[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
337
:
寛星
:2004/02/10(火) 10:44
はじめまして。
ぜひ、教えていただきたいことがあります。
>84 七師外道さんの投稿ですが、
>相貌は宗祖の筆。
>年号は日興上人の筆。
>弥四郎云々は他筆。
>身延時代は紙幅。
>板に彫ったのは離山後。
>紙幅は重須で盗難にあった。
>以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。
>87
>C富士宗学要集講義録(各受講者による記録)
>84はCより
>89
>講義録によれば、
>重須で盗難にあった20幅の本尊に紙幅の本紙が含まれていた。
>年号の字体は日興上人のものである。
大変、驚きました。
七師外道さんへ、
これはどなたによる記録なのでしょうか?
また、これはどのようなタイトルの講義録なのでしょうか?
もしくは最低でも、その講義録の引用部分の前後も含め、
ぜひ、ぜひ、教えてください。
また、古い投稿でしたので、七師外道さんをご存知の方、どうかお知らせ願います。
また、皆様の中で、この件についてご存知でしたら、どうかご教示願います。
私の知る限りの講義録には、探せ出せませんでした。
内容に驚いているのではありません。
堀上人がこのようなことを言われるはずがないと思っていました。
大変に貴重な、また重大な投稿ですので、どうか教えてください。
338
:
犀角独歩
:2004/02/10(火) 12:49
337 寛星さん:
はじめまして…、でしたでしょうか。
さて、七師外道さんがご覧になっておられれば、是非、解説いただければと存じます。この件は三学無縁さんもお詳しいところでした。
指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。
所謂「戒壇之大御本尊」の筆跡まで正確に写した紙幅臨写は何体か存し、その相貌からも以上のことは指摘されてきました。また、問答名人さんが宝蔵番の僧侶の話として伝えて点とも合致しています。
しかし、知る限り、この講義録が巷間に流布しているとは風聞していません。
ただし、わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。
また、以上の筆録は至極自然な記述であって、この内容がまた河辺メモと脈絡を持つとも想像されたわけでした。
339
:
寛星
:2004/02/13(金) 12:14
犀角独歩さん、御丁寧にありがとうございました。
そして勉強不足ですみませんでした。
>さて、七師外道さんがご覧になっておられれば、是非、解説いただければと存じます。この件は三学無縁さんもお詳しいところでした。
七師外道さん、三学無縁さん、どうか御教示願います。
>指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。
それは堀上人が言われたのでしょうか?それとも他の人の発言なのでしょうか?
>所謂「戒壇之大御本尊」の筆跡まで正確に写した紙幅臨写は何体か存し、その相貌からも以上のことは指摘されてきました。
日禅授与の御本尊のことでしょうか?
この件で、私が気になるのは「筆跡まで正確に写した」のなら、今の御戒壇様と大きさまで同じ御本尊だったと考えられますが、私には日禅授与の御本尊の大きさがわかりません。
ご存知でしたら教えていただけないでしょうか?
>また、問答名人さんが宝蔵番の僧侶の話として伝えて点とも合致しています。
ものすごく興味があります。
問答名人さん、どうか御教示願います。
>わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。
どのようなことから、そう思われるのか、ぜひ教えていただきたいと思います。
その他、堀上人が御戒壇様について発言されていることをご存知の方、どうか宜しくお願いします。
340
:
問答迷人
:2004/02/13(金) 13:55
寛星さん はじめまして
お呼びか掛かりましたので、レスさせていただきます。
>宝蔵番の僧侶の話
昨年、聖教新聞配達員さんが、是非合わせたい人がいる、と言って、一人の僧侶を連れてこられました。所謂、「宗門離脱僧」の方で、兵庫県の人でした。名前は失念しましたが、必要なら確認出来ると思います。話が、河辺メモに及びましたとき、僧侶から、「実は私は、御宝蔵の番をしていたことがあり、戒壇の大御本尊をごくまじかに拝したことがある。曼荼羅部分の文字は草書のような崩し文字だが、下部分の、弘安二年等の文字は、楷書のような文字で、明らかに筆跡が違っていた。」と話していました。
僕は、上の部分と下の部分とが合成されて、戒壇板本尊となったのだと理解し、そういうことか、と聞きましたら、「そう思う」との返事でした。
341
:
犀角独歩
:2004/02/13(金) 14:00
339 寛星さん:
>>指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。
> それは堀上人が言われたのでしょうか?それとも他の人の発言なのでしょうか?
亨師の言としても伝わりますし、その他、例えばN師などもそのような発言をなさっていますでしょう。この点はネットで簡単に僧侶と雖も名前を公開することは憚れますので、お会いする機会があればお話できようかと存じます。
>> 所謂「戒壇之大御本尊」…臨写
> 日禅授与の御本尊のことでしょうか?
違います。「戒壇之大御本尊」そのものの臨写です。
この件も、名前を挙げれば、石山古刹なので、まあ、気の毒ですから名は伏せることにします。しかし、そうわたしが記せば、通じている方々は「何を今更」とお笑いになるところでしょう。
また、これもいまでは固く閉ざされてその存在を確認できませんが、正本堂遷座の折、修繕の際に聖教新聞社カメラマンが「戒壇之大御本尊」を克明に撮影していると言います。つまり、学会ではこの相貌については既にわたしが記すことは承知のうえで、旧態依然とした寛師・人法一箇一閻浮提総与の大御本尊を普遍化しようとしているのでしょう。顕正会で言えば、彼の浅井子息は既に戒壇之大御本尊が後世の創作であることをほぼ了解しているとも漏れ伝わります。もちろん、石山の中枢において、以上のようなことは周知の事実なのであって、それが河辺メモという形で明るみに出たと言うことなのであろうと思えます。それぞれトップクラスはその事実を知りながら、信者と平僧を操作する格好の“道具”として「戒壇之大御本尊」を利用しているのが実態なのだとわたしは観察しています。
いずれにしても、わたしは何度となく繰り返していますが、墨で書いた筆跡を彫るのは仏師という職人の仕事なのであって、板に刻まれた段階で、それは正本ではなく模刻であるということです。
>> わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。
> どのようなことから、そう思われるのか、ぜひ教えていただきたいと思います。
亨師は他五老門下とともに日宗全の編纂に当たった学者です。
わたしが亨師を知る延山の研究者から昔話を聞いたとき、その方は言ったものでした。
「僧侶は、対機で話しますよ。日亨さんは石山向けにはその教学的な傾向に沿って話してましたし、日蓮宗に来れば、それなりに通日蓮宗の一般論から話していました。要は石山向けの話と、外部向けには話分けをしていましたよ。それと、日亨さんの編纂、発言とされる学会に係る出版物の多くは学会教学向けにかなり“編集”されています。ですから、出版物に残る日亨さんの言がそのまま日亨さんその人の考えだと思ったら大きな間違いです。あれは都合よく編集され利用された日亨上人というブランドに過ぎません。では、真の日亨さんの実像を知るためにはどうしたらよいのか。それはあの難読の『堀ノート』を解読をすることがもっとも手っ取り早いでしょう。ところが、日亨さんの字は実に読みづらいばかりではなく、その直筆が石山アナウンスと違っていることを知る“者”によって、門外不出として閉ざされてしまい、その研究はできないようにされているわけです」
> 堀上人が御戒壇様について発言
亨師は、「ご戒壇様だって火にくべれば燃える。木でできたものだから老朽化してなくなることもある。その時は自分が書く」というような内容の発言をしたと聞いています。
熊田葦城著『日蓮上人』の巻頭に「戒壇之大御本尊」の写真の掲載を許したのも、言うまでもなく亨師その人でした。
342
:
れん
:2004/02/13(金) 18:57
戒壇之板本尊について、問答名人さんのお話・犀角独歩さんのお話非常に参考になります。荒木清勇著「聖教乃正義」や熊谷葦城著「日蓮上人」の口絵に掲載された写真を拝すると題目の無のヒゲが二点あること、不動・愛染の起筆が身延曽存の弘安二年七月日春授与の蓮師図顕曼陀羅と同じなので、戒壇之板本尊の原本は恐らく蓮師弘安二年図顕曼陀羅と存じます。脇書の「右為…願主…敬白」は富士門上代の題目板牌と同じ書式です。年号の下、月日を二行書きに記すのは興師独自の書式ですので、年月日は興師筆とされた亨師の言は尊重すべきでしょう。m(__)m
343
:
愚鈍凡夫
:2004/02/13(金) 20:38
横レス失礼します。
事実かどうか知りませんが、「戒壇之本尊」と関連して、こんな話もありますよ。
「小笠原は大御本尊の写真を「二円」で「お守り」として売り 日開は御本尊を差別化し「尊号」をオマケにつけ商品とした」
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/17/639.html
344
:
れん
:2004/02/14(土) 10:49
愚鈍凡夫さん。ご指摘の通り、十年くらい前の聖教新聞に確かに戒壇之大御本尊に関して小笠原慈聞師云々の記事がありましたね。私は昭和五十年代に今は無き正本堂で戒壇之大御本尊の御開扉(御内拝)を受けましたが、席が大御本尊から余りに遠かったので、筆跡などは全然わかりませんでした。巷間に出回っている大御本尊の写真も、周知の通り写真写りがかなり悪いので脇書が全然読めませんね。なお、私の把握している大御本尊の相貌は柳沢宏道師著「石山本尊の研究」に翻刻されているものに拠っています。m(__)m
345
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 11:38
れんさん:
> 不動・愛染の起筆が身延曽存の弘安二年七月日春授与の蓮師図顕曼陀羅と同じ
この漫荼羅は御本尊集に掲載されているものでしょうか。
いま、見たところ弘安2年7月というと以下の漫荼羅しか載っていません。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/065.html
