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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
1431
:
栴檀
:2005/10/07(金) 09:56:27
おはようございます。
犀角独歩さん、昨日はお疲れ様でした。
署名の件ですが、茂田井教亨師は大曼荼羅を書く際に首題の下に自分の名を入れることは絶対にしないと言われていましたし、
また自身が礼拝するにしても、やはり首題下に末師の署名があるものは抵抗があると言われていました。
(最近出ました師の『観心本尊抄を語る』の巻頭に先生自筆の大曼荼羅が載っておりますが、「日蓮 在御判」です)
大曼荼羅の世界は大聖人が感得された世界であって、果たして自分はそうだと言えるのか、というのがその理由だったと記憶しています。
>日親筆の本尊には「日蓮」とするもの、「日親」とするものの両方を見たと話しておりました。
すみません。ここは日親師ではなく不受不施の日奥師です。確かに奥師のものには両方あります。
1433
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/07(金) 17:31:05
「お薦めスレッド」 >320,325 独学徒さん >324 犀角独歩さん
こちらに移して投稿します。
稲田海素師と大石寺との接点に関する資料を拾い出してみました。
稲田海素師の『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)によれば、(一部現代かなづかいに改めました)
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049186&VOL_NUM=00000&KOMA=70&ITYPE=0&L=0
「同(引用者注:明治三十五年十二月)十九日 北山本門寺の檀信にして本と會津藩士森田翁と同道にて大石寺に詣り、始めて執事等に面談し、固く至急に御眞蹟拜照し得る様に取り計ふ事を約し畢て」(113頁)とあり、引き続き「明治三十六年一月十一日 富士大石寺(貫主大石日應上人)より御眞蹟拜照せしむべきに付來山すべき旨の書状に接し (中略) 其日(引用者注:一月十二日)當山(引用者注:伊豆本立寺)を辭し、大石寺に詣る直に塔中の寂日坊を宿舎に定められ、毎朝八時より夜十二時まで五日間録内外の御聖教三十七章を拜照し、外に録内外に漏れたる聖教斷編共に十三章を拜寫せり」(115頁)、「御眞蹟等を拜照せし時、監督の傍ら終始熱心に拜照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山澤在中は勿論、其己後も御遺文拜照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の讀者に代て一言以て之を感謝す」(118頁)、「同(引用者注:一月)二十二日 當山(引用者注:富士大石寺)の靈寶拜見も無事に結了せし故に、午後三時より寂日坊を辭して西山に過ぎり」(127頁)とあります。
つまり稲田海素師の大石寺訪問は、まず明治35年12月19日に北山本門寺信徒森田氏と共に大石寺の執事を訪問して御真蹟の拝写を要請し、明治36年1月11日に大石寺日応貫主より拝写を許可する旨の書状を受領、大石寺で1月12日から5日間、塔中の寂日坊を宿舎に、毎朝八時より夜十二時まで聖教を拝写したというものです。この時見張りをしたのが堀師です。16日に終了したはずなのですが、『日蓮聖人御遺文對照記』では22日に大石寺を辞したことになっていて記録に6日間の齟齬があります。118頁に“五日間”とあることから127頁の「同二十二日」は“十六日”の誤記ではないかと考えます。稲田師が聖教を拝写したのは一月ですからお虫払の時期ではありません。
なお、『日蓮聖人御遺文對照記』の127頁に、明治36年2月19日に稲田師が保田妙本寺を訪問したとの記載があり、「時に下谷常在寺の堀師も見えられたり」(127頁)とありますので、堀師は稲田海素師の保田妙本寺訪問に同行していたことが解かります。
1434
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/07(金) 17:31:49
1433の続きです。
稲田海素師は大石寺塔中の寂日坊で御真蹟の拝写をしていたのでしょうか?
