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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
438
:
空き缶
:2004/03/02(火) 17:37
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』に賛同します。
犀角独歩さんのレポートによって、この「真偽」については、「偽」であることが濃厚となりました。
「真」の本尊はいずこに。
439
:
れん
:2004/03/02(火) 18:14
富木常忍氏の著と伝えられる観心本尊抄私見聞には「観心本尊抄ノ外ニ本尊ノ口伝アリ。日朗・日興等ニ相伝有之。日朗ヘノ相伝ハ名越谷ニアリ。日興ヘノ相伝ハ有富士。又常忍坊ニ有相伝。此等ノ意ナルカ」とあります。朗・興・常の三師に共通の本尊相伝は本尊三度相伝があります。興師関係では興師観心本尊抄を弘安四年三月五日に書写しており、同五年五月に本尊点画相伝(未見。写本石蔵)の撰述が伝えられています。興門の本尊相伝は三度相伝・点画相伝の他、鏡像円融御本尊口決・本尊七箇相承・順師心底抄引用の文・御本尊梵字口決・本尊秘伝抄がありますね。
440
:
れん
:2004/03/02(火) 18:17
訂正。
誤、興師観心本尊抄
正、興師は蓮師撰述の観心本尊抄
441
:
七師外道
:2004/03/02(火) 18:40
胸中の肉団に、であろう。
何を以って「真」とするのか。
何が故に「真」と言えるのか。
「真」であることに、如何様な意味があるのか。
「真」ではなく、「偽」であることで不都合があるのか。
蓮祖の教えとは、モノの真偽によって左右される程度の教えであるのか。
紙であろうが板であろうが、それにしか帰結収斂し得ない信仰は、蓮祖とは無縁であろう。
ちなみに、亨師は複数の僧侶に対して、件の本尊は紙幅であり、離山時も紙幅であった、と明言されている。
但し板に彫られたのが持仏堂時代か石山時代か重須時代かは判らない、とも言われている。
尤も、それが本掲示板で考察されてきたように、条々本尊、盗難本尊、三十余年本尊、などであるかどうかは不明である。
亨師と云えど、石山の徒であって、そこに護教的姿勢を看取する必要があろう。
石山系板本尊を精査されるが宜しかろうと愚考する。
442
:
れん
:2004/03/02(火) 19:26
私も、空き缶さんと同様に板曼陀羅そのものの考察に於いては、犀角独歩さんのレポートに賛同いたします。
七師外道さん。初めまして。「紙であろうが板であろうが、それにしか帰結收斂し得ない信仰は蓮祖とは無縁であろう」とのお言葉には同感です。胸中の肉団に感得できるのは、板でも紙でも仏像でもなく、蓮師が逆縁の為の下種の要法と決せられた所聞の法躰である上行所伝の妙法蓮華経の五字七字に他ならないですから。
私自身大変な未熟者ですが七師外道さんにおかれては今後とも宜しくお願い致します。
m(__)m
443
:
ドラ
:2004/03/03(水) 13:29
本尊論は我々ではなかなか難しいと思われます。よくここまで研鑽したと関心しますね。
石山の方達が論議なされてるのであれば、ちょっと不思議です。自分たちの本尊とする
対象物の正邪?本偽?なのでしょうか。連祖の弟子で連祖を仏であると示したのは、御開
山日興上人だと聞いてます。世の中でたった一人しか日蓮という人間を仏様だと見切っ
たのはすごいと思います。連祖のたった一つの願いは何だったんでしょう。物や形ある
ものの執着でしょうか。私は違うと思います。世の中の人々が平等に平和に暮らすこと
です。その為に本門の法華経を現したと感じます。大事なことは心です。信仰そのもの
が生活に現れ、その人の心に現れるのではないでしょうか。ご本尊にはなにも問題はな
いのです。こちら側に本仏の功力を引き出せる信念と力があるかが問題なんです。信仰
者は、そう考えるべきではないでしょうか。『信じる』この言葉はとても難しい表現で
す。が、そこに仏になる種があるのかもしれませんね。
444
:
犀角独歩
:2004/03/03(水) 17:57
空き缶さん:
れんさん:
ご賛同有り難うございます。
七師外道さん:
お久しぶりのご登場、嬉しく存じます。
ドラさん:
はじめまして。
> 本尊論は我々ではなかなか難しいと思われます
そうですか。ドラさんにとっては難しいとお感じになるということなのでしょうね。
ともかく、信行の問題は信行の問題です。板漫荼羅真偽論に置き換える必要はありません。
板漫荼羅の問題は板漫荼羅の問題です。いまはビジュアル的に凝視する視線を逸らさないで、その正体を正視してまいることが大切であると、わたしは訴えているわけです。
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
445
:
ドラ
:2004/03/03(水) 20:03
物事を追求することは、学術的にも後生のためにも良いとおもわれます。難しい
というのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。自
らの言葉で話すということは、その責任を背負うわけです。背負いきれない事は
どうしても説明できません。ということです。昔からこの話はあったわけですね。
最近、石山の日顕猊下がそのことを言い出して顰蹙されましたね。が、その真実
はいかがなものなのか、独歩さんが自信がある研究ならもっと広いメディアで訴
えるべきですね。板漫荼羅を根本としている大石寺との直接的な見解も知りたい
です。この件について石山ではなんといってますか?
446
:
ドラ
:2004/03/03(水) 20:04
十分にわかりますよ。物事を追求することは、学術的にも後生のためにも良いとおもわれます。難しい
というのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。自
らの言葉で話すということは、その責任を背負うわけです。背負いきれない事は
どうしても説明できません。ということです。昔からこの話はあったわけですね。
最近、石山の日顕猊下がそのことを言い出して顰蹙されましたね。が、その真実
はいかがなものなのか、独歩さんが自信がある研究ならもっと広いメディアで訴
えるべきですね。板漫荼羅を根本としている大石寺との直接的な見解も知りたい
です。この件について石山ではなんといってますか?
447
:
犀角独歩
:2004/03/04(木) 00:52
ドラさん:
> 難しいというのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。
あなたが仏でないことはわかりますが、それが答えられないこととどのような関係にあるのでしょうか。仰っている意味がわかりません。
> 背負いきれない事はどうしても説明できません
説明ができないのであれば、このような公開の議論になじみません。
書き込まれても意味がないのではないでしょうか。
> 自信がある研究ならもっと広いメディアで訴えるべきですね。
そのつもりでおります。
> 板漫荼羅…石山ではなんといってますか?
はて、なぜわたしに問うのでしょうか。
石山の見解は石山にお問い合わせください。
448
:
愚鈍凡夫
:2004/03/04(木) 06:48
皆さんお早うございます。
犀角独歩さん、『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』読ませて頂きました。とても参考になりました。有り難うございます。
人の信仰心を商売にする悪徳商法まがいのカルト宗教が存在するかぎり、真相の科学的究明、論理的究明は必要不可欠だと思います。そして、宗教が人の心を扱う以上、様々な批判を受けるのは当然だと思いますし、その批判に真摯に答えるのも宗教の使命かと思います。
その意味で、犀角独歩さんの探求心には頭が下がります。良ければ、これからも成果を発表して下さい。楽しみにしています。
確か、石山には未公開の11舗の蓮祖漫荼羅が伝わっていると思いますが、これらの漫荼羅を参考に「戒壇之本尊」が創作されたとした場合、「一閻浮提総与」とある方がまだしも説得力がありそうな、あの「弥四郎国重云々・・・・・」なる不可解な脇書の意図するものは何なんでしょうね。「二箇相承」とも合いませんし。それと、
「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相傳す。本門寺に懸け奉るべし。」(日興跡條條事)
これは何故、「弘安二年の戒壇之本尊」ではなくて「弘安二年の大御本尊」なのでしょうか。
富士門流の伝承によると、「本門寺に懸け奉る」大御本尊は「万年救護本尊」ではないかと思うのですが。少なくとも保田・北山・西山に伝わる「万年救護本尊」はそう言う意味だと思います。
449
:
犀角独歩
:2004/03/04(木) 10:29
448 愚鈍凡夫さん:
ご高覧、有り難うございます。
> …「弥四郎国重云々・・・・・」なる不可解な脇書の意図するもの
案外、つまらないことであるかも知れません。
あるとき、板漫荼羅を作った、その人は本門戒壇を渇望していた。で、そのことを踏まえて自分の名前を彫った。歴史に名前が残るような特別な人ではなかったので、そのまま何も伝わらなかったか。あるいは、既に伝承が途絶えてしまった弥四郎国重伝説(たとえば円師嫡男説)などから、板漫荼羅を作るときにこの名前を使っただけ。
> 「二箇相承」とも合いません
ポイントはここですね。国主でもない弥四郎国重が本門戒壇願主では整合性がありません。
もっとも二箇相承は北山に仮託して作られた書でしょうし、板漫荼羅は石山で作られた。板漫荼羅が作られた段階の石山では二箇相承の存在を知らなかった、反面、二箇相承を作ったほうは板漫荼羅を知らなかった。別々に、その存在を知らずに作られたとすれば、そこに整合性がなくて当たり前とわたしは考えます。
> これは何故、「弘安二年の戒壇之本尊」ではなくて「弘安二年の大御本尊」なのでしょうか。富士門流の伝承によると、「本門寺に懸け奉る」大御本尊は「万年救護本尊」
わたしもこの点に注目しています。
なにより御筆漫荼羅で「大本尊」と書かれたのは所謂万年救護本尊しかないわけです。ですから、わたしはこの1舗に限り、本尊と呼び、あとは漫荼羅と記してきました。
蓮師の決めごととして「大本尊」といえばこの1舗に限る。あとは漫荼羅ですね。まあ、やや広めれば「護本尊」として漫荼羅はありますが。
石山の伝承では万年救護本尊は弘安2年に興師が相伝したといいますから、この点では整合性があります。しかし、そうなると、板漫荼羅の存在が消えてしまうので、諸説紛々でこっちを立てればあっちが立たずとなっているのでしょうね。
450
:
れん
:2004/03/04(木) 18:34
日興跡条々事の弘安二年大御本尊について、富士学林研究教学書所収の日精師正稿本とされる富士門家中見聞稿本零編には「日興宛身所給等ハ者是万年救護御本尊事也、今在房州妙本寺也」とあります。この内、万年救護の四字を縦線で抹消して横に板と記し、房州妙本寺が同様に消されて当山と書き直されており、この書きなおしに対し堀日亨師添注は因師カと推測しています。ともあれ大石寺歴代の一人である精師が弘安二年大御本尊を保田妙本寺の万年救護大本尊であると明記していることは看過すべきではないと思います。
m(__)m
451
:
空き缶
:2004/03/04(木) 19:39
なるほど、しかし因師も「袈裟数珠之事」では「当山日目上人の相伝悉く房州保田に有る故」(富士宗学要集第1巻)と書かれていますが、この「日目上人の相伝」こそ「万年救護本尊」ではないかと思いますが?
ただ、この万年救護本尊の副書(千葉県の歴史中世3)によれば、本門寺の「本御影堂」に懸け奉る万年の重宝とみえます。
「日興上人御遺蹟之事」(正本:大石寺蔵)によれば、本門寺本堂に安置するのは「日蓮聖人御影」と例の申状と下文になっています。
これらを整理すると、本門寺本堂(本御影堂)に安置するのは「宗祖正御影」とその背面に「万年救護本尊」を懸けるといったものが、「日目上人の相伝」ではないでしょうか。
この「本門寺本堂安置の御本尊」が大石寺より小泉久遠寺〜保田妙本寺と遷座され、代替として建立されたのが「本門戒壇之大御本尊」だと思いますね。
したがいまして、日時師の代に建立されたと思います。以前にもカキコしましたが、宮城県内にて彫られたのではないかと推察します。私は奥四箇寺に関連情報があると思います。「奥人」等はかなりいいところをついていると思いますがいかがなもんでしょう?