わたしは両脇にある変形梵字様(これが本当に不染・愛染なのか梵字種子なのかは決しきれないでいますが、それは置き)の第一画に注目しています。建治から弘安に掛けて‘−’(横棒)で書かれていたものが弘安2年4月頃から変化が生じ、ご指摘の年月、すなわち弘安2年7月には完全に‘・’(黒丸)に変わっています。れんさんがご指摘になる春師漫荼羅はこのようになっているのでしょうか? となれば、他の現存漫荼羅書法の推移の例外を示すものとして興味が惹かれます。
この変形梵字様の第一画は、板漫荼羅の場合、蓮師の筆にしては形が整いすぎていること、また第二画がまっすぐ下ろされず鍵方になっていることから蓮師筆と異なるように見えることは、まあ置くにしても、その書式は建治年間の特徴を示しているように見えます。わたしは漫荼羅の各部位そのものも寄せ集めの可能性があると思っています。
しかし、もし、ご指摘の(曾存)漫荼羅が、そのようになっているとすれば、わたしのこの考えを改めたいと思います。ご教示いただければ有り難く存じます。
やや、蛇足ですが、達師はこの第一画を板漫荼羅に準じてか‘−’で記しますが、顕師は‘・’で記すことが多い。書写漫荼羅は板漫荼羅と相貌が違うことは今更言うまでもありませんが、この書法の両師の違い、わたしは不思議に思ってきました。あまり石山の歴代住職の書写漫荼羅を並べてみたことないので、他の歴代がどう記しているのか知りません。
また、「奉書写之」の“之”は板漫荼羅のことであるというのが石山の言いようですが、こんな一点を見ても、重須資料が示すように“之”は書写した漫荼羅そのものを指すと見るのが至当と思えます、これまた蛇足ですが。
> 脇書の「右為…願主…敬白」は富士門上代の題目板牌と同じ書式
これは石山では目師の造立は知っていました。板碑(いたび)は木偏の板は形状を表すばかりで、実際の目師のそれは石偏の碑が表すとおり石でできた卒塔婆でしたね。
興師なども造立しているのでしょうか。
> 年号の下、月日を二行書き…興師独自の書式…年月日は興師筆…亨師の言は尊重
なるほど。この点をれんさんは着目されていらっしゃるのですか。参考になりました。
三学無縁とお話したとき、彼が板漫荼羅の日付を興師筆とされる根拠は、(1)字が興師筆であると見える(2)蓮師は漫荼羅記載の日付は「大歳己卯」など干支を記されるのに、興師はこれをしない、拠って、板漫荼羅の日付記載は蓮師の書法ではなく、興師のやり方であるというご指摘でした。これはまた、亨師の鑑別の在り方に倣ったもののようでした。
346
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 11:41
343 愚鈍凡夫さん:
この話を読んで、わたしが直ちに思い起こしたのは創価学会の「携帯アクセサリー本尊」(笑)
寛師漫荼羅ならよくて戒壇本尊は駄目。『地涌』の記述は、目くそ鼻くそを笑う類の笑い話と読めました。
347
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 12:58
345の補足
所謂「戒壇之大御本尊」の変形梵字様の第一画は「―」になっている。この書き方は御筆漫荼羅では弘安2年7月以前のものである。つまり、弘安2年10月というのは筆法の推移と一致しない。けれど、れんさんが示される春師漫荼羅で変形梵字様の第一画が「―」なっているとなれば、筆法推移の例外があることになり、よって板漫荼羅が弘安2年10月の筆と考えられなくもないことになるという意味です。
御筆漫荼羅集では弘安2年10月はありません。一番、近いところでは11月です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068B.html
この変形梵字様と板漫荼羅は明らかに違っています。
板漫荼羅
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html
所謂「戒壇之大御本尊」のそれは建治年間の特徴を示していると見えます。
あと、これまた蛇足に属することですが、写真で見る板漫荼羅の上部両隅に鶴丸紋が刻まれているのが確認できます。それが板漫荼羅と一体なのか、枠なのか、わかりません。が、もしこの部分が一体であれば、造立当初から鶴丸が付いていたことになります。
蓮師が鶴丸紋を使った形跡はなく、石山でも蓮師の紋は転法、寺紋を鶴丸と言います。
つまり、身延山久遠寺で造立したのであれば、石山鶴丸紋が付くはずはありません。なぜなら、弘安2年に大石寺はまだ創建さえされていないからです。
つまり、この鶴丸紋が板と一体であれば、この造立は石山において、それも鶴丸紋が使用されるようになったあとのこととなるわけです。
相貌の示すところは建治様、付された紋は石山のもの、幾重にも論難されて致し方のないところであると言うほかありません。
348
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 13:07
【347の訂正】
誤)この変形梵字様と板漫荼羅は明らかに違っています。
正)この変形梵字様と板漫荼羅のそれとは明らかに違っています。
349
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 13:14
さらに自己レスです。
> 変形梵字様の第一画
上に点を二つ打たれていますから、これは第三画というべきかも知れません。
考えながら書いている手前、記述が揺れている点、ご勘弁ください。
申し上げたい意味はおわかりいただけようかと思います。
ご判読いただければ有り難く存じます。
350
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 14:26
どうも読み直すと自文のあらばかりが目につきます。
誤)春師漫荼羅
正)春師授与漫荼羅
のことです。訂正訂正で幅を取ってしまうこと恐縮です。
351
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 14:37
>>344
:れんさん、レス有り難うございます。
>>346
:犀角独歩さん、レス有り難うございます。
実は小生も、
「だったら、ミニチュア漫荼羅付きロケットはなぁ〜に」 (^0^))☆爆笑☆((^Q^)v
と、突っ込みを入れながら読みました。
1279(弘安2)年10月の漫荼羅について、
№067
図 顕:弘安2年10月
寸 法:3紙 丈91.2㎝ 幅49.1㎝
要 文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:沙弥日徳授与之
所 蔵:埼玉県新曽妙顕寺
別 名:子安本尊
1279(弘安2)年11月の漫荼羅について、
№068-1
図 顕:弘安2年11月
寸 法:3紙 丈78.5㎝ 幅46.1㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:優婆塞日安授与之
所 蔵:静岡県沼津妙海寺
別 名:
№068-2
図 顕:弘安2年11月
寸 法:2紙 丈59.8㎝ 幅40.8㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:神奈川県小田原浄永寺
№069
図 顕:弘安2年11月
寸 法:2紙 丈68.8㎝ 幅45.2㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:沙門日永授与之
所 蔵:京都府立本寺
№070
図 顕:弘安2年11月
寸 法:1紙 丈45.1㎝ 幅30㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:優婆塞日久
所 蔵:千葉県隋喜文庫
別 名:四天王画像本尊
ご参考までに。 m(_ _)m
352
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 15:40
愚鈍凡夫さん:
有り難うございます。
弘安2年10月の御筆漫荼羅は現存があったのですね。
これは独り言ですが、所謂「戒壇之大御本尊」、この相貌、見れば見るほど、その素本は蓮師の筆なのだろうか?と首を傾げるところが多くあります。先に指摘した変形梵字様の運筆は他の御筆とまるで違っています。また、花押にしてもその書き出しがまん丸で、こんな筆は他に例を見ません。わたしには蓮師が記した花押を彫ったものとは見えません。
「在家の分際で御本尊のことをとやかく言うと罰が当たる」なんていう脅しをまともに食らっていたときは、拝んでいたもののその実態を見ないように思考停止。その心理操作が溶けてリラックスして眺める板漫荼羅は蓮師の筆をうまく真似た贋物と思える幾つかの証拠を直視できます。
353
:
犀角独歩
:2004/02/14(土) 17:07
質問が選考して考えながら、考えると坑がありますね。
もう少しちゃんと推敲して投稿しないといけません。
347「御筆漫荼羅集では弘安2年10月はありません」の記述を撤回し、お詫び申し上げます。
弘安2年10月現存No67の漫荼羅は以下のものですね。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html
「戒壇之大御本尊」とはまるで違います。
御本尊集が発刊されてから歳久しいわけですが、よくぞいままで板漫荼羅の弘安二年御筆説が生き残ってきたものだと逆に感心します。
「御本尊を写真に撮るのは謗法だ」なんだと情報操作が功を奏してきたということなのでしょう。それにしても、そういう連中が、写真を撮って製版印刷して信徒会員に販売しているわけです。顕正会にしても、使い回される漫荼羅は同様に作られたものであることが少しも議論されていません。
まあ、しかし、700年前の歯肉が生きてるだとか、「戒壇之大御本尊は日蓮大聖人にまします」なんていう土俗信仰を一歩も出ないことが、21世紀のいまのいま、まだ罷り通るわけですから、ここでの議論は終わらないわけです。
これをマインド・コントロールの思考停止というか、宗教病理というか、そこまで言わなくても、人間の未練というものは如何ともし難いところがあるものだと感じる昨今です。
354
:
れん
:2004/02/14(土) 17:53
犀角独歩さん。身延曽存の春師授与蓮師曼陀羅(身延亨師摸写本)は、雄山閣から刊行された、日蓮聖人真蹟の世界上・山中喜八選集Ⅰに写真が収録されています。ご参照ください。石山板曼陀羅は不動の起筆が・で愛染の起筆が‐ですが、身延亨師の摸写本をみるとやはり不動の起筆は・で愛染の起筆は‐ですので、一応板曼陀羅の原本は蓮師弘安二年中図顕の曼陀羅ではないかと推定した次第です。故に石山板曼陀羅が後世の創作であるにせよ、その原本が弘安三年の日禅授与曼陀羅とする説には私は消極的なのです。