稲田師の大石寺での聖教拝写については同師の「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』(昭和11年、立正大学宗學研究室、111頁))に「思ひ出せば明治三十六年正月十六日に全部調査するまで前後五日間、黎明に床を出で宿所寂日坊から雪を踏んで大石寺へ通ひ、夜は十二時を過ぎてから歸坊したのであつた。容易に他見を許さゞる石山の重寶を、念願叶つて披見を許された喜びに雪中の苦勞も忘れて通つたものである」とありますので寂日坊で拝写をしていたのではないことが解かります。稲田師が大石寺のどこで聖教を拝写したのかは大橋慈譲師の証言があります。「日亨上人を偲び奉る(九) 亨師は、古文書に関心持たれたのは四十歳代からであると聞く、稲田海素師が御書編纂を志され、立正大より大石寺所蔵関係の御遺文を読みに来た。稲田師は、確か、宗務院脇の旧塔中食堂の部屋と聞いた。そこで御宝蔵の御書を一巻づつ持ち出して、一文一句書写された。本山からその番兵の意味を含めて亨師が立会いをさせられ、四六時中相手となった。それから亨師も古文書に関心が出来、爾来御遷化迄五十余年研究されたという」(『佛教思想と富士教学』昭和56年第2版(初版昭和53年)、日蓮正宗佛書刊行会、271頁)というもので“宗務院脇の旧塔中食堂の部屋”で書写をしたという証言です。この“塔中食堂”は『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、251頁)記載の「昭和初期の大坊建物配置図」で確認することができます。この地図によれば宗務院玄関を入ってすぐ右に塔中食堂があります。宗務院玄関を出て東に真っ直ぐ石畳を歩き大書院の前の玄関に入り回廊(屋根付き)をさらに東に進むと太鼓橋を渡って客殿に着きます。ここを左(北へ)に曲がって進むと御宝蔵へとつながります。残念ながらこの客殿は昭和20年6月17日の出火で焼失してしまいました。
当時客殿にはどのような御本尊が安置されていたのでしょうか?文政6(1823)年の日量師による「富士大石寺明細誌」によれば、「客殿正南面、向拝造 間口十四間奥行十二間。(中略)仏壇中央板漫荼羅日興筆の写」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』(昭和53年、創価学会、324頁)とあり、さらに客殿焼失前の昭和14年に雪山書房から発行された『富士宗學要集 第七史料類聚』の268頁(同じ内容が『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(昭和53年、創価学会、202頁)にあります)に「總本山客殿の板本專(引用者注:“專(専)”は“尊”の誤記か)、日興上人御座替本尊彫刻」とありますので客殿の本尊は日興上人御座替本尊を彫刻した板本尊であったことがわかります。蛇足ながら『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(新版)の記載は『富士宗學要集 第七史料類聚』(旧版)を新かなづかいに直しただけで内容は同じです。従って両書とも昭和14年当時の編纂内容であるといえます。このことは『富士宗学要集』の新版(山喜房版・創価学会版)だけを読んでいると気がつきませんので注意が必要です。新版は旧版(雪山書房版)の復刻ではなく改版していますので頁など一致しません。「新旧富士宗学要集所載資料比較対照一覧」は『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、220〜230頁に記載されています。
1435
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/07(金) 17:32:23
1434の続きです。
「日興上人御座替本尊」(紙幅)は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所、46頁)に入集しています。「十六枚継の大幅の御本尊」との記載はありますが、寸法欄は空欄になっています。寸法は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、91頁)に記載があり、丈185.7cm、幅87.5cmとのことです。同書同頁には、「現在、大客殿にご安置の御本尊は、第二十四世日永上人が、宝永三年(一七○六)六月十五日、この御座替御本尊を板に写し奉り、彫刻せしめられた御本尊である」とありますので、焼失した客殿に安置されていた御本尊は永師彫刻の本尊と思われます。昭和20年6月18日付宗務院の通達では、「御寶蔵竝ニ各□□御(本)尊ハ幸ヒ無事安泰ナルヲ得」(『地涌からの通信 別巻①資料編』(1993年、はまの出版、167頁)とあることから客殿の御本尊は焼失を免れたと考えます。
この稲田海素師による聖教の拝写について『大百蓮華 第67号(昭和31年12月号)』に掲載された昭和31年2月25日の「三大秘法と戒壇の歴史 =堀日亨猊下を圍んでお聞きする=」での堀日亨(明治36年当時は堀慈琳)師の証言があります。「稲田のほうは、大石寺にきたことはあつた。唯御書を見にきただけなんだよ。それを堀さんとは兄弟同然につき合つたなんていつているが、親友だなんていうばかなことはない。要求する御書だけは見せたが、御本尊はとうとう見せなかつたなんていつているが、見せものじやあるまいし御本尊を見せてやれるわけがない」(『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、124頁)というもので、これによれば稲田海素師は正式には石山の御本尊を見ていないということになります。稲田師が宿坊の寂日坊から雪の中を移動中にたまたま客殿の中を通り、掲げてあった御本尊を非公式に眺めたようなこともあったのかもしれません。あるいは内々に堀師が客殿の中を稲田師に案内したのかもしれませんが想像の域を出ません。堀師の証言はずいぶんそっけない言い方で、上記『日蓮聖人御遺文對照記』で堀師が稲田師の保田妙本寺行きに同行したことなどを考え併せると事実をしゃべっているとは考え難く堀師と稲田師がかなり親しい関係であったことは間違いないでしょう。