452
:
れん
:2004/03/04(木) 20:46
なるほど。万年救護大本尊の別幅副書と目・仙・善三師連署の日興上人御遺跡事の記事を勘合すれば、本御影堂=本門寺本堂とも読めますね。その奉安形式も蓮師御影の背後に万年救護本尊を懸けると見たほうが至当かもしれません。しかし蓮師より朗・興・常三師に相伝されたと見るべき本尊三度相伝には「本門寺ノ戒壇ハ西面ニ可立也」とありますので、本門寺本堂と所謂本門寺ノ戒壇とは別棟と理解すべきではないてしょうか。なお石山板曼陀羅は石山で作成されたとみるべきでしょう。奥人の記事は妙教寺の板曼陀羅についてであって、石山のではないと思います。
453
:
空き缶
:2004/03/04(木) 21:49
れんさん、「妙教寺の板曼陀羅」とは、奥人第三号の以下の板倉表具の目録の事でしょうか。
24.日時上人 応永十一年六月日
奥州柳目法華講衆現当二世の為也
板倉表具廿八の廿二
○.日時上人 今不伝 古目録に見ゆ
板本尊、但し脇に日主上人御判有之
是は客殿に奉安置申候
また、日目上人の家系である「新田小野寺」は、宮城県内の奥四箇寺と極めて古深く、道・行・時の三師もまた新田小野寺の家系である事はほぼ間違いないと思われます。
また、この家系に弥四郎国重がいたとする説もあります。(日目上人の兄である新田信綱の嫡男説)
以前れんさんがおっしゃっていた「板碑」も、奥州のもののことではないでしょうか?
454
:
れん
:2004/03/04(木) 22:24
空き缶さん。私は手元に奥人がないので、記憶で書きましたが、私が言った奥人の記事とは空き缶さんの引用された板倉表具目録です。なお、私は弥四郎国重が新田小野寺氏一門であるとする説には否定的です。鎌倉・南北朝・室町期の新田氏関係の正文書にその名が全く見られないのが理由です。現時点においては弥四郎国重はあくまで不明の人物として扱った方が賢明です。また、富士門流上代の板牌は、奥州四箇寺周辺にもありますし、九州宮崎の定善寺周辺にもありますので、板牌に関しては何も奥州のものに限っては言っていません。
m(__)m
455
:
空き缶
:2004/03/04(木) 23:34
れんさん、「弥四郎国重」については小野寺氏の方も探されましたでしょうか?
私は自宅近くの国文系大学の図書館にて、系図と鎌倉遺文などを探っているところです。(といってもまだ2回しか足を運んでいません)
奥州の新田氏は2代目以降、姓を小野寺に戻した家系が半数くらいあったようです。といっても、れんさんのおっしゃる通り、なかなか正資料に出会えません。
奥州の旧新田坊は、現在の法竜山本源寺ですので正信会の方なら虫干しなどで何か発見できないかナーと思ってしまいます。
456
:
れん
:2004/03/05(金) 08:50
空き缶さん、私も小野寺氏を含めて新田氏関係の正文書・系図を鎌倉遺文等で調査しましたが、弥四郎国重が新田小野寺氏の出身であることを証する同時代の正文献史料は皆無であり、弥四郎国重の小野寺氏出自説も、信憑性は全く無いと判断されます。本源寺は同寺二十二世日賀師の重宝目録に「当寺の什物は寛文十一年に炎上つかまつり一物もござ無く候、先年は道師御消息ならびに興師御本尊・御消息・目師御消息沢山有りといえども右の炎上に焼亡つかまつり候」とあり江戸期に宝物を失っており、上代の物は無いので調べても骨折り損でしょう。m(__)m
457
:
犀角独歩
:2004/03/05(金) 11:32
れんさん:
空き缶さん:
非常にすばらしい議論が続いているところで横レス恐縮です。
弥四郎国重のことが話題になっていますが、『大石記』でしたか、日道が弥四郎国重を大石寺に移したという記述があったと記憶するのですが、これ何を意味するとお考えでしょうか。わたしは意味が取れないのです。
あと特にれんさんにお尋ねしたいのですが、「板碑」というのは、従来の位牌に変わるものとして発案された法具とわたしは考えてきました。また現石山では墓石に題目を刻むことを塔婆、また略本尊と解する故、この染筆も石山住職に申し出ることになっています。まあ、この是非はどうでもいいのですが、時系列で見ると、位牌・板碑・卒塔婆・墓石という順位で添加発展したとわたしは考えてきました。
この基である「板碑」をどのようなものとお考えになっておられますか。
458
:
れん
:2004/03/05(金) 18:46
犀角独歩さん。ご指摘の弥四郎国重が出てくる文献は大石記ではなく精師の家中抄です。手元の資料によると、「弥四郎国重事日道を大石寺に移す」は伝写の誤りで、精師の正本には日番御本尊一幅の下に弥四郎国重と細注してあったのを後の誰かが「しかして日道を大石寺に移す」という文に連接して、現在の写本の形になったものとのことです。ですから、弥四郎国重と日道師は何らの関係なく、文脈からは、日目師が日道師を大石寺に移したと理解するのが至当と判断されます。
459
:
愚鈍凡夫
:2004/03/05(金) 19:06
横レス失礼します。
「日興跡條條事」を拝する度に思うのですが、
「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相傳す。本門寺に懸け奉るべし。」(日興跡條條事)
この「弘安二年の大御本尊」は、「弘安二年(授与)の大御本尊」とも、「弘安二年(図顕)の大御本尊」とも、どちらにも解釈できるのがミソですね。文案を考えた人物にとっては、"してやったり"って処でしょうか。
でも、5000年先を考えれば、「戒壇之本尊」・「万年救護本尊」、共に朽ち果てて跡形もなく消えてしまうんですよね。そのことを考えた時、蓮祖は形に表した本尊に拘っていたのだろうかとの疑問が湧きます。むしろ蓮祖滅後の弟子たちが、主導権を握るため、それぞれが自流に有利なように相伝書なるものを創作していったように思います。
それでもこれからは、データはすべてコンピュータに入っているでしょうから、レプリカなら簡単に大量生産できるんでしょうけど・・・・・。
失礼しました。議論を続けて下さい。 m(_ _)m
460
:
れん
:2004/03/05(金) 19:10
板碑に関しては、私自身たいした知識は無いのですが、日目上人(継命新聞社刊行)によると、板碑とは一般に「故人の供養のため、あるいは生前に供養を営む「逆修」のために造立した塔婆の一種」とされています。事実、宮城上行寺五世日勢師が造立した日時師三回忌の題目板碑には「謹以奉造立処塔婆也」とあり、板碑は富士門流上代においても塔婆として扱われていた様です。私の推測では、インドで成立した卒塔婆や中国で成立した位牌がそもそもの原型でそれから板碑や墓石・(板)塔婆が派生したのではないかと考えています。以上ご参考までに。m(__)m
461
:
空き缶
:2004/03/06(土) 01:15
れんさん、そうですか。弥四郎国重が新田四郎信綱の子であれば、伊豆の可能性もありますね。
そうなると、関連資料が要法寺系にある可能性も否定できないですが。
ただし「建武元年新田孫五郎国宣執達状をめぐる奥法華宗の考察」その四(妙教寺住職:菅野慈俊)によれば、妙教寺客殿の板本尊は「日時上人の板本尊」であったとの事ですので、日時上人の時代に奥州でも板本尊が彫刻されはじめた可能性は否定できないと思います。
それから、以前転載しました新田小野寺系図は「建武元年新田孫五郎国宣執達状をめぐる奥法華宗の考察」その3や「日目上人」に掲載の系図(富士日興上人詳伝の系図)とほぼ同じでしたので、新田四郎信綱の子に弥四郎国重がいるとした説もひょっとしたら、と思ったのですが・・・。
462
:
れん
:2004/03/06(土) 18:00
空き缶さん、伊豆と言えば中伊豆町柳瀬に所在する旧興門派八本山の一つだった日尊師開山の実成寺がありますね。そちらを調査されてみるのも良いでしょう。京都要法寺の資料は富谷日震師の本宗史綱に殆ど翻刻されていると思いますが、弥四郎国重については見るべきものは無かったと記憶しています。妙教寺の客殿の板曼陀羅は、板倉目録の文章を見ますと、時師の曼陀羅を摸刻したもので主師の花押があるのをみますと主師が造立した板曼陀羅と考えられますので、妙教寺の板曼陀羅を時師の代のものと考えるのは早計と存じます。
463
:
れん
:2004/03/06(土) 18:26
なお日興門流上代事典で石山系の板曼陀羅を調べますと、京都要法寺蔵の日尊師造立の板曼陀羅(暦応三年造立)・栃木信行寺本堂安置の板曼陀羅(応永十九年造立)・石山九世有師造立の板曼陀羅(応永二十七年・文安二年造立)は悉く石山蔵の弘安三年太才庚辰三月日・蓮師図顕曼陀羅(紫宸殿曼陀羅と伝承。但し京都要法寺にも詳細不明ながら紫宸殿本尊と称する蓮師曼陀羅があるとされている)の摸刻とのことです。石山末寺でも、石山八代影師の代には板曼陀羅の造立が確認されるので、石山板曼陀羅の造立時期もやはりこの時代前後かもしれませんね。
464
:
犀角独歩
:2004/03/07(日) 13:59
れんさん:
いつもながらご丁重なご教示有り難うございます。
たいへんによく理解できました。
465
:
犀角独歩
:2004/03/07(日) 20:17
459に愚鈍凡夫さんが引かれる条々事、
「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の‘大本尊’日目に之れを授与す、本門寺に掛け奉るべし」(
と、寛師の記述は大御本尊ではなく「大本尊」となっています。
この点は諸本によって異なります。いったい、どちらが本当なのでしょうかね。
文意からすれば、これは「大本尊」であり、れんさんもご指摘くださったとおり、精師にしても万年救護本尊を指したものであったと推されます。
家中抄では
「一、日秀阿闍梨の跡并に御筆大本尊、日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興が門徒等此ノ旨を存すべきなり、若シ此ノ状を用ひざる者は大謗法の仁たるべきなり、仍テ置キ状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判」
とあることとも整合性が見られます。
また、『祖師伝』でも同様の記事を伝えています。
実際のところ、「大本尊」とはその紙上に実際に「大本尊」と記される所謂万年救護本尊を指したことは動かし難いと思えます。
条々事の記載が「大本尊」であるのか「大御本尊」であるのか、(この本が興師のものであるかどうかいまは別として)それは置くにしても、冨要で見る限り、『富士大石寺明細誌』から六巻抄ではいわゆる戒壇大本尊と解釈されるに及び、現在に至っています。
これまた、横レスになりますか。れんさん、空き缶さん、議論を続けてください。お邪魔しました。
466
:
空き缶
:2004/03/08(月) 00:16
犀角独歩さん、こん○○わ。私は、れんさんはじめ皆様に教えて戴く側で、とても論議に加われそうにありません。
ただ、富士年表によれば日郷師も板本尊を模刻していますので、一応。ただし蓮祖の曼荼羅ではなく日興上人の御本尊と記憶しています。違いましたっけ?
あと、日尊師の模刻本尊は日目上人の御本尊もあったと思いますが、蓮祖曼荼羅だけでしたっけ?
467
:
犀角独歩
:2004/03/08(月) 00:45
空き缶さん:
仰る辺りのこと、わたしは不案内です。
要するに、板漫荼羅は蓮師御筆ではなく派祖のものであるというご指摘でしょうか?
