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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

238苦悩乱者:2003/08/23(土) 12:20

>222→>233でした、訂正します。

239苦悩乱者:2003/08/23(土) 17:36

常徳庵さん

>233 古来と記すことは、今は不問とさせる事の方が・・・

法水を受け継がれたところの、嫡々代々の御法主にお聞きになってください。

お待ちしております。

私にとって、これはとても重大な事柄ですので、是非ご教示ください。

時間が掛かりますようでしたならば、一度その旨お知らせください。

尚、>236の表現は少し品が無いので取り消します。

いきなり、「君」呼ばわりされたり、犀角独歩さんに送りました開目抄の抜粋(御書システム、興風談所)を一笑に付されたりと、すこし頭に血が上ってしまったものですから、

尚、「御本尊」のこと、
御義口伝、第四是人持此経安住稀有地の事 (学御 p.763)

・・・今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の稀有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり、・・・、と仰せですが、この御文の解説をも、常徳庵様にお願いいたします。

240kane:2003/08/24(日) 00:11
>>224

(1)221にお示しの文献は手に入らずまだ読んでおりません。

(2)この連陽坊聞書の朝・正午・夕の「一日三時の勤」の中に
「丑寅」は入ってませんよね。朝は「辰巳」となっております。
 
 だからやっぱり、220の文にいう「宗旨の勤」ってのは、「一日三時の勤」とは
また別、ってことなんじゃないのですか?
 
#いま保田で午の勤行やってるらしいよ、大石寺でやめちゃったもんだから対抗
意識でやってるのかねえと私の指導教師から教わりましたが、ほんとかなー・・・。

(3)
Q1) 興尊の時代より、江戸中期までの石山の境内の変遷を、主(おも)だった事項ででも良いですから、答えて下さい。(長く成りましたので、分割します)

私は学者ではありませんからちょっと無理ですよそんなの。
やってもいいけど富士年表の丸写しになるだけです。
信心している者の関心というのは、必ずしも、ものしり競争には向きませんのです。
歴史がご専門でしたらまずそちらでまとめて下さればよいのでは・・・

Q2) “遙拝”について、「戒壇様」が有師の時代に、どこに安置されていたのですか?

いつの時代だろうと、”「客殿」の奥深くにまします”のでしょう?
これより外の才覚無益なり、というのが信心する者の立場ですよ。

Q3) 三堂伽藍について答えて下さい(出来れば富士門流全体まで)

わかりません。

Q4) 主師の絵図について、「北東の方角」とありますが、確信ありますか。

違いましたか?違うならば御教示下さい。

241苦悩乱者:2003/08/24(日) 11:06

240 kaneさん

始めまして、苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。

> だからやっぱり、220の文にいう「宗旨の勤」ってのは、「一日三時の勤」とは
  また別、ってことなんじゃないのですか?

私も同様に考えています。「宗旨の勤(つとめ)」という所が重要だと思います。
現在の御宗門は「そのへん」をご存知無いのでは?と考えております。

常徳庵さん、「そのへん」のところをご教示下さい。

242苦悩乱者:2003/08/24(日) 11:09

常徳庵さん

>233 古来と記すことは、今は不問とさせる事の方が・・・

法水を受け継がれたところの、嫡々代々の御法主にお聞きになってください。

お待ちしております。

私にとって、これはとても重大な事柄ですので、是非ご教示ください。

時間が掛かりますようでしたならば、一度その旨お知らせください。

どうぞ、よろしくご教示のほどをお願い致します。

243愚鈍凡夫:2003/08/24(日) 17:02
藤波太郎さんこんにちは、

重須談所2代学頭三位日順師の『本門心底抄』を拝読していて、ふと疑問が湧いてきたので質問させて下さい。
日順師の記述によると、本門戒壇の本尊は大曼荼羅でないように思うのですが、現在、北山本門寺では以下の文証をどう解釈されているのでしょうか。

「此の上に本門の戒壇建立必定なり、所以は何ん・涌出神力の明文に本化の大人を召して久成の要法を授く、故に経には・後五百歳中広宣流布・於閻浮提無令断絶と説き、釈に・当知法華真実経・於後五百歳必応流伝と明せり、加之・天台は下方を召し来る亦三義有り・是れ我が弟子応さに我が法を弘むべし・縁深広を以つて能く此の土に遍く益すべしと、道暹云はく・付嘱とは此経唯下方涌出の菩薩に付す、何を以ての故に爾る・法是れ久成の法に由るが故に久成の人に付す等と経釈符契の如し、行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。」(本門心底抄)

「仏像を安置することは本尊の図の如し」
とは、仏像の座配を大曼荼羅の通りにせよとの御指南と受け取れるのですが。

また、『日順雑集』には、
「一、私に云く戒定慧とは妙法蓮華経なり、難じて云く戒定慧は三なり五字は一なり如何、答ふ三にして而も一、一にして而も三なり、戒壇本尊妙法の五字は面は三にして其の躰一なるか、山家大師云く虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶伝名て妙法と曰う○云云、宝塔品に云く此経難持○云云。」(日順雑集)
とあります。
ここでの
「戒壇本尊妙法の五字は」
とは、「法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P365)
との仰せと符合するのですが・・・・・。
ご存知の範囲で結構です。宜しくお願いします。

244愚鈍凡夫:2003/08/25(月) 23:20
問答迷人さんへ。お元気ですか。

>>243:に引用した『本門心底抄』の一節を通し、蓮祖は六老僧に対して平等に法門を伝授したのだと益々確信を深めました。
ただ、聖滅後にそれぞれの弟子たちが都合のいいように法門を変えていったのでしょうね。
石山や重須も、その時々の都合で変えていったのでしょうね。
日順師の書に「戒壇之本尊」に繋がるような記述があるかと思って探してみたのですが、残念ながら見つかりませんでした。
日順師は日興師在命中に帰依したのですから、日興師から蓮祖の法門を直に指南されたものと思います。日順師の遺文(とされるもの)に「戒壇之本尊」の記述がないのは、蓮祖から日興師に特別な相承がなかった傍証になるのではないでしょうか。
ところで、『本門心底抄』は資料として信頼を置いてもよいのでしょうか。
ちょっとその辺が気になったものですから。お尋ねします。

245犀角独歩:2003/08/26(火) 07:19

横レス、失礼。
興門の本尊意識の変遷は、やはり、執行海秀師の、以下の論考を読まず、語るべきではないと思います。

初期の興門教学に於ける本尊意識の展開
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_003.html

246愚鈍凡夫:2003/08/26(火) 22:46
犀角独歩さんへ

245:にお示しの論文、ダウンロードしてハードディスクに入ってました。まだ読んでいませんが。(;^_^A アセアセ…
早々、勉強させて頂きます。有り難うございました。

247犀角独歩:2003/08/27(水) 17:27

愚鈍凡夫さん:

ここ富士門流信徒の掲示板で議論しているような内容は、既に40年も前に、執行師が語っています。わたしは、『興門教学の研究』を読了したとき、「ああ、もっと早く読んでいればよかった」と悔やまれたものでした。

執行師は、亨師はもとより、達師とも親交があったようです。達師が執行師を石山に招いたのは夙に有名なことであると風聞しています。そのようなことから、石山の坊さん、案外、「事実はわかった」うえで、石山人として振る舞っているのではないのかとわたしはあやしんだりしているわけです。その最たる例を「河辺メモ」と思っている次第です。

248空き缶:2003/09/06(土) 22:14
初めまして「空き缶」と申します。
大石寺の板曼荼羅(通称:本門戒壇の大御本尊)について。
誰の造られたものであっても御本尊に変わりはありませんが。少なくとも日蓮聖人御在世中に造られたものではないでしょう。
願主「弥四郎国重」は新田小野寺家の家系の人物で、日道氏と親戚関係にある方です。
日目上人・日道氏・日行氏・日時氏、すべて新田小野寺家です。この家系をうまく利用したのが「本門正宗」なるところでしょう。
新田小野寺家は国学院大学等の国文系の大学の図書館に行けば、家系図や関連資料が見つかります。
つまり、願主「弥四郎国重」は日蓮聖人御在世中の人ではありません。
尚、日精氏の家中抄には弥四郎国重は日道氏を大石寺に移した人であることが出てきます。

249愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 00:07

「弥四郎国重」についての資料(コピペですが)

『日蓮聖人年譜』(日精)
「此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
「実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重」

『富士門家中見聞抄目録』(日精)
「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」

『富士大石寺明細誌』(日量)
「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ」
「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云」

第17世日精師は「弥四郎国重」を波木井六郎実長の子としています。
聖滅350年以上も後の法主が「弥四郎国重」に御執心なのは奇妙ですね。これ以前の石山に、「弥四郎国重」の資料はないようですよ。
念のために。

250空き缶:2003/09/07(日) 00:38
愚鈍凡夫様
弥四郎国重に関してご意見ありがとうございます。
大石寺になくとも、武家の台頭の契機となった「源平合戦」宇治川先陣争いに登場する小野寺道綱について大学の図書館で調べればでてきますよ。
【新田小野寺氏】
この一族は二代目道綱が恩賞として賜った奥州新田郡に孫重房が入植し、地頭職を務めた。彼らは「小野寺」の名から「新田」「登米」「三迫」「加賀野」など、自ら入植した土地の名を負った。狭い領地を一族に分割相続したこと、また葛西氏が当地に入植したこと、さらに、刀を置き、出家し法界にあらたなる地位を求めるものが少なくなかった。このため一族の繁栄に陰りが見えた。この家系からは、日蓮宗の高僧日目上人をも排出した。

「系図」
    重房┬ 某 ─行重─日行   
     ├重秀        
     └重綱┬重道─重行  
         ├頼綱┬行時─日時
      │  ├日道
      │  ├国道
      │  └道章
      ├頼道─行道
      ├信綱─国重
      ├日目
      └行道
下のほうに出てくる「国重」は弥四郎と称していました。調べればわかりますよ。
尚、日道氏は「本門寺座主」であったとでてきます。

家中見聞中の「弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」と符合します。

251愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 02:33

空き缶さん、挨拶が遅れました。愚鈍凡夫です宜しくお願いします。

空き缶さんの記述は下記のHPからのコピペですか?