今回の考証で、明治36年1月に実施された稲田海素師の富士大石寺における御書書写の模様がかなり明らかとなりました。私自身ここまで突き止められるとは当初思ってもみませんでした。これも断片的ではありますが先師が証言を残されたお陰であり感謝いたします。
書物というものは、所詮は、先行する文献を集成して成立するものである。架空の人物にしろ、<聖徳太子>のような遠い過去の人物の伝記であってみれば、そのことは避けようがない。とすれば、重要なのは、いかなる目的あるいは理念のもとに、過去の資料を集成し、そのうえに新たな見解を加えて一書をなしたのかということであろう。(大山誠一「『上宮聖徳法王帝説』成立試論」(大山誠一編『聖徳太子の真実』収録、2004年、平凡社、153頁))ということが今回、少し理解できた気がします。
引き続き、稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊はどれであったかなど推論を交えながら考証したいと考えます。
by 彰往考来
1436
:
れん
:2005/10/07(金) 21:26:11
犀角独歩さん
>1430
>首題下に日蓮と記さず、自分の日号を記すことは広く行われていますが、しかし、日蓮と書く例もあります
私も彼の有名な行学院日朝師の曼陀羅において経題の下「日蓮在御判」と「日朝(花押)」の両方の書式のものを拝見したことがあります。
日興上人御本尊集には未収録なので、興風談所では存疑扱いだと思いますが、静岡県史通史編に日興本尊として写真が掲載されている北山本門寺蔵・正応二年十月十三日、周防房授与曼陀羅には「首題・南無日蓮聖人・日興(花押)」でこの本尊には「書写之」はありません。日興上人御本尊集に入集している讃岐本門寺蔵・正応三年十月八日、僧日仙授与曼陀羅は「首題・日蓮聖人」で「書写之」がありません。蛇足ながら、奉蔵於奥法寶の付録「日興門下御本尊集」に写真掲載の北山本門寺三世日妙の康永三年三月十三日の曼陀羅は「首題・日蓮聖人在御判」で「書写之」がありません。これらの点から、これら日興門下諸師は日興初期の曼陀羅(存疑とおもわれる周防房授与のものはのぞいても)の書式形態を継承したとも言えるかもしれません。いずれにしましても、この件につきましては、独歩さんのご指摘を踏まえて考えていく所存です。
話は別の板になりますが、わたしも、松山俊太郎師の御講義を拝聴したい望みがあります。というのも、私が学会員だった時、「法華経とシルクロード展」があり、そこで展示されていたロシア科学アカデミー所蔵のペトロフスキー本やその他のサンスクリット仏典の写本・影本を見たことがあり、私は外国語はまるきしダメ(日本語すらあやしいですが)なので、梵語はまったくダメですが、こっちの方にも興味があります。先程、ケイタイからですが瓔珞出版の方にメールしましたが、もし、よろしければご高配を賜れば幸甚です。
1437
:
独学徒
:2005/10/08(土) 02:12:43
彰往考来さん、
>稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊
是非ともこの件に関しての、御所論を拝したいと存じます。
今後の御投稿も注目させていただきます。
1438
:
犀角独歩
:2005/10/08(土) 05:07:24
栴檀さん
訂正、有り難うございました。
昨日の講義もたいへんに興味深いものでしたね。
わたしは終電ギリギリでしたが、二次会も実に有意義でした。
茂田井教亨師の漫荼羅図示のお考え、実に頷けます。
石山下では、漫荼羅‘書写’は「法主一人の権能」とかいって、この件に関しては思考停止を強いられています。そのために、日蓮聖人の真筆大漫荼羅ですら、他山にあれば、拝観も謗法という暴挙です。まったく何を考えているのやらと、脱してみれば溜息が出ます。こんな下らないタブーは捨て去って、どんどん、この件も考えてまいろうと思います。よろしくご教示ください。
彰往考来さん
ご投稿、たいへんに参考になりました。有り難うございました。
独学徒さんと同じく、続きを楽しみにしております。
れんさん
「周防房授与曼陀羅」、これは実に興味深いですね。
れんさんがご覧になって、日興筆と思えますでしょうか。
松山師講義でお会いできますね。師は世離れした仙人のような方で、いつも浴衣の着流し。ネコが嫌いで、それとは反対に大好きなものがあります。講義中でも、ところ構わず、その名称を口走りますので、最初は吃驚しますが、何度か、お会いする内に慣れます(笑)
1440
:
犀角独歩
:2005/10/08(土) 16:49:35
彰往考来さん
独学徒さん
1435の『大白蓮華』第67号(昭和31年12月号)記載は、日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の
「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対象の為大石寺に赴いた時これ(板本尊)を見ることが出来たが真赤な偽物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具現の者には絶対に見せぬように秘匿している始末である」(P23)
と対応するものでしょう。この本の出版は昭和30年7月28日ですから、慌てて堀師まで担ぎ出して、事実を枉げたというのが、彰往考来さんが引用された該当記事掲載の裏事情ということでしょう。