468
:
犀角独歩
:2004/03/08(月) 01:09
重ねて空き缶さん:
> とても論議に加われそうにありません
少し酔っていて、ご投稿のツボを外していました。
論議に加われそうもないどころか、いまや中心になっていらっしゃいますよ(笑)
わたしは毎日、楽しく拝読させていただいております。
469
:
れん
:2004/03/08(月) 12:57
空き缶さん、郷師も板曼陀羅を造立したのですか?手元の資料では、保田妙本寺系では郷師の弟子大輔阿日賢師が文和三年十一月八日に藤原国安とともに郷師書写曼陀羅(康永三年八月一日、首題下は日蓮聖人、相貌は興師の十界円具曼陀羅と同じ。)を摸刻造立したのが初見ですが。郷師が板曼陀羅(興師の曼陀羅を摸刻?)を造立したというのは初耳ですので、詳しくご教示戴ければ幸甚です。又、日尊師が日目師の曼陀羅を板曼陀羅に摸刻造立したというのも初耳ですので、これについてもご教示戴ければ幸甚です。m(__)m
470
:
空き缶
:2004/03/08(月) 15:15
れんさん、私の勘違いです。確かに模刻は日伝師の代です。
目師曼荼羅模刻の件も、れんさんがそうおっしゃるなら私の勘違いであると思います。確かに手持ちの富士年表を検索しましたが出てきませんでした。
471
:
犀角独歩
:2004/03/08(月) 17:57
れんさん:
> 栃木信行寺本堂安置の板曼陀羅…紫宸殿曼陀羅
とのことですが、これは間違いないのでしょうか。
わたしの手元に写真があります。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/singyoji_mandara.jpg
この板漫荼羅に酷似する本尊集所載ではNo.82となります。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/082.html
このことから、この板漫荼羅はNo82模刻であろうと類推されます。
また、れんさんの失笑を買ってしまうかも知れませんが、この漫荼羅が、所謂「紫宸殿本尊」と称されるものなのでしょうか。ご教示いただければ有り難く存じます。
以下、余談です。
わたしの手元にこの板漫荼羅を写したものがあるのですが、この題目の「經」の字の旁の二画から四画、弘安三年時点では、蓮師が「ツ」のように各部分ですが、ここが弘安二年の筆法の如く一筆で書かれたものとなっています。全体のバランスはたしかに弘安3年の如くですが、この部分のみ筆法が時代性と異なっています。
山中喜八氏の『御本尊集目録』によれば、
「『御本尊写真鑑』巻之一に収載してある弘安二年三月 沙弥日載授与之本尊は、当御本尊を模写したもののようである」(P121)
とあります。この記載からすれば、載師授与漫荼羅を模写とはいうものの、No82漫荼羅を真筆と認めていると読めます。
このNo82の漫荼羅は本当に蓮師御筆漫荼羅なのでしょうか。
取り立てて山中氏の鑑識にケチをつけるつもりはありませんが、やや疑問が残ります。
472
:
れん
:2004/03/08(月) 18:49
犀角独歩さん。故山口範道師の日蓮正宗史の基礎的研究の記事によりますと御本尊集八二番一一一番一一六番の所蔵不詳の曼陀羅は大石寺蔵と記載しています。独歩さんの御教示で信行寺の板曼陀羅が八二番の摸刻であることが分かりましたので、八二番の曼陀羅が石山で紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅ということですね。真偽については御本尊集では七八番までが経の書体が第三期に属し、以後が第四期になります。経の書体から見れば八二番は私見では八一番の次よりむしろ七七番の前後に置くのが至当と思います。私としては八二番は真筆と見てよいと思います。
473
:
れん
:2004/03/08(月) 20:03
蛇足ながらもう一言。山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」並びに大黒喜道師の「日興門流上代事典」の記述と、犀角独歩さんの提示された資料により、御本尊集所収の八二番曼陀羅は石山蔵のもので今日紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅と見て間違いないとおもいますが、当曼陀羅を実見した山中喜八師は「右下隅に授与書の存したのを、裁落した形跡がある」(御本尊集八二番備考(1))と述べており、八二番曼陀羅が真筆で、且つ石山蔵の紫宸殿本尊に間違いなけれは、当曼陀羅は本来は蓮師が弟子或いは信者個人に授与された曼陀羅であり、後世、石山の所
474
:
れん
:2004/03/08(月) 20:16
蔵に帰して以後、何らかの理由で当曼陀羅の授与書が削除され、さらに天皇が石山に帰依の際、天皇に授与する曼陀羅という意義が付加されたと見るべきでしょうね。ですから、本来当曼陀羅はやはり、蓮師が弟子某或いは檀越某個人に授与されたもので、紫宸殿とか師資伝とかと言うのは後世に当曼陀羅に付加された意義付けに基づく名称にすぎないと私は考えます。m(__)m
475
:
犀角独歩
:2004/03/09(火) 10:00
れんさん、有り難うございます。
『本尊集』のなかに石山所蔵漫荼羅がある話は知っており、そのなかに所謂『紫宸殿本尊』と呼称されるに至る漫荼羅が入っていることも仄聞していました。
真行寺漫荼羅が「紫宸殿本尊」、これは意外でした。
しかしなにより、驚いたことは、わたしが本尊集の並びから単にその時期を測ったのに対して、れんさんがその並びに新説を立てられたことでした。月日が未詳である場合、このような並び替えは可能ということになりますね。
れんさんがNo.77前後と仰ることは「經」の旁から見るとき頷けます。『本尊集』でその形貌がもっとも似通っているのがこの漫荼羅の經だと思えるからです。それを踏まえた真筆とのご判断も理解できます。山中氏の經書体分類からも言えようかと思えます。
この点は十分に頷き肯定します。そのうえで、中央題目と花押が全体を占める割合がNo.77、すなわち弘安3年2月前後ではやや尚早と見え、この点、一考を要するとは思います。その意味から、わたし個人はこの漫荼羅が真筆であることへ、やや疑問を残そうと思います。ただ、それはれんさんのご賢察に異議を唱えるものではありません。
たいへんに有意義な考証をお聞かせいただきましたことを感謝申し上げます。
476
:
犀角独歩
:2004/03/09(火) 10:06
【475の訂正】
誤)真行寺
正)信行寺
477
:
愚鈍凡夫
:2004/03/09(火) 12:35
番 号: №82
図 顕: 1280(弘安3)年3月
寸 法: 3紙
讃 文: 「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書: (削損シアリ)
所 蔵: 不明
もし、この漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるならば、次の文は何を意味するのでしょうか。
「大石寺に戒壇の本尊あり、惜哉九代目日有師之を彫刻してその本紙を失す」(宝冊)
この「宝冊」に載せてあるのは石山・日謄師の言葉であったと思いますが、石山では「紫宸殿本尊」の模刻が誤って伝えられたとしているのではなかったでしょうか。さらに石山の伝承では、「戒壇之本尊」を略奪しようとする者があったので、日有師は「戒壇之本尊」の身代わりとして「紫宸殿本尊」を模刻し、「戒壇之本尊」を駿東郡に避難させたという事件があったとのことですが。
史実としての石山史ではなく、あくまでも伝承というのが"ミソ"ですね・・・・・。
ひょっとして№82の漫荼羅は・・・・・、戒壇之・・・・のオ・リ・ジ・ナ・ル。
まさか、んなワケないよな。 (^◇^;)
478
:
犀角独歩
:2004/03/09(火) 14:28
477 愚鈍凡夫さん:
いいところまで来ています。しかし、実はとんでもないどんでん返しがこの一文に含まれています。
これから板漫荼羅のとどめを刺す考証を書籍として発表しようと思っていますので、詳しくはそちらをお読みいただきたいと思います。乞うご期待。
479
:
空き缶
:2004/03/09(火) 15:30
犀角独歩さん、「書籍として発表」との事、まちどおしいです。
一般書店で入手可能な書籍となるのでしょうか?
480
:
犀角独歩
:2004/03/09(火) 15:39
空き缶さん、有り難うございます。
通常ルートだと余計な経費がかかりますし、時間もかかるので、まずは直販にしようと思っています。
できれば、ネット本屋では扱ってもらってもいいかなと。
また、なるべく早く出そうと思っています。
板漫荼羅の真偽談義は決着がつきます。これで終わります。
481
:
れん
:2004/03/09(火) 17:17
犀角独歩さん。石山系教団問題を含めた所謂カルト問題に対する幅広い学識と深い認識と鋭いご考察の眼力をお持ちの独歩さんなら、独歩さんの書は必ずや素晴らしい著書であると私も思っています。一日も早く拝読できる日をお待ちしております。m(__)m
482
:
愚鈍凡夫
:2004/03/09(火) 18:50
>>478
:犀角独歩さん、
ワーイ!ワーイ!!楽しみにしています。 ☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡
出版されたら、是非読ませて頂きたいと思います。 (^∧^) 合掌
483
:
犀角独歩
:2004/03/10(水) 07:09
れんさん:
過分なお言葉をいただき、勇気百倍です。
有り難うございます。
愚鈍凡夫さん:
なんか嬉しいですね。
元気百倍になりました。
484
:
愚鈍凡夫
:2004/03/10(水) 12:54
**************************************************
まず1点目として、両御本尊(戒壇之本尊・日禅授与漫荼羅)の相貌の違いについて、大石寺理事・小川只道尊師に取材。小川尊師は、
「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は『日』文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり違っています。これらの違いは、御虫払いの時に気をつけて拝していただければ、一目で判るはずです。
もちろん、日禅師授与の御本尊に『模写の形跡』など、私が拝してきた限りでは、見当たりませんでしたよ」
と、そもそも両御本尊を間近で拝するならば、「模写」云々の疑難を生じさせる点は何もないことを明言された。
(『慧妙』020601)
**************************************************
この記事を読んで、
それならば、「戒壇之本尊」と「日禅授与漫荼羅」の鮮明な写真をHPに公表してくれ。
と、思わず突っ込んだのは小生だけだろうか。 (^_^;)
創価学会破折 「大御本尊偽作発言」破折
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/daigohonzongisaku.html
485
:
犀角独歩
:2004/03/10(水) 20:21
> 本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊…ほぼ同時期…感じが似ているのは当然
小川さんというのは『本尊集』を見たことがないんでしょうかね。
(板漫荼羅図示とする)弘安2年10月日の御筆漫荼羅 No67
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html
(日禅授与漫荼羅前日)弘安3年5月8日
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/092.html
弘安2年と3年ではその相貌の相違は歴然としています。
この二つの漫荼羅、どこが似ているというのでしょうか。
愚鈍凡夫さん、やや昔の話題に戻りますが、有師が造立したという石山称するところの紫宸殿漫荼羅は「籠抜(籠写)」という方法で模写したそうですね。
本紙の上に紙を当てて、文字の輪郭だけを写し取る方法です。こうして模写した文字を「籠字」というのだそうですが、亨師の漫荼羅脇書きの記述のなかに、それをそのまま残す漫荼羅のことが書いてあっったのを思い出しました。
「控(うつろ)字御本尊施入状、祖滅百七十三年、弘安二年の御本尊御名判だけ普通にて他は全く籠字の珍宝を日永が久遠寺日安に授与したる添状なり、近古の写本富士久遠寺に在り」
「弘安二□太歳己卯二月日(ウツロ字の本尊と称す御名判だけ黒字にして他は皆籠字なり、日永日我の授与書あり、上の妙本寺の古文書の下に出す)、 小泉久遠寺」
この二つの記述は同じ漫荼羅を指しているのでしょうか。
れんさん、空き缶さんも何かご承知のことがございましたら、ご教示ください。
486
:
空き缶
:2004/03/10(水) 22:55
犀角独歩さん、私も該当個所につきましては富士宗学要集8巻意外の資料を持ち合わせていないと思います。
と、いうことで、れんさん、お願いします。
487
:
空き缶
:2004/03/11(木) 00:13
訂正
誤:富士宗学要集8巻意外
正:富士宗学要集8巻以外
488
:
れん
:2004/03/11(木) 01:01
残念ながら、私も小泉久遠寺の弘安二年太才己卯二月日の控え字の曼陀羅については、富士宗学要集以外の資料は持ち合わせておりません。ただし「日蓮宗の本山めぐり」の記事によると小泉久遠寺の客殿には、蓮師時代(所伝では弘安四年に日法師が彫刻)に造立と伝承されている板曼陀羅を安置しているとのことで、あくまで推定の域は出ないものの、小泉久遠寺の籠字(控え字)の曼陀羅と同寺客殿の板曼陀羅とは何らかの関係が有りそうですね。m(__)m
489
:
みん
:2004/03/11(木) 01:21
犀角独歩さま
書籍の出版、待ち遠しいです!完成の折にはぜひ掲示板で発表して下さいませ。あと購入方法も♪
490
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 10:50
空き缶さん:
有り難うございます。
れんさん:
> 久遠寺の籠字(控え字)の曼陀羅と同寺客殿の板曼陀羅とは何らかの関係
なるほど。これは興味深い点ですね。
有り難うございました。
みんさん:
有り難うございます。
発刊の節は管理人さんにもお願いして、そのようにできればと願望は懐いております。
491
:
愚鈍凡夫
:2004/03/11(木) 12:43
>>485
:犀角独歩さん、御教示有り難うございました。
しかしなんですね、
高僧が「塗り絵」の下書きをしている姿を想像すると、そこはかとなく悲哀を感じますね。
う〜ん、ものは考えようと言うことでしょうか。 (-。-;)
492
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 13:52
愚鈍凡夫さん:
板漫荼羅はいつ作られたか?