「新・小野寺盛衰記 新田小野寺氏」
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/niita_onoderashi.htm

確かに、
国重) 信綱の子。弥四郎と称す。『古城書上』のなかに栗原郡金成町普賢堂の「普賢堂」城主小野寺弥四郎とみえる。彼のことか。
とありますが、弥四郎という名の人物については、

①新田四郎信綱嫡男説。
②波木井六郎実長嫡男説。
③富士下方市庭寺在住の農夫説。
④光日房実子説。
とあるわけです。
従って何れの人物が、
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
の弥四郎国重かは不明なわけです。
空き缶さんが御提示下さった資料は、当然、研究者たちは知っているわけです。
それでも、決め手に欠けるというの現状ではないしょうか。
尚、ここの掲示板でも弥四郎国重については、議論されてきました。しかし、結局身元を特定できなかったと記憶しています。

それでは、今日はここまで。お休みなさい。

252空き缶:2003/09/07(日) 12:26
愚鈍凡夫様
はい、コピペに使用したのはそのページです。
『小野寺一族』 日本家系図協会 なども是非参考にしてみてください。
弥四郎国重はほぼ特定されます。
波木井実長嫡男説は捏造説でしょう。
その他は「弥四郎」違いだと思います。
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
明らかに日蓮聖人の筆ではないでしょう。
おおかた重須から大石寺に移る際に日道氏が「日禅授与」の本尊でも書写したんではないでしょうか。
日蓮聖人の授与書きと日興上人の添書きを除いて。この本尊も北山本門寺では万年救護本尊ですし。
北山のそれと西山の万年救護本尊はほぼ同文の日興上人添書がみられますね。もっとも北山のそれは東京法道院を経由して現在は大石寺にありますが。
大石寺も思い切って写真公開すればいいものを。
本家本元の「万年救護本尊」は日郷上人に伝り現在は保田妙本寺の所蔵であることは皆様ご承知の通りです。

253愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 13:08

弥四郎国重に関して、
要するに空き缶さんの主張は、石山の歴代法主(第9世日有師以降?)の誰かが弥四郎国重(新田四郎信綱嫡男?)の名を借りて、「戒壇之本尊」の願主とした。ということですか。
そういうことなら小生も同意です(ただ、弥四郎国重の身元について、まだ疑問が残っていますが)。

> 北山のそれは東京法道院を経由して現在は大石寺にありますが。

あれ、そうだったんですか。
日応師が売りに出されていたのを密かに買い取り、東京法道院に預けたという本尊は、北山の弘安三年日禅授与本尊(万年救護本尊)のコピー本尊だと思っていました。
したがって、本物は今も北山にあり、広宣流布の暁には北山本門寺の戒壇堂に御遷座申し上げるものだと思っていました。
ところで、日禅授与本尊の写真はネット上に出ていますよ。

「弘安三年 日禅授与本尊」
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

254空き缶:2003/09/07(日) 17:20
日禅授与の本尊は大石寺に現在所蔵されている方が本物で北山のは模写版だと思っています。
私はこの本尊を書き写した人と、板に彫刻した人は異なる年代の人物だと推察致します。

255犀角独歩:2003/09/07(日) 18:50

○日禅授与漫荼羅が二体ある理由

ご参考に
『(続)大石寺の歴史』から転載

*** 以下転載 ***

94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:51


ワラシナさん:
問答名人さん:

過去ログで禅師授与曼荼羅、石北両山にある話題の時、ユーモアを交えて、ワラシナさんは以下のように指摘されました。

…大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。
(大石寺の歴史 158)

この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。

剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)

ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。

なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。

*** 転載おわり ***

なお、この話には尾鰭があります。北山が金に困ったとき、この剥離表層によって影本を作り、それを石山に売ったということでした。やや本門寺根源の名誉を傷つける話で、恐縮ですが、繰り返しますが、未確認の噂話です。念のため。

256空き缶:2003/09/07(日) 22:39
先ほどは仕事の休憩時間に携帯から書き込みました、先ほどの続きです。

私も板に彫刻したのは「日有氏」であると推察します。書き写された「日禅授与曼荼羅」を掘り下げたものと思っています。いくらなんでも真筆の掘り下げはしないでしょう。
そして、書き写したのは日道氏か日時氏あたりではないかと思います。日時氏の方が「河辺メモ」と符合しますが。
しかし、これは後世の人々をだます為ではなく、日郷上人のもと「保田妙本寺」に宗祖正御影と万年救護本尊がわたってしまったために、その代わりのものとして日興上人の添書により「万年重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と書かれたもう一つの万年救護本尊である「日禅授与曼荼羅」の書写版をもってこれに変えたものと推察いたします。
現在の大石寺の通称「本門戒壇の大御本尊」は熱原法難ではなく、道郷紛争を縁として造られたものと思っています。
現在の大石寺の御影が日時氏の代に造られたものであることや、日時氏も保田妙本寺に重宝類の返還を求めていることなどからそう推察いたします。
遠い過去の話ですので、これが完璧といえるものはありませんが。

257愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 23:20

空き缶さん、日曜日のお仕事ご苦労様です。
「弘安三年日禅授与本尊」が石山の「戒壇之本尊」のベースになったとする説に反対はしません。むしろ、その可能性は極めて高いのではないかと思います(こういう言い方をするのは、直接証拠がないからです)。
そして、便宜的にレプリカ本尊と呼びますが、そのレプリカ本尊が最初に重須から石山にわたったのはいつか?
となると、全く資料を持っていませんので、何とも言えません。
ただ、現在の半丸太状の「戒壇之本尊」が現れたのは、第9世日有師から第17世日精師の時代で、ほぼ間違いないと思います(もとより、直接証拠は提示できません)。

ただ、言えることは、

『弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯●漫荼羅と称す)』(富士宗学要宗第8巻P215)

の文証と、「弘安三年日禅授与本尊」が現存するということは、事実であるということですね。

258愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 23:45

あっ、
犀角独歩さん。資料の提供有り難うございました。
確かに過去ログをROMした時、読んだ記憶があります。

259空き缶:2003/09/08(月) 00:09
愚鈍凡夫様
「日禅授与の本尊」は日興上人の添書と通称「弟子分本尊目録」に記された文とがまったく同一です。
西山の万年救護は若干相違があるようです。いずれにしてもこの二山が本門寺を名乗ったのはこれらの本尊を所持していたからですよね。
本門寺構想は日蓮聖人の構想というよりは、日興上人の構想であると思っています。
そして本門寺は決して一つの建物を指していうのではないとも思っています。教宣拡大の拠点を「本門寺」と考えていたと推察いたします。
「本門寺重宝也」との日興上人の添書をみる本尊は現存するだけでも5つあります。
しいて特別な建物といえば、国主帰依により立てられる本門寺かなと思いますが。そのときに本堂に安置されるべき本尊は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊と宗祖正御影であると思います。

260愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 05:57

皆さんお早う御座います。

>>259:空き缶さんへ。

空き缶さんは北山や西山のことに詳しそうなので、1つ質問させて下さい。
小輔房日禅師は、大石寺創建時には南之房を建立し、後に富士郡上野に東光寺、駿河府中に妙音寺を建立しましたよね。
なのに何故、蓮祖から弘安3年に授与された大曼陀羅が北山にあるんでしょうか。その辺の事情をご存知なら御教示下さいませんか。

> 教宣拡大の拠点を「本門寺」と考えていたと推察いたします。

まあ、大石寺は本門寺を名乗ることが出来るのは当山だけと、霑志問答以来声高にアピールしているようですが、実際には登録商標みたいなもんで、どちらかといえば付けたもん勝ちの雰囲気もありますね。

> そのときに本堂に安置されるべき本尊は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊と宗祖正御影であると思います。

広宣流布の暁には、保田妙本寺の「万年救護本尊」と蓮祖御影をセットにして安置するのですか?
大胆な発想ですね。率直に面白いと思います。確か、田中智学は「佐渡始顕本尊」だったと思いますが(関係ないか。 (^◇^;))。
それを支える論拠を何かお持ちでしょうか。文証をお持ちであれば、是非紹介して下さい。

重宝の話が出たので「重宝」と加筆された大曼荼羅を紹介します。
ここの掲示板からのコピペです(どなたの投稿か忘れました。済みません)。

○興師における蓮祖漫荼羅への「重宝」の加筆

弘安二年太才己卯十一月日、俗日僧に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり

弘安三年太才庚辰卯月日 下総富久成寺。

弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院。

建治二年二月五日、(興師加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、(今切去りて無し)、(首題の下に)本門寺に懸け万年の重宝たるなり

(弘安二年か)(興師加筆)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与へ申す、(同上)本門寺の重宝たるべきなり、京都妙覚寺。

弘安三年太歳庚辰九月三日、俗日目に之を授与す、(興師加筆)富士の上方上野弥三郎重国に之を与ふ、日興(同上)正和元年出□三郎左□に之を与ふるなり、京都妙蓮寺。
弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、(同上)大本門寺の重宝なり、京都本能寺。

弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、(同上)大本門寺の重宝なり、京都本能寺。

弘安四年太歳辛巳四月廿五日、比丘持円に之を授与す、(興師加筆)甲斐の国大井の庄の庄司入道の女子、同国曽根小五郎後家尼は日興が弟子なり仍て之を与へ申す、(同上)之を相伝す孫大弐公日正(同上)本門寺重宝たるべきなり、京都本満寺。

261れん:2003/09/08(月) 06:10
横レス失礼いたします。愚鈍凡夫さんおひさしぶりです。以前日興跡条条事等について意見を聞かれましたが多忙のためレス出来ずにいたこと失礼いたしました。さてご質問の件ですが、石山歴代中戒壇本尊の存在を文献に記したのは十四世日主師で日興跡条条事示書に「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺状ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付属分ナリ。大石寺者御本尊以テ遺状被成候、是則別付属唯授ノ一人意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、従興師正応之御本尊法体御付属(中略)八通四通者惣付属カ、当寺一紙三ケ条之付属遺状者文証寿量品儀ナリ」また主師は譲座本尊示書に弥四郎国重云々の