355
:
れん
:2004/02/14(土) 18:32
訂正。
誤→身延亨師の摸写本正→日春授与蓮師曼陀羅の身延亨師の摸写本m(__)m
356
:
空き缶
:2004/02/14(土) 19:20
お久しぶりです。にわかにこのスレッドが賑わいはじめ、いてもたってもいられなくなりました。
大石寺所蔵の通称「本門戒壇の大御本尊」は、「有師物語聴聞抄佳跡上」によれば、「次に本門戒壇の御本尊、寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、仏滅後二千二百廿余年等と云云」とあり、その讃文は「仏滅後」からはじまっています。
ある立正佼成会の有能な青年の指摘によれば、蓮祖の御筆曼荼羅の讃文は弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっており、弘安二年造立といわれる戒壇本尊の讃文が「仏滅後」ではじまっているのはおかしいといわれていました。
確かに現存する蓮祖の御筆曼荼羅は、弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっています。紙幅版の戒壇本尊が建治年間中に顕され、弘安2年に模刻されたのでしょうか?だとしても、弘安期御顕示の本尊こそ究極であり、それ以前は未究極とする大石寺側の論理にも反してしまいます。
また、私も已前は戒壇本尊は「日禅授与の御本尊」の模刻であり、日時師が模写し日有師が模刻したという仮説を立てていました。しかしこれは大きく見直さなければならないと反省しています。
恐らく日時師の代に模刻されており、元となった御本尊は複数の御本尊ではないかと思います。つまり完全なる偽作本尊であると思います。
357
:
れん
:2004/02/14(土) 20:31
石山板曼陀羅の御図顕讃文の問題について。身延曽存弘安二年太才己卯二月日優婆塞日戴授与蓮師御筆曼陀羅には「佛滅後二千二百三十余年…」とあり、御本尊集に未収録ながら、竹内理三氏編鎌倉遺文に活字にて翻刻・収録されている鎌倉妙本寺蔵弘安二年太才己卯十一月日沙門日行授与蓮師御筆曼陀羅の御図顕讃文も「佛滅後二千二百二十余年…」とありますので、蓮師は弘安二年までは曼陀羅の御図顕讃文において佛滅後・佛滅度後を併用されていた可能性がありますので、石山板曼陀羅の讃文が佛滅後だからといって、原本の蓮師筆を疑うのは早計です。m(__)m
358
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 21:12
>>356
:空き缶さん、ご無沙汰しております。
讃文の件、れんさんの仰る通りですよ。
讃文に「仏滅後」とある蓮祖漫荼羅は22幅存在します。
№020 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:大阪府堺妙国寺
№021 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:神奈川県比企谷妙本寺
№022 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺
№023 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺
№024 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:静岡県吉美妙立寺
№027 建治1年11月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府妙顕寺
№030 建治1年12月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:神奈川県比企谷妙本寺
№031 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮之内未曽図画大漫荼羅也」
所 蔵:兵庫県尼崎本興寺
№032-1 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:兵庫県尼崎本興寺
№032-2 建治2年2月5日
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県西山本門寺
№033 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県重須本門寺
№034 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本圀寺
359
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 21:18
№035 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:千葉県茂原藻原寺
№036 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:東京都烏山妙寿寺
№037 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県玉沢妙法華寺
№041 建治3年2年
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本圀寺
№042 建治3年2年15日
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県鷲津本興寺
№043 建治3年?
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本能寺
№044 建治3年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺
№045 建治3年10月
讃 文:「仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本能寺
№046 建治3年?11日
讃 文:仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也
所 蔵:京都府本圀寺
№048 弘安1年4月21日
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府立本寺
「あ〜っ、しんどかった」(独り言) (・・;)
360
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 21:22
以上、
讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって、蓮祖は「仏滅後」と「仏滅度後」とを厳密に区別していなかったのでないでしょうか。したがって、1279(弘安2)年図顕の漫荼羅に「仏滅後」とあっても不思議ではないと思います。
361
:
れん
:2004/02/14(土) 21:23
蛇足ながら、御本尊集「奉蔵於奥法宝」に収録されている石山歴代(蓮師〜有師)の曼陀羅を並べてみますと、目師以降有師までの歴代は基本的には蓮師の曼陀羅を直接書写するのではなく、興師書写の曼陀羅の相貌を書写しているのに気付きます。なお興師の不動愛染の起筆は‐。目師も同上。道師は・行師は‐。時師は初期は‐、晩年は・。影師は‐。有師も‐を使用しています。まぁ梵字の起筆については、歴代でも、一定してない印象を受けます。板碑については興師が作ったかは知りませんが、興師在世に造立されたものが「日目上人」に収録されています。
362
:
問答迷人
:2004/02/14(土) 22:12
愚鈍凡夫さん
>360 讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって、蓮祖は「仏滅後」と「仏滅度後」とを厳密に区別していなかったのでないでしょうか。
空き缶さんが指摘された、「蓮祖の御筆曼荼羅の讃文は弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっており、」を逆に358 359は裏付けているように思います。蓮祖は弘安元年七月以降、それまで、統一していなかった表現を「仏滅度後」に統一された可能性は否定出来ないと僕は思います。そして、戒壇板本尊が弘安二年の図顕でないとする説の、一つの傍証にはなると思います。
363
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 22:13
>>360
:
訂正
誤→讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって
正→讃文に「仏滅後」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって
です、悪しからず。 m(_ _)m
あっ、
>>352
:犀角独歩さん、レス有り難うございます。
今の「戒壇之本尊」は、いったい何代目なんでしょうね・・・・・。
364
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 22:33
問答迷人さん、レス有り難うございます。
> 蓮祖は弘安元年七月以降、それまで、統一していなかった表現を「仏滅度後」に統一された可能性は否定出来ないと僕は思います。
一つ質問させて下さい。
「仏滅後」、「仏滅度後」両方の表現を使用していたのを「仏滅度後」と統一表記された理由は何でしょうか。
それともう一点、腑に落ちない処があります。それは、
「仏滅後二千二百三十余年」
「仏滅後二千二百卅余年」
「仏滅後二千二百二十余年」
「仏滅後二千二百余年」
これらの違いなんです。例えば、№045 1277(建治3)年10月の漫荼羅は「仏滅後二千二百二十余年」と記されているのに、№048 1278(弘安1)年4月21日の漫荼羅では「仏滅後二千二百三十余年」となっています。
これらのことからの推察ですが、やはり、「仏滅後」、「仏滅度後」を厳密に区別されていたとは思えないのですが。
365
:
愚鈍凡夫
:2004/02/14(土) 22:51
>>359
:
訂正
誤→ №041 建治3年2年
正→ №041 建治3年2月
誤→ №042 建治3年2年15日
正→ №042 建治3年2月15日
です、悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!