なかなかこの特定は難しいですよね。
これを考えるに当たり、古文書の正確な成立年代を類推する、その時のいくつかのタームから現物の存在を類推するわけですよね。
たとえば「弘安二年」「大本尊」なんて言葉がそうです。あとになってくる「戒壇」なんかも加わります。「万年救護」なんていうのも入ってきます。
ところが新しいものを持ってきて、それに弘安二年の意義付けをし、大本尊と呼び、戒壇と関連させてしまうと、元々あったものが忘れ去られて、そっちのほうが本物のように扱われるようになってしまう。そのまま、伝聞されて時間が経つと、その作為が消え去ってしまうわけですよね。
『大石寺誑惑顕本書』というのがあります。この書はある意味、そんなことを十分に考えさせられる本です。ここでも、本門戒壇、本尊、万年救護なんていう富士門において重要なタームがたくさん出てきます。で、石山感覚で読むと、戒壇本尊と書かれていれば「本門戒壇之大御本尊」、つまり板漫荼羅だと思うわけですが、よく読むとそうではなくて、これが禅師授与漫荼羅を意味していたりします。同様に万年救護本尊て書いてあるから、例の「上行始顕」の讃文がある‘大本尊’であると思うとこれまた禅師授与漫荼羅であったりします。
こうなると最重要漫荼羅は石山ではいた漫荼羅、北山では禅師授与、西山・保田では万年救護で、それぞれの漫荼羅が最重要の問屋みたいにそれらの意味を全部持っている論調となります。
おまけに、これは三学無縁さんが、主張されるところですが、このなかで引用される重須・浄師の言とされる有師、並びにその彫刻批判は、正本に当たれないというわけです。ところがそんな追究なしに、戒壇本尊彫刻は有師、そして、道師は病気で杉山隠居が典型的な批判となるわけです。
また、板漫荼羅は楠で作られた、まあ、これは精師の記述に見られ、その原木は七面山の池に浮かんだ、で、安永師は七面山に楠は生えてないよと『板本尊偽作論』で書きました。それからというもの、大概の板漫荼羅批判者は筆頭にこれを言います。これまた、三学無縁さんのご指摘ですが、安永師のネタもとは、なんと戦前に名を馳せた石山僧であるというから驚きました。
それにしても、板漫荼羅が「出世の本懐の大御本尊」と言われる、それはすごいものだとわたしなんかも子供心に感動していたものなんです。しかし、あとから考えると、その本懐を遂げたはずなのに、それからも、現存するだけでも、50舗も漫荼羅を図示しているわけですね(笑)
本懐を遂げたら、そのあとはナシでしょうにね。
しかし、この板漫荼羅によって、戦後、発表を素直に信じれば、昭和42、3年には正本堂供養に800万人が実名で500億円にも届く供養をし、その後、昭和58年には信徒数1650万人と豪語したわけです。いまでは顕正会が女子高校生中心に100万人集めて大騒ぎしていますが、こんなのは当時を知っているものからすれば、おままごとの分類です。
実否は知りませんが、創価学会は半世紀で7兆円の資産を構築し、顕師が「粥を啜っても」とお涙頂戴したのに、実際は1兆円は持っていると言います。6万人、30万人だと動員して正本堂を解体して、奉安堂をさらに造り、今度は60万登山と言っているそうですね。
これも、あの板漫荼羅から起きた顛末。もうこんなことは終わりして欲しい。
日蓮信仰の家に生まれた自分は、恥ずかしく思うわけです。
しかし、出口は見えました。板漫荼羅判断の基本的なテキストを残し、ここ半世紀の愚行が繰り返されないようにすることを、いまの自分の使命である、否、かつて本仏と仰いだ日蓮への報恩と思っています。
493
:
れん
:2004/03/11(木) 16:59
そういえば、石山の板曼陀羅は帝釈天玉を「釈提桓因大玉」と表記していますが、蓮師真筆の曼陀羅を見ると、弘安二年十一月(御本尊集第六十八の二番の曼陀羅)までの弘安期の曼陀羅における帝釈天玉の表記は釈提桓因とあるものはすべて「釈提桓因玉」なんですよね。弘安二年十月の時点で「釈提桓因大玉」とあるのは現存する蓮師真筆からみると蓮師の通格に反しており、この点からも、板曼陀羅が偽作であることは証し得るでしょう。
494
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 17:07
【492の訂正】
誤)石山ではいた漫荼羅
正)石山では板漫荼羅
誤)戒壇本尊彫刻は有師、そして、道師は病気で杉山隠居
正)戒壇本尊彫刻は有師、そして、同師は病気で杉山隠居
相変わらずの打ち間違い失礼しました。
あと、わたしは『大石寺誑惑顕本書』を褒めているわけではありません。
資料性はあるということです。
しかし、これをお読みなった方は少ないように思えます。
刊行本に付録で付けてもよいと考えています。平易に現代語に開いたほうが好いのでしょうか。
あと付録として考えているのは『大石寺本尊真偽問答』。40年ほど前のものですが、こちらも平易な現代語に開いたほうが好いのでしょうか。
皆様のご意見を頂戴できれば有り難く存じます。
『大石寺本尊真疑問答』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html
495
:
空き缶
:2004/03/11(木) 17:17
犀角独歩さん、「刊行本に付録で付けてもよいと考えています。平易に現代語に開いたほうが好いのでしょうか。」との事ですが、両方は紙面上無理でしょうか。(非常にわがままな意見でした)
496
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 17:31
495 空き缶さん:
あ、そうですね。両方載せれば資料性は保持でき、理解の便宜にもなりますね。
両書ともそれほど長編ではないので十分に可能ですね。
ご意見、有り難うございます。
497
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 17:32
493 れんさん:
ご指摘のところ、頷けます。なるほど。
『悪書板本尊偽作論を粉砕す』のなかで細井精道師(のちの達師)は
「戒旦の御本尊は釈提桓因大王となっておられる」(P62)
と記しています。自爆していますね。
余談ながら、この書で噴飯ものなのは
「安永君は板御本尊の下方部に仏滅後二千二百二十余年未曾有の大漫荼羅の御文が入れてあるというが、よくも斯様な出鱈目が言えたものであると唯あきれる許りである。一度も拝せずして世上の与太議論の書を半囓りして論ずるから根も葉もないことを誠しやかに論ずることにんある、茲には御本尊の御文はかくかくだということは言はぬ」(P12)
と記すことです。この精道師の言をそのままに取れば、この端書のことを記した精師も、霑師も、亨師も、皆「出鱈目」「与太議論」を言った張本人となります。そして、挙げ句に「御文はかくかくだということは言はぬ」と逃げてしまっていることです。威勢が好いだけの逃げ口上で終わりです。
498
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 17:34
また、打ち間違えました、失礼
【497の訂正】
誤)論ずることにんある
正)論ずることになる
499
:
れん
:2004/03/11(木) 17:37
犀角独歩さん。
「大石寺誑惑顕本書」「大石寺本尊真疑問答」
残念ながら両書共に私は未見の資料です。資料的価値から言えば、私も原文と現代文に開いた解読文の両方を付録として掲載した方がよいと思います。m(__)m
500
:
愚鈍凡夫
:2004/03/11(木) 18:13
犀角独歩さん、ご苦労様です。
さぞかし、いろんな想いが交錯する中での執筆だったと想像しています。
先日、下記のHPを読んでいて思いました。
後世の我々が見たら時には滑稽にも思えるのですが、偽作を作った本人の気持ちはどうだったんだろうかと。
こうであってほしいとの気持ちから史実を曲げたのだろうか。それとも、自宗の利益のために史実を曲げたのだろうか。はたまた、後世の学者・学僧達をからかうためなのか。果たして、罪の意識はあったんだろうか・・・・・。
等々、色々と考えさせられました。
日持師の場合は、国策という特殊事情がありましたが、蓮祖の場合も本質は同じではないかと思います。
「伝・宣化出土日持上人偽造遺物について」
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/nitiji.htm
501
:
れん
:2004/03/11(木) 18:15
497 犀角独歩さん
細井師の「悪書板本尊偽作論を粉砕す」のその記事は本当に自爆ですね(笑)。まぁ、学問的批判に耐えられない「威勢がよいだけの逃げ口上」で終わるのは石山の僧侶方の悪い癖ですね。m(__)m
502
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 22:34
れんさん:
有り難うございます。
『大石寺本尊真偽問答』はわたしのサイトでアップしてあるのですが、PCはご覧になれない環境でいらっしゃいましたね。もし機会がありましたら、ご高覧を賜れれば有り難く存じます。
それにしても、古文書に広く通じられるれんさんが、初学を意識されて現代文の掲載をお薦めくださる辺り、さすがだと思います。
石山僧、威勢好いだけ。そうなんですよね、なんでああも事実から目を背けるのか、溜息が出ます。
503
:
犀角独歩
:2004/03/11(木) 22:40
500 愚鈍凡夫さん:
これまた、痛いものを出してこられましたね。
いや、これはしかし、まあ、気の毒な事件であったとわたしは思っていますよ(笑)
事実証拠をしっかりと掌握する基本を外すとこうなるわけですね。
しかし、こんなサイトがあったのですか。
まったく愚鈍凡夫さんの見識の広さにはいつも驚かされます。
504
:
近江屋
:2004/03/12(金) 18:25
すごい書き込みの目白押しで気絶しそうです。戒壇の大ご本尊様をこんなに言っているのに誰も反論なしなんでしょうか。
ガンコさんほか、顕正会の皆さんもだんまりですか。トホホです。もうおしまいじゃないですか。
505
:
犬は吠える、されど・・・
:2004/03/12(金) 21:29
近江屋さん。しょせん内拝も許されず霊宝御虫払にも参詣できなくなった
人たちが、不鮮明な写真と他門関係のいい加減な伝聞記録と、それから、過
去に彼ら自身が大石寺に参詣した(おそらくは半分居眠りしながら)時のあ
やふやな記憶だけを頼りに、勝手な憶測を書き並べているだけでしょう。は
っきり言って間違いだらけです。実際にこの目で大御本尊様の相貌を拝させ
て頂いている我々からしてみれば、一連の書き込みは「VOW」なみに爆笑を誘
うものです。
さて、どこがどう違うか指摘するには大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌
を教えてあげないといけない訳ですが・・・もったいないから教えません。
既にここまで偽作説を言い切っている人たちですから、今さら教えてあげた
ところで、意地でも間違いは認めないでしょうからね。何事も、ケチをつけ
ようと思えばいくらでもつけられるものです。
偽作説ばかり達者で成仏法が説けないのでは話になりません。偽作論者の
諸君がいくらガンバっても、偽作論を信じたって別に成仏はできません。功
徳はなんにももないのです。肝心なのは、正しい本尊とは何であるかという
事をまずはっきりさせて、その御本尊様を信じ抜いて、その結果として自分
自身が成仏を遂げていくことです。仏教オタクになったって仕方ないのです。
戒壇の大御本尊様とは別に、何か真に正しい本尊が存在するならば、それ
は何であるか。これを明らかにできるならば、偽作論キャンペーンなどは無
用なのであります。結局それを明らかにできないから、偽作論を振りかざす
のでしょう。
何よりも、御本尊様の事を畏れ多く思う気持ち。そして偽作論者の諸君に
対する呆れと哀れみ。この板を見ている他の法華講員の方々も、おそらくそ
うした気持ちから、発言を控えているのでしょう。
真剣に法を求めるならば、何事も書物の上だけでなく、実地に見聞して確
かめていくべきかと存じます。あと、過去に御開扉を受けられたことのある
方は、もっと真剣に、その時のかすかな記憶をいま一度想起してみて頂きた
い。そうすれば間違いに気づけるでしょう。私がいま皆さんに言えることは
これだけです。
506
:
犬は吠える、されど・・・
:2004/03/12(金) 21:44
「何がVOWか、無礼な」と切り捨てられて終わりにされそうなので、その一例
を挙げておきます。
>>347
>あと、これまた蛇足に属することですが、写真で見る板漫荼羅の上部両隅
>に鶴丸紋が刻まれているのが確認できます。それが板漫荼羅と一体なのか、
>枠なのか、わかりません。
アハハハハハ
こんな事も覚えてない方が写真なんぞを頼りに偽作説を弘めていることこそ、
大聖人様に対し奉り「無礼」千万であろう、との感想を、私のような者は抑
えることができません。
507
:
空き缶
:2004/03/12(金) 23:00
犬は吠える、されど・・・さん、貴方の書き込みは日蓮正宗が反論不能である事を物語っています。
「他門関係のいい加減な伝聞記録」といいますが、れんさんが引用された「研究教学書」とは富士学林(日蓮正宗僧侶育成機関)の教科書ではないですか。
私の引用した、日蓮正宗聖典も富士宗学要集も「他門関係のいい加減な伝聞記録」でしょうか?