262れん:2003/09/08(月) 06:31
戒壇本尊脇書を書写していますので、主師が条条事示書に記した「本門戒壇御本尊」とはこちらで皆さんが真偽を論じられている大石寺の板御本尊で間違い無いでしょう。日興跡条々事そのものについての意見ですが、写真で筆跡を見るかぎり、道師から主師までの歴代の筆癖は感じられず興師晩年の筆癖が見られるので、興師撰の文献としてよいと思います。また、条々事については九世有師の連陽房聞書にも趣意引用があり六世日時師談の大石記にも「此の方にも(日興)上人の御筆を載せたるなり」とその存在を明かしているので、客観的にみても板御本尊と日興

263れん:2003/09/08(月) 06:57
跡条々事の存在は大石寺の文献上同寺六世日時師の代まで遡ることができるでしょう。有師の教学の直接の根拠が日時師の著作である「四帖見聞」(不現存)であると有師聞書「聞書拾遺」にありますし、日時師は目師弟子の民部日盛師とも師弟関係があったので(日盛師の自筆文献に日時相伝之とある)、肯定的に見れば時師の記録は信用してよいと思います。なお、保田の万年救護御本尊についてですが、妙本寺に別幅の副書があり本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之とあります。右参考までm(__)m

264ガンコ:2003/09/08(月) 07:59
空き缶さん、はじめまして、わたくしガンコと申します。

わたくしは戒壇の大御本尊を信仰する教団の末席につらなるものですが、ひじょうに興味深いお話なのでずっと拝見しておりました。
シロウトながら疑問に感じたことがありますので、質問させてください。

かつて河辺メモが問題になったとき、日禅授与曼荼羅は大石寺にはなかったのだから日有上人ないしそれ以降の時代に当該曼荼羅を模して戒壇の大御本尊を造立したということはできない、といった見解もあったように思います。(うるおぼえ)
しかし、あなたのおっしゃるように、日道上人ないし日時上人が書写→日有上人以降造立であればなるほどあり得るかなあとも思われますが、細かい点で疑問がないわけではありません。
まず、日興跡条々事をどうご覧になられるか? ま、まさか、保田の万年救護本尊のことだとおっしゃる?
つぎに、あなたは書写版と模写版という言葉を使っていますが、厳密な意味で日道上人ないし日時上人は書写されたのか模写されたのか、どっちでしょうか? つまり、大石寺の御上人が本尊を書写されるばあい、日付と名前と判形をワンセットであそばすわけでしょうから、それをせずに弘安二年十月十二日として大聖人の御判形を入れたとなれば・・・愚鈍さんはレプリカと柔らかい表現をされていますが、もうこれは贋造といわざるを得なくなると思われます。
また、独歩さんはかつて、戒壇の大御本尊の脇書は、この本尊は弥四郎国重が造立した、つまり板本尊を造らせたのは弥四郎国重という人物である、と読むべきであるとの仮説を示されたことがあります。あなたは弥四郎国重を新田小野寺の家系としますが、いつの時代でしょうか? 日道上人と同時代?
わたくしの申し上げたいことは、戒壇の大御本尊が日有上人以降に造られたとするならば、まず日道上人ないし日時上人の段階で紙幅贋造、つぎに日有上人以降に板贋造、ようするに二段階の贋造がなされたことになり、もはや大聖人の御法魂などとは言えたものではない、ということであります。しかし、そ、そんな、バカな! という思いが強いです。

さて、あなたは日道氏・日行氏・日時氏などとおっしゃいますが、そうすると大聖人・日興上人・日目上人・日郷上人・・・ということでしょうか?

これはまた大変だ。

265犀角独歩:2003/09/08(月) 08:32

れんさん:

はじめまして。少し興味のある話題なので、質問させてください。

> 日興跡条条事示書
> 主師…譲座本尊示書

これら文献の証憑性は如何ばかりのものですか。
また、いずこでこの文献を見ることができますか。
亨師が富要に載せなかった理由はなんであったのでしょうか。
わたしは、この資料は不見聞です。

> 日時師の著作…「四帖見聞」

これもわたしは見ておりません。
いずこに載る資料でしょうか。
ここでいう「四帖」とは、『四帖抄』のことではないのでしょうか。
通常、これは有師が隆師から相承されたものとしますね。

「永亨四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず」(家中見聞下)

隆師の存命は元中2(1385)年〜寛正5(1464)です。
方やお示しの時師は生年は不明ながら寂は応永13(1406)でした。
となると、時系列が一致しないことになります。

あと、時師に係る文献は『本因妙抄』『三大秘法抄』などの重大な古写本ありとされながら、どうも証憑性に乏しいように思えますが、この点は如何でしょうか。

既に記してきましたが、わたしは戒壇之漫荼羅は、国重の、円師の嫡男伝説に仮託して精師が造立であると考えています。その根拠は精師造立の御影堂は精師の筆で「本門戒壇堂」と記され、それに比するように板漫荼羅には「本門戒壇願主」とあるからです。もちろん、「本門戒壇願主」の既述があったから「本門戒壇堂」としたと考えることはできますが、そうなると、その主たる漫荼羅を、何故のちに宝蔵に遷してしまうのか、この点で腑に落ちません。

精道師(のちの達師)の『板本尊偽作論を粉砕す』、あるいは応師『弁惑観心抄』には、有師が「戒壇之大御本尊を模刻」したとの記載がみられます。この本尊の相貌はわたしは未見聞なので、なんとも言えませんが、むしろ、この漫荼羅こそ、板漫荼羅の祖型と見るほうが時系列的には自然であると感じます。

> 万年救護御本尊…妙本寺に別幅の副書

これは誰の筆なのでしょうか。

以上、勝手ながら、質問させていただきました。
ご回答をいただければ幸甚です。

266れん:2003/09/08(月) 09:07
独歩さんはじめまして。ご質問の件にお答えします。まず主師撰の条々事示書・譲座本尊示書ですが、条々事示書は日蓮正宗歴代法主全書第一巻の主師の部に収録されています。譲座本尊示書は興風談所刊行興風紀要創刊号八十ページに御筆写真が掲載されています。条条事示書については写真がないので、本当に主師のものかはわかりませんが、譲座本尊示書については歴代全書口絵に掲載された他の主師正文書の筆跡と比較して主師のものであることは確かです。石山を否定し破折されようという御方が、歴全や富士宗学全集(富士学林研究教学書)に目を通してお

267れん:2003/09/08(月) 09:29
られないのには、正直びっくりしました。せめて、大黒喜道師の日興門流上代事典くらいは座右において、富士宗門史を研さんすべきと存じます。次に時師の四帖見聞ですが有師聞書の一つである聞書拾遺(これも歴代全書に収録)に「若しも世の末にならは高祖の御時之事仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候」とあり、また、雑雑聞書にもこれについて「大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之」ともあり、いわゆる慶林隆師の四帖抄とは別のものです。時師の文献そ

268れん:2003/09/08(月) 09:53
のものに対する証憑性についてですが、独歩さんがあげた本因妙抄・三大秘法抄写本についてですが石山側はこれらを時師本と発表していますが歴全掲載の自筆文書・奉蔵於奥法宝に掲載された自筆書写本尊の御筆写真にみえるたしかな筆跡と比べると時師筆とは相違が感じられますので、それらの写本を時師本と断定しそこから時師のものの証憑性を論じるのは早計と存じます。最後に万年救護本尊の別幅副書ですが、千葉県の歴史掲載の妙本寺所蔵曼陀羅本尊目録に出ておりますが、正本を拝していないので、誰の御筆かわかりません。独歩さんが実地調査されて、

269れん:2003/09/08(月) 10:12
そのうえで、ご自身でご判断された方が賢明と存じます。わたしは独歩さんの板曼陀羅精師造立説は仮説としてはおもしろいとおもいますが、主師のたしかな文献がある以上それは成立しないと存じます。条条事(板御本尊を含めて)の存在は大石記の記述により六世時師の代まで遡れる以上、真作ならばそれでよし。偽作ならは時師以前に行われたと見るべきと存じます。いずれにせよ、ここに提示した資料をもとに皆さんがより深く議論されることを願います。私は多忙にてこれから仕事ですのでこれにて失礼します。m(__)m

270犀角独歩:2003/09/08(月) 11:04

れんさん:

有り難うございます。
歴全が手許にないことは残念ながら、事実です。
それを置き、

> 時師の四帖見聞ですが有師聞書の一つである聞書拾遺(これも歴代全書に収録)に「若しも世の末にならは高祖の御時之事仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候」とあり、また、雑雑聞書にもこれについて「大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之」ともあり、いわゆる慶林隆師の四帖抄とは別のものです

これは、どのような意味でしょうか。
隆師からの有師が受けたことについては、執行師も記していました。
また、精師の既述は引いたとおりです。

隆師から有師が四帖抄は受けていないということなのでしょうか。是一。
時師が見聞した「四帖」とは何のことでしょうか。是二。
『雑雑聞書』は有師の雑談を記したわけですね。有師が隆師から受けたのが史実であれば、ここでいう四帖とは隆師から受けた四帖抄となりませんか。そうでないとすれば、この四帖とはなんでしょうか。是三。

時師が言う四帖抄とはどのようなものなのでしょうか。「慶林隆師の四帖抄とは別のもの」と仰る以上、四帖抄も読まれてお出でなのでしょう。また、四帖見聞を精査された れんさん であれば、容易に判読できようかと存じます。ご教示いただけますか。四帖抄は手許にあります。時師文の中の四帖、また有師が言う四帖と比較すれば、すぐにわかります。時師・有師のいう四帖をご提示ください。

宜しくお願いします。

271空き缶:2003/09/08(月) 11:59
空き缶です。22時以降に仕事から戻り次第お返事します。
一言だけ、興風談所の「日興上人全集」と「御書目録日記事」に関する研究は一見の価値がありますよ。
先にあげられた写本の日時説はかなり疑問です。真筆といわれる日興上人の遺文は写真で見比べることができます。

272犀角独歩:2003/09/08(月) 16:19

ガンコさん:

> 独歩…本尊は弥四郎国重が造立…板本尊を造らせたのは弥四郎国重という…仮説

よく覚えていらっしゃいますね。

昨年の10月18日の投稿です。

*** 転載はじめ ***

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白」

もし、この言葉が本当に刻まれているのであれば、弥四郎国重とは、この板曼荼羅を造立したその人なのでしょう。造立した人とは実際に木に刻み彫刻した人、あるいは仏師に、その彫刻を依頼した人という意味です。