366
:
空き缶
:2004/02/14(土) 23:49
皆さん、こん○○わ。
逆のパターンでも同様なんです。あくまでも現存する御筆曼荼羅におけることですが、弘安元年七月已前は讃文のある御本尊は全て「仏滅後」ではじまっています。
つまり弘安元年七月已前は「仏滅後」、それ以降は「仏滅度後」、きれいに分かれています。
367
:
れん
:2004/02/15(日) 21:40
空き缶さん。弘安元年七月已前は讃文のある御本尊は全て「佛滅後」ではじまっているとの御主張ですが、中山曽存の建治元年太才乙亥十二月日蓮師図顕曼陀羅には佛滅度後とあり、安国会の御本尊集収録のものでも、京都本圀寺蔵・建治三年太才丁丑十一月日蓮師図顕曼陀羅は佛滅度後ではじまっています。これらの資料により、弘安以前の蓮師曼陀羅に於いても少数ながら佛滅度後の讃文の例がある以上、空き缶さんの弘安元年已前は全て佛滅後ではじまっているとする主張は見当違いです。なお興師には、初期に佛滅後と書写した曼陀羅が三幅現存します。m(__)m
368
:
空き缶
:2004/02/16(月) 01:26
れんさん、こん○○わ。
あくまでも「現存する御筆曼荼羅」と前置きしている通りです。れんさんご指摘の「曽存」の御本尊はあくまでも「曽存」であり、「現存」ではないですね。
御本尊鑑などといわれる「臨写版」は、筆跡まで似せて書いた模写であるといわれますが、「佐渡始顕本尊」一つとってみても、相貌が異なっていたりして、あくまでも「模写」は「模写」であり、真筆とは違うのではないかと思います。
これは讃文ではありませんし、直拝したわけでもありませんので、あくまでも資料を元にしたことですが、大石寺所蔵の日禅授与曼荼羅と北山本門寺所蔵の万年救護本尊の御端書きは、若干異なっているはずです。同年月日の御顕示でともに「日禅」に授与された御本尊ですので、どちらかが模写であると思われますが、これらの資料から感じることは模写と真筆の御筆としての信頼度の違いです。
京都本圀寺蔵・建治三年太才丁丑十一月日御顕示の、通称「切謁本尊」につきましても、他の資料によれば讃文は「仏滅後」ではじまるとされるのが通説ではないでしょうか。保存状態も悪く、素人の私ではなんともいえませんが。
もちろんこれらの考えは、戒壇板本尊の真偽それぞれの立場によって、見方・考え方が異なるのは当然であり、戒壇板本尊を信じておられるれんさんの立場からすれば、曽存本尊の讃文や安国会編の御本尊集は、最も信頼性のある資料でしょう。
しかし、人はそれぞれの立場によって偏ったものの見方をしますので、私的にはやはり「現存する御筆曼荼羅」では弘安元年七月前後をもって、讃文は「仏滅後」から「仏滅度後」へと変化しており、その意味からも戒壇板本尊へは疑義を呈せざるをえません。
369
:
れん
:2004/02/16(月) 04:45
空き缶さん。京都本圀寺蔵の建治三年十一月の蓮師曼陀羅の讃文は間違いなく「佛滅度後」ですよ。これは、手元にある安国会編の御真蹟御本尊集縮刷版・山中喜八師著日蓮聖人御真蹟の世界・日蓮聖人真蹟集成第十巻御本尊集に収録の鮮明な御筆写真で確かめましたので間違いないですよ。私個人の立場は石山板曼陀羅を否定も肯定もしません。この板では単に石山側の伝承とアナウンスを尊重しているだけの話です。また板曼陀羅の相貌からみて、曼陀羅部分の原本は一応弘安二年の蓮師曼陀羅だろうと推定しているだけです。m(__)m
370
:
犀角独歩
:2004/02/16(月) 12:30
354 れんさん:
最初にわたしは板漫荼羅が禅師授与漫荼羅の模刻であると考えていません。
けれど、その一部は使った可能性はあるのだろうか程度に漠然と破考えています。
春師授与蓮師曼陀羅掲載資料のご提示有り難うございました。探してみてみようと思います。けれど、簡単に見られそうもないので、以下の点、ご教示いただけませんか。
春師漫荼羅の梵字変形様の「愛染」と言われるところの書き方ですが、どうなっていますでしょうか。2画目は「|」とまっすぐ伸びていますか。それとも右に曲がりそれから下がっていますか。
もう一点、花押の書き出しは 0 のようにつぶれた扁平になっていますか、それとも ○ になっていますか。
以上、2点、わたしは板漫荼羅の運筆はとても蓮師のものと思えない点なので、この漫荼羅の祖本が他筆ではないかと疑っている点です。この点、春師授与漫荼羅ではどうなっているのでしょうか。
もう一つ、山中師本にある春師漫荼羅は模写のようなので、これを直ちに御筆と考えることはできませんが、仮に正本を正確に写しているとする場合、板漫荼羅と春師授与漫荼羅は梵字変形様の不動・愛染の1画が ・− となっている点で、その他の漫荼羅の書き方と際だって異なっていることになります。全体の筆法変遷の流れから見れば、いわば例外的と見えます。つまり、わたしはこのような筆法は蓮師に見られず、むしろ他筆、疑えば偽作と見るわけです。しかし、れんさんは、それを例外と見ず、むしろ積極的な弘安2年段階の筆法と考えられる根拠はなんでしょうか。
371
:
空き缶
:2004/02/16(月) 16:34
れんさん、こちら→
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/046.html
では、「仏滅後」となっています。私の素人判断でいきますと、「建治三年御顕示」であれば「仏滅後」だろうとの見解から、こうなっているのではないでしょうか。
御覧の通り、この御本尊は保存状態が悪く、本当に建治三年の御顕示かどうかは疑問が残っているものです。讃文が「仏滅度後」であるとするならば「弘安三年御顕示」と考えることも可能なのではないでしょうか。
372
:
れん
:2004/02/16(月) 18:14
犀角独歩さん。身延曽存の春師授与曼陀羅(身延亨師模本)の愛染と花押の筆跡ですが、これはここに書くより、百聞は一見にしかずで、ご自分で山中師のご本に掲載された写真を見られた方が、より正確な判断を下せると存じますので、あえてここではご質問の回答は記しません。私見では石山板曼陀羅は蓮師と興師の曼陀羅からのパッチワークではないかと思います。石山には弘安二年の蓮師曼陀羅が二幅(八月と十一月のもの、いずれも非公開)有りますので、そこからのパッチワークは考えられるのではないかと思っています。
373
:
れん
:2004/02/16(月) 18:29
空き缶さん。私はPCをまだ持っておらず、手持ちのケータイでは、そのサイトを見れないので分かりませんが、本圀寺蔵の建治三年十一月の曼陀羅の花押はバン字花押であり首題の経字も第二期ですので全体として建治式の相貌であり、弘安三年の図顕とするのは不可です。PCのサイトの不鮮明なものを見るより、安国会から出している縮刷版を見た方が、蓮師曼陀羅について、より正確な判断を下せる筈です。なお、縮刷版御本尊集は山喜房仏書林から購入できます。m(__)m
374
:
空き缶
:2004/02/16(月) 19:40
れんさん、京都本圀寺蔵の御筆曼荼羅では例外的なものが他にも見受けられます。弘安三年御顕示といわれる「今此三界本尊」の相貌などは、弘安期の御本尊としては例外中の例外なのではないでしょうか。
「日朗御譲状」を宗祖真筆として伝えていた京都本圀寺ですので。私はより信頼度の高い御筆によればよるほど、弘安元年七月前後をもっての讃文の変化は動かし難いものと思っています。
375
:
れん
:2004/02/16(月) 21:04
空き缶さん。自説に固執する気持ちは理解できますが、自説にそわないものは否定するという姿勢はよくないと思います。蓮師の御真蹟を集成した片岡随喜師山中喜八師は専ら御真蹟をもって御真蹟を判ずる方法により、蓮師御真蹟の真偽を決せられたものでその鑑識は信頼できます。故に日朗譲状を真蹟と伝えた本圀寺のものは信用出来ないというのは、些か根拠が稚拙と思います。板曼陀羅の原本が蓮師曼陀羅か否かは、資料不足で決し得ませんが、蓮師曼陀羅の讃文は建治から弘安二年までは仏滅後と仏滅度後を併用されたと考えるのがより史実に近いでしょう。
376
:
空き缶
:2004/02/16(月) 23:28
れんさん、私は京都本圀寺所蔵だから偽物の曼荼羅であるといっているわけではないのです。「切謁本尊」に「建治三年」の文字がはっきりみえていれば、考えを変えます。
しかし、建治三年説は花押などの種類より推定されたものであり、「今此三界本尊」のように弘安年期の御本尊としては例外的な相貌などがあることから、建治三年説は推定の域を出ないのではないかと思うのです。
もちろん、れんさんは豊富な資料を元に論じておられますので、大変参考になることばかりでありがたいと思います。
今後の勉強に、資金と時間の余裕をみつけては、該当資料を手元に置いて学んでみたいと思います。
377
:
犀角独歩
:2004/02/17(火) 09:15
372 れんさん:
わたしがれんさんに意見を求めたのは、模刻である板漫荼羅と模写である春師授与漫荼羅の不動愛染(と言われる梵字変形様筆法)から、何故弘安2年と自説を立てられるのかという点でした。真筆を筆法の変遷によって判断すべきであるところ、模写を持ってきてまで、弘安2年に拘る理由がわからないということです。空き缶さんに「自説に固執する」という言葉を投げかけていますが、無礼を顧みず率直に申し上げれば、わたしにはむしろれんさんのこの姿勢は自説に固執しているようにお見受けするわけです。
> 私見では石山板曼陀羅は蓮師と興師の曼陀羅からのパッチワーク
これ以上、議論を繰り返しても意味はありませんが、敢えて繰り返せば、蓮師の筆法から見るとき、弘安2年の段階で板漫荼羅の如き、書き方にはなっていません。殊に板漫荼羅のそれは運筆すら蓮師とは異なるのであって、到底、真筆を素本にして彫ったとは思えないわけです。また、花押の書き出しも蓮師真筆とは異なるのであって、これまた真筆を素本にしたとは言い難いところがあります。故に蓮師・興師漫荼羅に材を採ったパッチワークであるという意見にはいちおう賛同するものの、さらに他筆を以て補ったものであろうというのがわたしの意見であるは記しておくことにします。
378
:
寛星
:2004/02/17(火) 11:20
横レス、すみません。
犀角独歩さん、問答名人さん、いろいろと御教示下さり、ありがとうございました。
しかし、私の求めていた堀上人の具体的な講義(書籍)名は、知ることができませんでした。
皆さんにとっては、堀上人がどのように発言しようが、どうでもいいかもしれませんが、私はファン(こんな言い方は関係者に怒られるかな?)なので、どうしても具体的な事実を知りたかったのです。
ですから投稿元の七師外道さん、どうか御教示願います。
犀角独歩さんへ、
>亨師は、「ご戒壇様だって火にくべれば燃える。木でできたものだから老朽化してなくなることもある。その時は自分が書く」というような内容の発言をしたと聞いています。
私の知る限りでは、ご本尊を守る意味での発言と知らされています。
それは、『仏教思想と富士教学』(大橋慈譲著)の中に、
『亨師の御考えは、冷厳な歴史学者としての醒めた眼が絶えずあった。私共は、ついつい信心と云うものが先きにあり、兎角信心していると云う安易が先き走り勝ちとなる。それに対して、常々、自己を振り返えろ、御本尊様は、守る対称であって、守って貰らうものではない。御本尊様どうぞお守り下さいと願はなくとも、守られる様な信心に立ち、その様な行いをすれば、自然に仏様は守って下さるものだと云われた。亦、或る時、余りにも、冷厳な科学者的な亨師の観方に対し、私は信仰的に不安になり、では、「戒壇の御本尊様でも、火にくべれば燃えてしまうのですか」とお尋ねしたら、平然として眉毛も動かす事なく、只一言「勿論燃えてしまうさ」と答えられた。然うして、暫くして、幼稚な私を憐れむ様に、「然し、今戒壇の大御本尊が、燃やされようとしているのに、お前達は、黙って見ているのか、それを生命を掛けて守らんとする。その精神が、末代迄存続させるのである。」「黙って、居る様な信心でどうする」と言葉鋭く云われた。』(P313)とあります。
また『追考 聖訓一百題』の中には、
『此(こ)の信心の下に、修行と学問との二の道がある。如何(いか)に正義な熱烈な信心を有(も)っていても、修行と学問とで、其(それ)を助長して行かぬと、或は落着(おちつき)もなくなり、進歩も覚束なくなる。其処(そこ)で、「行学絶エナバ仏法ハ有ルベカラズ」と御警告なされた。小乗経の三十七道品(どうほん)は、一寸(ちょっと)迂遠(うえん)のやうであるけれども、其(その)意向(こころもち)を常に用いて、行学に励まねぱならぬ。自行学だけでは利他の益を失して、信心者の行為でなし。「自行化他ニ亘リテノ南無妙法蓮華経」と特示せらるる大則に背く事である。「我モ致シ人ヲモ教化侯へ」と云はるゝのが、即(すなわち)、自己の行学と共に他に行学を勧めよ、実戦せしめよ、と仰せらるゝのである。
併(しか)し、単独の行学ぱかりでは目的帰趣が変になる恐れがあるので、又、原(もと)に帰りて「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と念を押された。此(これ)は総体にかけてである。
若(も)し中々に行学が起りにくき者には、強いても励ましても、即ち作意的に行学を奮起さする必要もあらう。又、其者(そのもの)に、種々の行学を起すべき善き環境を与へる必要もあらう。千里を遠しとせずして御本山へ登り、戒壇大御本尊の御内拝を遂ぐる等は、其(その)最(さい)なるものであらう。斯(こ)う云ふときは、或は「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と云ふても差支へない事になる。其(それ)は「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と云ふ御文を曲解すれば、自然に放任(まか)すると云ふ風にも聞ゆるから、其(そ)うならぬ様に、一層切実に「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と考へた方が善いのである。
無論、現代の様に、無信、無行、無学の僧俗のみ倍増して、偶(たま)に行学に熱注(ねっちゅう)するかと思へば、動(やや)もすれぱ飯食ふ種とのみ意得て、邪道に驀進する徒のみ多き時代には、殊更(ことさら)に「信心ヨリ起スベク侯」であらう。』(P75)とあります。
少し長くなりましたが、堀上人は、周囲が御戒壇様に対し動揺するような発言は、されなかったのではないかと思っています。
379
:
犀角独歩
:2004/02/17(火) 18:07
378 寛星さん:
> 具体的な講義(書籍)名
これは具体的な講義名も、書籍名もないからでしょう。
> 現代の様に、無信、無行、無学の僧俗のみ倍増して、偶(たま)に行学に熱注(ねっちゅう)するかと思へば、動(やや)もすれぱ飯食ふ種とのみ意得て、邪道に驀進する徒のみ多き時代
まったく奉安殿から正本堂、奉安堂に至る現代まで、拝観料一律3000円を取って板漫荼羅を見せ物にする大石寺の醜態に、既に厳しい警鐘を鳴らしていた言葉として重みを感じます。
> 堀上人は、周囲が御戒壇様に対し動揺するような発言は、されなかったのではないかと思っています
まあ、そのように信じられたいのでしょうね。お気持ちはわかります。
しかし、七師外道さん、三学無縁さんが述べられるところは、板漫荼羅の実際の有様とも一致し、その発言元を亨師としている点は否めません。この事実を私は厳正に受け止めています。
なおわたしも亨師のことは好きです。亨師が内外を問わず、多くの尊敬を得たのは「戒壇之大御本尊」を絶対至上とするような、つまらぬ護宗・護教の狭隘な偏執者ではなかったからであろうというのは先のわたしの発言の趣旨です。
なお手元に『堀ノート』(手書き複写本)の持ち主をご紹介できます。ご覧になりたいのであれば、ご連絡ください。ご自分の手で確認されるのも一考であろうかと存じます。
380
:
れん
:2004/02/17(火) 20:30
犀角独歩さん。レスありがとうございます。私があえて弘安二年説にこだわったのは、板曼陀羅に弘安二年十月十二日とある以上、創作するにあたって、それ程時期のずれたものは使用しなかったのではないかと考えたからでした。私は間近で板曼陀羅を見たことがないので、何とも言えません。実見すれば、曼陀羅・脇書が何のパッチワークの産物か大体判断出来る筈ですが、とりあえずそれは永久に無理でしょう(笑)。それから、独歩さんが寛星さんに紹介していた堀ノートは私も拝読してみたいですね。よろしければ私にもご紹介いただければ幸甚です。m(__)m
381
:
犀角独歩
:2004/02/17(火) 20:41
れんさん:
> 弘安二年十月十二日とある以上、創作するにあたって、それ程時期のずれたものは使用しなかったのではないかと考えたから
なるほど。これは納得がいきます。
> 間近で板曼陀羅を…実見
れんさんのような博識、目利きの方にご覧いただければとわたしも希望します。
しかし、この夢はかないそうもありません(笑)わたしも同様です。
ただし、この正確な臨写は見ることは可能のようですね、例のR寺で。
> 堀ノートは私も拝読してみたい
わたしはギブアップしました。亨師の手書きは実に難読です。
もし、よろしければ個人的にメールをお寄せください。
中継ぎをすることはできます。
382
:
れん
:2004/02/17(火) 22:05
犀角独歩さん。レス有難うございます。例のR寺とはあのR寺でしょうか?中杉弘氏の刊行した板本尊偽作論にR寺に紙本があるとありましたが、それが、板曼陀羅を正確に臨写した写本なのでしょうか?堀師の手書きは確かに難読でしょうね。故山口範道師の御本に掲載されていた堀師の筆跡は大変達筆で、活字に慣れている現代人には難読なのは想像がつきます。実に難読なのは承知の上で、堀ノートを読む価値はあると思うので、独歩さんに中継ぎをお頼みしたいと思います。ただ、独歩さんに個人的にメールをお寄せするにも、アドレスがわからないのですが…。
383
:
犀角独歩
:2004/02/17(火) 23:01
れんさん:
R寺、安永師の本の中で触れていましたっけ?