通称「本門戒壇之大御本尊」は、高度情報化社会という時代の到来によってその役目を終えようとしているのです。
508
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 02:43
> 犬は吠える、されど・・・さん:
板漫荼羅信仰者がどんな人間であるのかを遺憾なく露呈していて愉快な投稿でした。
正しい本尊がなぜ正しいと言えるかを書けず、「正しい正しい」と繰り返しても、はじまりません。
正しい証拠を論理だって説明してはじめて正しいと証明されるでしょう。
正しいというのであれば、ここに雄弁にその証拠を‘もったいぶらず’に記されればよい。自称正しい本尊を信じるあなたと、あなたがいう板漫荼羅偽作論者と、どちらが誠実かつ理を尽くしているかは、ロムの皆さんの判断に委ねればよいだけのことです。
なお、わたしは板漫荼羅は200回以上も見聞しています、生まれて40年間、信者でしたから。
347の書き込みはわたしのものですから、一言記せば、鶴丸部が枠か一体なのか、「覚えていない」のではなく、写真からも、現物を見ても、「わからない」と記しているのです。このように文章を改竄して批判するようなみっともない真似は、板漫荼羅信奉者の多くがあなたのようにの姑息な真似をする人間だと思わせることになるだけです。他の信奉者に気の毒ですからおやめになったほうがよろしい。
くだらない嫌みを書き連ねるより、板漫荼羅が本物である確たる証拠を書き記せばよいだけのことです。それができない自身の無力をよくよく確認するべきです。
509
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 04:19
さてと、重ねて犬は吠える、されど・・・さん:
自ら自分を「犬」だと卑下することはありません。
以下、ご自身の書き込みに一々に明快な回答をなし、信奉者の威風堂々たるところをお見せください。
> 不鮮明な写真
この不鮮明な写真を『日蓮上人』に掲載させたのは大石寺でしょう。
精道師は「写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考え大石寺に願ってやったこと」と記しています。
不鮮明な写真が悪いのであれば、鮮明な写真を呈示すればよろしい。
> 他門関係のいい加減な伝聞記録
どことどこが他門の、いい加減な伝聞記録であるか、指し示していただきたい。
> (おそらくは半分居眠りしながら)
見たような言いがかりはやめていただきたい。
> はっきり言って間違いだらけです
どこがどのように間違いだらけであるか明記していただきたい。
> 成仏法が説けないのでは…
ほお、では、あなたは成仏法を持っていると。では、あなた方の中で、どこの誰がいつ成仏したのですか。
> 正しい本尊とは何であるか
ですから、それが所謂「戒壇之大御本尊」であることを、ここに文理証拠を挙げて雄弁に語ればよいのです。
> 何か真に正しい本尊が存在するならば、それは何であるか。これを明らかにできるならば、偽作論キャンペーンなどは無用なのであります
そのとおり。正しい本尊と思うものが、なぜ正しいと言えるかを説明されればよろしい。そうすれば、真偽考証は必要ありません。ただし、わたしが書いたことはキャンペーンではありません。自分が信仰してきたものの疑問点を呈示したことです。
> 実地に見聞
このことは既に記したとおりです。
> アハハハハハ
このような人を侮蔑する擬音を記せば、むしろ、その程度の低さから物笑いになるのはご自身ということになるでしょう。また、改竄した姑息さは先に記したとおり。
> 大聖人様に対し奉り「無礼」千万
蓮師に無礼千万なのは、勝手に板に彫刻し、基の御筆漫荼羅にない文字を書き足したりすることを言うのです。そのような事実があれば、そのことこそ、無礼千万に当たります。
「もったいないから教えません」などと、さも知ったかのように記してごまかしてはいけません。ここは公開の議論の場です。記せなければ、知らないと判断されるのは当然です。教えられる能力があるか否かは、実際に教えることができる書き込みをしたことのみで計られるのです。書き込めなければ、ただのはったり、虚仮威し、そんなことを「戒壇之大御本尊」信奉者はやるのかと落胆を誘うだけのことです。
では、解答ください。
510
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 04:45
―509からつづく―
そう。これは感想、いや感嘆ですが、犬は吠える、されど・・・さん。あなたはよほど眼がよろしいのでしょうね。5000人余も収容できるあの広い奉安堂で、板漫荼羅に書かれた文字の一々が実地見聞すれば見えるというのには驚きました。殊にわたしが問題視した「造立…敬白」の文字が読み取れるというのであれば驚嘆に値します。
わたしは奉安殿、正本堂参拝の経験しかありませんが、むしろ、不鮮明とはいえ、『日蓮上人』に掲載された写真のほうが、考証の段では、よほど参拝した記憶よりあてになります。また、わたしが真偽考証に充てたのは明瞭に読み取れる題目、花押、愛染です。この大きな画像も不鮮明であると言い張るわけでしょうか。納得が行きません。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html
また、もう一つ。板漫荼羅の(内拝という名の)公開は年がら年中実施されているのに、霊宝御虫払に限って論うのでしょうか。まさか、この時しか見られないとでも思い込んでいるわけですか。どうも記述に不自然さを感じます。
511
:
富士桜
:2004/03/13(土) 08:23
ここの所ずっとこのスレッドを目にしてきました。
・
>わたしは奉安殿、正本堂参拝の経験しかありませんが、むしろ、不鮮明とはい
え、『日蓮上人』に掲載された写真のほうが、考証の段では、よほど参拝した
記憶よりあてになります。
・
今月の8日(月)に内拝させていただきました。
平日と言う事もあり奉安堂のほぼ御法主上人の後ろに座りましたが「造立…敬
白」はまず確認する事は出来ません。そして一番近くまで行けたとされる奉安
殿の一番前でも正確に見えませんでした。
ただ、この独歩さんの510に貼り付けてあった大御本尊は確かに不鮮明です
ね。この花押の下にも何かがいっぱい書かれているのは見えます。その程度な
んですけど。
自分も何が書かれているのか知りたくて何かのレクリエーションで御鍵取りの
御僧侶の方とお話をしたんですけど、間近であっても絶対に自分の目で確認す
る事はない、と話は終わりました。。。
・
そうだ!独歩さん平日でよろしかったらなんだったら今度、御開扉御一緒しま
しょうか?本気で。内拝券はちゃんと用意します。顔がばれないようにしてく
ださい(笑)
512
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 09:46
富士桜さん:
お久しぶりです。もうすぐ桜の季節ですね。
先にここにも書きましたが、旧暦の2月16日、身延から北山に行って来ました。
既に富士の桜は咲き出していました。
> 今度、御開扉御一緒
このお誘いは有り難く拝受申し上げます。
先だっても同じように誘ってくださった方がいました。
しかし、なかなか難しいですね、わたしは面が割れていますから(笑)
入れてくれるというのであれば、それは「喜んで」というところです。
> 花押の下にも何かがいっぱい書かれているのは見えます
これなんですが、金箔が施されていますか?
不鮮明ながら、写真でわかるように、当初、ここには金箔はかかっていなかったのです。写真は宝蔵でのものですが、たしか奉安殿の段階でもかかっていなかったと思います。
では正本堂では? 聞いた範囲では、かかっていることを覚えている人はいないんですね。
いったんの奉安殿への移管の段階ではどうであったのでしょうか。ご記憶にございませんか。
これは仮定なのですが、奉安殿の段階で件の箇所に金箔がかかっておらず、奉安堂の現段階でかかっていれば、少なくとも、所謂「戒壇之大御本尊」は2体はあることになります。
あくまでも未確認のことですが、奉安殿から正本堂へ移管したとき、修繕が間に合わなかったために‘もう1体’を安置したなどと言われています。これはもちろん、事実関係を確認したことではないのですが、移管に立ち会った経験者のなかから上がった話であるといいます。
また、中世から「戒壇之大御本尊」は板であることが言われ、その厚さまで伝えられてきたのですが、正本堂以降、達師は「半丸太」であると明言し、宗の内外を驚かした経緯がありました。そのようなことから複数存在するのではないのかと囁かれてきたわけです。
写真が不鮮明なことはたしかにそのとおりです。
ですから、わたしは鮮明な写真を呈示すること、「戒壇之大御本尊」の学術的な科学調査を行うべきであることを主張してきたわけです。
放射性炭素年代法を用いれば、造立年代はわかるわけです。(正本堂移管の折、腐朽で崩れ落ちた木屑を関西方面で分析した話も伝わりますが、これはその実否が確認できません)
詳しい相貌は、写真で発表すれば明確になります。
何か不鮮明な写真の責任はわたしにあるのではなく(笑)『日蓮上人』に掲載を許した大石寺にあるわけです。もっと、鮮明な写真を載せればよかったわけです。また、山口師が指摘するように所蔵3舗の漫荼羅を本尊集にも載せたわけですから、「戒壇之大御本尊」の写真を公開することを、躊躇する必要はありません。「信心のない人間に見せる必要なし」というのであれば、なぜ『日蓮上人』に掲載したのか、3舗の漫荼羅はなぜ掲載したのか、自己矛盾を来すでしょう。
都内に少なくとも2カ所、大阪に1カ所、「戒壇之大御本尊」の相貌を正確に写した「正模写」の紙幅漫荼羅が現存することは、その各寺院の宝物帳の記載から明らかになっています。板漫荼羅が駄目であれば、この正模写の発表で替えても事態は進展します。
しかしなされないでしょうね。理由は至って簡単です。発表すれば、直ちに板漫荼羅の正体がわかってしまうからでしょう。学術調査をしないこと、写真を発表しないこと、その諸尊座配・その他の彫刻の記述すら発表しないのは、それなりの理由があるのでしょうね。
いずれにしても「広宣流布の暁までは秘蔵厳護」するはずが、5000人以上も収容できる建物で年がら年中、公開されているのは、自語相違の非難を免れません。5000人×2000円=1回1000万円、プラス支部登山その他となれば顕師に直接の奉供養も加わります。
30万登山、30万×2000円=6億円、また、奉供養の平均を(少なく見積もって)3000円であったとしても顕師個人には9億円の収入があったことになります。
信徒に仕組まれた「戒壇之大御本尊」への渇仰恋慕心は、実にこんな経済効果をもたらしています。「内拝という名の公開」をやめず、それにもかかわらず、その実態を明らかにしない矛盾はここにもその理由があるだろうと思えます。
513
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 12:39
○達師漫荼羅の「經」と「愛染」
敢えて写真は載せませんが、『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の発行者代表・精道師が、石山住職になったのち、正本堂供養者のなかで特定の役職を持った学会員に下付した所謂「特別御形木本尊」が我が家にあります。この「經」と「愛染」は板漫荼羅の写真とその部位と同等の形貌です。
經旁の最終画は「止筆」となっており、愛染は他の御筆漫荼羅と異なり板漫荼羅のそれと同じ筆法となっています。この事実は、つまり、板漫荼羅の該当箇所が、そのようになっていることを物語っているのでしょう。その意味で、達師は板漫荼羅は、蓮師が身延で弘安2年10月12日に図し、法師がそれを彫刻したという伝説を信じていた人なのであろうと思えます。となれば、本人もそのように信じていたわけですから、宗内僧俗を誑かす意図はなかったのであろうと、わたしは善意に採っています。
ただし、著述した『悪書板本尊偽作論を粉砕す』は、その後の石山文書で覆された点がいくつかありますので、その点を何点か紹介しておこうと思います。
○弥四郎国重