また、いわば、これが秘蔵厳護の正体であって、稲田師に偽物と言われたあと、宗外開帳を逃げ回り、具眼(=漫荼羅鑑識能力を持つ人)から遠ざけるために、さらに本尊の写真撮影掲載を禁じる策を弄したと言うことでしょう。それが証拠に、何より明治44年の熊田本、また、続く荒木本には堂々と彫刻本尊の写真が掲載されていたわけですし、初期の『富士宗学要集』には本尊の写真は掲載されていました。何より、ここで何度も議論されているように立正安国会『御本尊集』には「紫宸殿」本尊をはじめ、他2幅の石山蔵漫荼羅が掲載されているわけです。また、戸田さんを写した講義風景の後ろには学会常住本尊が写ったまま、掲載されたことは夙に著明なことです。また、『人間革命の口絵に「戒壇本尊」を描き、そのままで正座し、頭を垂れた「戸田城聖」を描かれたのは既に出回ったものでした。もし、写真撮影等が謗法というのであれば、堀(日亨)師も、聖教新聞も、謗法ということになるでしょう。
いま、本尊の写真撮影が謗法である、秘蔵厳護されてきたと信じ込まされている現信者は、当時を知る石山僧も、創価学会幹部にとって、周知のことであったという事実から、なぜ「写真撮影厳禁」「秘蔵厳護」が、あたかも昔からであったと捏造されていった経緯を斟酌して冷静に判断してみることです。
1441
:
犀角独歩
:2005/10/08(土) 20:21:23
どうも、投稿するたびに訂正する悪習ははやく脱しようと思いながら、いつもだめです。恐縮です。
【1440の訂正】
誤)具現の者
正)具眼の者
なお、「これ(板本尊)」は()内はわたしが補ったものです。
1442
:
れん
:2005/10/09(日) 02:16:44
犀角独歩さん
>1438 「周防房授与曼陀羅…日興筆と思えますか
そうですね、この曼陀羅の首題の下、南無日蓮聖人・日興(花押)という際立った特徴以外は、勧請諸尊の座配・不動・愛染の筆致等は僧日仙授与の曼陀羅・山梨正法寺蔵の正応年間の曼陀羅と同じ特徴を有しているのですが、どうでしょうか。写真を見たかぎりでは真筆のようにも思えます。しかし、筆致がきれいすぎるようでもあり、真偽を決するのは保留といったところです。この曼陀羅が日興真筆ならば、日興にも、初期には通日蓮門下の曼陀羅の書式があったということになるのでしょうか。
>松山師講義
私の如き弱輩の門外漢が、松山先生のご講義を拝聴させていただく機会を与えられるとは、全く望外の慶びで、大変光栄に存じます。テキストは岩波版でしょうか?私は梵語に関する知識は全く「真っ白」で、残念ながら松山先生の御講義のすべてを理解する能力は全くありませんが、初学の者なりに、自分の分かる範囲でしっかり学ばせていただこうと存じます。
いやはや、いまから緊張しております(笑)
1443
:
犀角独歩
:2005/10/09(日) 09:20:55
れんさん、日興本尊につき、ご教示有り難うございました。
わたしは石山の信念体系にいた頃は、日蓮は確たる本尊書写を唯受一人に相伝したという神話を真っ向から信じていたのですが、そんな無知蒙昧だった自分を思い出すに気恥ずかしくなります。
最近は残念ながら、お出でにならない空き缶さん、そして、れんさん、さらに彰往考来さんのご参加を得て、それが、飛躍的に正鵠を得た議論となっていきました。
しかし、議論されていることは、日興とその直弟ということに限るわけですが、それでも、日興ですら、確たる相伝に基づいて漫荼羅書写したのではないことが朧気ながら、見えてきたことは大きな成果であったと思えます。
松山師、法華経講義のこと、書き忘れましたが、仰るとおり、テキストは岩波文庫版『法華経』を使用されています。
わたしも梵語の知識がなく、実にそんな自分を歯がゆい思いながら、師の講義を拝聴しています。ただ、そんな緊張なさる必要はありません(笑)
1444
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/10(月) 07:42:33
犀角独歩さん
>1440 日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の
「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対象の為大石寺に赴いた時これ(板本尊)を見ることが出来たが真赤な偽物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具現の者には絶対に見せぬように秘匿している始末である」(P23)
今、ちょっとこの件の考察が壁にぶつかっていて止まっていまして、それはまさしくこの文章のためなのです。私自身この内容の記憶があったのですが、残念ながらこの本(もしくはコピー)を所蔵していないため確認できずにいました。今回、そう、これこれ!と確認できましたので再度、考察を練り直します。ありがとうございました。
1445
:
犀角独歩
:2005/10/10(月) 09:50:55
彰往考来さん、あとでコピーを送っておきます。
考察が止まってしまっては、わたしどもにとっても、大きなマイナスとなり、大問題ですから(笑)
1446
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/10(月) 11:13:37
>1445犀角独歩さん
ありがとうございます。学恩に感謝します。
彰往考来
1447
:
独学徒
:2005/10/10(月) 12:55:25
犀角独歩さん、
>宗外開帳を逃げ回り
それだけ稲田師の言には重みがあったのでしょうか。
議論の蒸し返しで恐縮ですが、私は稲田師が「これ」を見た場所が、「御宝蔵」であったのか「御影堂」であったのかが気になります。
余談ですが京都要法寺では、現在の「開山堂」は、過去には釈迦像を安置した「本堂」(釈迦堂)であったわけですが、今は仏像を宝蔵へ遷座し、それまで客殿にあった「日尊上人尊像」を安置して「開山堂」にしました。