読み直してみます。
わたしのアドレスは
saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
です。ちなみにHPは
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
最近、更新していないのですが。
れんさんはPCはおやりにならないのでしたね。
まあ、参考までに。
384
:
れん
:2004/02/18(水) 21:13
犀角独歩さん。レス有難うございます。先程、ケータイで、メールを送ってみましたが、さすがにケータイでは送信不可でした。近々(とは言ってもあと数か月程先ですが…)資金が出来次第パソコンを購入するので、パソコンを購入して、メールが送れる環境になりましたら、改めて独歩さんに「堀ノート」の中継ぎを依頼させて戴きますね。あと、板本尊偽作論で触れられているR寺の摸本の件ですが、安永師の板本尊偽作論の本文の中ではなく、安永師と中杉氏の対談の中で、中杉氏の発言の中に出てきます。右参考までm(__)m
385
:
犀角独歩
:2004/02/19(木) 09:11
れんさん、どうも。では、PCの導入をお待ちすることといたします。
386
:
犀角独歩
:2004/02/19(木) 09:13
ここのところの投稿内容をやや整理して、まとめてみました。
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
387
:
犀角独歩
:2004/02/19(木) 10:35
ついでに一つ。
○本門戒壇願主
「為現当二世造立如件本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白弘安二年十月十二日」
この文に拠れば、弥四郎国重は本門戒壇の願い主であるといいます。
重要なこと、本門戒壇本尊の願い主ではなく、本門戒壇の願い主です。
つまり、この板漫荼羅に刻まれた記述は二箇相承と真っ向から矛盾しています。
「国主被立此法者
冨士山本門寺
戒壇可被建立也」
ここに明確に戒壇を建立するのは「国主」であると明記されています。
では弥四郎国重は国主なのか、もちろん、そうではないでしょう。
それにもかかわらず、板漫荼羅の記述では弥四郎国重がその国主になってしまっています。
388
:
ガンコ
:2004/02/20(金) 14:45
独歩さんにご質問申し上げます。
本門戒壇の大御本尊様の脇書きは、この板本尊が弥四郎国重によって造立されたことを意味するむね、かねてよりご主張であられましたが、今回あらたに、一期弘法抄との齟齬を指摘されました。
独歩さんのお考えを文脈より推察申し上げますと、板本尊の造立に相前後して、本門戒壇に相当する、あるいは本門戒壇を僭称する、そのような堂宇が建立されたということでしょうか?
箱物行政的にいえば、オリンピックが開催されるので、りっぱな競技場をつくる・・・あるいは逆に、先にりっぱな競技場をつくっちゃって、それを売りにしてオリンピックを招致するみたいなことです。
ちなみに顕正会では、「本門戒壇願主」と読まないで、「本門戒壇也」で改行して「願主・・・」となっております。
389
:
れん
:2004/02/20(金) 17:03
横レス失礼します。ガンコさん。顕正会では「本門戒壇之」を「本門戒壇也」と読んでいるのですね。「本門戒壇之」は堀日亨師の読みで、土屋日柱師は「右現當二世/造立如件/本門戒壇也(也カ之カ字ガ明瞭セズ)/願主弥四郎國重/法華講衆等/敬白」(松本道本著弘安二年大曼陀羅と日興師所収)と記しています。柱師は「本門戒壇也」と記しながらも「也カ之カ字ガ明瞭セズ」と注記しているので、板曼陀羅ないしR寺(日蓮実宗の方でしょうか?)に所蔵されているという正確な臨写本における表記がどうなっているか、少なからず興味があります。
390
:
れん
:2004/02/20(金) 17:13
訂正。
誤、右現當二世
正、右為現當二世
m(__)m
391
:
ガンコ
:2004/02/20(金) 20:16
さすが、れんさん。
わたくしはさっぱりわかりませんが、あるいは浅井自身の目でそのように判断したかもしれません。
おそらく奉安殿の建立以前に、浅井は御宝蔵での御内拝を何度か経験しているでしょうから。
392
:
空き缶
:2004/02/20(金) 20:23
こん○○わ。
六老僧の一人日頂上人は、宗祖御在世中の弘安五庚午三月十五日に南條亀之助に対し、御本尊を書写して授与されています。これは千葉県の日蓮宗本山真間山弘法寺に所蔵されており、「日蓮宗の本山めぐり」に写真が掲載されています。
この日頂上人書写の御本尊は、主題の下が「日蓮在判」となっており、昭朗二師よりも興師の書写する御本尊に近い書き方であると思います。
昭朗二師は主題の下に、自分の名前を書き日蓮聖人は天台・伝教と同じ位置に勧請されています。向師は主題の下に「日蓮聖人」と書き、主題の下に「日蓮在判」とするのは興師独特の書写スタイルかと思っていました。
戒壇本尊についても、宗祖御在世中の造立ではないとしても、その製造過程は一つの資料からは断定できない謎が、数多く含まれていることを痛感する次第です。
皆様の所論は非常に勉強になりました、ありがとうございました。
393
:
犀角独歩
:2004/02/20(金) 20:41
ガンコさん:
れんさん:
まず、れんさん、「也」「之」のご説明有り難うございます。
ところでこの一文字はあったのでしょうか。
資料によってまちまちです。
さて、ガンコさん。
これは前々から主張してきたことですが、板漫荼羅の造立者を、わたしは精師ではないのかと考えてきました。その理由は既に述べましたが、建立した御影堂を彼が「本門戒壇堂」と書き残し、その堂宇の宮殿、御影の背に置かれたのが板漫荼羅であったからです。
つまり、本門戒壇堂に「造立如件本門戒壇」と刻まれた板漫荼羅が置かれた相関関係に着目していると言うことです。その意味で精師は御影堂を本門戒壇堂と僭称したとも考えています。
なお、漢文的な脈絡から言えば、「之」が「也」であるというのはどうでしょうか。
なぜならば「造立如件」は定型文であって、現代表記で言えば句点(。)で終わる一文です。そのあとにまた、句点で終わる「也」が来るというのはいかにもおかしな文章です。仮に「本門戒壇也」とすると、この語には述語(動詞)に相当する語がないことになります。まあ、読めないことはないでしょうが、「本門戒壇の願い主」のほうが、ずっと自然な文章であると思います。
いずれにしても、繰り返しになりますが、弥四郎国重は本門戒壇の願主であり、本門本尊の願主ではないことに変わりはありません。二箇相承と齟齬を来している、まことにもってそのとおりでしょう。
あと、これは余計なことですが、御宝蔵内拝を、ガンコさんは倉の中に信徒が入って間近に板漫荼羅を謁見できると思っているようですが、信者は、宝蔵前の露天石畳に端座していたわけです。間近に拝せたわけではありません。
394
:
犀角独歩
:2004/02/20(金) 20:44
空き缶さん:
> 向師は主題の下に「日蓮聖人」
これは興味が惹かれました。
もう20年も前のことですが、讃岐大坊(本門寺)に参詣したことがあります。
ここの本堂の漫荼羅は興師筆で主題の下に「日蓮聖人」と書かれてあったと記憶します。
395
:
空き缶
:2004/02/20(金) 21:21
犀角独歩さん、こんばんわ。
日目上人も興師御在世中に同様のご本尊を、書写されており小泉久遠寺に所蔵されているはずです。
重須の日妙師も「日蓮上人在判」というご本尊を書写しており、中山系の日高師なども主題の下は「日蓮聖人」です。
噂の中老日法師の板本尊(山梨県妙本寺蔵)も主題の下は「日蓮聖人」ですね。
興師の御本尊書写の方式も徐々に変化し、最終的には「御本尊七箇之相承」に記されているような方式になったのではないかと思います。
この辺は、れんさんがお詳しいのではないでしょうか。身延では、行学院日朝師以降に主題下「日蓮在判」が書かれるようになったと思います。
396
:
犀角独歩
:2004/02/20(金) 22:10
空き缶さん:
そうなんです。「日蓮在御判」というのは蓮師の相承ではないじゃないかというのがわたしの言いたいことでした。
397
:
れん
:2004/02/20(金) 22:32