「茲に其の対告衆弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中弥四郎の名は幾人かあつたことは記録によって明らかであるが、最も此の場合該当せられるのは神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であつたと断定するのが至当である(これは茲に科学的な考証を掲げる必要があるがいまは省略しておく)」(P19)
と、弥四郎国重=神四郎説を開陳します。
しかし、『日蓮正宗要義』では
「本門戒壇の大本尊は唯一究竟の大目的の下に、大聖人境界中の弥四郎国重の願いによって顕され」(P203)
と恰も非実在の人物と扱う如きとなっています。
○離山に百貫坊が背負う
「御板御本尊を百貫坊に背負わせて粛々と身延の山を御去りになった」(P49)
とありますが、『日興上人正伝』ではこの記載が見られません。
○妙海寺漫荼羅
「日華上人授与…弘安3年5月8日…妙海寺所蔵の本尊こそ、此の日華上人御授与の本尊を臨写したものであることは歴然たるものがある」(P68)
という。これは安永師が板漫荼羅は妙海寺漫荼羅の模写であるという説に対する反駁です。しかし、つい最近、この漫荼羅について、歴史的な大発見がありました。同漫荼羅中に蓮師の指紋が発見されたことです。
http://news.nichiren-shu.jp/01_news/2003/031210/sub_0001.htm
精道師に言わせれば、妙海寺漫荼羅は臨写であって真筆ではないというので、となるとこの指紋は誰のものとなるのか。さて、御筆本尊集にこの漫荼羅を含めた山中喜八師、また、科学的な調査・修復を行った中尾峻師が間違えたのか、それとも、精道師一人の思いこみであるのか興味が惹かれる点です。
514
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 12:47
513に紹介したページは開くと自動的ジャンプしてしまうようなので、掲載文を以下に転載します。
*** 以下転載 ***
日蓮聖人ご真筆曼荼羅本尊から指紋
大きな発見につながる可能性…
静岡県沼津市の妙海寺(笹津海道住職)で格護されている弘安三年五月の日蓮聖人曼荼羅本尊から聖人御自身のものとみられる指紋が見つかった。これは今年の三月から進められていた修復調査で明らかになったもので、中尾堯・立正大学名誉教授が確認。聖人の実像を肌で感じることのできる大きな発見につながる可能性が高い。(本紙九月二十日号「ご真蹟に触れる」に一部既報)
指紋が見つかった曼荼羅本尊は、日蓮聖人六十歳の弘安三年(一二八〇)五月八日に顕示されたもので、大きさは丈九九㌢×幅五四㌢。指紋は向かって左下の「大増長天王」(図①)と中央下の花押の部分(図②)に合わせて約十ヵ所みられ、遠目では気づかないが、近寄って目をこらして見るといくつかの指跡を見ることができる。
中尾教授によると、日蓮聖人が曼荼羅本尊を揮毫される際、「大増長天王」の部分は四天王の中でも最後に書かれ、墨の乾かないうちに署名と花押に移る。その時〝天〟と〝王〟の付近に左手を添えられ、偶然にも指紋が残ったと推測される。
また料紙の表面には、滑りのよいように木槌でたたいて紙の目を緻密に加工する「打ち紙」の技法が施され耐水性に優れているため、墨跡が乾きにくかったことも影響しているとみられる。
さらに花押部分の指跡に関しては、ちょうど同じ日に揮毫された日華上人授与の曼荼羅本尊(法華宗本門流本山・京都本能寺蔵)の存在も関係しているという。すなわち日蓮聖人は本能寺蔵の曼荼羅本尊を先に揮毫されたために、二幅目(妙海寺の曼荼羅本尊)を書き上げ、最後に筆をおろした時には、その労力の大きさから思わずフラッと料紙に両手を付かれたという想像も成り立つとしている。
中尾教授は「文字中に残された指紋からは、日蓮聖人が渾身の力を込めて曼荼羅本尊を揮毫されていた尊いお姿が伺われ、聖人の実像を身近に感じることのできる数少ない例となるのではないか」と語っている。
11月19日に特別開帳
修復を終え、およそ八ヵ月ぶりにお曼荼羅をお迎えした妙海寺では、十一月十九日に特別開帳が行われ、多くの檀信徒が参集した。午後二時、堂内にお題目が響く中、宝前に曼荼羅本尊が掲げられると、参加者からは一様に感嘆の声が。その後、間近まで進み、一人一人が合掌して曼荼羅本尊を拝した。
続いて、列席していた中尾教授が今回の修復と指紋発見の経緯を参加者に説明し、笹津住職は「日蓮聖人を身近に感じてさせていただく有り難い機会となりました」と挨拶した。参加者も「日蓮聖人がそこにいらっしゃるようで、喜びでいっぱいです」と声をそろえて感動を共有していた。
妙海寺は、日蓮聖人が当地に八日間滞在し津波除けの祈祷を行ったのが始まりといわれ、現在も八日堂の法会として毎年大晦日から正月八日まで祈祷会が行われる。最終日にあたる八日の午前六時頃には、今回の弘安三年の曼荼羅本尊を含めた、合わせて三幅の日蓮聖人曼荼羅本尊が掲げられ、多くの参拝者が訪れる。
http://news.nichiren-shu.jp/01_news/2003/031210/sub_0001.htm
515
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 16:37
【513の訂正】
誤)科学的な調査・修復を行った中尾峻師が間違えたのか
正)修復の際、確認した中尾堯師が間違えたのか
516
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 18:21
暁鐘別冊『本門戒壇大御本尊遮難「魔説“板本尊偽作論を摧く”』は『悪書板本尊偽作論を粉砕す』と同内容なのかと即断していたのですが、やや出入りがありました。
・石山本と暁鐘本の相違点
石山本では
前編『板本尊偽作論を破す』、後編『日蓮正宗歴代管長裏面史の邪論を破し真実を記す』となっていますが、暁鐘本では、これを入れ替え
第1編『「歴代管長裏面史」の妄論を破す』、第2編『「板本尊偽作論」を破す』
となっています。
・「板本尊偽作論を破す」では以下の点で相違しています
石:前編(1)まえがき(2)偽作論の性格を論ず
暁:第2編はじめに
石:(3)5曲説を難ず
暁:5歴代に対する曲説を破す
石:(3)11有師偽作説は誑説なるを明す
暁:11有師偽作・癩病説は誑説なるを明かす
石:(3)14日法上人の本尊彫刻を史伝において明かなり
暁:14「日法上人は本尊彫刻せず」の妄説を破す
・「歴代管長裏面史」では以下の点で相違しています。
暁鐘本では石山本にない以下の歴代が添加されています
日目、日道、日有、日鎮、日院、57世以後、日亨
また暁鐘本では冒頭に「悪書再刊の背景 ― 正理研究会の狂気の実態」という一文が付されています。
内容的に以上の出入りがありますが、暁鐘別冊『本門戒壇大御本尊遮難「魔説“板本尊偽作論を摧く”』は、石山宗務院発行代表精道師『悪書板本尊偽作論を粉砕す』を底本にしていることは明白なのに、そのいずこにもその断りがないのは著作権その他の出版常識からすれば特異なことで、仮に現石山がそれを許可したことでも、読者の便宜に適っていないと思えます。
517
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 19:58
れんさん:
恐縮ですが、質問させてください。
少し古い話なのですが、
> 277
>…日興門流上代事典…稲田海素師の「…板本尊の原本は確かに御真筆である」(木下日順「板本尊偽作の研究」)
というご紹介をなさっていましたが、この稲田さんのご覧になったというのはいつのことであるかおわかりになりますか。ご教示いただければ有り難く存じます。
518
:
れん
:2004/03/13(土) 20:51
犀角独歩さん。残念ながら私には稲田海素師が石山に参詣した時期は分かりません。稲田師は蓮師遺文の編纂のため蓮師真蹟の研究をされましたが、稲田師が研究のため真蹟所蔵寺院を歴訪された時期は主に戦前だと思いますから、私の推測では稲田師の石山参詣は戦前のことだと思います。m(__)m
519
:
犀角独歩
:2004/03/13(土) 20:56
518 れんさん:
早々のご教示痛み入ります。
「戦前のこと」、その範囲でも十分に参考になりました。
有り難うございました。
520
:
れん
:2004/03/13(土) 21:10
稲田師の件とは関係ありませんが、興門資料刊行会から再刊された松本佐蔵氏の「弘安二年大曼陀羅と日興師」(原本は昭和五年刊)には「御本尊を彫刻せられた時は墨漆の御仕揚げであったが年代を経た為め参詣者には唯だ黒く見受け判明せぬのを慨き石山廿四世日永師の代に腰書以上の御文字へ金箔でおし金装置をせられたが腰書即ち次に記する「現當二世」云々の記入は初めの墨漆の儘であるから明瞭に拝めない」とあります。日法師彫刻云々は伝説ですが、曼陀羅部分の金箔装置が近世江戸期であったのには私には驚きでした。m(__)m
521
:
れん
:2004/03/13(土) 21:14
訂正。
誤。御本尊を彫刻
正。御本尊を日法師が彫刻
522
:
富士桜
:2004/03/13(土) 21:24
犀角独歩さん:
丁重な御挨拶ありがとうございます。
そぐわない問いかけにも関わらず恐縮しています。
>旧暦の2月16日、身延から北山に行って来ました。既に富士の桜は咲き出していました。
はい、読ませて頂きました。失礼を承知で書かせていただきますが、何か独歩さんらしい墓参に思えました。
偶然ですが実は自分その日鎌倉に行きました。辻説法跡や極楽寺や鶴岡八幡宮を回って竜口寺に見学させてもらいました。鎌倉も暖かかったですが、そうですか桜は咲き始めているのですか。これには驚きましたが、昨今の気温を考えれば、すでに確かに春は訪れていますね。
>御開扉御一緒
こちらの件は了解いたしました。
う〜ん。
金髪にしてカラーコンタクト入れて海外信徒に成りすます、と言うのはどうでしょう。
余計怪しまれますね・・・嘘です。(笑)
気が向いたら声をかけて下さい。
独歩さんの事情を詳しく存知していませんが、何があったにしろ「お前は入るな!」と自分の目の前で独歩さんが言われたら自分は体張って抵抗します。
余計な話が長すぎました。すいません。独歩さんの問いに答えたいと思います。
>不鮮明ながら、写真でわかるように、当初、ここには金箔はかかっていなかったのです。写真は宝蔵でのものですが、たしか奉安殿の段階でもかかっていなかったと思います。
では正本堂では? 聞いた範囲では、かかっていることを覚えている人はいないんですね。
写真自体がモノトーンなので金箔をこちらの写真では確認出来ませんが、現在までに自分が拝してきた大御本尊、それは奉安殿〜奉安堂を通し、すべてに金箔が施されています。
独歩さんがおっしゃる奉安殿とは旧奉安殿(正本堂前)なのかは区別がつかないのですが、
自分が入信した時期の奉安殿は、正本堂から奉安殿に御遷座され、時間的にはしばらく経った事なのでしょうけれど。
奉安殿の頃には月2〜3回は内拝し、御法主上人のすぐ後ろ、最前列にも何度となく座りましたので、今でもはっきり覚えています。
もし花押の下に金箔がされていなかったら、奉安堂の時点で自分も気がつくと思います。
あまり関係ないですが明らかに「あれ?金箔が明るくなった・・・?」と感じた時期があります。
それは平成13年の終わりくらいだったと思います。
後日談で確認した話ですが、その頃平日の御開扉が緊急で中止になったようで、大御本尊の化粧直しとお聞きしました。これは来る平成15年宗旨建立750年の為と地元の壇家筋の方にお聞きしましたので確かな話だと思います。
>詳しい相貌は、写真で発表すれば明確になります。
何か不鮮明な写真の責任はわたしにあるのではなく(笑)『日蓮上人』に掲載を許した大石寺にあるわけです。
確かに!絶対独歩さんのせいじゃないです。(笑)
ただ、この時代の写真技術はどうだったのかなぁ?とも思います。
もちろん明治時代の写真は現代でもくっきりはっきり残っているものも数多くありますがカメラの性能や現像、現代とは比較にならないと思います。
当然その写真を大石寺が認可、と言う意味ではわからないですが、あくまでも日蓮宗側の資料として許可された事、と自分も聞いています。
でもこの写真。
以前オフ会で管理人さんから頂いたCDRの中に入っていた大御本尊とは違いますよね?