どのような経緯で板に彫刻したのか、また言うところの本門戒壇の願い主とは、どんな意味なのか、弥四郎国重が誰であるのか、それは皆目わかりませんが、この「造立(ぞうりゅう)件(くだん)の如し…敬白」とは造立した本人が記す銘文の常套句です。

*** 転載おわり ***

しかし、これは仮説ではありませんよ。
刻まれていれば事実です。

最近は、板漫荼羅はもっぱら禅師授与漫荼羅を使ったということで、論が進みますが、安永弁哲師は妙海寺漫荼羅説を採っていました。

この類似を精道師時代の達師も認めており、返して、『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』の21項に「妙海寺本尊の模作という僻見を破す 妙海寺の本尊こそ富士所伝本尊の臨写なる教ゆ」(P62)という一項を設けています。しかし、これは一つ大きな落とし穴を自分で掘っています。つまり、“石山は板漫荼羅の臨写を許していた”ことを紙背に書き示したことになるからです。

余談ですが、この本の発行者は「日蓮正宗布教会 代表 細井精道」となっています。そして、印刷者は「東京都文京区音羽町三ノ十七 浅井甚米兵衛」です。ご存じでしたか。「昭和三十一年九月廿五日印刷 昭和三十一年九月三十日発行」となっています。
こんな印刷権のお株を学会に取られてしまったのが浅井さんであったということなのでしょうね。

これまた余談ですが、ここに「日有上人が戒旦御本尊の身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実」と記してあります。これは応師『弁惑観心抄』の「日有彫刻ノ本尊假立シテ且ツ戒壇ノ本尊に擬セシナリ…惟フニ後世是ヲ訛傳シテ日有眞ノ戒壇ノ本尊ヲ彫刻スルノ説ヲナセシナラン」(186頁)を受けたものであろうことも既述したことでした。

これらに関連して、板漫荼羅創作者は有師であると言われますが、これを伝える北山浄師の文献は伝聞だけでその存在が確認されていません。そのために、果たして有師造立説はどのようなものかという疑問を呈したのは三学無縁さんであったと記憶しています。

いずれにしても「本門戒壇本尊」であるというその文字が蓮師とは別人のものであるわけで、これでは後人が勝手に言いだして書き足したことを意味するわけです。

元の本紙が蓮師のものであるか、それとも他漫荼羅の写し(妙海寺漫荼羅/禅師授与漫荼羅)なのか、さらに言えば、諸尊の文字をかき集めたパッチワークなのか、その点ははっきりしません。しかし、漫荼羅相貌、「弘安二年十月十二日」の文字、「本門戒壇」の文字がそれぞれ別々であり、「造立は以上の通りです。敬って申します」と書いてあるわけです。少なくとも蓮師がこの漫荼羅相貌を記した意図に「本門戒壇本尊」はなかったことは動かない事実でしょう。

わたしもとても残念に思った一見でした。
度々、名前を出しますが、この前、三学無縁さんにお会いしたとき、「初めてネット上で議論をし始めた頃、独歩さんはまだ板漫荼羅真筆論者でしたね」と揶揄されました。まったくそのとおりで、板漫荼羅からの卒業は、ここ富士門流信徒における議論を通じてのことです。しかし、板漫荼羅を卒業することは、思っていたよりも、まるでストレスのないことでした。もちろん、罰も当たりませんでしたよ(笑)

また、投稿してしまいました。

273れん:2003/09/08(月) 18:30
独歩さんは石山時師の著作の四帖見聞と八品隆師の著作の四帖抄を混同されているようでこれにはまいりました。私は執行師の言われるごとく有師が隆師から四帖抄を受けられたのは史実と思います。が、有師の談話によると、それとは別に時師の著作に石山の法義について纏められた四帖見聞なる書があったということです。時師の四帖見聞について、私が興風談所に問い合わせたところ令道尊師より現存しないようですとのお便りを戴きました。また、日興門流上代事典に「日時『四帖見聞』不現存。日有聞書『聞書拾遺』に若しも世の末にならは高祖の御時之事、

274愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 18:42

れんさん。覚えていて下さったんですね。書き込んだ本人はすっかり忘れていました。
済みません。m(_ _;)m
文証を引用しながらの論理展開、かなりマニアックですね。さすがです。
これからも、時間のあいた時にレスして下さい。とても参考になります。

> 歴全掲載の自筆文書・奉蔵於奥法宝に掲載された自筆書写本尊の御筆写真にみえるたしかな筆跡と比べると時師筆とは相違が感じられますので、それらの写本を時師本と断定しそこから時師のものの証憑性を論じるのは早計と存じます。

ちょっと気になったんですが、本尊書写は、どちらかというと模写に近いのではないでしょうか。勿論、歴代法主の曼荼羅に、それぞれの個性を感じますが、同じ写すのでも、写本と曼荼羅は精神状態が違うと思われますので、一概に石山説を否定出来ないのではないかと思いますが。いかがでしょうか。

275れん:2003/09/08(月) 18:48
仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時、四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間、我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候』とあるが、その内容は不明である。たたし、同じ日有聞書の『雑雑聞書』に『一、大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之、此の内日目の耳引き法門と云ふ事有之。本尊の大事也、三箇の秘法也』とあり、この『四帖の聖教』が本書を指すならば、その中に『日目耳引き法門』が記されていたことになる」と解説されています。まさか朗師系の八品隆師の四帖抄に日目耳引き法門は記されてないでしょう。日目耳引き法門もネタ

276れん:2003/09/08(月) 19:11
元の時師の四帖見聞が不現存(曽存)ですので、全容は不明ですが関連するものとしては興風叢書〔4〕宗旨建立三四会合抄上巻に「日目上人直授相承云、三口一徹一徹三口、所謂本門三大秘法大事是也」とありますので、まぁ、時師に四帖見聞という著作があったのは事実だろうと思います。現存していれば、いまいち不明な上代の石山法門を考究する重要資料だったのにと残念に思います。それから本尊書写の件ですが目師〜日有師の本尊を拝すると正確には日興上人の書写された御本尊を書写されているのに気付きます。上代では宗祖の御本尊を直接には書写され

277れん:2003/09/08(月) 19:36
ずに師弟相対の上から日興上人の御本尊を書写されていた化儀が伺えます。なお、日興門流上代事典には宗祖真蹟の研究に従事石山にて戒壇板御本尊直拝した稲田海素師の「板本尊は宗祖の御真筆を模写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直感した。板本尊の原本は確かに御真筆である」(木下日順「板本尊偽作の研究」)との談話を掲載しています。板本尊の原本の御真蹟が大石寺にあるとのことですが、現時点では非公開ゆえ不明ですね。では失礼します。

278空き缶:2003/09/08(月) 23:19
空き缶です。遅くなりましてすみません。
話が前後してしまいますが、目師が日道氏に譲ったのは目師のいわば私有財産ともいうべき、南条家の田地でしょう。
日目譲状の中身はそうなっています。また、日目譲状は嘉暦二年の執筆で日興上人御在世中です。
「日興跡条々事」なるものが何時の執筆かは明確ではありませんが、八十八歳まで御存命であった日興上人が八十一歳の嘉暦二年以前に書かれたとも思えません。
よって、もし目師が日道氏に「日目譲状」をもって大石寺を譲り渡していたとしたら、日興上人からすら譲り受けていないものを、目師が勝手に日道氏に譲ってしまったことになります。そんなことはまずありえないでしょう。
したがって、大石寺は目師から日道氏への相続が無かったと認めるか、「日興跡条々事」は偽書であると認めるか二つに一つしかないのです。

279空き缶:2003/09/08(月) 23:54
続きです。
もし日興跡条々事が真書であれば、そこに出てくる「弘安二年大御本尊」は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊でしょう。
現存する日蓮聖人御真筆の本尊の中では唯一「大本尊」と讃文にお認めの本尊です。
また日精氏の家中抄にも弘安二年に宗祖から日興上人に授与されたのは「万年救護本尊」であると出てきます。
つまりこの本尊は、文永十一年十二月に認められ、弘安二年十月に授与されたものと思います。
観心本尊抄を佐渡にて執筆されて、流罪赦免後、鎌倉を経由して身延に移り認められたこの本尊こそ観心本尊抄にいわれた、「一閻浮提第一の本尊」であると思っています。

この「大本尊」(万年救護本尊)と宗祖正御影が保田妙本寺に渡ってしまったことから、通称「戒壇の大御本尊」は造られたものとみています。
それから私は途中からですが、「書写」から「書き写す」と表現をかえさせていただきましたが、目師以降の諸氏は日興上人の御本尊を書写されています。しかし私の憶測の「日禅授与の本尊」を日道氏あるいは日時氏が書き写す、との考えは宗祖真筆本尊の書き写しなるがゆえに、通常の「書写」とは違い「日付・名前・判形」はされずにあくまでも「万年救護本尊」のかわりとしての「真筆書き写し」として考えています。

280空き缶:2003/09/09(火) 00:17
愚鈍凡夫様
空き缶さんは北山や西山のことに詳しそうなので→すみません詳しくありません。
なのに何故、蓮祖から弘安3年に授与された大曼陀羅が北山にあるんでしょうか。その辺の事情をご存知なら御教示下さいませんか。→単純に日禅師が日興上人より二年早く亡くなっていますので、日興上人が預かったものと思っています。

広宣流布の暁には、保田妙本寺の「万年救護本尊」と蓮祖御影をセットにして安置するのですか→「広宣流布の暁」ではなく当時としての「国主の帰依」のときに建てられる「本門寺」に安置する予定であったと推察いたします。
宗祖御影については目師の「日興上人御遺跡事」にみえますが、「万年救護本尊」については「日興跡条々事」が真偽未決となった現在のところ、まったくの憶測にすぎません。これからもっと勉強します。

281犀角独歩:2003/09/09(火) 10:38

れんさん:

案外決めつけて裁いてしまうような論調が目立つ方なのですね。

> 石山時師の著作の四帖見聞と八品隆師の著作の四帖抄を混同されている

わたしは混同しているのではなく、この「四帖」を問うただけですよ。
時師の四帖見聞と隆師の四帖抄を混同したのではありません。
時師が見聞したという四帖とは何か、これは隆師の四帖ではないのか、と記したのです。あまりに斜にわたしの文章を見ないでいただきたいですね。