空き缶さん。興師書写の曼陀羅では、独歩さんの言われる讃岐本門寺蔵正応三年十月八日のお曼陀羅は日蓮聖人ですね。あと興師筆では山梨正法寺蔵の正応年間のものに日蓮聖人とあり、石山末の上行寺蔵の正応五年十月十三日の興師筆には日蓮聖人御判とあります。目師筆では小泉久遠寺蔵正中三年のものと、柳目妙教寺蔵の元弘三年十月十三日のものは日蓮聖人、松江妙興寺蔵の正慶二年二月彼岸のものは日蓮御判とあります。石山歴代曼陀羅では道師・行師・有師は日蓮在御判とありますが、時師・影師は日蓮聖人在御判とあり特徴的です。右ご参考までm(__)m
398
:
犀角独歩
:2004/02/21(土) 06:30
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
付録と参考を書き足し、更新しました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
399
:
れん
:2004/02/21(土) 21:18
犀角独歩さん。私も「日蓮在御判」は蓮師から興師への相伝ではないと考えます。それは興師の初期の書写曼陀羅と目師の曼陀羅に「日蓮聖人」とのみあることが証しています。なお興師が昭師・朗師の如く図顕形態を採らずに書写形態を採用したのは、曼陀羅を図顕したのはあくまで師である蓮師であり、自らはあくまで蓮師の弟子であるとの立場の自覚から蓮師の図顕した曼陀羅を書写するということになったのだと考えます。また、参考資料ですが蓮師の檀越四条頼基氏が弘安四年太才辛巳十一月に蓮師の曼陀羅の代筆をしており、それには依厳命謹敬所奉書写也
400
:
れん
:2004/02/21(土) 21:32
藤原とあります(原本は身延曽存、身延亨師摸本存、山中喜八著作選集日蓮聖人真蹟の世界上所収)。想像をたくましくすれば、弘安四年十一月は興師は身延在山と思われ、四条頼基氏が蓮師の厳命により曼陀羅を書写したのを拝見したと思われるので、四条氏の例にならって、蓮師滅後、興師は曼陀羅を図顕するのではなく、「書写」するという形態を採用したのではないかとも愚考しております。まぁ、これも限られた資料からの推定にすぎませんが。m(__)m
401
:
れん
:2004/02/21(土) 21:44
訂正。
誤、目師の曼陀羅に「日蓮聖人」とのみある正、手元に御筆写真がある目師書写曼陀羅三幅の内二幅までが興師の初期の曼陀羅書写様式に従い「日蓮聖人」とのみある m(__)m
402
:
犀角独歩
:2004/02/22(日) 00:31
399〜401 れんさん:
たいへんに貴重なご教示有り難うございます。
実に興味深く拝読させていただきました。
檀越が代筆、これが事実であれば、蓮師の漫荼羅観は、わたしが想像していたよりさらに奥深いと感慨も新たな感慨がありました。新鮮な歓びといってもいいかも知れません。
御礼申し上げます。
403
:
空き缶
:2004/02/23(月) 20:06
皆さん、こん○○わ。
もし、御覧になっていない方がいらっしゃれば、ご参考までに。
日法上人彫刻の板曼荼羅です。
↓
http://fujigoko.tv/furusato/bunka/act08.html
法華宗の一末寺である山梨県の妙本寺に厳護されています。本山から奉納せよと迫られたときに、湖の底に沈めてまで護ってきた重宝だそうです。
1月14日がお虫払いであったようです。
404
:
犀角独歩
:2004/02/24(火) 12:03
> 403 空き缶さん:
中央題目の下、「日蓮大聖人」となっているように見えますが、そうでしょうか。
この漫荼羅、以前、どこかで偽作説を読んだような記憶があったのですが…、ちょっと、思い出せません。
相貌様式は弘安3年以降の御筆によっているようにな感じですね。
405
:
犀角独歩
:2004/02/24(火) 12:19
空き缶さんがお示しの板漫荼羅は、その形態は漫荼羅というより、以前にれんさんが紹介された板碑、外教の神座・位牌に準じた作りに見えます。
さて、これが本当に法師の作であるとするとき、最も古い板漫荼羅であることより、むしろ、わたしは「日蓮大聖人」という尊称が上古に使われた例として着目します。
在世であれば「日蓮御房」、あるいは「日蓮阿闍梨」、興師であれば「日蓮聖人」、像師以降で「日蓮大菩薩」などの尊称で、曼陀羅の書き様としては、空き缶さんが、そして、れんさんが明確にしてくださったように、ごく上古では「日蓮聖人」、のちに「日蓮在判」「日蓮在判」となっていく推移があったようですね。
それなのに、この板漫荼羅では「日蓮大聖人」、法師作であれば、驚愕に値します。
いや、もちろん、だから、偽作であるなどというわけではありません。
見聞して「ほぉ!」と驚きに、息を漏らしての投稿です。
406
:
空き缶
:2004/02/24(火) 13:04
犀角独歩さん、こんにちわ。
確かに主題の下は「日蓮大聖人」となっています。日春上人三十三回忌に彫られたもののようです。
興風談所の御書システムのHP「コラム」にも法華宗寺院での新発見などがレポートされていますが、法華宗関連の寺院には上古の貴重な資料が眠っているような気がします。
407
:
一字三礼
:2004/02/24(火) 17:09
横レス失礼します。
れんさん
399〜400
>蓮師の檀越四条頼基氏が弘安四年太才辛巳十一月に蓮師の曼陀羅の代筆をしており、それには依厳命謹敬所奉書写也藤原とあります(原本は身延曽存、身延亨師摸本存、山中喜八著作選集日蓮聖人真蹟の世界上所収)。
こちらにご紹介くださった四条頼基氏の書写曼荼羅の主題の下はどのように書かれているのでしょうか。「日蓮聖人真蹟の世界」を持っておりませんのでよろしければお教えください。
文脈から四条氏書写の曼荼羅こそが、蓮祖公認の書写形式のようにも考えられます。
408
:
れん
:2004/02/24(火) 19:30
一字三礼さん。身延曽存四条頼基氏代筆弘安四年太才辛巳十一月日の曼陀羅の首題の下は、日蓮(花押)となっています。身延乾師の霊宝目録には当曼陀羅を、真題目御曼陀羅。総ハ四条金吾殿筆、梵字御判ハ高祖御筆、但首題上ハ大聖人御認カとありますので、曼陀羅全体と日蓮の署名は四条氏の代筆と思われますが左右梵字と花押は蓮師御筆のようです。残念乍ら身延亨師の摸写はお世辞にも上手とはいえないので、座配を識る参考にするのみで、明治八年の大火で原本が焼失してしまった故、花押が蓮師のものか、四条氏が花押まで写したものかは分かりません。
409
:
一字三礼
:2004/02/24(火) 21:06
れんさん
詳しくご教示いただきありがとうございます。
とても参考になります。
>梵字御判ハ高祖御筆、但首題上ハ大聖人御認カとあります
書写という形式ではなく、1種の合作のようですね。
ここから推測できる事は、梵字悉曇は普通の書とは異なった筆法や、摩多・体文等の約束事があるので、特に訓練をしていない四条頼基氏では書けなかった、もしくは蓮祖ご自身が書かせなかった。
また、蓮祖の花押はサインなので代筆者でも書きこまなかったのではないでしょうか。
「所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事、怖入候」(波木井殿御報 弘安五年九月十九日)と興師代筆の書面でも判形は自身で書くのが通例だったと想像できますが、花押自体がバンやボロンの梵字を意匠化したものであったので、やはり四条氏には書けなかったのかもしれませんが。
410
:
れん
:2004/02/24(火) 22:05
一字三礼さんの仰る通り、たしかに弘安四年十一月の身延曽存の四条頼基氏の代筆曼陀羅は、全体の相貌から見れば、蓮師と四条氏との合作といった方がよいですね。蓮師の遺文によれば、この頃は蓮師が病床にあったようですから、蓮師の信頼が厚かった檀越の四条氏が特に選ばれて曼陀羅の代筆を命じられたのでしょう。曼陀羅の梵字と花押は、一字三礼さんのご指摘の理由により、蓮師ご自身が筆を執られたものと拝するのが至当と存じます。m(__)m
411
:
犀角独歩
:2004/02/24(火) 23:50
れんさん:
> 蓮師の信頼が厚かった檀越の四条氏
蓮師の傍らにはいつでも誰かしら弟子(僧)がいたと思われるのですが、それにもかかわらず、四条氏に代筆させた理由はなんであったのでしょうか。
これが本当に史実であるとするとき、単に信任が篤かったからだけでは、説明が付かないように思うのですが、この点はどうお考えになりますか。
412
:
みかん
:2004/02/25(水) 01:16
411
独歩さんも書いてますが「弟子(僧)がいたと思われるのですが」です。
鎌倉時代の日本仏教の世界に於いて、在家にマンダラを代筆させるという
ことはとても考えにくいと思いますが。史実なんですかねぇ。
理解に苦しみます。
あと花押というものの性質上、花押の代筆ってのはあるんですかねぇ?
