれば、いかにも現実味が乏しい点ばかりが気になるわけです。だいたい、七面山の七面大権現という“神様に祈念”して楠原木が浮かび上がったというのです。これは石山で言う「謗法」行為そのものではないですか。

539犀角独歩:2004/03/16(火) 08:31

538の資料に

「一、日蓮聖人御影居長三寸 一体
 作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、薄墨素絹白五帖袈裟なり、則聖人の剃髪を焼消し以て之を彩色す云云、日法右板本尊並に此の像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之れ有り」(富士大石寺明細誌)

この書は、楠原木の取得について『松野殿御書』(因師引用)と記述が違っています。

「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず」

原木を取り上げたのが弥四郎国重ということになっています。また、ここでは弥四郎国重は波木井実長(円師)の嫡男ということになっています。

540空き缶:2004/03/18(木) 00:06

弥四郎国重、いったい誰なのでしょうか。れんさんは、奥州の新田小野寺ではないといわれ、益々謎が深まるばかりです。

 富士宗学要集第6巻「破愚邪立正論」には「汝等言フ所の板本尊は身延山にて日法七面に祈り得たる処の浮木なり、裏書に云ク戒旦の施主石川弥四良国重、上野題目講中と有リ是レを何ぞ日興嫡々と尊敬せんや」と有り、重須と上野をゴッチャにした「石川弥四良(郎?)国重」なんて出てきますね。

 いずれにしましても、犀角独歩さん著作の出版が楽しみです。

541犀角独歩:2004/03/18(木) 18:29

空き缶、ちょっと久しぶりですね。
いつもテーマを決めて真剣に考え、研鑽されているお姿、頭が下がります。

542れん:2004/03/19(金) 10:37
空き缶さん。私が「弥四郎国重」を小野寺氏等武家身分であるとする見解に消極的なのは、もし弥四郎国重が武家身分ならは、「弥四郎」国重ではなく、(たとえば小野寺氏ならば)藤原国重などと、本姓と実名で記されるのが中世時代の通例の書式ですので、武家身分ならば「弥四郎国重」と言う通称と実名では記されない。というのが理由です。私の勝手な憶測では、弥四郎国重は案外板曼陀羅の文字の彫刻にあたった職人さんの名前ではないかとフッと思ったりしてます。あくまで憶測にすぎませんが…。m(__)m

543空き缶:2004/03/19(金) 18:37

れんさん、以前にもカキコしたように思いますが「弥四郎国重」とあり、「姓」を省いているのは同姓の親類者である可能性が高いと思いました。

 目師から道・行・時までの四師の下であれば、可能性がなきにしもあらずと思ったわけです。

544れん:2004/03/19(金) 19:19
空き缶さん、弥四郎国重が以前空き缶さんが提示された小野寺資料にあるように、新田信綱氏?の子息ならば、同時代(世代)の興師目師道師の曼陀羅等の正文書に出てこないのが不審なのです。板曼陀羅は道師(目師弟子の民部日盛師を含む)門下により製作されたものでしょうが、たとえ同姓親類者であっても板曼陀羅に記す場合は新田弥四郎藤原国重などと記すものです。また行師時師は小野寺資料の弥四郎国重と年代が離れており、行師時師が板曼陀羅に名前を使う理由が分かりません。此等の理由で弥四郎国重の小野寺氏出身説・武家身分説は疑問なのです。

545空き缶:2004/03/20(土) 01:13

 れんさん、やはり可能性はありそうです。姓を名乗らずに「弥四郎国重」とすることは。
 当時、板本尊は大した宝物ではなかったと考えれば。実際に大石寺系の正文書に「本門戒壇御本尊」としてこの板曼荼羅が登場するのは、ずっと後の事だと思います。
 恐らく、数百年後にこれほど多くの人を騒がすようなものになるとは誰も思っていなかったものなのではないでしょうか。
 遊び心でつくったものが、後世に何かの間違いで重宝になってしまったのではないでしょうか。
 全て憶測の域を出ませんが。

546犀角独歩:2004/03/20(土) 14:29

いきなり突然、関係ないことを書きますが、以前、板漫荼羅修繕の際に腐朽して落ちた木屑を創価学会が関西方面で放射性炭素法かなんかで調べた結果、400年以上は遡れないとか言った情報が流れたことがありましたが、この点にご存じの方、いらっしゃいますか。
あと、以前、ワラシナさんが紹介してくれたことですが、板漫荼羅は花押の下、つまり腰書「造立…本門戒壇願主弥四郎国重…敬白」が書かれた部分は接木で本体とは別の木であるといった話がありました。腐朽して修繕した部分は、本体か接木か、ここら辺の話をご存じの方はいらっしゃいませんか。

れんさん、空き缶さんの議論とも関係しますが、ちょっと、仮説です。
板漫荼羅の本体部分は先に造られた。その後、下に接木した。もし、そうであれば、板漫荼羅本体の造立は上古でも、弥四郎国重の由来はぐっと中世に近づくことになります。

二箇相承の「国主」、また、弥四郎国重を身延地頭嫡男という精師。彼は宗史が専門といったところですから、伝聞を載せる段で、国主と弥四郎に一定の整合性を見いだしていたと考えられると思うわけです。

547犀角独歩:2004/03/20(土) 14:37

れんさん:
空き缶さん:

上の書き込みとはまたまったく別の視点からなのですが、初歩的な質問をさせてください。

『竜泉寺申状』に「去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎男の頚を切らしむ」とありますが、この「弥四郎」は板漫荼羅との関係で論じられることは、なぜないのでしょうか。

548空き缶:2004/03/20(土) 17:39
「熱原弥四郎坊男」大石寺の諸説の中には、「弥四郎国重」をこの「熱原弥四郎坊男」であるとする仮説もあったと思いますが…?
たしか、熱原法難と「聖人御難事」が戒壇之大御本尊と深くかかわっているとか。

549れん:2004/03/20(土) 19:27
犀角独歩さん。弥四郎国重を蓮師・興師の檀越の中に求めるのならば、竜泉寺申状の中の弥四郎坊男に宛てるのも一つの仮説として面白いと思います。又細井師(達師)の如く弥四郎国重を神四郎に宛てる(つまり弥四郎国重を神四郎の前名ないし実名とする)仮説もありますが、どちらの説も、残念ながら蓮師・興師の正文書からは裏付けがとれないためあくまで仮説の範疇で事実性に乏しいものです。m(__)m

550愚鈍凡夫:2004/03/20(土) 21:54

日達師の言葉って、木を削った道具が違うと思われるから鎌倉時代の作だの、大野山に楠が自生してるだの、弥四郎国重は神四郎のことであるだの、読んでるこっちが切なくなる発言が多いですよね。 (..;)
さぞかし、当の本人は辛い想いをしながら言ってるんだと思いますが・・・・・。 (-_-;)
時々、この人自分の言ってることを本当に信じてるのかな?
と思ったりします。

551空き缶:2004/03/20(土) 23:44

北山の主張として「且つ本尊の義拙寺に宗祖真筆の本尊数多之有り、其中に万年救護の大本尊と申し御判の辺に本門寺に懸け万年の重宝たるべしと之有り候間、開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是則ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや」(富士宗学要集第9巻P153)というのがあります。

この万年救護本尊を差置き、板曼荼羅を戒壇本尊とするのには相当な理由付けが必要であったのだと思います。

552犀角独歩:2004/03/21(日) 10:51

「万年救護」の、この語彙が御筆漫荼羅(本尊集 No16)を指すようになるのは、かなり後代のことですね。少なくとも、蓮興二師はこの「大本尊」に万年救護の意義を持たせていません。なぜ万年救護本尊と呼称されるようになったのか、実は、上古の本門戒壇その他を考えるうえで重要な鍵になっているとわたしは思っています。

以下、冨要10巻から「万年救護」語の検索結果です。
一瞥すればわかるとおり、万年救護は元来、六老の、特化して興師の装飾語であり、その相承、あるいは学問を指していました。これを No16本尊に引き当てたのは誰か?
精師でしょうか。

やや細かいことを言えば『日蓮聖人年譜』に「万年救護本尊‘書写’して以て日興に授与」の‘書写’の二文字は気になります。蓮師が図示であって、本人がオリジナルを書くわけですからこれを書写とは言わないのに精師はこう記述するわけです。けれど、『家中抄』では「に万年救護の本尊之を図し」となっています。前者は単なる書き間違いか、それとも?と疑問が残ります。あと、隠師が「万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現して之れを弘宣す云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅」というのは、これまた単なる思い込みかどうか。

いずれにしても「大本尊」がやがて万年救護に仕立て上げられていった経緯の仕掛け人は、精師か、あるいは他であったのか、歴史展開の重要な鍵となると思うわけです。

*** 以下検索結果 ***

日興遺誡置文
万年救護の為に二十六箇条を置く

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)
万年救護の為に之を記し留むる者なり。

具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)
万年救護写瓶(しゃびょう)の弟子日興之を授与す云云。
一大事の秘密なり。然る間万年救護の為に之を記し留む。

五人所破抄
今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む

百五十箇条
今日蓮聖人、万年救護の為に六人の上首を定む

穆作抄
日蓮聖人万年救護の為に六人の上首を定む

五人所破抄訳解
今日蓮聖人は万年救護のために六人の上首を定む

五人所破抄見聞
今日蓮聖人は者為に万年救護の定む六人の上首
日蓮聖人為に万年救護の定る六人の遺弟を中に日興一人付弟の上首

申状見聞私
日興学法は高祖にて御座す非平生の学問に三大秘法末法万年救護の血脈の御学問也
白蓮阿闍梨…高祖嫡々の御弟子、万年救護の写瓶たる

日蓮聖人年譜(日精)
万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ。

富士門家中見聞上(日精)
甲州波木井の郷に入り給ふ此年十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ
弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり

富士門家中見聞抄目録(家中見聞中)
万年救護の本尊並に日目授与の本尊

新田南条両家之事
付法は日興学法は高祖にてまします、平生の学問に非ず三大秘法末法万年救護の血脈の御学問なり

観心本尊抄首日相聞書
万年救護の御本尊の端書に云く、大覚世尊御入滅後二千二百廿余年を経歴す…

五人所破抄一覽(日穏)
万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現して之れを弘宣す云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅也
今日蓮聖人者又為に万年救護の(三十五字省略)能聴是法者斯人亦復難と文。

富士大石寺明細誌
十一甲…同十一月蓮祖大漫茶羅を書して師に授与す万年救護の本尊と号す後目師に相伝

553犀角独歩:2004/03/21(日) 11:16

空き缶さん:
れんさん:

有り難うございました。
わたしは個人的には弥四郎国重は円師嫡男説に基づいてその名前が利用されたのに過ぎないのではないかと思っていて、この人物をいくら洗っても、板漫荼羅の謎には迫れないだろうと考えています。

『竜泉寺申状』の一節を、敢えて挙げましたが、石山アナウンスでは10月12日造立の彫刻の願主がその前に殺されているというのは、辻褄が合わないわけですね。
板漫荼羅の造立が完成する段階で弥四郎国重なる人物は生きていなければならない。けれど、いや、殺されたから、その人を顕彰して願主に据えたというのであれば、今度は10月12日の日付とは一体なんぞや?という疑問が生じることになります。

蓮師の誕生は唯一『御伝土代』の記述から2月16日と言われるわけですが、これは2月15日釈尊命日の次の日であるから取り沙汰されるわけですね。本当に、その日の誕生かどうかは実のところわかっていないわけですね。同じように「日蓮が影・今の大曼荼羅なり」なんて伝説が言われるぐらいですから、板漫荼羅の造立を蓮師命日の前の日に据えただけということもありだろうかと。それがあとから聖人御難事、熱原法難、御伝土代の記述なんかモンタージュされて、いま言われるような板漫荼羅本懐が言われるに至った、そんな可能性も視野に入れるべきではないのかと思っています。

愚鈍凡夫さん:

からい達師解説(笑)

達師は自分の漫荼羅の相貌を板漫荼羅に似せていました。特に愛染の異形、「經」字の止筆、よくその特徴を写していたわけですね。だから、まあ、信じていた…。いやもっと言えば信じたかったのだろうと思いますね。

554愚鈍凡夫:2004/03/21(日) 13:05

>>551:空き缶さん

> 開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是則ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや

「(重須)開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候」
というところが、そこはかとなく奥ゆかしさを感じますね。
「宗祖図顕以来より」じゃないところが渋いですね。
「んなワケねえだろう」といったことを言い張らないだけ好感が持てるような気がします。

犀角独歩さん、
日達師の法主の座を離れた、"一探求者としての感想"(本音)を聞いてみたかったです。

555れん:2004/03/21(日) 18:57
空き缶さん。興師は佐渡国法華衆等本尊聖教等事にて阿佛房に所蔵する蓮師の曼陀羅聖教に就いて「安置阿佛房本堂之可為本門寺之重寳」と記しております。この例から拝察すると、蓮師曼陀羅中の興師加筆にある本門寺は、特定の寺院名を指すのではなく、迹門ノ寺(天台ノ寺)に対する本門ノ寺(日蓮門下寺院)を指すものと考えられます。ゆえに蓮師曼陀羅の中に興師が本門寺重寳と記したものも、広布の暁に建立される本門寺と理解するのは早計であり、北山本門寺の様に本門寺重寳等とあるから戒壇安置の曼陀羅と主張するのもやはり早計と存じます。m(__)m

556くらくら:2004/03/22(月) 07:01
>>わたしは個人的には弥四郎国重は円師嫡男説に基づいてその名前が
>>利用されたのに過ぎないのではないかと思っていて、この人物をい
>>くら洗っても、板漫荼羅の謎には迫れないだろうと考えています。

大石寺も創価学会も紆余曲折しながら日蓮大聖人己心の存在、つまり
架空の人物である。みたいな紹介かもしれません。

 この辺の前後のことは少々ですが「創価学会の悲劇」に掲載されて
います。お持ちでしたらご覧ください。お持ちでなければオークショ
ンに出てますから、お求めになるのも宜しいかもしれません。

557犀角独歩:2004/03/22(月) 09:51

> 「創価学会の悲劇」

玉井さんのですか。Xさんの情報を底ネタにした本ですね。
わたしは玉井さん、小野寺さん、美濃さんといった方々のネタは参考にしません。
出所はみな一緒ですから。また、そのネタ元も参考にしません。

558犀角独歩:2004/03/22(月) 10:26

愚鈍凡夫さん:

> 日達師…本音…

そうですね。
でも、わたしは愚鈍凡夫さんの達師観とはちょっと違うかも知れません。
達師もいろいろと考えはあったろうけれど、学会の大躍進で、ひととき広宣流布が本当にできると夢想した瞬間があった。そして、そのあとで池田さんに他の人々の面前で怒鳴りつけられプライドを傷つけられ、本心に帰った。まあ、本音で言えば「池田は嫌いだ」と言ったところだったんでしょうね。けれど日蓮本仏、板漫荼羅を疑うことはなかったんじゃないかと。

あの頃の石山には、なんとか学会から本山を護ろうという気概みたいなものがありました。達師もその一人ではあったろうと思います。
水島師が書いていた老僧の遺言「…なんでもいいから、お山を守るんだよ。…ご戒壇さまと、法主さまをな…。」(『久保川論文の妄説を破す』P107)という言葉は当時の共通した石山人の意識だったと思います。

それでも、達師は、なかなかの策士の面もあったと思います。
第一次学会問題で正信会を創り、学会擁護で大村師・攻撃に山口師と、それぞれと使命を与え、飴と鞭を使い分けていったわけです。本音として学会を切ってしまおうという気持ちはなかったけれど、「学会主・宗門従」とまでエスカレートした学会支配に抗っていたわけでしょうね。

達師の晩年は、そんな権威復権のために腐心することが大半を占めていくことになりますから、もうほとんど冷静な研究考証なんかできなかったんじゃないでしょうか。表面的に沈静し、池田さんを会長から降ろし、法華講総講頭もやめさせ、学会に教学上の過ちを認めさせた。そこで力尽きた、そんな死でした。

わたしは達師の死にひどくショックを受けた一人でした。そのあと、手にした達師全の最後、その絶筆が、重々しくようやくと染筆したと見える「仏恩」の二文字であったとき、滂沱にくれたものでした。当時、ここに達師の本心を見た思いがしたからです。

その一連の流れのなかで板漫荼羅が蓮興二師によらない後世の造立であることを知りながら、しかし、外面ではありきたりの日蓮本仏・板漫荼羅絶対を口先に載せ、まんまと泳いできたのがいたんでしょう。わたしは、この人間の本音だけは暴こうと思っています。まあ、これは達師の本音という点から外れますけれどもね。

559犀角独歩:2004/03/22(月) 14:04

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』更新しました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

ご高覧下さり、ご叱正を賜れれば幸甚です。

560通行人:2004/03/22(月) 20:01
戒壇のご本尊様は偽者。もう、ここでは当たり前のお決まりになってしまいましたね。時折、出てくる反論者も二の句なしだもんね。ほかのサイトを見ても思うけど、戒壇のご本尊様の批判に対して、冷静に資料を引いて反論するより、批判者をバカにしておしまいにするのばっかり。犀角独歩さんのまじめな交渉を読んで考えさせられました。少し目が覚めました。ありがとうございました。

561愚鈍凡夫:2004/03/22(月) 20:39

犀角独歩さん、レス有り難うございます。
石山にとって創価学会と深く関わったことが良かったのか、悪かったのか、功罪両面に亘る問題だけに、一概にどっちともいえないですね。
一部の高僧や大幹部のみが知り得た情報・資料がインターネットの発展によって明らかにされ、双方の闇の部分が公にされることは歓迎されるべきことだと思います。

日達師は宗創紛争の被害者であると思いますが、宗創紛争に巻き込まれた多くの被害者の気持ちを考えると、日達師を加害者側にシフトして考えてしまいます。

562犀角独歩:2004/03/22(月) 22:29

通行人さん:

はじめまして。ご高覧、有り難うございます。

たとえば、法門の申し始めは真跡『聖人御難事』にご本人が記されるところで疑う余地のないことと思えます。
蓮師の入滅は興師の『宗祖御遷化記録』という信頼の置ける現存資料で、ほぼ間違いないところであろうと思えます。この点は「本弟子六人」も同文献に載ります。
では、誕生はと言えば道師『御伝土代』に載るわけですが、この記述年月日はやや不詳のところがあります。そのことから本当に貞応元年2月16日であったかどうか、良識のある学者であれば確定を避けます。

以上のような次第で、所謂「本門戒壇之大御本尊」が弘安2年10月12日に図示彫刻された証拠は?と追うとまったく資料にあたることができないわけですね。こうなると、確定的に論じることは、実に無責任な態度であるとわたしは思うわけです。

まあ、板漫荼羅が学会を含む石山系集団のアナウンスどおりのものであれば、それにこしたことはありません。わたしも喜びます。信奉者は、ただ淡々と確実な資料を呈示すればよいだけのことです。

しかし、3年以上の議論で信奉者はその資料を呈示することはついにできなかったということです。いや、それはわたし自身の過去の姿でした。ですから、わたしは板漫荼羅の真たる信念を捨て、国立戒壇を蓮師遺命であるとすることも捨てるに至りました。それは証拠も示せずに、ただ沈黙して、自分の信仰スタンスを是とする態度は不誠実だ考えたからです。

さらに申し上げれば、ここで盛んに板漫荼羅が本物であり、国立戒壇は蓮師の遺命だとやっていた人々が、事実証拠を示せないまま、相変わらず、そのスタンスを変えないことを、わたしは敢えて卑怯であると申し上げることにします。

もちろん、これは通行人さんの潔さに敬服して申し上げるところであることは言うまでもありません。

563犀角独歩:2004/03/22(月) 22:33

561 愚鈍凡夫さん:

仰るところ、よくわかります。そのとおりだと思います。

一宗を統帥する者が、自分が勧める信仰本体の科学的、かつ文献的な精査もせず、800万人から供養を受け、国立戒壇、事壇論を右に左にした責任はやはり本人が負うところでしょうね。

564犀角独歩:2004/03/24(水) 17:31

ネットを検索していたら、達師の言として『大日蓮』昭和48年2月号の記載として

「宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばされた御本尊様でございます」

とあったのに驚きました。一宗の統帥をするものが蓮師が漫荼羅を書き写したというわけです。いったい、何から書き写したんでしょうか?