見聞という限り、それは何かを見聞きしたという意味です。つまり時師の四帖見聞は四帖を見聞きした内容を記したものと思われます。ですから、その時師が見聞した四帖とはなにかを問うているのに、なぜそれが四帖見聞と四帖抄の混同になるのでしょうか。
判読を違え即断して裁かれたたのには「まいりました」。

いずれにしても、四帖見聞は現存しないであれば

> 慶林隆師の四帖抄とは別のものです

という断定はおかしなことになります。「と思われる」というならまだしも、時師が言う見聞の意味がわからないのに、どうして、「別のもの」と断定できるのでしょうか。

けんか腰にならずに落ち着いた答えをいただきたかったと残念に思います。
四帖とは何かとの問を「四帖見聞が現存しない」とまったく見当違いの答えを得たわけですが、要は時師の言う四帖が何かを れんさんはおわかりにならないことだけはわかりました。

> 板本尊の原本の御真蹟が大石寺にある

創価学会でもまことしやかに語られる話ですね。
しかし、この件については「非公開」なのではなく、石山は明確に否定しています。
学会が「戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に謹刻させたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されています」と公言したことに対して、石山側は「直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されてる」と言っていますが、大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う「紙幅の戒壇の大御本尊」なるものは存在しません。このような前代未聞の珍説がどこから生まれたのか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です」と真っ向から否定していました。

ただし、複数の末寺に板漫荼羅の筆致まで忠実に臨写した紙幅漫荼羅が下付された事実があるわけで、板漫荼羅と同じ相貌を持つ紙幅漫荼羅があれば、それを臨写と見るほうがむしろ自然です。
稲田海素師はその事情を知らず即断した可能性は否定できないでしょうね。

282ガンコ:2003/09/09(火) 11:01
独歩さん

戒壇本尊にまつわる諸問題をあらまし総括してくださいました。
そして、その落ちがまた味わいのあるものでしたね。いわく、

>板漫荼羅を卒業することは、思っていたよりも、まるでストレスのないことでした。もちろん、罰も当たりませんでしたよ(笑)

罰はこれからかもしれませんよ(笑)

話は脱線しますが、
>印刷者は「東京都文京区音羽町三ノ十七 浅井甚米兵衛」です。ご存じでしたか

前にもお書きになっていらしたと思います。それまではまったく知りませんでした。

>こんな印刷権のお株を学会に取られてしまったのが浅井さんであったということなのでしょうね。

これは初耳ですが、確かに学会の大躍進時代のことですから、なるほど、とも思いましたが、別の要素もあろうかと考えます。
すなわち、翌昭和三十二年に浅井は法道院を離脱して妙信講を立ち上げるわけです。つまり、わざわざ敵をつくるようなことをやっちゃった。法道院の御住職は実力者であったと聞きますので、こういう人を敵にまわしちゃダメですよね。
じっさいには、宗門からの発注を年次別に調べたりして、その変化を検討しないことにはわかりません。もっとも、そんな資料は出回ってはいないでしょうから、ことの真相をいちばん知るのは浅井本人でしょう。

すみません。みなさんの議論から大幅にかけ離れてしまいました。

283犀角独歩:2003/09/09(火) 11:18

ガンコさん:

> 罰はこれからかもしれませんよ(笑)

あ、そうですか。じゃあ、楽しみにしておきましょう。
わたしの宗教探求のテーマは「不信の探求」「なぜ神仏は不信者を救わないのか」です。罰を当てることしかできない法理や絶対者ならばこちらから願い下げです。
むしろ、そんないい加減な言動に、反対に天誅を下している気分でわたしはいますよ(笑)

> …法道院の御住職は実力者…

早瀬慈師のことでしょうか。
総監にもうなっていましったっけ、あの頃には。

> すみません。みなさんの議論から大幅にかけ離れてしまいました

いや、この責任はわたしにあります。わたしがお詫びいたします。

284犀角独歩:2003/09/09(火) 11:38

【283の訂正】

誤)「不信の探求」
正)「不信の救済」

285ガンコ:2003/09/09(火) 12:02

空き缶さん

>日目譲状の中身

これがわかりません。具体的にどのような文面なのか、ご紹介いただきたいです。(長文のものでしたら、大事な部分だけでも)

>目師以降の諸氏は日興上人の御本尊を書写されています

これは、れんさんも同様のことを言われているのですが、どういうことでしょうか? 大聖人の御真筆御本尊と日興上人御書写の御本尊とでは決定的な違いがあるのでしょうか?
よく考えてみると、れんさんは戒壇本尊信奉者であるから、おそらくは戒壇本尊をはじめとして弘安年中の御本尊を念頭に置かれて相違点を見いだされたのでしょう。しかし、あなたは万年救護本尊信奉者であるから、救護本尊と日興本尊をくらべて、以下、大石寺歴代上人の御本尊がどちらに似ているかといえば、そりゃ当たり前じゃないの、ということになるかと思うのですが、ちがいますでしょうか?
もしそうであるならば、なぜに日興上人は万年救護本尊を書写し奉らなかったのか? つまり、あなたのいう「一閻浮提第一の本尊」「国主帰依の時、本門寺に懸け奉る本尊」を日興上人は書写せず、おしなべて弘安式の御本尊を書写して弟子檀那に授与せられているのはなぜなのか? 
一閻浮提第一の本尊がいわゆる文永・建治の御本尊で、日興上人が書写せられて弟子檀那に与えた御本尊が弘安式であるという、その必然性はいかばかりでしょうか?

ちなみに、わたくしは日興上人の御本尊はもとより、大石寺歴代上人の御本尊をほとんど拝見したことがありません。ですから、上記はすべて伝聞で書いております。ゆえに何かとんだ勘違いをしているかもしれませんし、ずいぶんと失礼を書いているかも知れませんが、なにとぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。

286空き缶:2003/09/09(火) 12:57
ガンコ様
筆不精(?)な為、具体的にできずに申し訳ありませんでした。
「日目譲状」は継命新聞社の「日目上人」に掲載されています。正本は大石寺所蔵です。歴代法主全書1−P217か日蓮宗宗学全書の2−P203にも掲載されています。今度、前文アップに挑戦しますのでもう少し時間を下さい。(漢字の変換等がきついんですよね)

日興上人以降、一定のルールのもとで本尊書写は行われたと思います。その教材的な役割を果たしたのが妙本寺から大石寺に伝わった「御本尊七箇大事」や身延に伝わる「御本尊七箇大相承」であると思います。日興門流と身延の曼荼羅本尊がよく似ているのはこの為であると思います。
「戒壇の大御本尊」も「万年救護本尊」も、また殆どの宗祖真筆本尊は「御本尊七箇大事」・「御本尊七箇大相承」にいわれる御本尊の書き方とは違っています。日興上人の御本尊も一部違うものがあると聞きますが、少なくとも日興上人以降は「御本尊七箇大事」・「御本尊七箇大相承」をもとに書かれていると思います。
それから万年救護本尊の書写については、日郷上人が禁じており、本堂等への安置も禁じております。役目を果たすその日まで厳護するといった趣旨であったと思います。そのことから日興上人も同じようなスタンスだったと考えます。
いわれてみれば、日興上人の御遺文を拝する限り、日興上人御自身は「宗祖御影」を御本尊としていたとしか思えませんね。もともと大石寺でも「本堂」と呼ばれていたのは現在の「御影堂」ですから、本門寺に安置するのは「宗祖御影」だけでしょうか?
一説には「御影」には中に御本尊(曼荼羅)が入っているといわれますが、どうなんでしょうね。

287ガンコ:2003/09/09(火) 18:30

空き缶さん、どうもです。

初歩的な質問ばかりで申し訳ありませんが、もうちょっとだけ教えてください。

そうすると、保田の妙本寺の本堂にはいずれの御本尊が安置されているのでしょうか?

また、保田の信者さんはどのような御本尊をお受けしているのか?

あなたはいちばん最初に、
>大石寺の板曼荼羅(通称:本門戒壇の大御本尊)について。
誰の造られたものであっても御本尊に変わりはありませんが

と、おっしゃっていますので、勝手に推測するに、日蓮正宗の御本尊を今も安置している信者さんがいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

それは置くとして、新しい信者さんはどうするのか、それが気になったのですが、いかがなものでしょうか?

288愚鈍凡夫:2003/09/09(火) 19:34

横レス失礼します。
空き缶さん、日本語変換システムに仏法用語変換辞書の導入をお勧めします。

からぐらライブラリー → 「日蓮仏教語辞書」
http://www.ginpa.com/karagura/library.html

「仏法用語一発変換辞書」
http://www.kongodo.net/contents02/dic/index.html

下記は、仏法とは関係ないですが、古語入力などに便利な変換辞書ライブラリーです。

「人文系FEP辞書」
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/myokyo/fep_link.htm

289空き缶:2003/09/09(火) 22:32
すいません、今晩は書き込み出来そうにありません。明日の正午以降にお返事します。

290れん:2003/09/09(火) 22:48
時師の四帖見聞の四帖について独歩さんは隆師の四帖抄であり、隆師の四帖抄を時師が注釈されたものとのご見解であること了解しました。私は有師の聞書の記述から時師が先師である日行師や民部日盛師から伝え聞いた蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀を四帖の冊子に纏めたものと理解していました。見解の相違といえばそれまでですが、私の“読解力”の足りなさからの独歩さんへの非礼をお詫びいたします。また紙幅についてのご教示ありがとうございました。参考にいたしますm(__)m保田十四世日我師は観心本尊抄抜書において「久遠寺の板本尊今大石

291れん:2003/09/09(火) 23:15
寺に在り大聖御存日の時ノ造立也」とあるので、郷門にても大石寺の板曼陀羅は蓮祖の造立されたものと伝承されていた様ですので、空き缶さんの保田の万年救護本尊=本門寺本堂安置の本尊との結論は早計だと存じます。本門寺本堂安置の本尊は大石寺の伝承をとれば板曼陀羅、三位順師の心底抄、日代師の説をとれば、曼陀羅本尊に則った造像安置となりましょう。大石寺も主師の大石寺図絵によると主師の代までは本尊堂を中心に右に天経(天拝をする場所)、左に御影堂という堂宇の配置でしたので本堂に本尊御影を安置する化儀は精師以後のことと存じます。