もし例があるならどなたかお教えいただければ幸いです。
413
:
れん
:2004/02/25(水) 03:36
犀角独歩さん。四条頼基氏はたとえば崇峻天皇御書に「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん…」(身延曽存)とあり、特に蓮師との精神的絆が深かったように思われます。当然他にも僧分の弟子が蓮師の側に居たでしょうが、特に四条頼基氏に曼陀羅の代筆を命じられた理由の一つは、蓮師と四条氏の竜ノ口法難を通じて築かれた相互の信頼関係によるものと考えます。ただし四条氏代筆の曼陀羅は原本が焼失し、現在においては真筆か否かが判断出来ないのはとても残念です。
414
:
れん
:2004/02/25(水) 03:56
みかんさん。四条氏代筆の曼陀羅の原本が明治八年の身延の大火で他の蓮師御真蹟類と共に焼失してしまった現在においては、四条氏の曼陀羅代筆が史実か否かは最終的な判断は出来ませんので、四条氏代筆曼陀羅はあくまで参考資料に留めざるを得ないのですが、四条氏代筆(と伝承されてきた)の曼陀羅がかつて身延山に所蔵されていたということは、記憶に留めておくべきであると存じます。m(__)m
415
:
一字三礼
:2004/02/25(水) 09:25
蓮祖は曼荼羅を書くにあたっては、選んで濃墨を使い、筆法ではひげ文字を発明し、消息文の類に書かれた文字との明確な差別化をはかった。そうして出来あがった曼荼羅本尊には授与された者達をして、その中に本門釈尊を観させ、法華経の会座を観させ、また要の法華経であったり、自身のお守りとも信じさせた。このように信者達に授与した曼荼羅に、イコン的な意味付けを可能にしたのは、蓮祖の法華経を通じた人生に裏打ちされた「筆法」であり、そこに信者達は霊的なものを感じたのではないでしょうか。
一方四条氏は、御書で度々指摘されているように、直情径行の短気者で法門の知識も心許ないので法論を控えるように諭される、在家の檀越です。
それでもまだ、聖人の弟子の出家者が書写・代写した曼荼羅であれば、蓮祖の幾分の1かでも宗教的なものを感じることは可能でしょうけれど、四条氏からはどうでしょうかね。
つまり、蓮祖は信仰上の重要な役割に、僧俗の別やら仏法知識の有無・人格の別を全く意識されず、ただ信心のみを評価したということでしょうか。
まあ、四条氏代筆の曼荼羅の存在が事実であれば、ですが。
416
:
犀角独歩
:2004/02/25(水) 10:18
れんさん、有り難うございます。
四条氏代筆、その実否は今となっては確認は困難ながら、知識として、たしかに記憶に留めておいてもよいことですね。
417
:
犀角独歩
:2004/02/25(水) 19:31
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
図版解説を増やし更新しました。
ご高覧を賜れれば幸甚です。
418
:
一字三礼
:2004/02/25(水) 21:16
為現当二世造立如件本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白
「為現当二世」って本門戒壇大本尊建立の動機としていかにも表現が小さいような気がします。
たとえばこれが、「為末代一切衆生造立如件・・」とか「為塵未来際令法久住・・」のような文言であればまだしも。
419
:
空き缶
:2004/02/25(水) 22:26
犀角独歩さん、こん○○わ。
日法上人彫刻の板曼荼羅ですが、独歩さんのいわれるとおりですね。
門下御本尊集の日法上人書写の御本尊をまじまじとみて確認しました。
岡宮光長寺蔵の二鋪の曼荼羅御本尊の主題下は、一鋪が「沙門日法」もう一鋪が「日法」となっています。相貌的には弘安式であると思いますが、主題下に自分の名前を書き、宗祖を人師として勧請するところは昭朗二師の図顕式と同じですね。
但し、伝教大師らとともに「人師」として勧請されている宗祖の表記は二鋪とも「日蓮大聖人」となっています。
以上参考までに。
420
:
みかん
:2004/02/25(水) 23:20
ぶっちゃけ、身延山久遠寺に四條金吾と日蓮合作の曼荼羅がありますたってのは、
中山法華経寺に日蓮聖人お手彫りの鬼子母神像があるとか、
葛飾柴又の帝釈天(題経寺)に日蓮聖人お手彫りの帝釈天像があるとか、
大石寺に日蓮大聖人真筆の本門戒壇の板曼荼羅があるとか、
そういうのと同じレベルの伝説にしか思えないのは、
わたしが疑り深すぎるからですかねぇ。
421
:
sat
:2004/02/26(木) 00:43
>わたしが疑り深すぎるからですかねぇ。
そうでしょうねぇw。
皆様、曼荼羅の話となると楽しそうでいいですね。
422
:
犀角独歩
:2004/02/26(木) 05:02
まとめてごめんなさい
418 一字三礼さん:
お久しぶりです。
このご指摘、思わず、納得。たしかに個人や講衆なんてちまちました少人数の願いというのは本門戒壇にはいかにもみみっちい気がします。
419 空き缶さん:
わたしは個人的に「日蓮大聖人」という尊称が上古に遡れれば、ちょっと楽しい気分になります。
420 みかんさん:
疑り深すぎるのは、たいへんにけっこうなことであると思いますね。
421 satさん:
以前にお出でになったsatさんですか?
ならば、お久しぶりです。
423
:
sat☆
:2004/02/26(木) 08:23
>>422
>以前にお出でになったsatさんですか?
>ならば、お久しぶりです。
いえ、違います。同じHNの方がいたんですか、失礼しました。
区別をつけるために☆を付けます。
424
:
一字三礼
:2004/02/26(木) 16:39
犀角独歩さん
レスありがとうございます。ご無沙汰しております。
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
参考にさせていただいております。
3月になれば法華講の方達がいらっしゃるので、穏やかに本門戒壇之大御本尊の疑問点を質問してみます。
前回、法華講の方達とお話した後、これを読んでもらえれば誤解が解けると「佛教概観史表」をいただきました(笑)。久しぶりに読んでみて、改めて「久遠元初本因妙の仏」ってギリで反則な感じがしました。
425
:
犀角独歩
:2004/02/26(木) 17:14
424 一字三礼さん:
> 法華講の方達…誤解が解けると「佛教概観史表」を
笑わせていただきました。
一字三礼さんも「能ある鷹は爪を隠す」よろしく紳士的にお話になったのだろうと想像でき、微笑ましくも感じました。
> 「久遠元初本因妙の仏」…
この表現、たしかにすごいと思いますね。本因は台説で菩薩を意味するわけですから、語彙として成立しないわけですね。わたしは言葉を扱う仕事柄、こうした論理矛盾を来している語にはアレルギーがあります。
創価学会の時「死後の生命」という言葉がよく使われたのですが、これを読み下すと「死んだのちの生きている命」となり矛盾を来します。これでは「腐ったのちの新鮮な魚」というほどアバンギャルドな表現だと思ったわけです。
まあ、余計なことを書いております。
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』をご高覧を賜ったこと、嬉しく存じます。
自説に執着する気は毛頭ありません。忌憚なきご感想とご叱正を併せて賜れればこれに過ぎる歓びはありません。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
426
:
犀角独歩
:2004/02/26(木) 17:20
419 空き缶さん:
> 伝教大師…「人師」…宗祖の表記は…「日蓮大聖人」
あ、なるほど。そう説きますか。
これはわたしは考えていませんでした。
書写漫荼羅では蓮師も勧請ですか。
また魯鈍な不勉強を曝すみたいでれんさんに嗤われそうですが、「日蓮」を勧請するというような考えを示す文献というのはあるものでしょうか。
それとも、空き缶さんの独走ですか。
これはちょっと、心の琴線を弾かれました。
427
:
空き缶
:2004/02/26(木) 18:37
犀角独歩さん、こんばんわ。
>「日蓮」を勧請するというような考えを示す文献というのはあるものでしょうか。
どうなんでしょう?身延の本尊論資料の中にあれば面白いですが、私はしりません。
ただ、日像師の書いた曼荼羅御本尊には「日朗上人」が勧請されており、日親師の書いた曼荼羅御本尊には「日常上人」が勧請されています。
恐らく、書く人が尊敬する人物を「人師論師」のところに勧請しているだけだと思いますが。
428
:
愚鈍凡夫
:2004/02/26(木) 19:53
横レス失礼します。
以前、ネットで「南無日蓮大導師」とある重須学頭第5代日斉師の漫荼羅(1332(正慶1)年書写)を見たことがありますよ。
429
:
犀角独歩
:2004/02/26(木) 22:01
空き缶さん:
愚鈍凡夫さん:
なるほど。人師勧請ありですね。
そういえば、延山朝師末のお坊さんと話していたとき、「御漫荼羅に日朝上人を…」と話していたのを思い出しました。
この辺りは、興師門では案外ピンとこないところでした。
有り難うございました。
430
:
愚鈍凡夫
:2004/02/26(木) 23:03
犀角独歩さん、レス有り難うございます。
サイト名を思い出しましたので、漫荼羅をご確認下さい(写真と解説付)。
「霊的ポルシェビキ第一段!!!」
http://www.elnolte.ne.jp/hokke/honzon/
431
:
空き缶
:2004/02/27(金) 00:58
愚鈍凡夫さん、こん○○わ。
波木井坊竜尊氏のHPですね。確か、日有師書写の曼荼羅本尊も出ていたと思います。
432
:
犀角独歩
:2004/02/27(金) 17:01
愚鈍凡夫さん:
空き缶さん:
有り難うございました。
富士門もちゃんと調べれば、漫荼羅書写はバラエティがあり、書写の権能も一人(いちにん)に限ったわけでもなく、れんさんも資料を上げてくださったとおり、蓮師からの口伝相承かと思しき「在御判」も後天的なものであった。
なかなか興味深い議論が続いて有意義だと思っています。
433
:
愚鈍凡夫
:2004/02/28(土) 10:29
>>431
:空き缶さん、フォロー有り難うございました。
犀角独歩さん、上代の漫荼羅書写は結構アバウトですね。
「あんたら何でもアリか? みたいな」 (^◇^;)
宗門があまり表に出したくない気持ちが、何となく分かるような気がします。 (・・;)
434
:
てて
:2004/02/29(日) 22:46
独歩さんの所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について読みました。
誰も反論なしなの??
435
:
犀角独歩
:2004/03/02(火) 15:02
愚鈍凡夫さん:
> 上代の漫荼羅書写は結構アバウト
要は蓮師もその図示に試行錯誤の形跡が見られるように、上代の弟子達もいろいろ考えて書いたのでしょうね。そのうち、「本尊相伝」みたいなことが言われはじめて、そのとおりに書くと言った定着が生じたのでしょうか。
これら相伝の成立というのは、考えられてきたより、後天的なことのように思えます。
436
:
犀角独歩
:2004/03/02(火) 15:05
ててさん:
はじめましてで、よろしいのでしょうか?
ご高覧いただきましたこと、感謝申し上げます。
皆さん、特に反論その他をなさらないということはお読みいただいておらないか、あるいはご賛同下さってのことと拝察いたしております(笑)
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板