なんかあちらの方が綺麗に撮れていたと思いました。
523
:
富士桜
:2004/03/13(土) 21:25
>都内に少なくとも2カ所、大阪に1カ所、「戒壇之大御本尊」の相貌を正確に写した「正模写」の紙幅漫荼羅が現存することは、その各寺院の宝物帳の記載から明らかになっています。板漫荼羅が駄目であれば、この正模写の発表で替えても事態は進展します。
この話で思い出しましたが、独歩さんも多分御存知の方かも知れませんが
(品川の寺院M氏。葬儀仕事をされていましたが本年お亡くなりになりました)
第二次世界大戦の折、大御本尊が群馬の末寺に疎開されていたと言うお話です。
その時期、大御本尊の身代わり?かどうか仕事中の話でしたのでちゃんと聞けなかったのですが、当時の御法主上人(日恭上人だったと思います)が大御本尊を緊急用?の脇書きをされ御本尊を書写された、と聞きました。
独歩さんの言う宝物帳の記載の御本尊を一致するかどうかは今は定かではないのですが正模写の期日が戦争当時だとしたら、それなのかなぁ?と思いました。
このお話とは関係がないですが。
この大御本尊の偽作説についてなぜ創価学会が矢面に立って言ってこないのかな?と言う事です。これは自分の勝手な疑問なのですが。
創価学会の老舗「赤澤朝陽」さんの所や、創価学会側には、おそらくどこも持っていないような大御本尊の鮮明な写真。それこそ後ろから前から横から記録され、また寸法までもきっちり正確に把握されていることは事実のようです。
大石寺をぶっちぎるにはそう言う話が出てきてもいいと思ってました。
レプリカとか・・・作っちゃったりするんですかね???
もしそうだったら完全無欠なもう一つの大御本尊が完成すると思います。
勝手な愚論でした。。。
あまり参考にならなかったかも知れませんがお許しください。
それでは失礼しました。
526
:
犀角独歩
:2004/03/14(日) 10:12
520 れんさん:
これはまた、貴重なお話を伺いました。
全面ただ黒漆、これはたしかに見づらいですね。
「腰書」という表現が当を得ていると余計なことで感心しました。
527
:
犀角独歩
:2004/03/14(日) 10:13
富士桜さん:
> 何か独歩さんらしい墓参
わたしらしいですか。そうですか。そうお感じになりますか。
身延の宗廟とあの場所はいいですね。
「ここは聖人がお出でになった場所なんだ」という思いがあります。
伽藍のほうにある真骨堂より、ずっと静寂でいいですね。
一度、真冬に行ってみたいと思います、雪に埋もれた草庵跡と宗廟、まさに蓮師の往昔を彷彿とするだろうと。
北山の興師正墓。荒れ果てた体たらくにはいつも心が痛みます。
綺麗に整備すればいいというものでもないでしょうが、興師の「何事よりも身延沢の御墓の荒れ果て候いて、鹿かせきの蹄に親りに懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」という嘆きは延山の後継者は解消したものの、ご当人の正墓に当て嵌まるような。尤も塔婆が上がり供養されている様子は窺えましたから、わたしが感傷的なだけだとも思えます。
それにしても、石山には目視の正墓すらないわけです。なんともはや胸が痛むところがあります。
しかしそれでも、実はわたしは山門から石畳を踏んで二天門、そして、御影堂に至るあの境内地は今でも好きです。
まあ、こういうと誤解を招きそうですが、あくまで心情なのですが…。
蓮師は、幼少から修業時代を過ごされた清澄寺を、その寺院の教義を糺されたが故に追い出され、その後、安穏とその地を踏むことができなかったわけです。
わたしはいま、石山の根本である板漫荼羅を糺したわけですから、二度と安穏とあの地を踏むことはできないと覚悟しています。でも、わたしにとっては懐かしい心の故郷です。子供の頃、玩具一つ買ってもらえず、遠出といえば、登山と決まっていました。わたしは当日になるとよく熱を出していました。「風邪ぐらい、お山に行けば治るよ」、そう行って母はおんぶしてでもわたしを連れて行きました。本当に不思議と、山の霊気に触れ、内拝を終えると元気になったものでした。石畳の両脇を流れるせせらぎの冷たさは今でも覚えています。その懐かしい場所を二度と安穏として訪れることはできない、それでも、このことは書かなければならないと覚悟したわけです。
懐かしい修行寺院を追われることをわかっても論じた蓮師の精神の、万分の一でも見習いたいという思いがあったわけです。戻れなくもやるしかない。しかし、死して、もし本当に連枝にお会いできることがあれば、蓮師建立でないものを建立でないと言ったわけですから、堂々とお会いし、お褒めいただけるとも思っています。尤も再生(今で言う転生)その他の霊魂不滅(永遠の生命)を信じての言葉ではありません。いわば仏教ロマンティシズムといったところでしょうか。
> 偶然ですが実は自分その日鎌倉…辻説法跡…極楽寺…鶴岡八幡宮…竜口寺
これは嬉しい偶然です。
> 確かに春は訪れていますね。
そうですね。
>> 御開扉御一緒
> 海外信徒に成りすます
変装ですか。尊皇家の御仁にも勧められたことがあります(笑)
まあ、わたしは何事も正攻法が主義ですから、富士桜さんのお心は有り難く頂戴したうえで、行くなら、石山がいう手続きに基づいて申し込んでみます。まあ、断られるでしょうが(笑)
> 自分は体張って抵抗します。
これは本当に嬉しいお言葉です。
有り難うございます。
528
:
犀角独歩
:2004/03/14(日) 10:13
―527からつづく―
> 奉安殿〜奉安堂を通し、すべてに金箔
そうでしたか。
> …平成13年の終わり…大御本尊の化粧直し
これまた、貴重なお話を頂戴しました。
> …この時代の写真技術
明治44年のことですから、それはもう現代と比ぶべくもないでしょうね。
石山は写真を発表すべきですね。
> 写真を大石寺が認可…日蓮宗側の資料
これは本尊集記載漫荼羅のことでしょうね。
応じたのは亨師だと。
> 第二次世界大戦の折、大御本尊が群馬の末寺に疎開
> …日恭上人…大御本尊を緊急用?の脇書きをされ御本尊を書写
これはわたしの知っている話とは別のことです。
これが事実ならば恭師も!と驚きました。
わたしが宝物帳で確認したのは別の寺院ですが、こちらは胤師でした。
> 創価学会の老舗「赤澤朝陽」…大御本尊の鮮明な写真…寸法…
ええ、この話はわたしも聞いています。
> 大石寺をぶっちぎるにはそう言う話が出てきてもいいと思ってました。
これからわたしが本にまとめること、また、サイトでアップした内容は、学会トップはわかっているでしょう。すべてわかったうえで、「三大秘法の本尊」とやっているのでしょう。けれど、戸田さん以来の会員がまだ残っていますし、過去の大本営発表、正本堂寄進もありますから、あとから事実がわかっても、そうは容易く前言を覆せないのでしょう。
板漫荼羅のことも完膚無きまでに否定する資料の一切は仰るとおり創価学会に揃っているはずです。しかし、それを出せば、返す刀で自らを斬り殺すことになる。いまは、だからしないのでしょう。
> レプリカとか・・・作っちゃったりするんですかね???
八王子の牧口記念館にこれを安置する話があったと聞いています。実現しなかったのは会員の心にそのキャパがないと判断したからだとも聞いています。
まあ、実否は会トップのみが知るところでしょう。
> 完全無欠なもう一つの大御本尊が完成
見た目はまさにそのとおりですよね。
しかし、それは蓮師の時代のものとはならない、ただの見かけだけ。
結局は他の模刻と同様、お書きになったとおりのレプリカに過ぎませんよね。
> …参考にならなかったかも知れません
いや、十分に参考になりました。
有り難うございました。
529
:
犀角独歩
:2004/03/14(日) 13:17
判読いただけると思いますが、
【527の訂正】
誤)目視
正)目師
誤)連枝
正)蓮師
530
:
犀角独歩
:2004/03/15(月) 11:20
○いまは石山も語らない日法彫刻を記す『松野殿御書』の因師引用
『有師物語聴聞抄佳跡上』に『松野殿御書』という因師の言を借りれば「世間希なる」書が板漫荼羅・御影法師彫刻の証拠として挙げられています。
いま、参考に該当部分を紹介します。
以下の書を石山が偽作して「板本尊」の正当性を論じたと難じたのが安永師で、それに対して、精道師は「大石寺に於て偽作したなどとはとんでもない曲説である」と反論しています。
実際、文面を読めば、極端に法師を讃美しているわけで、そのことからすれば、石山に都合の好い内容とはなっていません。このことからすれば、石山で作られた書であるというより、法師系列と見るほうが至当であろうと思えます。
また、記述は御影に限るのであって、これを無理矢理に板漫荼羅と関連づけるには無理があります。
たぶんは御影像信仰が先行し、それを法師に仮託して権威付け、上述の偽書が捏造され、さらにその権威にあやかろうと、板漫荼羅も同木から作られたと石山で言われるようになった歴史的な推移があったろうと考えられます。
こうなると、板漫荼羅が万年腐朽の楠で造立されたという話も俄には信じがたいことになり、素材そのものも、これまた科学的な分析を待つ以外、その真実を知る方途はないことになります。
*** 引用始め ***
「松野殿御書…御書ニ云ク 安房国東条小松原ノ道善坊持仏堂ニシテ念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊ノ姿ヲ申出シ候ヘハ数百人ノ兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打ツ太刀ハ電光の如し、当座ニ弟子一人打死シ既ニ日蓮ハ頭ニ疵ヲ蒙リ法華経ノ御為ニ命ヲ捨ル事まのあたりなり、殊ニ
伊豆佐渡ノ大難は申すに及ばす種々ノ難に値へり、先札に申尽シ候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候テ身延山ニ隠居せしむ法華経ヲ読み奉る折節我弟子ノ中ニ和泉阿闍梨ト申ス僧一人御座候、朝夕身ヲ離れず給使奉事致さるゝ事比類なく秘蔵弟子なり、然ルニ彼ノ泉阿闍梨行功をはげまし日蓮ガ形ヲあらわさんカ為に七面ノ明神ニ祈念セシ故か、又天道道ノ至リか浮木出来セリ、此の木を以一躰ならず三尊まで造る一尊ハ大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮カ形ヲきざみつる事ハ泉阿闍梨無ンバ造仏しがたし、爾モ闍浮第一ノ弟子なり、然ルニ予ハ妙法蓮華経ノ中ノ字ヲ取テ日蓮ト名乗リ候間彼ノ泉ノ阿闍梨ニハ法ノ字ヲ取テ日法トなづけて候、然ル間日蓮ヤ前キ日法ヤさき日蓮ヤさきと云フ意ヲ以テ日法となつけて候、定テ弟子達うらやましくやをもはんずらん、又ハあだみめねみやすらん、兎ニ角末代に於て法華宗たらん者は日法一人ヲ信仰セバ日蓮ヲ信仰スルニ成るべきなり。諸宗ノ中ニハ妙法蓮華経第一ノ良薬なり、一切衆生ノ中ニハ日法一ノ人第一ノ導師なり、上行所伝ノ寿量肝心是好良薬ノ妙法ヲ口ニ唱ヘ入レ候ヘバ悪人女人如何ナル人非人成リ共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故ニ日蓮カ弟子檀那ハ日法ニ不背、日本国ノ一切衆生ノ口ニ上行所伝ノ要法ヲ入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりニ法華経ヲひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度ノ出世とは此の木像を申スなり、頼母敷ク思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判已上全文。
此御書ハ世間希ナル間今具ニ之を書くなり、然ニ此ノ中ニ一体に非ず三尊マデ造ルト者当山ノ最初仏重須正御影なり、一躰ハ岡宮に之有りと云ヘリ、又七面の明神者本来之有るか、七面ノ池之有り此池水ニ浮ヒ出たる楠木なり、此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり」(1-251)
*** 引用おわり ***
531
:
五月雨
:2004/03/15(月) 13:33
>>505
犬は吠える、されど・・・さん、初めまして。
>さて、どこがどう違うか指摘するには大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌
>を教えてあげないといけない訳ですが・・・もったいないから教えません。
大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌の“どこで”正しい本尊だと分かるのでしょうか。
実は私は今度大石寺に参詣し、ご開扉を受けます。
私も戒壇本尊の真偽説には興味がありますので、ご教示戴けましたら大変に
有難く存知ます。
もったいないと仰らずに、着目すべき相貌をご提示下さいませ。
>真剣に法を求めるならば、何事も書物の上だけでなく、実地に見聞して確
>かめていくべきかと存じます。
本当にそうですよね、実地に見聞することはとても大事なことですね。
私もしっかり実行したいと思いますので、どこに着目すべきかを仔細にご教示ください。
ご教示通りにしっかり拝見して参ります。また、その結果をここでお知らせしたいと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m