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/1239/geika_nitatsu.htm

565愚鈍凡夫:2004/03/24(水) 21:26

犀角独歩さん、いやはや切なくなるような日達師の御指南でした。 (..;)

日達師の、

> 宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばされた御本尊様でございます。

との言葉は、取り方によってはオリジナルが他に存在して、「戒壇之本尊」はその模刻であると暗に示唆しているようにも思えますね。

566顕正居士:2004/03/27(土) 07:38
書写

という熟語は今は「書き移す」意味にも使いますが、もとは「手で書く」意味です。
妙法曼荼羅について「書写」という場合は「図顕」の意味で、訓は「かきあらわす」
になるでしょう。文字だけを書き移すのは「筆写」、書体も真似るのは「模写」と
いい、原本を見ながらなら「臨写」といいます。

故日達師のいうのは「図顕」の意味でしょう。大石寺の寺宝「戒壇本尊」には紙幅
の原本はなく、日蓮が直接に板にしたため、日法などが彫刻したというのが平均的
な伝説かとおもいます。

567犀角独歩:2004/03/27(土) 08:22

566 顕正居士さんのお言葉ではありますが、

しょしゃ 【書写】
(名)スル
(1)書き写すこと。
「経文を―する」
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

であって、「写す」ことが書き表すことになるという点は頷けません。
また、興門では重須壇所以来、日蓮漫荼羅を興師以下が「書写」と言い、石山では、歴代住職が漫荼羅を図すとき「書写」の二文字を入れてきたわけです。もちろん、蓮師漫荼羅上にこの二文字はありません。ですから、御筆漫荼羅以外の用語であるわけでしょう。

石山のアナウンスが板漫荼羅には直接書いたというのはそのとおりでしょう。

568顕正居士:2004/03/27(土) 10:29
独歩さん。

書写という熟語の書は かく write 、写は 手でかく write by hand の意味であります。
ただし法華経に五種の修行というのがあって経文を筆写することを書写と訳しております
ので、早くから写経の意味にも使われました。けれども妙法曼荼羅の場合には大石寺派を
含めて図顕の意味でいっているとおもいます。なぜなら書写が原本の文字だけを写した、
すなわち筆写の意味なら書体は真似なくても諸尊やその位置、年月日や讃文が原本と同じ
はずですね、そうではなくて後世の諸師は図顕の意味で書写といっております。
妙法曼荼羅は日蓮の魂であるから、諸師の図顕はその筆写に過ぎないという意味はあり
得ますが、特定の曼荼羅を筆写しているわけではありません。だから故日達師が書写という
のは日蓮が板に自筆した write by hand の意味でしょう。自刻なら「造立」などという
はずですから。ちなみに題経寺の板曼荼羅は日蓮自刻の伝説です。

569犀角独歩:2004/03/27(土) 10:47

顕正居士さん:

仰ることはそのとおりで異論はないのです。
ただ、日蓮漫荼羅を「奉書写之」する場合、石山のアナウンスでは、「之」は板漫荼羅であるというわけです。ですから、そのオリジナルとオリジナルを書いたことを書写と言ってはまずいだろうというのがわたしが言いたかったことです。
図顕、図示などというべきところを「書写」と言ってしまい、さらに『大日蓮』編集室がその瑕疵に気付かず、文書化した過ちを言っているのです。

つまり、これはわたしがこの編集室の仕事をしていた行きがかりからも記したことです。
もっとも達師は書写を英語から考えてはいなかったでしょう(笑)

570れん:2004/03/27(土) 11:33
参考までに。石山四世日道師は日興上人御伝草案にて、図にウツ(す)とルビを付しています。蓮師は文字通り図顕ですが、興師以下は弟子の立場からウツすと訓じたのでしょう。ちなみに上代石山貫首の曼陀羅では、興師と道師は書写之を記していますが、目師・行師・時師・有師は書写之を記しておりません(私が見た曼陀羅にかぎりますが)。m(__)m

571れん:2004/03/27(土) 18:30
順師の摧邪立正抄に「法華者諸経中第一富士者諸山中第一也故日興上人独卜彼山居対治爾前迹門謗法欲建本門戒壇奉安置本門之大曼陀羅當唱南無妙法蓮華経公家武家捧奏聞道俗男女令教訓」等云々とありますから、興師の考えとしては、戒壇には本門之大曼陀羅を安置するというものであったろうと存じます。ただ蓮師も興師も戒壇安置の曼陀羅を敢えて書き残さなかったことを考慮すると、戒壇安置の曼陀羅は戒壇建立時の時の貫首の書写曼陀羅で良いのではないかというのが今の私の考えです。m(__)m

572空き缶:2004/03/27(土) 19:07

雑談ですが、顕本法華宗の日運師は「○○○○年○○月日書写」と、自ら本尊を「書写」したことを紙上に書きしるしています。
 主題の下は「日蓮在御判」です。
 さらに顕本法華宗開祖の日什師の曼荼羅は、讃文が「如来滅度後」ではじまっており、他門ながら日興上人の御本尊書写を継承しているようです。

573犀角独歩:2004/03/27(土) 23:05

れんさん:

> 目師・行師・時師・有師は書写之を記しておりません

これは非常に興味深いご呈示です。
この理由をれんさんはどのようにお考えになりますか。

574れん:2004/03/28(日) 17:35
犀角独歩さん。石山歴代の目師・行師・時師・影師・有師ばかりでなく、郷師・妙師も「書写之」を曼陀羅に記しておりませんね。興師も初期の正応三年十月八日書写の二幅、晩年の元徳二年閏六月朔日書写の一幅には「書写之」を記していない例があります。目師・行師・時師・影師・有師並びに郷師・妙師の曼陀羅の相貌はいずれも書写之と記されずとも、基本的に興師の書写曼陀羅を忠実に書写し、図顕形態ではなくあくまで書写形態を採用しておりますから、これらの諸師は単に慣例的に「書写之」の記入を省略しただけのことと思います。m(__)m

575犀角独歩:2004/03/29(月) 10:26

れんさん、いつもご丁寧なご教示、有り難うございます。
ところで、書写漫荼羅は何の資料をご参考になっていらっしゃるんでしょうか。この点もご教示いただけませんでしょうか。

576れん:2004/03/29(月) 18:19
犀角独歩さん。お尋ねの書写曼陀羅の私の参考資料は、興風談所刊行の「日興上人御本尊集」と日目上人奉賛会発行の「御本尊集 奉蔵於奥法寳」(覆刻版)です。なお、覆刻版奉蔵於奥法寳には付録日興門下御本尊集があり、目師書写曼陀羅二幅、郷師書写曼陀羅一幅、華師書写曼陀羅一幅(但し偽作の可能性が高い)、妙師書写曼陀羅一幅、代師書写曼陀羅三幅、満師書写曼陀羅一幅の御筆写真を収録しております。これらはいずれも東陽堂書店で購入しました。m(__)m

577犀角独歩:2004/03/29(月) 18:28

れんさん、重ねがさねのご教示に深く感謝申し上げるものでございます。
有り難うございました。

578れん:2004/03/29(月) 18:31
書き忘れていましたが、はちす文庫発行の「石山本尊の研究」は興目両師と寛師以降の石山歴代の書写曼陀羅・そして板曼陀羅の写真とその翻刻を収載しており、これも参考資料でした。m(__)m

579犀角独歩:2004/03/30(火) 18:15

れんさん、有り難うございます。本日、知人から(と言っても、こちらにも投稿するいわば常連さんですが)『石山本尊の研究』を借りました。

このなかで「現在は西山本門寺の僧侶を自称する者等が拙書の発刊に絡み、版下原稿を彼等の小冊子に盗用した」という物騒な『自序』から始まっているところにまず目が留まりました。「ああ、あの人か」と思い当たりましたが、名前は書かないことにします。

わたしもいま自分なりの板漫荼羅真偽の結論を他に盗用されそうになりいささか不快な思いを成して、発表まで記さずに置こうと思っていましたが、結論を先の小稿にわずかに記しました。いずこにもこの手の人物はいる者で、それが一般人、文筆の素人ならばまだしも、れっきとした学者、僧侶でもこのようなことを為して恥じ入ることを知らない様に、憤慨を覚えるものです。

580犀角独歩:2004/03/30(火) 18:58

わたしは極端な原典主義で、殊に解説書から原典に戻るという思考方向を極端に嫌ってきました。ですから、板漫荼羅真偽の考証も資料は見るものの、近代のいわゆる批判書の類は参考にすることもなくやってきました。図書館その他でざっと見て、「おお、こんなことを言っているのか」程度です。もとより資料から自力で考える主義です。