292空き缶:2003/09/10(水) 02:38
ちょと時間が出来たので一言だけ。私は我師については、いまいち信頼をおきかねております。

293犀角独歩:2003/09/10(水) 06:11

れんさん:

> 独歩…時師の四帖見聞の四帖…隆師の四帖抄を時師が注釈されたもの

いやいや、そう即断しているわけではないのです。

> 私は有師の聞書の記述から時師が先師である日行師や民部日盛師から伝え聞いた蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀を四帖の冊子に纏めたものと理解していました。

ただ、仰る如き四帖の聖教として4冊にまとまる帖装本があれば、その疑問の余地はありません。このような本があるのでしょうか。あるいは、そのような内容が伝わるのでしょうか。

むしろ、わたしもこのように想像しないわけではないのです。
しかし、もしそのようなものがあれば、その後に伝わっておかしくないと思うわけです。ところが、この「四帖」という表現は、有師聞書以降、絶えてしまっていると映じます。精師家中には見えますが、ここでは間違いなく隆師四帖抄を指しています。
仰るような4冊であれば、これほど、貴重なものはないのに、その後、重要視された記録がないことを奇妙に思うわけです。

四帖とは仰るとおり、たぶん4帖の冊子であるのは、その通りのように思えます。
「帖」とは一般には半紙20枚、美濃紙48枚、あるいは海苔10枚を表す単位ですね。
しかしまた、糸で括った一つのまとまりを表す単位。ですから、縫い合わせて作る袈裟も「一帖、二帖」と数えます。たぶん、昔は巻物が主流であったのに、のちに和綴本の如き形態の冊子が作られるようになった、これは糸で綴じていますから、帖で数えるようになったのでしょうか。ただし、法帖という場合もありますね。
いずれにしても四冊(帖)の和綴本を意味するかのようです。
隆師の四帖抄、すなわち『法華天台両宗勝劣抄』も全四巻である故に四帖抄の通称があるのだろうと思います。

ですから、四帖とは四冊の本なのでしょうが、時師がいう四帖とはいったいなんであろうか、皆目見当がつかないので、質問させていただいたわけです。これはもちろん れんさん を批判したり、投稿に難癖を付けようなどと言う意図は毛頭なく、該博な知識をお持ちとお見受けしたので、投げかけたばかりでした。

時師が言う四帖と、有師聞書にいう四帖が同一のものであるかどうか、前書が伝わらない以上、この同一視は避けるべきであるとわたしは思います。ただ、もちろん、そのように憶測することも一つの可能性としては否定するべきではないとも思います。

時師がいう四帖、しかし、意味がわかりません。
有師の時代以降、隆門は夙に隆盛しますので、以降、四帖と読めば、隆師「四帖抄」を疑うのは、わたしはおかしなことではないと思います。しかし、時師はそれより古ですから、先の質問となったわけです。

有師聞書にいう「四帖の聖教」は、やや文が載りますので、想像できる範囲は広がります。
れんさんは、「蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀」と考えられるという。
仰るとおり、この文から隆師四帖抄以外の可能性は読めます。むしろ、そうであるとも窺えるわけです。
けれど、わたしはこの考えに素直に腑に落ちないのは「聖教」という語彙に基づきます。聖教は蓮師も「一代聖教」という成句を以てこの語彙を使用されています。しかし、この場合、意味するところは経典ですね。となれば、四帖の聖教とは4冊の経典という意味になりますが、経典は経巻で帖装本とはしないので、この意味とは採れません。尤も法華経折本(法帖)の場合は1品1帖ですから、四品を指すと読むことはできるかも知れません。しかし、これはたぶん違うように思えます。仮に2品1帖とする法帖があれば、8品4帖となり、八品正意を表す如くですが、これはどうでしょうか。

日蓮門下では蓮師遺文を指して、聖教と呼ぶことはあるので、特に選ぶ御書4抄を、こう称した可能性はあります。本尊に係る御書四帖、となれば、開観は上下で4巻となりますから、そのことであろうかと思いました。しかし、これまた、想像の域を超えません。

ところで、聞書では目師の耳引法門も載せますから、仰るような代々が伝える法義・化儀の可能性も考えられます。ただ、ならば、なぜ、その後、「四帖の聖教」として伝わらないのであろうかと疑問が残るわけです。

ご承知のところがあれば、ご教示いただければ有り難く存じます。

294れん:2003/09/10(水) 06:37
独歩さん、ご教示有難うございますm(__)m 私も残念ながら時師撰の四帖見聞について今まで投稿した内容以上のことはわからないというのが実際です。独歩さんの仰る通り有師以降この書の存在に触れる石山文献が皆無なのは確かに不審なのです(日目耳引き法門の一部と推察される日目直授相承の引用は因師の三四会合抄にありますが)。この点この掲示板を見ている石山累代檀家の方や石山僧の方・また石山法縁の方でご存じの方にご教示戴きたいものです。

295犀角独歩:2003/09/10(水) 07:13

れんさん:

有り難うございました。
また、不明な点がありましたら、ご教示をお願いします。

296犀角独歩:2003/09/10(水) 07:15

↑不明な点がありましたら、質問させてください。 ご教示をお願いします
 という意味でした。失礼しました。

297空き缶:2003/09/10(水) 11:52
愚鈍凡夫 様 ありがとうございます。導入を検討します。
ガンコ様
保田妙本寺には日興上人の御本尊を板に彫刻したものを本堂に安置しています。
大石寺の日有上人より早く彫刻されています。

私は家が遠い(一都一県をこえていかねばなりません)ので、チョクチョク顔を出しているわけではありませんが、ご指摘の通り、殆どの方が日蓮正宗時代の本尊と教本を使用していると思っています。
日寛上人・日達上人のご本尊が多いのではと思っています。もともと日蓮宗でしたので、身延系の御本尊を所持されている方もいると思います。保田独自の形木本尊も以前(日蓮正宗時代)からあるみたいですが、私は知りません。
保田の教本は、二座の御観念文が変わっていると聞いています。「万年救護本尊」になっています。
特別御形木や常住本尊のようなものは無かったと思います。その代わり、信行学に邁進された方には日興上人の御本尊を形木にして下付しています。
私は、保田妙本寺の御影様にお会いしに行くことがありますが、御講等には参加しません。
今度、仕事の都合がつけば「お虫払い」にはいってみたいと思います。

298空き缶:2003/09/11(木) 02:13
daihonnzannmyouhonnji@groups.msn.com ←こちらに「日目譲状」アップしました。
MSNコミュニテイ−の「大本山妙本寺」です。境内の写真もアップしています。宜しければ御覧になってください。

299ガンコ:2003/09/11(木) 12:41

空き缶さん、いろいろと教えていただきまして、ありがとうございました。

現状として、妙本寺さんの方にもクリアしないといけない課題があるんだなあ、と感じました。もっとも問題山積の大石寺にくらべれば、大したことないのかもしれませんが・・・

日目譲状、拝見しました。
なるほど、日興跡条々事と時間的に矛盾するとのこと、ようやく意味がわかりました。
まあ、会通の仕方はあるのでしょうが、わたくしとしては今のところ何とも申し上げられません。

300空き缶:2003/10/12(日) 10:28
大石寺「戒壇本尊」について、久々に書込みします。


この板本尊の、謎の鍵を握る「弥四郎国重」は宮城県の人と思われます。以前示された「小野寺系図」の説明に『「古城書上」のなかに栗原郡金成町普賢堂の「普賢堂」城主小野寺弥四郎とみえる。』とあったと思います。「栗原郡金成町」とは宮城県で旧新田坊地(目師から道師に相続された土地)内であると思われます。
そして近年、この金成町からそう遠くない宮城県中田町から「日時上人追善板碑」が発見されていることから、私は時師と小野寺国重の関係性に確信をもちました。「河辺メモ」の鑑定がかなり精査されたものであることは、これまで「有師説」中心であった「戒壇本尊論」に時師の名前を連ねたところでしょう。細かい部分は、現在も研鑚中ですが、「時師模写有師彫刻説」は近い将来明確になるでしょう。

301犀角独歩:2003/10/12(日) 12:26

300 空き缶さん:

・弥四郎のこと

「弥四郎」という名前は『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に見えます。

一、富士下方市庭寺ノ弥四郎入道者 越後房ノ弟子也 仍テ日興申与之

少し資料を追い切れていませんが、所謂、熱原法難における三人の処刑の前に、弘安2年4月8日、大宮浅間神社分社で行われた流鏑馬神事の雑踏で「四郎男」が刃傷、次いで8月“弥四郎”が首を斬られるという事件がありました。この段階で「弥四郎」の名前が見られます。しかし、あまりこの事件と名前が重大視されないのは何故なのであろうと、わたしは以前から訝しく思ってきました。
また、これはまったくの偶然、あるいは類似かも知れませんが、興師漫荼羅加筆では

弘安三年太歳庚辰九月三日、俗日目に之を授与す、(興師加筆)富士の上方上野弥三郎重国に之を与ふ

という資料が見られます。「弥三郎重国」「弥四郎国重」この奇妙な類似にわたしは興味を惹かれてきました。
また、『板本尊偽作論』を著した安永師はそれまで説を踏襲してか、板漫荼羅と妙海寺漫荼羅の類似を指摘しています。この漫荼羅には「弥三郎国安」の名前が見られます。

いずれにしても「弥四郎国重敬白…造立如件」と板漫荼羅には銘記されているわけですから、これを作ったのは間違いなく弥四郎国重でしょう。しかし、果たして実在の人物なのでしょうか。以上のようなソースのなかから捏造された架空の人物である可能性は否定できないと思います。


・日有彫刻説

この点については『大石寺の歴史』などのスレッドで過去にけっこう話し合ったものでした。わたしのささやかながら知識では、この有師彫刻説は『大石寺誑惑顕本書』のなかに登場し、そのなかで重須浄師が述べた話として扱われています。これを先の安永師も取り上げています。該当の文書は

日有開山ノ本懐ニ背キ未聞未見ノ板本尊ヲ彫刻シ猶己義荘厳ノ偽書ヲ作ル

でした。引用する志師の文を挙げれば

其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語って云く大石寺に戒壇の本尊あり惜いかな九代日有師之を彫刻して其の本紙を失す(両山問答(本門寺問之部)(富士宗学要集第七巻44頁))