それにあわせて、それまでの「祖師堂」を「本堂」と呼称するようになります。
これらはその時々の教学解釈によって、変化・変更されるものと思いますが、大石寺でも「御影堂」には「本門戒壇本堂」の棟札があることから、御影像を安置するよりも「本門戒壇之大御本尊」を安置することが正しいという教学解釈が当時あり、御影像がどこかに遷座され「本門戒壇之大御本尊」が奉安さるということも考えられるのでしょうか。
「本門戒壇之大御本尊」が「御影像」のお色直しの間の、代替であったということだと、当時の「本門戒壇之大御本尊」の価値が、「御影像」より下ということになりまねません。
すみません議論が脱線してしまいました。
1448
:
独学徒
:2005/10/10(月) 12:59:21
訂正です
誤
>「本門戒壇之大御本尊」が奉安さるということ
正
変わって「本門戒壇之大御本尊」が奉安されるということ
失礼しました。
1449
:
犀角独歩
:2005/10/10(月) 14:21:03
独学徒さん
稲田師の発言は重かったでしょうね。まして、そこに例のO師も加わっているわけですから。
> 大石寺…「御影堂」…「本門戒壇本堂」の棟札…、御影像を安置…「本門戒壇之大御本尊」を安置…正しい…教学解釈が当時…御影像…遷座…「本門戒壇之大御本尊」…考えられるのでしょうか。
事実は逆でしたね。宝蔵にしまわれたのは「戒壇本尊」のほうでした。
> 「本門戒壇之大御本尊」が「御影像」のお色直しの間の、代替…当時の「本門戒壇之大御本尊」の価値…「御影像」より下ということになり
そのような解釈は成り立つかも知れませんが、仮に実際、そのようなことが為されていたとしても、それほど、深くは考えていなかったのではないでしょうか。
先に見てきたとおり、「広宣流布の暁まで秘蔵厳護」など、かつては御開帳の有り難さを増すキャッチ・フレーズ以上の意味はなく、現代では、稲田師の言に慌てた窮余の策以上の意味を持っていません。
いずれにしても、石山伝説では、「戒壇本尊」、御影像、「最初仏」は、同じ1本の楠から造られたことになっていますから、御影像を軽く扱うことは、ひいては「戒壇本尊」不敬になるというロジックが存するとは思います。また、御影信仰は、既に日興にその起源が見られるわけです。
1450
:
独学徒
:2005/10/11(火) 22:49:19
>1447
さらに訂正箇所がありました。
誤・・・「御影像」より下ということになりまねません。
正・・・「御影像」より下ということになりかねません。
失礼しました。
犀角独歩さん、教えてください。
>宝蔵にしまわれたのは「戒壇本尊」のほうでした。
「本門戒壇之大御本尊」は、宝蔵内でも「厨子」内に安置され、御開帳ができる状態でしまわれていたものと思われますが、宝蔵⇔御影堂(本堂)の移動は、本門戒壇之大御本尊のみであったと思われますか?それとも厨子ごと移動されたと思われますか?
通常、御影は宮殿厨子の中に安置されますが、御影の無い宮殿厨子内の板曼荼羅部分のみの移動・安置なら、厨子扉よりそれなりに奥行きがある場所へ安置されていることになります。
厨子扉のすぐ内側に、「本門戒壇之大御本尊」があるということは、厨子ごと移動しているか、「本門戒壇之大御本尊」が半丸太のような感じで奥行きのある板曼荼羅であるかのどちらかではないかと思われます。
私は厨子ごと移動したと思うのですが、この点御教示いただけますと幸いです。
1451
:
犀角独歩
:2005/10/12(水) 07:12:11
独学徒さん
> 通常、御影は…どちらかではないかと思われます
と仰る意味が、よくわからないのですが、わたしなりの考えを記します。
日精が本門戒壇堂を造立し、当初、「戒壇本尊」を御影像の後ろに奉安したのにも関わらず、その後、これが宝蔵に移された…
当初、このことを考えるとき、わたしも、この「戒壇本尊」はいまの半丸太のものであると考えました。となると、後ろに半丸太、手前に御影像ということは、どのようなことを意味するのか、この本尊は「横弐尺壱寸七分」というわけで、大雑把な表現ですが、そうなるとその直径の丸太1本が収まる厨子だったのか?ということになりますね。しかし、実際のところ、堂の宮殿・厨子の様はどうでしょうか。
ここでわれわれは、細井さんの談から彫刻は半丸太という固定観念で考えてしまっているわけです。つまり、“今の”彫刻本尊はそうかもしれないが、当時も、そうであったとは限らないわけです。既に見てきたように、完則、日憲の諸文書から考察するに、今の彫刻本尊の製作は近代に属し、数世代目のものであろうと考えられるわけです。
わたしは、「本門戒壇堂」の厨子の寸法というのはわかりませんが、御大会で開いて御影像を見た記憶を辿ると、背にしたあとから取り替えられた板本尊というのは、彫刻本尊より小さいように思うわけです。そんなことから、腰書の部分というのは、接いであるという話は「ああ、なるほど」と思ったわけです。それぐらいの高さなら収まるだろうと思えたからです。しかし、「戒壇堂」から出してしまうと、何のゆかりの本尊かわからない、そこで、宝蔵に移した段階で、「本門戒壇」と腰書が彫られた台座に据えてはじめて、「戒壇本尊」と成り得たのではないのかという類推です。
波木井日円の嫡男が弥四郎国重と考えており、かつ、「身延本堂の漫荼羅」、「戒壇本尊」だという、三つの条件を満たす腰書に据えれば、どんな本尊でも戒壇の本尊になるという便利さです。まあ、接いでないというのが石山の話らしいですが、一体であっても、この三つを書けば、伝説が満たされることに変わりはありません。しかし、その本尊が、日精の時代から、今に至るまで何度も代わっているというのが諸文献を付き合わせて考えられるところです。これは半丸太でしょうか。二寸厚の板であったと思います。
以上はあくまで、推測に過ぎませんが、となれば、厨子ごと移す必要はなかったと思います。