それでも、書きたいことをようやくと脱稿したので、本日、『板本尊偽作の研究』(再版)を手に取ってみました。なかなか味わいがありました。

第8章『稲田素海老師の説』と紹介し、
「板本尊は四つの部分に分けて考察すればよい。十界座配の部、日蓮花押の部、仏滅後二千二百余年と云う韻文の部、為現当二世造立如件云云の制作縁起この四つの部分に分けて考えればよい。
 第一の十界座配は勿論、原本は御真筆、第二の日蓮花押も原本は真筆であるが、第一の十界原本とは違う。他の日蓮曼荼羅の日蓮花押を模写したものだ。即ち、十界座配の原本と日蓮花押とは模写した曼荼羅が異なるのだ。宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。そして第三の仏滅後二千二百余年と云う韻文と、第四の為現当二世造立如件云云の制作縁起は、宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である」(P38)
とあり、おお、こんなことは既に言われていたのかと楽しくなりました。
こんな造りの板漫荼羅を編著者・木下師は香具師の「よせもの」と言っているのは「うまい表現だな」と感心しました。

ところで老師の四つの分類の「十界座配」には中央題目は入るのだろうか、と、やや判読の困難を感じました。

木下師は老師の説を受けて、原本真筆を、十回座配を弘安2年11月増師授与漫荼羅・日蓮花押を所謂紫宸殿漫荼羅のものと勘ぐっています。しかし、これは少なくても後者は違います。

あと木下師が弘安2年2月、小泉久遠寺控(うつろ)字漫荼羅に着目していました。
この写真をまったく見たことがないのです。板漫荼羅の題目は弘安2年の「經」の字体と一致しないのは言うまでもないので、なぜ、この年代に師が注目するのかわたしは訝しく思います。

どなたか、ご覧になった方はありますか。

581犀角独歩:2004/03/30(火) 19:09

579 自己レスです。

先ほど、投稿したところ、とある方から、「西山本門寺の僧侶…盗用と言われる当人は、むしろ、柳沢師こそ盗用だ」と言っているとのご指摘をさっそくメールで受けました。

こんな双方の言い合いがあるとは知らず、やや軽はずみな紹介をしたことになります。弁明とも、真実を記せるわけでもないのですが、ひとこと補足させていただきました。

582れん:2004/03/30(火) 21:29
犀角独歩さん、返レス有難うございます。独歩さんが出版されるご本の原稿がようやく脱稿のはこびとなったとのこと、先ずはお目出度うございます。原典第一主義を貫かれる独歩さんの姿勢は大変尊く思います。一宗教団体の信仰対象を否定する以上、単なる主観的な信仰告白では全く意味が有りません。独歩さんのご研究の如く原典第一主義に立脚し科学的・学問的批判に耐え得る論考であってこそ、万人が納得できるものになると思います。これまでの独歩さんの御努力に敬意を表させて戴くとともに、これからもご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

583れん:2004/03/30(火) 21:53
木下師の「板本尊偽作の研究」は未だ拝読の期を得ておりませんが、上記書籍に記された稲田師の御見解は、実際に現物を見た上でのものだけに説得力があります。十界座配が石蔵弘安二年十一月日俗日増(日興門流上代事典によると当曼陀羅には興師筆で□□九郎次郎時□日興の加筆が存する由であり、当曼陀羅は興師異父弟の綱島九郎次郎時綱氏に授与された可能性がある)授与曼陀羅からのものという説は有り得ると思います。控字の曼陀羅は御本尊集に収録されてないので真偽の問題があると思いますが、将来写真が公開されれば考証の参考になると思います。

584犀角独歩:2004/03/31(水) 09:32

該博な知識をお持ちのれんさんに過分なお言葉を頂戴し、恐縮しております。
わたしのほうこそ、多くのご叱正を賜り、今後ともご教導の程、お願い申し上げるものでございます。

585犀角独歩:2004/03/31(水) 10:15

また、れんさんには俗日増授与漫荼羅につき、ご教示いただき有り難うございました。

稲田師の言は

「近代の学僧、稲田海素老師は宗の内外を問はず古文書鑑定の最高権威であるが、編者が板本尊に関しておききしたのは左の如くである。
 老師云く『板本尊は、宗祖の御真筆を模写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は、私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直感した。板本尊の原本は確に、御真筆である」(P38)

という当スレッド277にれんさんが紹介されたとおりです。この言葉を承けて『板本尊偽作の研究』(再版)で、木下師が板漫荼羅原本の可能性として挙げるのは以下のとおりです。

一、弘安二年乙卯十一月日
  俗日増に之を授与す
  日興加筆、本門寺の重宝たるべきなり(P40)

と書いています。冨要の記述と一致していました。これはれんさんが583にご教示くださった漫荼羅と同一のものでしょうか。
この漫荼羅につき、先の稲田師の言から木下師は類推し、

「稲田老師が、大石寺え調査に行った明治初年に弘安二年の日増授与の漫荼羅が、当時、客殿の高い所に掛けられていたか、否か…日蓮花押の模写の原本は、云うまでもなくサイズの大きな紫宸殿本尊だと、編者は思う」(P41)

と書いていますが、木下師は大きな勘違いをしているのではないのかとわたしは思えます。

ここで客殿に懸かっていた漫荼羅を日増授与漫荼羅を類推しているようですが、稲田師が客殿に懸かっていたと云った漫荼羅はむしろ「紫宸殿本尊」のほうが可能性は高いでしょう。けれど、さらに付言すれば、板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、稲田師の説は外れているとわたしは記すことにします。

それでも、稲田師の板漫荼羅四パーツ説は実に示唆的です。ただし稲田師は四大天玉と不動・愛染に注視されなかった点が惜しまれます。

586犀角独歩:2004/03/31(水) 10:28

【585の訂正】

誤)板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、稲田師の説は外れているとわたしは記すことにします。
正)板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、木下師の説は外れているとわたしは記すことにします。

587犀角独歩:2004/03/31(水) 12:16

板漫荼羅からはやや距離がありますが、『御伝土代』に記される弘安2年漫荼羅の記述

「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ」

という一節が熱原法難の段に記されています。この記述は石山では蓮師と興師が共同で漫荼羅を図顕したと解釈し、それが宗内で‘定説’となってきました。しかし、わたしはこの文の主語が「上人」号にあることから「日蓮大聖人はお感じになることがあって、『日興上人』と御本尊にお記し遊ばされるのみならず、日興の弟子・日秀日弁の2人も上人と号し給われた」と一貫して主張してきました。

もし、共同で漫荼羅を図顕した記事ならば「日興上人と御本尊‘に’遊ばす」とならず、「日興上人と御本尊‘を’遊ばす」と書かれるはずだからです。しかし、古語のこと、ここら辺の てにをは は文法どおりとはならないことから未決着のままとなっていました。まあ、しかし、それでもわたしは『御伝土代』にいう弘安2年10月「御本尊」には「日興上人」の四文字があり、そして、「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」という一節が後文に見られることから、板漫荼羅の如く二千二百二十余年ではなく「二千二百三十余年」と記されているだろうと論を展開してきたわけです。しかし、当掲示板では未決着のままとなってきたわけです。

前置きが長くなりましたが、ここのところ紹介している『板本尊偽作の研究』(再版)に、わたしと同様の考えが記されてあり、やや嬉しくなりました。

「日道上人の原文の意味は、日蓮上人が御本尊をお書きになり、脇書に「授与日興上人」と御書きになったと云う意味である。だから、日興身に宛て給はると云うので、細井精道の云うように「日興上人と共に御本尊を建立し給い」と云うなら、日蓮上人と日興上人が共同制作したと云うのだから…身に宛と給はった御本尊でなくなるのである」(P11)

と『日興跡条々事』の記述とも矛盾することを指摘しながら、記されています。…莞爾
まあ、原点をあさって自説を持ったあとで多説を読むとなかなか面白いと改めて実感しました。

588犀角独歩:2004/03/31(水) 12:47

―587からつづく―

先の588の終わりの箇所「原点」は「原典」でした。訂正します。

当スレッドでわたしの質問に458でれんさんお答えにいただいたことなのですが、『家中抄』の「、「弥四郎国重事日道を大石寺に移す」のことを木下師は記しています。
わたしはれんさんのご教示を聞いてなるほどと思ったのです。しかし、木下師は安永師の如く従来の読みに馴染んでいます。その過ちは置きます。その点ではなく、精道師(のちの達師)が安永師を詰った言が実は霑師を批判した形になったうえ、さらに霑師の説を嗤った点です。

「細井精道…(安永師は)「頭の程度が知れる」「いやはや開いた口が塞がらない」のだそうである。…ところが弥四郎国重が日道を大石寺へ移したと読んでる人が近代の大石寺の日霑である。大石寺の日霑は『惟うに無二の大信者たるを以て興尊延山御離散の砌(みぎ)り、法の為、妻子を捨て随逐供養して爰(ここ)に来り興目の世を終え猶日道を扶翼せし者なるか」(冨要集7巻114)
 日霑の説は、弘安2年に身延山で板本尊を造くり、日興身延離山にお供して、大石寺、北山、約40年たってから、日目の滅後、日道のパトロンとなって、大石寺の住職とさせたと云うのである。これはすこぶる面白い。
 弘安2年に板本尊を造った時弥四郎おぢさん、まさか20才や30才の青年ではあるまい。本門戒壇の願主だから40才、50才と思はれる。弘安2年に日興は34才(?)位だからそれから50年以上たった日道の時代には、日興が88才で入滅していることを思うと、100才以上のはずである。
 大石寺の日霑の学説のインチキなること、かくのごとし。(要するに弥四郎はわからないのだ)(P13)