となっています。
しかしながら、ここで取り沙汰される浄師文書というのはその正本、写本に当たれないと言います。この指摘をしてくれたのは三学無縁さんでした。

ところで、達師は精道師時代に、安永師への反駁書で有師彫刻説を否定しています。
これは応師『弁惑観心抄』を踏襲したものでした。そこでは

日有彫刻ノ本尊假立シテ且ツ戒壇ノ本尊に擬セシナリ…惟フニ後世是ヲ訛傳シテ日有眞ノ戒壇ノ本尊ヲ彫刻スルノ説ヲナセシナラン(186頁)

といい、有師が身替り板漫荼羅を造ったことが記されています。精道師の説明ではこの板漫荼羅には有師の花押が施されているとのことでした。

有師彫刻説と聞くと、どうもわたしは以上の過去の議論を思い起こすわけです。
わたしは有師彫刻説にもっとも消極的なのは、彼の本尊観です。南条住師を通じて院師に遺した『化儀抄』に

一、当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし

とあります。もし、有師が板漫荼羅彫刻の張本人であれば、何故、当宗の本尊を「戒壇之大御本尊」と言わなかったのでしょうか。また、彫刻者であれば「造立如件」として自らの名前を記さなかったのでしょうか。

板漫荼羅を彫刻造立したのは、その板に刻まれる如く、弥四郎国重その人なのであって、では、しかし、それが実在の人物か否かが問題となるところでしょう。それ以外の彫刻説は刻まれた銘記に反するものと言うしかありません。もし有師が彫刻の人であれば、なぜその造立を「弥四郎国重敬白…造立如件」としたのかが説明されなければならないことになります。

302空き缶:2003/10/13(月) 12:01
独歩さん

限定300部で世に出回った、「小野寺盛哀記」(深澤多市著)を入手しました。「小野寺盛哀記」は主として「仙北小野寺家」(東北地方の小野寺家)に関する郷土資料なので、当初あまり関係ないだろうと思っていたのですが、読むにつれて「仙北小野寺家」は「新田小野寺家」の分派であり、上代仙北小野寺家には日目上人の長兄といわれる「小野寺重道」の名前もありました。

そして、日目→日道の「日目譲状」の文と宮城県から発見された「日時上人追善板碑」、普賢堂の小野寺弥四郎などが、少しずつ点と点としてみえてきたわけです。未だ線となってつながっていませんが、新しい発見があれば書き込ませていただきます。

303犀角独歩:2003/10/13(月) 13:58

空き缶さん:

変な横槍を入れてしまった形になって御免なさい。
是非、発見がありましたら、御披露ください。

304犀角独歩:2003/10/17(金) 11:11

302の空き缶さんのご指摘が、小野寺さん辺りが述べる小野寺・日目論の系譜に牽強付会されないことを祈ります。

305空き缶:2003/10/17(金) 18:17
独歩さん

本当ですね、本門正宗なる団体は「小野寺系図」をうまく利用しています。

事実とこじつけをまぜこぜにしています。私は事実を、関連書籍から読み出してまいります。

306犀角独歩:2003/10/17(金) 18:49

305 空き缶さん:

安心しました。
ご健闘をお祈り申し上げます。

307空き缶:2003/10/22(水) 13:41
東京女子大学民族調査団報告書「普賢堂の民族」に、普賢堂近郊では、鎌倉期以降も「チョンナ」と呼ばれるものが使用されていたと出ている。
図も出ているが、まさしく古い鉞(まさかり)のようなものである。この「チョンナ」は以下に言われた、「手斧」(てちょうな)と同様のものであろうか?

「その御本尊様はもう六百八十年も前に出来た板御本尊で御座いまして、これは当時鉋(かんな)というものが無かった、鎌倉時代で御座いますから、あの板御本尊様は明らかに鉋では造ってないのであります。」
「みんな手斧(てちょうな)、手斧といっても戦国時代或いは室町時代できる丁鉋(ちょうな)でなくてもっと古い鉞(まさかり)みたいな手斧で削られて居るので御座います。」
「それが歴然としてあの板御本尊様に残っておるので御座います。」

以上、日達上人談。

308犀角独歩:2003/10/22(水) 14:10

この前、ある人と話したこと。
もし、板漫荼羅が蓮師作、あるいは法師彫刻であれば、弥四郎国重とは蓮師、あるいは法師その人となる。「造立如件…敬白」と書いているわけですから(笑)

達師のこの説明、ちょっと恣意的というか思い込みが強すぎると思うわけです。
いわゆる工具というのは現在のような流通社会のように、すぐさま取って代わっていくものなのでしょうか。
鎌倉時代に使われていたものが、その後も数百年使用されていき、それとは別に新しい道具も同時並行に使われはじめるという想像は大きく外れていないと思うわけです。そうすれば、鎌倉時代から時を経て、手斧が使われても不思議はないでしょう。

実際の話、この前、薬師寺かどこかの修復をするとき、たしか手斧を使っていました。
その使用を、テレビで観ましたが、達師が言うように滑らかに削れないどころか、手斧刃の幅の削り屑が巻紙を宙に舞わせるよう何メートルも切れずに宙に踊り、その切削面は鏡のように滑らかなものでした。

わたしはこの達師談、思い込みがなせる業であると感想を懐いています。

309愚鈍凡夫:2003/10/23(木) 23:13

>>307:空き缶さん。 >>308:犀角独歩さん。

「戒壇之本尊」について日達師は、
「また戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にたまり今度御水洗いする事になり洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で其の時分はカンナがなかった。鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。だからあの御本尊は手斧けずりである。それを見ればすぐ分かる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利時代に出来たとか最近は徳川時代に出来たなどととんでもない事を言う。
 ところが、あれは後ろを見るとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それを見ても明らかに鎌倉時代である。
 しかも手斧で明治時代の人は知っている。丸いものではない。 あの時代には鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。そういう事はこちらも誰も言わないけれども信者の人なら申しても差し支えないから申し上げます。」(1972(昭和47)年9月12日 日正寺 竜口法難会砌)

と述べられていますが、残念ながら鎌倉時代の作であるとの論証にはなっていませんね。
「手斧削りであるが、室町時代の作である。」といっても不自然ではないような言い方ですよね。削り後から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。

310愚鈍凡夫:2003/10/23(木) 23:26

訂正

誤→ 削り後から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。
正→ 削り跡から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。

です。悪しからず。 m(__)m

311沖浦克治:2003/10/28(火) 22:56
 空き缶さん
  
 沖浦です
 
 あなたの熱心なご研鑚と、公平な態度に感服いたしております。
 今後とも研鑚にお励みになられ、結果を私どもに還元していただければ幸いに存じます。
 蓮祖御真蹟の曼荼羅を網羅しているサイトがあります。
 以下に書き込んでこきますので、貴殿の参考になれば幸いに存じます。
 すでにお知りの際はご容赦くださいませ。

 http://www.lbis.jp/gohonzon/

312空き缶:2003/10/28(火) 23:35
沖浦さん

いつもお世話になっています。

かねてから言われている通り、この問題への取り組みは迷路に入るようなものですが、何かの参考程度にでもなれれば幸いです。

「弥四郎国重」とは、「姓」を省いた「名」の部分だけであると言う事が出来ます。
つまり、名しか書かれていないと言うことは「弥四郎国重」が姓を記さなくても、すぐに誰であるかわかると言うことで、身内であることを示しているのではないかと思います。
その点から、独歩さんのご指摘を考慮しまして「時師模写」の「国重彫刻」にこの上なく傾きかけています。
時師の宿敵伝師も、板曼荼羅を造っています。万年救護本尊の件と併せて、時師には板本尊造立の動機があります。

あと参考までに、時師の追悼記念板碑がみつかった「宮城県中田町」は新田小野寺氏がいたところであることが判りました。新田小野寺氏の所領は、南北朝の戦乱で東北両勢力が衝突する激戦地となり、一族は戦災を逃れようと周辺地域に離散してしまったとのことです。

313空き缶:2003/10/29(水) 22:07

保田妙本寺所蔵「万年救護本尊」について

「万年救護本尊」の名称については、一時「西山本門寺」に遷座していた時期(家中抄)がありましたが、再び保田に戻った時に背面に「万年救護」と書かれていたそうですが、だれが書いたのかご存知の方いますか?

いろんな説がありますが、西山に遷座していた理由は伝師と時師の係争における、伝師の係争費用捻出の為に「質」に入れていたものと思われます。

314愚鈍凡夫:2003/10/29(水) 22:29
>>313:空き缶さんへ

> 万年救護本尊」の名称については、一時「西山本門寺」に遷座していた時期(家中抄)がありましたが

ということは、
大石寺→小泉久遠寺→保田妙本寺→西山本門寺→保田妙本寺
という流れと言うことですか?

> 再び保田に戻った時に背面に「万年救護」と書かれていたそうですが、だれが書いたのかご存知の方いますか?

意味がよく飲み込めないのですが、富士年表にある、
1279(弘安2)年 日興に文永11年12月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う(聖613・保田妙本寺蔵)
この本尊とは違う可能性もあるということでしょうか?

315空き缶:2003/10/29(水) 23:17
愚鈍凡夫さん

お久しぶりです。
恐らく「質」に入れていた場所が「西山」だと思いますが、どうでしょう?
そして、「質」から買い戻した時に背面に「万年救護」と書かれていた、ということです。
家中抄にはそこまで詳しく出ていませんが、一時西山にあったことは出てきますね。「日興より又日目に付嘱して今房州に在るなり(この頃西山に移しうる故今は西山に在るなり)。」=日蓮正宗聖典P613
保田には伝師が時師との係争費用に困って、「万年救護本尊」を質に入れたことが伝わっています。
このことから推察するに、この時の「質屋」こそ「西山」であったのではないかと思うのです。

そして、西山から保田に戻ってきた時に「万年救護」とご本尊の背面に書いてあった、といわれているのです。

家族の大反対があって、お虫払いにはいけませんでした。いければこの眼で確認ができると思っていたのですが、とにかく妙本寺周辺は遊ぶところも無く家族を説得することが出来ませんでした。(涙。。)

この件に関する、詳しい文献や情報があれば是非教えて下さい。

316愚鈍凡夫:2003/10/30(木) 00:32

空き缶さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。

あいにく「万年救護本尊」の資料を持ち合わせていませんので、空き缶さんの研鑚の結果を楽しみにしています。 m(_ _)m

それではお休みなさい。

317空き缶:2003/10/30(木) 01:17
愚鈍凡夫さん
どうもです。

独歩さん、れんさん、何か良い情報はありませんでしょうか?