関係するかどうかわかりませんが、石山当たりでも、昭和20年代から30年代には、漫荼羅は殊更、厨子に収めていなかったという話は聞きました。
なお、これは諸記録を当たって記すことではありませんが、この“板”本尊は、多人数の御開帳の際には、御影堂に仮奉安されて、事に充ててきたということはないでしょうか。板ならば、移動はさほど、難儀ではないでしょう。また、このための御前立本尊があっても不思議ではありません。
金沢信徒の抜け詣りのように宝蔵の石畳で御開扉・遙拝したのか、徳川多くの人々がいつまで詣っていたかしりませんが、将軍に係る人々を宝蔵前の石畳に座らせたとは、とても思えません。御開帳の際は、身分に見合った場所で拝ませた…と考えれば、「本門戒壇堂」こと、御影堂しかないように思えます。
まあ、これも記録を見たわけではありませんので、憶測の域は出ませんが、強ち外れたことではないと思えます。
皆さんのご意見も聞いてみたいと希望します。
1452
:
独学徒
:2005/10/12(水) 11:25:57
犀角独歩さん、
>通常、御影は・・・
これは西山や保田などもそうですが、御影が奥行きがあり、屋根のついた御輿のような厨子に入っていることを書いたつもりです。
http://www.ryukouji.com/syodou/daihondou.html
昨年、石山僧侶方は「御影堂全景」といわれましたが、御影の写っていない「御影堂全景」写真に疑問を持っていましたが、大分整理がつきました。
有難うございます。
1453
:
犀角独歩
:2005/10/12(水) 14:20:43
独学徒さん
> 御影…屋根のついた御輿のような厨子
宮殿(ぐうでん)のことをおっしゃっているのでしょうね。
漫荼羅とは別に御影像だけを入れるものは、たしか御影厨子といったのだと思います。
以下サイトに「即位礼正殿の儀(宮殿 松の間)」の写真がありますが、要は、このような天子の殿堂を模したものでしょう。
http://www.kunaicho.go.jp/01/d01-12.html
また、須弥壇という台の上に載ることは、インドの宇宙観のその中心地、須弥山に建つ宮殿に日蓮が常住するというコンセプトに基づくのでしょう。インドの天子の宮殿を模したということになるのでしょうか。しかし、日蓮の教学的視姿勢からいえば、霊鷲壇といったほうが相応しいと思えます。これは余談ですが。
1454
:
パンナコッタ
:2005/10/12(水) 17:41:03
横レス失礼します。
>1453 の写真は高御座と御帳台ですね。 参考として少し大きな画像を、
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-08.htm
よりイメージがつかめると思います。
1455
:
独学徒
:2005/10/13(木) 11:50:07
犀角独歩さん、パンナコッタさん、有難うございます。
「紫辰殿」の文字が印象的ですね。
1456
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/13(木) 18:11:52
1435の続きです。
さて、『板本尊偽作の研究』(発行年不詳、本門社)での木下日順師による稲田海素師の証言は下記のとおりです。
「近代の学僧、稲田海素老師は宗の内外を問わず古文書鑑定の最高の権威であるが、編者(引用者注:木下師)が板本尊についておきゝしたのは左の如くである。先師云く『板本尊は、宗祖の御真筆を摸写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直観した。板本尊の原本は確に、御真筆である。』尚その上に老師は云つた。『板本尊は、四つの部分に分けて考察すればよい。十界座配の部、日蓮花押の部、佛滅後二千二百余年(引用者注:ママ)と云う讃文の部、為現当二世造立如件云云の製作縁起この四つの部分に分けて考えればよい。第一の十界座配は勿論、御真筆、第二の日蓮花押も原本は御真筆であるが、第一の十界座配の原本とは違う。他の曼荼羅の日蓮花押を模写したのだ。即ち十界座配の原本と日蓮花押の原本とは、模写した御曼荼羅が異なるのだ。宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。そして第三の仏滅後二千二百余年という讃文と、第四の為現当二世云云の製作縁起は、宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である』と。」(『板本尊偽作の研究』38頁)
この証言からいえることは、稲田海素師は大石寺の客殿に入っていて、そこで恐らく紙幅の蓮祖御本尊を拝見しているということです。しかしながらこの証言からは稲田師が戒壇本尊を直接拝見したかどうかは解からないと考えます。上記のようないわゆる“よせもの”として考えるコメントは戒壇本尊写真を見ながら詳細に解析しないとできないもので、少し拝観してもできるものではありません。私自身奉安殿や正本堂で数回御開扉を受けたことがありますが、数回程度の拝観ではとても判定しうるものではないというのが実感です。これは松本氏が「写真にとらなければ分析ができない」(『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版昭和43年)、大成社、207頁)とあるとおりで、上述の木下師による稲田師の証言はどうも写真判定によるもののようです。
稲田海素師の戒壇本尊に関して松本佐一郎氏の記述があります。『富士門徒の沿革と教義』(392頁)に「稲田海素老師が曾て人にあれは偽筆だと話したさうだが、その理由は何も言って居られぬし、又高田聖泉居士の所で老師の筆写だといふものを見せてもらったが、これは座配遥に実物より簡略で到底臨写とは思へない。これが稲田海(引用者注:ママ。“素老師”が脱落しています)の筆に間違無いとすれば老師の判断もあまり信はおき難い」というものです。