と記しています。柔らかい記述ですが、なかなかツボを突いた批判になっていました。

因みに冨要の該当部は前文からは以下のとおりです。

「弥四郎国重の事跡判然たらざるのみ、然れども家中抄に弥四郎国重事・日道を大石寺に住せしむるの語あるは是れ必ず精師攷る所有つて記せられし者ならむ、惟ふに無二の大信者たるを以つて興尊延山御離散の砌り法の為め一門を離れ妻子を捨て随逐供奉して爰に来り興目の世を終へ猶日道を扶翼せし者なるか」

文中「大信者」は弥四郎国重を指すものでしょう。

589愚鈍凡夫:2004/03/31(水) 12:54

横レス失礼します。
以前よりズ〜〜ッと疑問に思っていたことですが、蓮祖は漫荼羅讃文の「二千二百余年」「二千二百二十余年」「二千二百三十余年」を区別する根拠を何処にお持ちになり、そして、漫荼羅に記したのでしょうか。
ご教示願えれば幸いです。 m(__)m

590犀角独歩:2004/03/31(水) 17:30

仏滅年代。どなたか言い出すであろうと思っていたら、やはり愚鈍凡夫さんでしたか。
漫荼羅讃文の話なので、真跡からの検索はやや補助資料になりますが、ざっと調べたところ以下のような変遷でした。謎ですね。

正元元年(1259)_________38歳「二千二百余年」守護国家論
文永9年(1272)__________51歳「二千二百余年」祈祷抄
文永10年(1273)4月26日__52歳「二千二百二十余年」観心本尊抄副状
文永10年(1273)閏5月11日52歳「二千二百二十余年」顕仏未来記
文永10年7月6日_________52歳「二千二百二十余年」富木殿御返事
文永12年(1275)3月10日__54歳「二千二百二十余年」曽谷入道殿許御書
建治元年(1275)4月______54歳「二千二百二十余年」法蓮抄
建治元年(1275)6月10日__54歳「二千二百三十余年」撰時抄
建治2年(1275)5月11日___55歳「二千二百余年」宝軽法重事
建治2年(1275)7月21日___55歳「二千二百二十五年」報恩抄
建治2年(1275)__________55歳「二千二百二十余年」種々御振舞御書
建治3年(1277)___5月15日56歳「二千二百二十余年上野殿御返事
弘安元年(1278)7月28日__57歳「二千二百三十余年」千日尼御前御返事
弘安元年(1278)11月1日__57歳「二千二百二十余年」九郎太郎殿御返事
弘安2年(1279)9月15日___58歳「二千二百三十余年」四条金吾殿御返事
弘安2年(1279)10月1日___58歳「二千二百三十余年」聖人御難事
弘安2年(1279)10月中旬__58歳「二千二百二十余年」滝泉寺申状
弘安3年(1280)12月初旬__59歳「二千二百余年」大夫志殿御返事
弘安5年(1282)1月7日____61歳「二千二百三十余年」八日講御書

591みかん:2004/03/31(水) 17:53
ご存じのように、日本では入末法は永承七年(1052)とされていますから。
それと勘案すると、だいたい妥当ですが、若干前後しているのが気になりますね。

592愚鈍凡夫:2004/03/31(水) 19:42

犀角独歩さん、みかんさん、レス有り難うございます。
蓮祖漫荼羅で極端な例を調べてみました。益々謎です・・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ

№023
図顕:1275(文永12)年4月
讃文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」

№027
図顕:1275(建治1)年11月
讃文:「仏滅後二千二百二十余年間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」

№045
図顕:1277(建治3)年10月
讃文:「仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№048
図顕:1278(弘安1)年4月21日
讃文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№067
図顕:1279(弘安2)年10月
讃文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№071
図顕:1280(弘安3)年2月1日
讃文:「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№075
図顕:1280(弘安3)年2月
讃文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大[漫]荼羅也」

№097
図顕:1280(弘安3)年8月
讃文:「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

593犀角独歩:2004/04/01(木) 11:24

どなたがまとめられたものであるかわからないのですが、山中喜八師『御本尊集目録』を元にしたと思われる一覧表がアップされていました。
無名のお一人おひとりのご尽力が積み重ねられていくネットデータは未来に向かって虚空蔵となっていくのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/mandala.xls

594犀角独歩:2004/04/01(木) 11:52

上記ページを閲覧して、今更ながら気付いたのですが、91号漫荼羅は「盲目乗蓮授与之」と添え書きがなされているのですが、目が不自由であった方に漫荼羅を授与されることは、蓮師が単に文字読みという範囲を超えて漫荼羅を授与された事実を物語るもので、その温情と共に新鮮な感激がありました。

なお、授与者「乗蓮」について、『御本尊集目録』を開くと備考が付されてあります。

「(1)稲田海素師は、左の日蓮聖人の「雑録」断片(「宗学全書興尊全集」144頁)に拠って、『盲目乗蓮』を然阿良忠の弟子行敏に擬している。
行敏トハ者乗蓮也、乗蓮ハ者念アミダが弟子也。忍性トハ者極楽寺良観房也。文永八年太才辛未良観房訴状、雑掌行敏也。
 また、「当家宗旨名目」(下巻11丁)は、
 了性トハ河田谷ノ真尊上人ノ事也、思念トハ念阿弥ノ事也。(乃至)乗蓮房。念阿弥トモ行敏トモ云也。
 と伝えている」(P130)

…やや今の流から脱線しました。
 愚鈍凡夫さんの疑義にお戻りください。

595れん:2004/04/01(木) 13:32
みかんさんのご教示の通り、日本の古代中世の当時の知識階級の理解としては永承七年が末法元年ですから、蓮師も当時の通説に依憑された結果、曼陀羅並びに著作に記される仏滅年代を採用されたのでしょうね。ただ蓮師が曼陀羅の図顕讃文で「三十余年」に統一されたのば弘安三年八月以降で、それ以前は二十余年・三十余年を併用されていますが、これはどのような意図に基づくものか今となっては真意は分かりませんね。歴史上実在した釈尊の死去の年代は、十九世紀にネパールの遺跡で発見された釈尊の遺骨?を科学的に分析すれば分かると思います。m(__)m

596れん:2004/04/01(木) 13:38
犀角独歩さん。たしか興師書写の曼陀羅の授与者の中にも、目の見えない方が居たと記憶しています。どの資料か失念しましたが、蓮師・興師の側に盲目の方が沢山居たという記録もありました。m(__)m

597犀角独歩:2004/04/01(木) 18:41

れんさん、いつもながら貴重なご教示有り難うございます。
わたしは漫荼羅は字を読める人間の用途と決めつけていた所があったのですが、この点を少し改めました。守護本尊としての側面、祈祷面からすれば、身に帯する用途があったことを再認識したものです。

598れん:2004/04/01(木) 21:11
興師書写曼陀羅被授者で、盲目の方に授与されたのは以下の二名です。
嘉元三年卯月八日、甲斐国住人明石房授与之。(北山本門寺蔵)
正和三年二月十三日、盲者亀石房。(佐渡世尊寺蔵)
なお後世の資料でしたが、左京阿闍梨日教師の「五段荒量」には蓮師の頃にも「盲人あまた召し置かれ云々」とありました。右ご参考までm(__)m

599愚鈍凡夫:2004/04/01(木) 22:10

犀角独歩さんが>>593:で紹介されている漫荼羅目録の説明が下記のHPにあります。
ご参考までに。

要伝寺HP_本尊目録
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents42.html

600犀角独歩:2004/04/02(金) 00:25

れんさん、有り難うございます。
目の不自由な方には『開目抄』の例の一節は、現代では不適切表現に当たるとわたしは神経をぴりぴりさせています。けれど、上代から中世などでは「開目」という題名が目の不自由な方々にとって信仰の動機になり、それが史実にも確認できることなのだろうかと、やや想像を逞しくしました。

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
こちらのものだったのですか。感心しきりです。

601犀角独歩:2004/04/02(金) 00:49

昨日、三学無縁さんにお会いしたのですが、ここで遠霑講寺完則師の話題となりました。この僧について、わたしは不案内であったところ、以下のようなご教示をいただきました。ご本人の許可を得て、紹介させていただきます。

*** 転載はじめ ***

2004/04/01 独歩さん:

沙門完則についてですが、生年・没年・俗姓・出生地・寺歴等、残念ながら全くわかりません。ただ、私のノートには「日真弟子」と書いてありました。
この日真とは、石山34世で登座前は「完考日賢」と名のっていました。
日真は細草檀林50世、学頭17代、明和2年(1765年)に52歳で没。

日真の兄弟子には石山40世日任(完嶽=細草69世)、石山42世日厳(完礼=細草71世)、その他に完元坊日玉、完慈坊日ぎ[月*義]、完賢坊日儀他、数名の「完」の字がつく者がいます。

つまり、完則とは細草檀林にいた石山僧ということになるでしょう。

しかも石山の重宝目録を書くことができる立場にあった人物ですから、平僧とは考えられません。

しかし、一点不思議なのは、目録に「日興跡条々事」がないことです。
切紙相伝の類まで記しているのに、どうして、条々事の名目がないのでしょうか?