532
:
三学無縁
:2004/03/15(月) 16:00
おひさしぶりです。
活発な論議が展開されているようで、とても参考になります。
れんさん、愚鈍凡夫さん、犀角独歩さん、ほんとうにありがとうございます。
さて、505で、「犬は吠える、されど・・・」さんが、
>他門関係のいい加減な伝聞記録
と、書かれていました。
他門よりなされてきた石山批判、特に「弘安二年十月十二日」の日付のある、楠板彫刻の「本門戒壇の大御本尊」批判が、仮に「他門関係のいい加減な伝聞記録」であったとしても、それは仕方のないことであろうかと思います。
何故ならば、件のいわゆる板漫荼羅が、広く一般に公開されておらず、また、文字の鑑定や材質の鑑定もなされていないわけで、これでは正確な記述を求める方が無理でありましょう。
たとえば板漫荼羅の大きさについても、諸説あるわけです。
<竪五尺横二尺四寸>
このように記したのは、下総峰妙興寺大法院日憲、後の京都本法寺六世東光院日憲で、『当家諸門流継図之事』での記述です。
では、この記述が「いい加減な伝聞記録」であるとして、実際のところ板漫荼羅の大きさはどれほどなのでしょうか。
<長四尺七寸五分 横二尺二寸五分 厚二寸二分>
これは、遠霑講寺の「沙門完則」による記述です。
ちなみにこの遠霑講寺とは細草檀林のことです。
御承知の通り細草檀林では大石寺の僧侶も数多く学んでいましたし、講師だけでなく化主も輩出しています。
また化主となられてから大石寺の住職になられた方もいるわけです。
この「沙門完則」が、石山僧でないならば、細草檀林において石山から来た僧に板漫荼羅の大きさを教わったことになります。
ただ、この記述は、『大石寺宝蔵略目録』と題する書にあるもので、「他門」の僧侶が略とはいえ、わざわざ大石寺の宝蔵目録を書くものでしょうか。
<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>
<丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>
さらにこのような記述もあります。
<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、久遠阿闍梨、本寿院日量によるもの。
<丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>の記述は熊田葦城によるものです。
熊田葦城の記述は明治四十四年、西暦一九〇九年、未だ石山信徒になる前のものですが、由比一乗居士から板漫荼羅の写真を提供され、また、石山関連の記述は由比氏だけでなく、石山本山の僧侶からも取材したものです。
ちなみに当時の石山住職は五十七世阿部日正上人で、五十五世日布上人、五十六世日応上人の二人も健在でした。
つまり、この熊田葦城の記述は信頼のおける記述と考えてもよさそうです。
ところで、「久遠阿闍梨本寿院日量」ですが、石山四十九世の日量上人のことです。
そして<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、文政六年、一八二三年、『富士大石寺明細誌』に書かれています。
当時の石山住職は四十九世日荘で、日量は本山塔中寿命坊に隠居していました。
以上四つの記述・記録のうち、明らかに他門のものは日憲のものです。
日量のものは当然として、完則および熊田葦城のものも、情報のソースは石山関係と考えて問題はないと思われます。
そうすると石山系情報の三つに、僅かではありますが寸法の違いがあることになります。
もっとも、違いといっても3センチメートルから9センチメートルていどですから許容範囲内といえないこともありません。
ただ、何故、僅かとはいえ違う数字になるのかはわかりませんし、これらの記述において、以前の数字を訂正してもいないのはどうしてなのでしょうか。
これでは「他門関係」どころか「石山のいい加減な伝聞記録」と言われても仕方ないのではないでしょうか。
これらは石山において、蓮祖の「出世の本懐」である「一閻浮提総与」の「本門戒壇の大御本尊」と誇称される「弘安二年十月十二日」の板漫荼羅に関する記述なのですから、このような違いが記録されること自体が不自然という気がします。
もっとも、正確に鯨尺で計測したのではなく、目分量で大体の数字をいったものであるのならば不自然とはいえないかもしれませんが。
しかし不自然ではないとしても、やはり「石山のいい加減な伝聞記録」という印象が残るのは如何なものでしょうか。
533
:
三学無縁
:2004/03/15(月) 16:14
つづきです。
さて、「他門のいい加減な伝聞記録」ということなので少々。
石山ではさまざまな「相伝書」「相承書」をもって自門の唯一正統性を誇り主張しています。
主なものは以下のとおりですが、( )の中は写本で、書名の下は主な掲載書の略号です。
富要=富士宗学要集。新編=学会版御書。聖典=正宗聖典。新定=昭和新定御書。平成=平成新編御書。
御義口伝(上巻石山本、下巻要山本)
富要 新編 聖典 新定 平成
身延相承(要山日廣本、西山日辰本)
富要 新編 聖典 新定 平成
池上相承(北山日出本)
富要 新編 聖典 新定 平成
本因妙抄(要山日尊本、石山日時本、房山日我本、日辰本)
富要 新編 聖典 新定 平成
百六箇抄(北山日山本、房山日我本、西山日辰本)
富要 新編 聖典 新定 平成
御本尊七箇之相承(房山日悦本、房山日山本)
富要 聖典 新定
教化弘経七箇口決大事(房山日悦本、房山日山本)
新定 平成
寿量品文底大事(房山日悦本、房山日山本)
富要 聖典 新定 平成
産湯相承事(房山日悦本、房山日山本)
富要 新編 聖典 新定 平成
上行所伝三大秘法口決(房山本、要山本)
富要 新編 聖典 新定 平成
本尊三度相伝(房山本、要山本、石山蔵日源本)
富要
三時弘経次第(要山本)
富要 聖典 歴全
本門弘通之事(正本石山蔵)
歴全
以上は石山で、「従日蓮日興相伝」とされるものですが、石山所蔵の正本は「本門弘通之事」だけで、他は全て「他門」の写本です。
御義口伝は石山の上巻写本と要山の下巻写本でセットですが、要山本は元亀年間のもので石山本は年代不詳です。
いずれにしても御義口伝石山写本は石山と要山が通用していた時代のものと考えてよさそうです。
日興跡条々事(案文・正本石山蔵?)
富要 聖典 新定 平成 歴全
日興遺誡置文(房山日我本)
富要 聖典 平成 歴全
富士一跡門徒存知事(重須日誉本)
富要 聖典 平成 歴全
五人所破抄(重須日代本、要山日辰本、下条日諦本)
富要 聖典
これらは興師の著作および興師の意によって書かれたものということですが、「日興跡条々事」以外は正本もなく、主な写本も他門のものばかりです。
このように見てみると、石山のいう「相承」「相伝」のほとんどはもともと石山には無かったものであるということがわかります。
つまり石山のいう甚深の相伝とか相承、そしてそれを元にした教学は「他門関係のいい加減な伝聞記録」を利用して成立している、ということにほかなりません。
なかには、「もともと大石寺にあったものが写本され他門に流出した」というひともいるかもしれませんが、それでは原本はいつ無くなったのでしょうか。
石山は北山のように武田の軍勢に荒らされ重宝を強奪されたという事実はありません。
何度か焼亡していますから、そのときに焼けた、というかもしれませんが、「本門弘通之事」と「日興跡条々事」は残っているわけで、他の重要な「相伝書」が残っていないのは不思議です。
それから、石山でいうところのいわゆる「日時写本」ですが、これらについては石山において「六世日時上人のものではない」「同名異人の筆である」という意見があります。
これは複数の学僧、複数の能化の発言で、なかには「堀上人は違うといわれた」という発言や、同名異人を特定した発言もあります。
かりに同名異人の筆ということになれば、いよいよ石山上代には独自の相伝がほとんど無かったと考えられそうです。
それから、いわゆる紫宸殿の本尊ですが、本尊集によれば削損があるとのこと、傷物を皇室用にという発想はスゴイものがあります。
しかも、削損ということは、石山が創建当初から当該本尊を持っていたならば歴代のだれかが、真筆本尊に傷をつけたということになりませんか。
もしくは、いつの時代かに入手し、石山に都合の悪い文字を削り取った、ということが考えられます。
つまり、当該本尊も、もともとは自山のものではなかった、と。
さらに、当代は「師資伝の本尊」とかに名称およびいわれを改変しましたが、傷物を師資相伝するなどという発想にも、なにか苦し紛れのような感じを抱かざるをえません。
石山にとって、本尊とはどのような意味をもっているのでしょうか。
以上、ひさしぶりの書き込みなのにしつこく長々と書いて申し訳有りませんでした。
534
:
犀角独歩
:2004/03/15(月) 17:31
三学無縁さん、横レス失礼します。
四半世紀のご研究の成果、披瀝いただきまして有り難き次第です。
「隣家の権利書」とわたしが評した石山相伝の有様、その具体的な資料をご呈示いただき、改めて興味深く拝読しました。
また、板漫荼羅の資料文献、さすがに整理されておられますね。
しかし、板としての記録、半丸太とは達師以外は言わない点、どうにも合点が行かないものです。
535
:
犀角独歩
:2004/03/15(月) 17:51
舌っ足らずなので、もう少し補足します。
三学無縁さんがご提示くださったとおりに板漫荼羅の厚さは通じて2寸2分、飽くまで「板」としての記録です。
熊田葦城氏は厚さを記していないわけですね。ここの部分、注意が引かれました。
そして、近年では達師がいきなり「半丸太」発言。元来、半丸太であれば、一目瞭然のわけですから、そう諸記録に残ってきてもよさそうなものですよね。不思議ですね、これは。
536
:
三学無縁
:2004/03/15(月) 19:06
独歩さん、どうもです。
板、ということと、丸太の唐竹割り、ではずいぶんと違いますね。
あらゆる木造建築は、伐採した木を乾燥させなければ建材として使用しません。
これは伐採して間もない木材は水分などを含んでおり、乾燥すると湾曲したり亀裂を生じるからです。
では、件の板漫荼羅に使用した木は充分に乾燥させてから日蓮さんは「造立」したのでしょうか。
石山の最新の見解では、件の年月日に日法師に彫らせたといっているようです。
これは『日蓮正宗入門』に記述があったと思います。
まあ、原木の状態についてはあれこれ想像しても仕方ないことですが、石山が日法師彫刻説をあらためて主張しはじめたのには驚きました。
石山では離山に際して日興師は何一つ持ち出さなかったという見解と、一切の重宝を奉じて離山したという正反対の意見がありましたよね。
かりに持ち出したとするならば、その重宝にはどのようなものがあるのでしょうか。
ご消息やその他の真筆御書が当時の身延にあったとは考えにくくありませんか。
日蓮さんが出したものが日蓮さんの手元に残っている道理がありませんから。
もっとも残っていたのは清書前の下書きだったというなら話はべつですが。
さて、板漫荼羅ですが、現在の石山では身延にあったものを運び出したと主張しているわけです。
尊いものなのですから、当然、牛馬に担がせたり荷車を引かせたりはしませんよね。
すると遷座のときのように弟子たちが肩に担いで、身延山から上野村の南条持仏堂まで運んだということですね。
ここまでくると、百貫坊の復権まであと一歩というところでしょうか。
それから、厚さのことですが、達師の話は、上部の厚さについてでしたね。
では、下部はどのくらいなのでしょうか。
半丸太、ということなのですから、底面は半月形をしていることになります。
横が60センチ以上ある丸太をどのような角度でカットしたのでしょうか。
当時、のこぎりはあったのでしょうか。
マサカリとか斧で割ったり斬ったりしたあとでチョウナで整えた、ということを示唆もしくは暗示する主張なのでしょうか。
いやはや、石山の主張するところは本当にわかりずらいです。
537
:
犀角独歩
:2004/03/15(月) 23:53
三学無縁さんと掲示板上でやりとりできるなど、恐悦至極です。
わたしは人権を侵害されるような文句を言われれば、それにいちおう反論もしますが、あんなものを信じ込まされていた自分、未だかつて信じ込まされている人々、これは被害者以外のなにものでもないと思うわけです。
蓮師の真筆であれば、歴史的な価値がありますが、たかが板に彫った彫刻、それも蓮師となんの縁も縁もない後世の捏造を、蓮師のものであると信じ込まされ、それを否定する人間を憎悪するように心理操作されていることに気付けない被害者に同情の念を禁じ得ません。しかも、その人々に敵愾心を燃やされることも重々承知しています。かつての自分の姿ですもの、わかります。
そのなかで三学無縁さんは数少ない我が導きの師です。かつて板漫荼羅信奉者であったときに投げかけた数々の無礼を莞爾と受け止めていただき、いまにお付き合いくださるその懐の深さはいまのわたしの在り方のお手本になっております。
改めて、ここに謝辞を述べ、今後のご指導・ご鞭撻を謹んでお願い申し上げるものです。
稽首
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