つまり松本氏の記述内容が正しいとするなら稲田海素師が所有していた戒壇本尊の座配図(仮に“稲田図”とします)は実物より簡略なものであったということです。いつ松本氏が高田聖泉氏のところで見たか定かではありませんが、松本氏は昭和39年に49才で死去しています。松本氏が『尋勝論』を著わし国柱会を批判したのが昭和32年ですから、稲田海素師が所有していた戒壇本尊の座配図を松本氏が高田氏のもとで見たのは恐らく昭和30年より以前であろうと推測します。
1457
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/13(木) 18:12:28
1456の続きです。
これら『板本尊偽作の研究』と『富士門徒の沿革と教義』の二つの証言について御本尊に関する資料などを比較検証してみましょう。二つの証言内容が正しいというのが前提です。
まず稲田海素師が客殿の中で見たとされる原本の御本尊とは何を拝したかです。稲田師は「十界座配の原本と日蓮花押の原本とは、模写した御曼荼羅が異なる」と述べているわけですから原本が二幅あると指摘していることになります。
当時富士大石寺に所蔵されていた蓮祖御真筆とされる御本尊は旧版の『富士宗學要集 第七史料類聚』(昭和14年、雪山書房)の本尊脇書等に入集している総本山(大石寺)所蔵紙幅の蓮祖御本尊が該当し全部で6幅です。これには山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)にて明らかなとおり2幅の脱漏がありますので合計は8幅、うち弘安年間のものは6幅です。この弘安期6幅を列記します。括弧内は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、88頁)に記載された御本尊の寸法です。
(1)弘安2年8月18日沙門佑盛授与御本尊(丈一一○センチ 幅五三センチ)
(2)弘安2年11月本門寺重宝(俗日増授与)御本尊(丈四九センチ 幅四一センチ)
(3)弘安3年3月日紫宸殿御本尊(丈九五・五センチ 幅五○・五センチ)
(4)弘安3年5月26日沙門民部日向授与御本尊(丈八八・五センチ 幅四八センチ)
(5)弘安4年9月日俗守常授与御本尊(記載なし)
(6)弘安4年12月日優婆夷一妙授与御本尊(丈五一センチ、幅三二センチ)
ここで(3)が『御本尊集目録』の第82番本尊、(5)と(6)がそれぞれ、第111番本尊、第116番本尊で、『富士宗學要集 第七史料類聚』に入集していません。また(1)と(4)はなぜか『日蓮正宗史の基礎的研究』に入集していません。
さて、木下師は『板本尊偽作の研究』40頁で(2)の日増授与本尊が原本であり、その日蓮花押が小さいので(3)の紫宸殿御本尊の日蓮花押を使ったと推測していますが、(2)は恐らく1紙の小さい御本尊であるためこの考えは否定されるでしょう。
(5)と(6)は弘安4年ですから時期的に該当せず外すことができると考えます。
そうすると消去法では(1)、(3)、(4)が該当する可能性があるということになります。
残念ながら情報がないのでこれ以上のことは言えませんが私は紫宸殿御本尊を見せたのではないかと思います。(1)と(4)は写真が公開されていないので判断できないのですが、『日蓮正宗史の基礎的研究』に入集していないことから御真筆ではない可能性が濃厚で稲田海素師のような御真蹟に拝しているような人に拝観させるのは問題含みであるからです。もちろん当時そこまで判断されていたかどうかは解かりません。それに対して(3)の紫宸殿御本尊は堀師が「紫宸殿の御本尊は、弘安の本尊の中では立派ですよ。お山に正筆が澤山ありますけれどもね、紫宸殿の御本尊ほど立派なのはないですよ」(『堀日亨上人 富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、99頁)と述べているとおり、当時の大石寺所蔵御本尊の中で一番見栄えのする御本尊であったと思われるからです。ただお虫払いでもない時期に客殿の中に安置してあったのか疑問もありますが当時の事情は不明です。
稲田海素師が戒壇本尊を見たかどうかについて、引き続き投稿します。
by 彰往考来
1458
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/14(金) 04:09:50
1457の続きです。
稲田海素師は戒壇本尊を見たのでしょうか? 稲田師自身は自著や論文で大石寺の御本尊を拝見したとは述べてはおられないので、周りの証言から類推するほかありません。
稲田海素師が明治36年には戒壇本尊を見なかったという資料があります。確実ではありませんが、安永弁哲氏の『板本尊偽作論』(1989年(原著の初版は昭和31年)、鹿砦社、185頁)には、「明治三十六年暮から三十七年初頭にかけて、御真蹟研究の第一人者たる稲田海素先生が、北山本門寺の御書類の調査の直後、大石寺所蔵の御書類の対照調査に出向かれた際=正宗唯一人の学僧たる堀慈琳(今の日亨)師は、当時東京言問(こととい)の乘泉寺住職で、稲田先生の研究の同道を懇請(こんせい)し、許されて助手的立場で、調査に協力したものだが=古来から伝はる御真筆類は、凡て進んで拝写せしめた大石寺当局も、こと楠板本尊の件となれば、金輪際拝写させようとしなかったのみならず、堀師すらこの御本尊問題については、一切触れようとはしなかった」とあります。
この証言は安永氏が稲田師と面識があったはずであろうことを考えあわせると重いものがあり、『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、124頁)での「御本尊はとうとう見せなかつた」との堀師の証言と一致することから稲田師が明治36年に戒壇本尊を見なかったと類推できます。