目録じたいの信頼性は高いと思われますが、それに無いということは、この目録作成時には条々事は石山に無かった、という事になりませんか?
それが、又、いつの間にか出て来た。不思議です。
いろいろなモノが、出たり、消えたり。まるでマジックのようですね。

*** 転載おわり ***

昨日、三学無縁さんから窪田哲城師著『日蓮聖人の本懐』をお借りし、その中に掲載されている遠霑講寺完則師著『大石寺宝蔵目録』に話が及び、その応答の続きが上記転載です。

このほか、この目録の記載は疑問を投げかけるところが多く、この点はまた、板漫荼羅とも関連しますので、当スレッドに投稿させていただこうと思っております。

どなたか完則の情報をお持ちの方はご教示いただければ有り難く存じます。

602地名:2004/04/02(金) 04:10

独歩様

初めてで失礼します。

>一点不思議なのは、目録に「日興跡条々事」がない…。
>切紙相伝の類まで記しているのに、どうして、条々事の名目がないのか?
>目録の信頼性は高いと思われるが、それに無いということは、目録作成時には条々事は石山に無かった、という事か

このくだりはかなり重要ですね。完則師と言うのですか。この方の記述の信憑性の問題もややあるかと思いますが、しかし、江戸時代の文献にこのような目録があることは注目されます。

603犀角独歩:2004/04/02(金) 10:21

地名さん:

はじめまして。当サイトではお互い「さん」付けでいこうとコンセンサスが取られた経緯があります。わたしもそのようにしますから、お気軽にそのようにお願いします。

> 完則師…記述の信憑性の問題
> 江戸時代…目録

江戸時代になぜこんな目録があるのかといえば、これはたぶん寺社奉行などにその届け出が義務づけられていたからというのが三学無縁さん類推です。その他にも量師の『富士大石寺明細師』が伝わりますが、これも同様の理由から記述提出されたものではないかと想像しています。

「完則」という名は、細草檀林、つまり、天台学の学寮での名であって、もしかしたら、石山では別の法・道号を名のっていたのかも知れません。たとえば、寛師がに覚真日如という異名がある如くです。完則師が何らかの理由で石山の学僧が多く学んでいた細草檀林に重宝目録出す必要が生じ、それを記して提出した。それが現在に至るまで残ったという流れであろうかと思います。

言うまでもなく細草檀林は寛師が26代を務め、また、三学無縁さんも指摘されるとおり、その他の石山歴代も歴任しているわけです。そこに提出された目録ですから、その内容は着目に値します。たしかに完則師は不明の人物ですが、その目録の作成に当たり、自分の名前で提出した事実から類推して、当時の石山・細草両所において、それなりの地位を持っていたのではないでしょうか。その意味から、人物、記述について信憑性が高いと判断できるというのが三学無縁さんとわたしの共通する認識です。ですから、この目録は当時の多くの‘事実’を語っているわたしには思えます。

何点か着目する点を上げます。

「御木像 御長二寸二分作初御影ト云」

因師は『有師物語聴聞佳跡上』のなかで「一体三寸の御影」と言うわけですから、八分も高さが違っています。三学無縁さんに「おかしい」と語ると「歯に付いたお肉だって成長するんだから御影も育ったんじゃないの」と冗談を言っていました。冗談はともかく、時系列で言えば完則師のほうがあとですから、そうなると縮んだことになります。大きくなったり小さくなったりするわけはありませんが、なぜここまで記述が異なるのか疑問が残ります。

「諫暁八幡抄 前文不足/板本五丁」

同抄は真跡を蔵しているはずなのに、ここでは「板本」となっています。版木から刷ったものを言いますからこの点、疑問が残ります。

また、その他平成新編で「真跡所在:大石寺」歴代「古写本」で記されるものが記載されていません。(以下、消息文は詳細がわかりませんので割愛しています)

【真跡】三三蔵祈雨事、食物三徳御書、閻浮提中御書、五大のもとへ御書、初穂御書、諫暁八幡抄、一定調伏御書、莚三枚御書、十宗判明の事、五眼御書、
【興師】唱法華題目抄、観心本尊抄、始聞仏乗義、本尊問答抄、
【目師】一大聖教大意、法華題目抄、
【時師】薬王品得意抄、治病大小権実違目、三大秘法稟承事
【俊師】百六箇抄、

*石山重書である三時弘次第、日興遺誡置文、日興跡条々事、御伝土代(道師)、御義口伝も記載なし。

やや見落としもあるかも知れませんし、あとから見つかったと石山が発表したものもあるので、断定的には言えませんが、個人的には『諫暁八幡抄』の真跡が記載されていないこと、興師写本『唱法華題目抄』『本尊問答抄』といった題目本尊の基礎的資料を欠いていること、俊師写本『百六箇抄』が載っていないことには少なからず驚かされました。

なお、切紙相伝に別項を設けて記載されていることから、このようなことが細草檀林に報告されていた事実と共に、こお閲覧を許された完則師の地位が想像されました。

そして、何より目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図です。
これをサイトにアップしたいところですが、スキャナーの調子が悪くできません。
この図を一瞥して思わず唸ったのは、釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いていることでした。また、鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されていることにも驚かされます。

讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれています。また腰書は「右為現当二世…」と記されいます。

讃文の「仏滅‘度’後」、腰書の「‘右’為現当二世」の二文字にもわたしは着目しました。

604犀角独歩:2004/04/02(金) 10:28

愚鈍凡夫さん:

ちょっと以前の話になりますが、363に

> 今の「戒壇之本尊」は、いったい何代目なんでしょうね・・・・・。

と記されておられました。
実に意味深なご発言ですが、何か根拠とされるところが合ってのことだったのでしょうか。ご教示いただけませんでしょうか。

605犀角独歩:2004/04/02(金) 13:00

三学無縁さん:
地名さん:

> (完則師)目録に「日興跡条々事」がない

この点、わたしも実に合点が行きません。
条々事は富要所載で見る限り、精師は『家中抄』で、寛師は『六巻抄』で引用しています。つまり、この時点で名目は見られるわけです。それにも拘わらず、これを完則師は載せないわけです。しかし、量師『明細誌』にはこれを載せますしから少なくても精師の時点であったのではないのかと思えます。けれど精師・寛師の引用はかなり信頼性は低いと思えます。

なぜこの時点で出てくるのか。わたしが注目するのは広蔵辰師『祖師伝』に『条々事』が記述されている点です。辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」といい北山所蔵によったことがわかります。しかし、ここでは案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山にあるのか疑問が残ります。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したというものは胡散臭さがついてまわります。

いずれにしても、時代的には精師より遡れず、その出所は要山。細草檀林提出目録からはこれを省く。この謎解きはできないでおります。

606犀角独歩:2004/04/02(金) 13:13

【605の訂正】

文章を読み違えて記してしまいました。
以下、大幅に訂正します。

誤)辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」といい北山所蔵によったことがわかります。しかし、ここでは案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山にあるのか疑問が残ります。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したというものは胡散臭さがついてまわります。

正)辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」と石山の使い僧の示すところを写したと言います。ここで案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山までで使僧が来ていたのか疑問が残ります。そもそも辰師は院師に石山訪問を拒まれたのに使僧は是というのは奇妙に思えます。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したものには胡散臭さを感じるわけです。

607愚鈍凡夫:2004/04/02(金) 19:36

>>604:犀角独歩さんへ。

確たる証拠があるわけではないのですが、
百歩譲って、蓮祖による「戒壇之本尊」が存在するとの前提で、今の石山のものが初代ではないと考える理由は、

①七面山の池に何故、自生していないはずの楠の丸太が浮かんでいたのか。丸太であるから400㎏を超えるであろうものを、誰が温暖な地より運んできて、池に捨てたというのだろうか。
②木の癖が完全にでて、木の状態が安定するまでは加工できない。まして、水をたっぷり吸ったであろう楠に、直に漫荼羅図顕し(「戒壇之本尊」が楠製だとして)、それを彫らせるとは考えられない。
③当時、漆の技術のない身延で、誰が漆を塗ったのか。また、完全に乾燥していない木に漆を塗ることがあり得るのか。
④模刻が蓮祖の意志であったとすれば、蓮祖在世に多くの板漫荼羅が造立されているはずである。何故なら、天変地異や内乱を直に見てきた蓮祖である。何が起きるか分からない時代に一体のみを造立するとは考えにくい。
⑤④に関連して、緊急事態が起きたとき、板にすると一人では運搬できないのではないだろうか。まして半丸太であれば絶望的である。
⑥推定200㎏をゆうに超えるものを、日興師一人で身延の山奥から大石ヶ原まで運ぶ手立てがない。
⑦模刻が祖滅後であるとして、漫荼羅図顕のお姿を何度か側で見ていたであろう日興師である。尊敬する蓮祖の命を削るような筆跡を、模刻によって彫り捨てるような真似を見過ごすとは思えないし、許すとは思えない。

以上の理由から、もし蓮祖による「戒壇之本尊」が存在したとしたら、初代は紙幅であったろうと思います。「戒壇之本尊」に関する記録からいって、二代目以降が「板」で、最終的に「半丸太」ということではないでしょうか。
今の「戒壇之本尊」の場合、誰かが鎌倉時代の道具を引っ張り出してきて、木を削るという手の込んだ偽装工作をしたと言うことですかね・・・・・。 (;^_^A アセアセ…

個人的な意見としては、
蓮祖が、数千年後には朽ち果てて消えてしまう「もの」に、人類の命運を任せるような特別な意義を持たせるとは思えません。
まあ、嘗ての上野動物園のように寂れていく石山を嘆いた人物がいて、「人寄せパンダ」ならぬ「人寄せ漫荼羅」をプロデュースしたというのが案外、真相ではないかと思ったりしています。 (^◇^)

608犀角独歩:2004/04/02(金) 19:46

607 愚鈍凡夫さん:

早速のご教示有り難うございます。
なるほど、その意味で三代目(ん?、だれかの固有名詞)というわけですね。
わたしも蓮師が戒壇用本尊漫荼羅を用意したとはまったく考えていません。
その意味のおいてお記しの点、賛同します。