318犀角独歩:2003/10/30(木) 03:16

空き缶さん:

お久しぶりです。
ご投稿をお待ちいたしておりました。
「質」と裏書「万年救護」の関係、たいへんに興味深く読ませていただきました。
面白いですね。
わたしはこの点について、今のところ情報を持ち合わせていませんが、何か知るところがあれば投稿させていただく所存です。
続投を期待しております。

319犀角独歩:2003/10/30(木) 09:54

空き缶さん:

> 伝師も、板曼荼羅を造っています

この点、もう少し解説いただけませんでしょうか。
れんさんにもご指摘を受けてお恥ずかしいところなのですが、日宗全、石山歴全などが手元にないために、このような点に疎いのです。よろしくお願い申し上げます。

320れん:2003/10/30(木) 11:45
皆さんお久しぶりです。伝師の板曼陀羅は郷師書写本尊の摸刻です。保田の万年救護本尊については千葉県の歴史以上の文献は手元にありません。独歩さん。歴全は東京神田のT堂で入手可能です。宗全は山喜房仏書林で扱っています。右ご参考までm(__)m

321犀角独歩:2003/10/30(木) 12:17

れんさん:

有り難うございます。
最近、ご投稿が少なく残念に思っています。
是非ご賢察をご教示ください。

322無徳:2003/10/30(木) 18:02
れんさんはじめまして、

T堂とは神保町の東洋堂のことと思いますが、歴代法主全集は全7冊で15万円も
しています。もっと安価で入手する道は有りませんでしょうか?

ちなみに日蓮宗宗学全集は古本の場合全23巻で8万円、新本では11万円でした。

どなたかこれらを安価で購入できる方法がありましたら情報をアップして下さい。

323無徳:2003/10/30(木) 18:08
訂正___東洋堂ーーー東陽堂

324れん:2003/10/30(木) 18:13
無徳さんはじめまして。石山の歴全の第二巻・第三巻はバラで、第一巻は予約で買いました。バラでは一冊二千円くらいです。バラで(店に置いてあるものから)買い足していけば、安く揃えられるはずですm(__)m

325無徳:2003/10/30(木) 19:17
れんさん早速のレスありがとうございます。

そうですか、バラで売っているところがあれば比較的安価で手に入るかもしれま
せんね?

しかし、バラの歴全に出会うのが大変みたいですね(笑)

326犀角独歩:2003/10/30(木) 19:34

324 れんさん:

横レス失礼いたします。
文献の収集においてもここまで懇切丁寧なご教示、敬服いたします。
こうして1冊1冊蒐集された文献をさらに綿密に精読、勘案される姿勢に頭が下がります。

327偽者曲者:2003/11/13(木) 06:14
大石寺の板曼荼羅の結論はこれが正しい
歴代芸花のいうことは絶対なのだ。の富士門日興門流の言い分に100歩譲って
今の花和尚が偽物といったのだから日興門流には偽物のはず。だが、信徒を釣る道具として本物としている。
他日蓮各派は日蓮を本尊としないので論外
学会は信心で拝めばすべてが本尊だから、たとえ身にいけなくても本物の本尊ということになる。
でもただの物だよねこの本尊まったくよそにもとむることなかれただ「キ○○○○○の肉○に・・・」だから信心がないとすべて偽者なんだよね。
どっちに信心があるかは自由に論争してくれ

328日真名氏飛び出す:2003/11/14(金) 00:34
>学会は信心で拝めばすべてが本尊だから、たとえ身にいけなくても本物の本尊ということになる。

日蓮さんは、そんなこといってませんよねえ。
学会も石山も己義によって教学を「作っている」から、そういう考えがでてくるわけでしょう。
どちらも今の日本に存在するのは、うっとおしいなぁ、と思わずにはいられません。

329空き缶:2003/11/15(土) 00:40
空き缶です。久々に書き込みいたします。

話題がチョッとずれますが、身延には多数の「板曼荼羅」があると聞きます。
その中でも、日向上人の「正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」との添書をみる、宗祖真筆曼荼羅の板本尊が宝蔵に厳護されていると聞きます。
直拝したわけではないので、その真偽は不明ですが、この板本尊が実在すれば日法上人彫刻の板本尊(山梨県:妙本寺所蔵)よりも古く、日蓮門下最古の板本尊となると思います。(もちろん大石寺所蔵の通称「本門戒壇の大御本尊」を後世の作とした場合ですが。)

この件に関しまして、皆様のご意見を拝したく存じます。

330求道者、、99:2003/11/15(土) 21:16
 ご参考に大変になりました。 「いかがわしい?本尊紙片が蔓延中」のようですが、、。 教団VS信者という「視点」からは「???」が「最大事、、?」なのでしょうか、、? ?? 「??」、、。

331三学無縁:2003/11/15(土) 21:33
いつまでも「お形木」だけしか授与しない教団はいかがわしいと思えます。
また、いかがわしい信徒であれば「お形木」だけしか授与されなくても当然とも思えます。
しんし、最初から、基本的には「お形木」だけしか授与しないつもりで信徒を増やすという行為や考えは「ぬすっ○猛々しい」としか思えません。

329の空き缶さんのご質問にある、「日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」という、いわゆる「日蓮幽霊本尊」ですが、「幽霊」という言葉は、いつごろから使われはじめたものでしょうか。
わたしは、この板本尊については時代が下るのではないかという気がするのですが。

あと一点、石山の板曼荼羅ですが、本当に「楠」なのでしょうか。上代の誰かが「楠」と書いたからそう思っているだけではないのでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。

332れん:2003/11/15(土) 21:40
空き缶さん。日向師の造立の板曼陀羅は堀日亨師の著作によると、蓮祖図顕曼陀羅の摸刻の様です。非公開ですので、直見出来ないので真偽はわかりませんが、堀日亨師の鑑定が正鵠を得たものならば、大石寺所蔵、伝蓮祖図顕造立の板曼陀羅(通称本門戒壇大本尊)は度外視しても、日向師の造立板曼陀羅は蓮祖門下で最初に板曼陀羅を造立した例として貴重なものであることは論をまたないと存じます。「日蓮宗の本山めぐり」によりますと郷門の富士久遠寺の客殿の板曼陀羅は蓮祖が日法師に命じて彫刻したものとされています。m(__)m

333空き缶:2003/11/16(日) 21:22
三学無縁さん

すみません、お返事が遅くなりました。
「幽霊」という用語の使用開始年代についてのご指摘、ありがとうございます。
詳しくは「わかりません」が正直なところです。

ご存知とは思われますが、日興上人が身延離山の直前に、波木井実長に宛てられた書状に「与波木井実長書」があります。
そこには身延山久遠寺を指して、「上行菩薩日蓮上人之御霊崛也、怨霊悪霊もなたむべし」(日宗全2巻P169)とあります。
この書状は日宗全では「正本富士大石寺に在り」(同P170)と出てきますが、大石寺系の他の文献(興風談所:日興上人全集等)では正本不伝とされています。
このように、真偽のほどは判別できませんが、「幽霊」と「怨霊悪霊」が宗祖滅後に、時間的にそうはなれることなく日向上人・日興上人の御二人によって使われた可能性がある、とはいうことができると思います。

れんさん

小泉久遠寺の板本尊、その真偽についてはいかがでしょうか。ご意見を伺いたく存じます。
同じ郷門の寺院ですが、「日法造立説」にいまいち不信があります。

334れん:2003/11/16(日) 21:38
空き缶さん。小泉久遠寺の板本尊については、「日蓮宗の本山めぐり」以上の資料がありませんし、直見しておりませんので真偽の程は分かりません。まあ、伝蓮祖図顕の板本尊が小泉久遠寺にも伝承されているということを押さえておけばよいと存じます。m(__)m

335空き缶:2003/11/17(月) 12:00
幽霊について、日蓮宗の御僧侶よりご指摘と御教授をいただきました。

『今法蓮上人の送り給える諷誦の状に云く「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云、』(法蓮抄)

『内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、御布施料に十貫まいらせ候乃至あなかしこあなかしこ、御願文の状に云く「読誦し奉る妙法蓮華経一部読誦し奉る方便寿量品三十巻読誦し奉る自我偈三百巻唱え奉る妙法蓮華経の題名五万返」云云同状に云く「伏して惟れば先考の幽霊生存の時弟子遥に千里の山河を凌ぎ親り妙法の題名を受け然る後三十日を経ずして永く一生の終りを告ぐ」等云云、』(内房女房御返事)

336空き缶:2003/11/17(月) 12:04
れんさん

小泉久遠寺は、きっとどの宗派・団体よりも妙本寺を厳しいい眼差しでみていることでしょう。

でも、東光寺や小泉久遠寺は一度いってみたいです。

337寛星:2004/02/10(火) 10:44
はじめまして。
ぜひ、教えていただきたいことがあります。

>84 七師外道さんの投稿ですが、
>相貌は宗祖の筆。
>年号は日興上人の筆。
>弥四郎云々は他筆。
>身延時代は紙幅。
>板に彫ったのは離山後。
>紙幅は重須で盗難にあった。
>以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。

>87
>C富士宗学要集講義録(各受講者による記録)
>84はCより

>89
>講義録によれば、
>重須で盗難にあった20幅の本尊に紙幅の本紙が含まれていた。
>年号の字体は日興上人のものである。

大変、驚きました。
七師外道さんへ、
これはどなたによる記録なのでしょうか?
また、これはどのようなタイトルの講義録なのでしょうか?
もしくは最低でも、その講義録の引用部分の前後も含め、
ぜひ、ぜひ、教えてください。
また、古い投稿でしたので、七師外道さんをご存知の方、どうかお知らせ願います。
また、皆様の中で、この件についてご存知でしたら、どうかご教示願います。
私の知る限りの講義録には、探せ出せませんでした。
内容に驚いているのではありません。
堀上人がこのようなことを言われるはずがないと思っていました。
大変に貴重な、また重大な投稿ですので、どうか教えてください。


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