609三学無縁:2004/04/02(金) 19:52
独歩さん。
完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではありませんね。
また、現石山が言う所の重宝との異動も然りです。
文書の執筆者名が現在の説と異なっていたり、有ったはずの真筆マンダラが現在では無くなっていたり、と。
ちなみに要山系での条々事の引用は、亨師の説を用いれば文章的には案文、つまり草本ということになりますね。
しかし、肝心の正本の全貌が見えません。
日精の引用も案文ということになります。
四文字削損された跡があるものが正本だとすると、写真で公表されているものということになりますが、実はこれも亨師の説からすれば正本ではありえない、ということになります。
条々事も紫宸殿マンダラも、さらには日禅マンダラも、文字の削損があるわけです。
しかもマンダラの文字削損は授与書きもしくは脇書・添書部分です。
石山にとって都合が悪いから文字が削損された、これ以外に考えようがあるでしょうか。
あ、文字削損とは逆に後加もありましたね、戦後のことですが。石山の重宝、というよりも日蓮門下の重宝で。
このように見てきますと、はたして石山に蓮師や興師に対する信仰・尊崇・敬慕があるのでしょうか。

わたしはこの数日間、ホントに寝不足に陥っています。独歩さん、責任をとって下さい(笑)。

610三学無縁:2004/04/02(金) 21:32
>607 愚鈍凡夫さん

わたしも、ほぼお考えに同意いたします。ところで、

>蓮祖が、数千年後には朽ち果てて消えてしまう「もの」に、人類の命運を任せるような特別な意義を持たせるとは思えません。

ですが、戦前、といっても昭和であったか明治であったか失念してしまいましたが、当時、他門から同様の批判を受け、石山系の人物が、
「ダイアモンドはどのようにできあがったか。たかが炭ごときがダイアモンドに化すのであれば、大御本尊が未来においてダイアモンドにならぬはずがない」(趣意)
と、書籍で堂々と記したかたがありました。
30年ほど前に立正大学の図書館で読んだときには、思わずのけぞってしまいました。

611地名:2004/04/02(金) 23:04

独歩さん

603について

>目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。
>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。
>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。
>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。
>腰書は「右為現当二世…」と記されている。
>讃文の「仏滅‘度’後」、
>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。

この部分が極めて重要です。
可能であれば、もう少し説明願えますか。

612愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 00:53

>>608:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

>>610:三学無縁さん、レス有り難うございます。

> ですが、戦前、といっても昭和であったか明治であったか失念してしまいましたが、当時、他門から同様の批判を受け、石山系の人物が、
> 「ダイアモンドはどのようにできあがったか。たかが炭ごときがダイアモンドに化すのであれば、大御本尊が未来においてダイアモンドにならぬはずがない」(趣意)
> と、書籍で堂々と記したかたがありました。

受け狙いのギャグをかましたつもりだったのでしょうか・・・・・・。 (・・;)

ダイアモンドはなるほど炭素からできているが、炭ではないぞ。
だって、近所のホームセンターで3㎏税込み260円では売ってないもん。

これとたいして変わらないように思います。 (..;)

613おっくん:2004/04/03(土) 03:20
みなさま、はじめまして。普段は某落書き掲示板に出入りをしている法華講員です。

大御本尊が偽作であるという主張はよく聞きますが、こちらの皆さんのお話について、どうも
腑に落ちない点があります。伺ってもよろしいでしょうか?

こちらの掲示板諸氏は、伝日量上人筆「富士大石寺明細誌」を引用されることが多いみたい
ですが、日亨上人は富士宗学全集編集の際、この書について、

「  編者曰く量師の正本を見ず一二の転写本に依る誤字多けれども強いては改めず、
少しく訂正を加へ全文延べ書と為す、又此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども
写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要あるより、
全然誤謬に属する所には傍に○○点を附し、疑義に属する分には△△点を施して、
読者の注意を惹かんとす」

と、注意を喚起されています。この点を考慮されての引用・論述なのでしょうか?

614空き缶:2004/04/03(土) 11:47

 皆様お久しぶりです。
 議題より超脱線しますが、大石寺歴代の直筆本尊が売りに出されていました。
 ↓
 http://item.easyseek.net/item/21625644/

 ずいぶんといいお値段なんですね。

615犀角独歩:2004/04/03(土) 11:47

609 三学無縁さん:

> 完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではありませんね。

これはまったく同感です。明細誌は手放しに信頼できないところもありますが、しかし、堂宇・重宝の記述などは疑う理由はありません。「大石寺は日興上人已来、仏像はない」なんて現石山義を鵜呑みにしている人は全文をオミットするでしょうが。
そもそも石山では霑師は、志師の問に

「去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記しているわけです。これは1865年の石山火災を伝えるところで『富士年表』にも記載されるところです。ここで霑師は古記録がほとんど燃え文証を示せないと言っているわけです。ところが『富士年表』では、石蔵=大て石寺文書、石文=大石寺文書と載り、前者は200近く、後者も70ほど、挙げられているわけです。燃えなかったのか?と訝しがるしかありません。

> 条々事

この点については是非とも著作にまとめていただくことをお願いします。
わたしは三学無縁のお考えに深く賛同するところです。

> …削損…後加

これはまったく呆れ果てる所行です。
れんさんも指摘されていましたが、通称「紫宸殿本尊」と言われる漫荼羅も授与者部分を削り取ってわからなくし、紫宸殿本尊に仕立て上げてしまいました。天皇を騙そうというのですあれば、いい度胸と言うしかありません。

弥四郎漫荼羅にしても個人授与の紙幅を元に「本門戒壇本尊」を造ってしまうわけですから、これはもはや開いた口が塞がらないところがあります。

後加についても三学無縁さんは指摘されていましたね。
『諫暁八幡抄』、最初に発表した写真では「日蓮」としかなかったところを、次の写真では花押が描かれていたという話、実に吃驚しました。まあ、どんな言い訳を石山がしているのか知りませんが、花押まで書き足してしまったとしたら、もはやなにをかいわんやです。

近年、創価学会が寛師漫荼羅の授与者名を消して印刷して頒布を始めた時、さんざんと非難した石山でしたが、わたしが所属していた寺院では本堂板漫荼羅の授与者名「願主法華講総講頭池田大作」という名前の部分を埋めて黒く塗ってしまいました。わずか1日の作業でした。本堂畳の上に降ろされた漫荼羅に職人さんが作業していた光景を忘れません。いまから思えば、漆などの正式材料を使っていれば、1日2日で作業が終わるはずも、乾くはずもないわけです。つまり、速乾性の科学材と塗料を使っていたのでしょう。日蓮・仏のように扱えと指導する本堂漫荼羅に対してかくたる処置でした。

> この数日間、ホントに寝不足…責任をとって下さい(笑)。

ここ数年のわたしの仏教再考は、四半世紀、疑義と資料を呈示し続けてくれた三学無縁のお陰、詰めの終盤にいたったいま、多少の寝不足が我慢していただければなりませんよ(笑)

616犀角独歩:2004/04/03(土) 12:16

611 地名さん:

>目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。

三学無縁さんがご指摘されるとおり、完則師は石山真師の弟子。すなわち、石山僧と目されます。となると、弥四郎漫荼羅を正確に写したものであることになり、相貌を知るうえで重要な資料といえると思います。

>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で精道師が書いているとおり、弥四郎漫荼羅には「釈提桓因大王」が勧請されているというのに、これがありません。
釈提桓因はつまり帝釈でその対の梵天もない、天照八幡も勧請されていないうのは考えがたいところですが、完則師図は看過できないわけです。
この四つの諸尊は図顕が予想されていたところですから、驚かされました。

>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。

この諸尊配置も予想に反していました。

>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。

これまた、予想に反しています。また、弥四郎漫荼羅を写真で見ると「經」旁の下、「日」との間に数行が確認され、これが讃文と予想されます。それにもかかわらず、完則図では既述のとおり左右に分かれて写されているのです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

>讃文の「仏滅‘度’後」、

これも「仏滅後」であると言われるところですので、予想と反したわけです。

>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。

この「右」の一文字だけで三学無縁さんと小一時間も議論が続きました。
「右」というのは文字通りその文節の右を言うわけですから、通常は前文を予想させる冠頭語です。しかし、完則図で見る限り、右には何も文章は見当たらないわけです。もちろん、慣用的に「右〜」という書き出しは是ですが、しかし、造立縁由を刻んだ以上、この「右」の一字は実に不自然です。実際、石山歴代が伝える腰書文は「為〜」から始まるのであって、これら文献と一致しません。

詳しくは、これまた本にまとめようと思いますので、この辺までとさせてください。

617犀角独歩:2004/04/03(土) 12:18

613 おっくんさん:

はじめまして。ご指摘の点を知らない人はここの常連ではおりませんよ(笑)

618愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 14:34

おっくんさん、初めまして。こういう日亨師の御指南もありますよ。

「便に乗じて申し上げておく。富士宗学要集の凡例に書いておいたとおり、要集は教科書ではなく、信行聖典でもないから、もっぱら研究書であるから、中には薫猶相雑り、純雑交互し、正反同懸する返のものもあるから、最終篇には、書目にこれを判名せしめて幼学を謬らせぬようにするつもりであることを、ここに念記しておく。」(富士日興上人詳伝下巻)

まず、あり得ないことを排除するために「家中抄」「富士大石寺明細誌(宝冊)」を引用しているのです。

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり(家中抄)

「古伝に云わく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ聖人に献ず等云云」(富士大石寺明細誌)

これが歴史的事実であるとは誰も思わないでしょう。

619犀角独歩:2004/04/03(土) 16:31

愚鈍凡夫さん:

以下を補足させてください。

「御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之れを日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云」

でも戸田さんみたいに

「この肉が七百年のあいだに、だんだんだんだんふえて、ちょうど、まさに歯を包まんとしている。これは説明つきますか。しかも脈打っているのですよ、汗かいているのですよ、生きているのですよ。こういう不思議なものはありますか」

とまでは言っていません(大笑)

冨要は研究用資料ではあるけれど、反系はそれでも割愛されています。『緒言』に亨師は編纂の姿勢をしっかりと明記しています。

「本書は大部の富士宗学全集中の要篇及び其の他の古文書新文献の中より編集したものであるから時代に依り学匠に依り自然に醇雑相交わり正傍反のい三篇に大別すべきも、本集には成る可く反系の書は省いた。
 正系必ずしも完美ではなく傍系大いに依用すべきものもある」

さらに都合の悪いところは改竄、削除するところも少なからずあるわけです。
また、冨要における編纂は純粋に研究資料とは言えず、現石山教学に都合の悪いところは‘調整’されており、学的姿勢としては批判される点は多くあります。

三学無縁さんが、何冊かガリ版製本の冨要を貸してくださったのですが、一瞥して活字版との比較はちょっとした研究所が出来上がると思えました。

また、また冨要の記載寛師文と文段集(顕師編学会版)は記載内容が異なっています。このような事情は寛師文に限るものではないところに不快感が伴います。

以上のような実態と漫然と集団信仰に沈没し、そのアナウンスを墨守して飼い慣らされてきたが自身からの脱却がここ富士門流信徒の掲示板における各氏の研鑽であったとわたしは観察します。

巨大化した集団は、ご都合で資料を改竄添削し、ストーリーを創っています。その肺腑を鋭く切り開いて腸(はらわた)を引きずり出さなければ真実は見えません。

620犀角独歩:2004/04/04(日) 06:10

閑話、完則図に就き、三学無縁さんとの会話。少し書かせてもらいます。

ただし、これは真偽云々といった考証ではありません。フリートークといったところです。ですから、特に事実を論及する類のことではありません。それを前提としてお読みいただければと思います。

先に挙げたとおり、完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が勧請されていません。たぶん、これは作為的な諸尊配置であると思えます。
「原本は蓮師のものか」と問われれば、わたしは「違うだろう」と答えます。

「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」と問われれば、わたしは「なかった」と答えます。ですから、本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考えます。本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅はその意味で後世教学的な姿勢に属する意図が看取できます。その姿勢に基づき、戒壇本堂を建立するのに当たり、安置漫荼羅を制作しようとなったのでしょう。

この場合、堂塔伽藍は石山であれば北山を模し三堂が基本となるでしょう。本堂・垂迹堂・御影堂です。しかし、ここでは漫荼羅・御影一所に安置し、本堂・御影堂を一宇とすることが考えられました。これは「正慶二年発酉二月十三日」文書に見られるとおり、「本堂には御影を収めること」が定められているからではないのかとわたしは想像します。するとその造営は御影・本堂と垂迹堂の二宇ということになります。

伝興師の垂迹義は天照大神と見えますが、これに八幡大菩薩が加わることは八幡社が省略されるとき是となるでしょう。となれば、垂迹堂の勧請は天照八幡となります。

別に天照八幡を勧請した堂宇(宮)を造営するわけですから、御影堂(本堂)安置の漫荼羅にその勧請があれば、重複することになります。故に完則図の如く、天照八幡は勧請されていないのだろうか?というのが三学無縁さんと語り合ったところでした。

もう一つ。
戒壇建立はこの当時、すでに『三大秘法稟承事』を依拠としていたと思えます。想起されるのはこのなかに「大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」という一節があるわけです。帝釈は御筆漫荼羅では「釈提桓因」です。

梵天帝釈は戒壇建立後、ここを踏むというわけです。である故に、諸尊勧請から梵釈が意図的に省かれたのではないのか? そんな想像に花を咲かせて議論は盛り上がりました。

もちろん、これらは試論であって、なんら決定打でもありません。

ちなみに三学無縁さんが、図として、わたしに呈示してくださったのは『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は完則図のほか・日憲(当門諸流事)図、『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つでした。さて、このなかに如何なる真実が隠されているのか。議論は何時間と延々と続きました。

621地名:2004/04/04(日) 13:19

620について

>完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が
>勧請されていない。
>これは作為的な諸尊配置である。
>「原本は蓮師のものか」と問われれば「違うだろう」。

「作為的な諸尊配置」でありしかも「原本は日蓮のものではない」と思われる。


>「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」…「なかった」と答える。
>本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考える。

日蓮にその用意がない点。


>本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅は…後世教学的な姿勢に属する意図が看取。
>…安置漫荼羅を制作しようとなった…。

後世の作。
以上が重要なポイントだと思いました。

622犀角独歩:2004/04/04(日) 17:57

621 地名さん:

> 原本は日蓮のものではない

木下師は稲田師の説明を受けて弥四郎漫荼羅を「よせもの」と表現しているわけです。
一幅の御筆漫荼羅を原稿にして彫ったのではなく取り合わせたというわけです。
それで少なくとも二舗の御筆漫荼羅が使われているのだろうというわけです。
諸尊の文字・讃文・腰書は写真ではまったく確認できません。

仮に諸尊の字が蓮師のものであってもこれもまた「よせもの」の可能性はあります。
また、一舗の御筆漫荼羅から採ったとしても、取捨は出来ますし、足りなければ宝持ってくることも出来るわけでしょう。それでも揃わなければ、書き込んでも公開するわけではありませんからばれるわけもありません。

わたしは、諸尊はいちおう御筆漫荼羅のものを使っているのではないのかと想像しています。

623地名:2004/04/04(日) 18:35

622については

580で独歩さんが記された以下の内容を言われているわけですね。

>『板本尊偽作の研究』(再版)…を手に取ってみた。
>第8章『稲田素海老師の説』と紹介し、

>「板本尊は四つの部分に分けて考察すればよい。
>十界座配の部、日蓮花押の部、仏滅後二千二百余年と云う韻文の部、為現当二世造立如件云云の制作縁起
>この四つの部分に分けて考えればよい。
 
>第一の十界座配は勿論、原本は御真筆、
>第二の日蓮花押も原本は真筆であるが、第一の十界原本とは違う。他の日蓮曼荼羅の日蓮花押を模写したものだ。

>即ち、十界座配の原本と日蓮花押とは模写した曼荼羅が異なるのだ。
>宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。

>第三の仏滅後二千二百余年と云う韻文と、
>第四の為現当二世造立如件云云の制作縁起は、
>宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である」(P38)

>こんな造りの板漫荼羅を編著者・木下師は香具師の「よせもの」と言っている…。

>木下師は老師の説を受けて、原本真筆を、十回座配を弘安2年11月増師授与漫荼羅・
>日蓮花押を所謂紫宸殿漫荼羅のものと勘ぐっています。しかし、これは少なくても後者は違います。

>あと木下師が弘安2年2月、小泉久遠寺控(うつろ)字漫荼羅に着目していました。
>…板漫荼羅の題目は弘安2年の「經」の字体と一致しないのは言うまでもないので、
>なぜ、この年代に師が注目するのか…。

かってに抜粋してすみません。

624犀角独歩:2004/04/04(日) 18:47

> 623 地名さん:

有り難うございます。仰るとおりです。

625地名:2004/04/04(日) 20:16

独歩さん

620の
>三学無縁さんが、図として呈示してくださった
>『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は

>完則図のほか・
>日憲(当門諸流事)図、
>『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、
>『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つ。

>このなかに如何なる真実が隠されているのか。


独歩さんの「仏教再考」の「所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽について」を
熟読してみます。

柳沢師の「石山本尊の研究」しか所持していませんが、

同書P38-39の戒壇本尊図は、釈提桓因大王等が書かれています。

それに対して、石山高僧と見られる完則師の図にはないのはなぜか?

626愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 20:37

横レス失礼します。
もっとも単純で合理的な解釈はどうでしょうか。
すなわち、「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」は複数存在したと。さらに言えば、今の奉安堂に安置されているのは初代ではないと。

627犀角独歩:2004/04/05(月) 04:46

地名さん:

拙文、ご高覧賜れるとのこと、感謝申し上げます。
この文は、もっとも重要な点は省略しています。
その点はご理解ください。

愚鈍凡夫さん:

さすが。大胆発言ですね。
完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。
でも、どうでしょうか。どう思われます?

628地名:2004/04/05(月) 06:43

627について

>完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
>なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

日蓮花押でなければ確かにそうですね。
しかしなぜ、奉行所等へ届け出る公式文書に虚偽報告したのか。

>もっとも重要な点は省略。
>その点は理解を。

その点はよく理解していますので大丈夫です。



でも

629愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 09:48

>>627:犀角独歩さん、根がいい加減なものですから、御免なさい。
m(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・

> 完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
> なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

完則師の現物を知りませんから仮定の話ですが、
コピーであると印象づける必要があったと言うことでしょうか(何のために?)。それとも諸尊の座配を写したのであれば、漫荼羅書写の慣例に従って「日蓮 在御判」としたのでしょうか。他の可能性もあるような気がしますが。

①みんなが本当のことを言っている。
②誰かが嘘を言っている。
③みんなが嘘を言っている。
どれでしょうね。

630犀角独歩:2004/04/05(月) 10:29

629 愚鈍凡夫さん:

ここなんですよ、ポイントは。
柳沢本は不鮮明な写真を大きく伸ばして類推したそうで手放しに信頼できないが捨てがたい。木下本は出所が不明記。完則本、日憲本は坊さんが信仰面から写したものであるから、真正直、あるいは却って信仰を守る面から敢えて嘘書いたりもありも考慮すべきと思っています。

話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、この差は何であるかご承知でしょうか?


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