なお、安永氏の記述には枝葉ですが齟齬があります。稲田師の『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)によれば調査は明治36年の一月であり暮れではありませんし、同書に「下谷常在寺の堀師」(127頁)とあるように当時堀師は乘泉寺(“常泉寺”の誤記と思われます)住職ではなく東京常在寺住職でした。『富士年表』(昭和57年、富士学林)に、「明治34年 5.20 日亨 東京常在寺住職となる(院822)」とあり、「明治38年 9.18 日亨 東京常泉寺住職となる(院132)」とあることから稲田師の記述が正しいことがわかります。安永氏の「御真筆類は、凡て進んで拝写せしめた大石寺当局」という表現も、稲田師の「容易に他見を許さゞる石山の重寶を、念願叶つて披見を許された喜びに雪中の苦勞も忘れて通つた」という「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』(昭和11年、立正大学宗學研究室、111頁))の記述のほうがより実態を表していると考えますので、この点は念のため記しておきます。
もし応師の許可により戒壇本尊を見たのであれば、その事実を秘匿するにしても少なくとも謝辞を『日蓮聖人御遺文對照記』などに記しておいたはずではないでしょうか。しかしながら堀慈琳師への謝辞はあっても応師への謝辞はありませんのでやはりこの時には戒壇本尊を見ることはできなかったと考えるべきと思います。
1459
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/14(金) 04:10:46
1458の続きです。
しかし、それに対して稲田海素師が明治36年に戒壇本尊を見たという資料もあります。
金子辨淨編『創価学会批判』(昭和30年、日蓮宗宗務院)には
「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対照の爲大石寺に赴いた時これ(引用者注:戒壇本尊)を見ることが出来たが眞赤な僞物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具眼の者には絶対に見せぬやうに秘匿してゐる始末である」(23頁)
とあり、稲田師が御遺文調査のため大石寺に赴いた時に見たという証言で、これは明治36年の大石寺の御遺文拝写がこれにあたるでしょう。これと同じような証言は他にもあります。尾谷卓一編『創価学会の罪悪』(昭和39年日蓮宗出版社、126頁)には北山本門寺貫主・片山日幹師の証言を記載しています。そこには
「実は私(引用者注:日幹師)もこれ(引用者注:板本尊)を拝みたいと思っていたのです。私が北山本門寺に入寺いたしました当時は、大石寺の管長、堀日亨師とは親しくおつきあいをしておりました。私の山へもしばしばこられて、私の山の宝物をみせてあげたり写真まで撮らせてあげたものでした。この堀師に私は「大石寺の宝物もぜひ一度見せてもらいたい」といったところが「あんたには見せぬというわけにもいかぬ。しかし大石寺の信者でなければ見せないということになっているから、あんたが法服でこられては困るから俗服を着てきてくれ」といわれたのです。私は坊主に俗服を着よとはショックだからあえていかなかったのです。そのためにとうとう私は板本尊の実物を見ることはできなかったのです。幸いにして聖筆鑑定の最高権威稲田海素先生は、堀師と仲がよく、あそこのご遺文をみな対照しておられますが、その時に板本尊を見られたというので「どうでしたか」と聞きますと「ありゃあ、真赤なニセモノだよ」といっておられました」
とあります。
『創価学会の罪悪』には引き続き片山師の弁で「堀師はこのように時々正真なことを口にするので、創価学会では大石寺の近くに立派な隠居所をつくって、そこに軟禁しこうした自由なことをいわせないようにしてしまったのです」(127頁)とありますが軟禁(口封じ)が事実であるなら、それを実行したのは創価学会ではなく、金子辨淨編『創価学会批判』に「石山では老師(引用者注:堀老師)と他門との交渉を喜ばず、昨年靜養を乞ふのを口実として畑毛の雪山莊から大石寺境内に隠居所を作つて老師を移し外部との交際の出来ぬやうにしてしまつたのは眞に残念である」(29頁)とあるように石山(日蓮正宗)だと思います。
さて、日蓮宗宗務院発行の金子辨淨編『創価学会批判』における稲田海素証言に対する創価学会の反論は以下のとおりです。
「稲田海素老が大石寺へ行って実物調査した結果、「真っ赤なニセものである」といっているということだ。彼らの書くことであるから、はたして、稲田が真っ赤なニセものだといっているのかどうかまだわからない。しかしまた、稲田がニセものだと断定したところで、それは何の理由にもならない。もし稲田は、本当に大石寺で心から大御本尊を拝したのであるなら、日憲の誤記も訂正しそうなものだし、身延派の連中も、もっと稲田からくわしいことを聞いて、天台・章安云云のような恥さらしをしなくてもよかったであろう。この事実を見ても、稲田の実物調査云云の記事は、妄評のうわぬりであり、何の根拠もないことが明らかになるであろう」(『日蓮正宗創価学会批判を破す』昭和37年、鳳書院、29頁)
1460
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/14(金) 04:11:36
1459の続きです。
『日蓮正宗創価学会批判を破す』での“彼らが書く・・・まだわからない”との指摘ですが、ここで言いたいことは「真っ赤なニセものである」というのは稲田海素師自身が直接書いたものではないので真相はわからないということでしょう。確かに「○○がこういった」というのは伝聞や著者の考えが入る場合があるので資料としては一級ではありません。(すると「如是我聞」で始まる経典は二級資料ということに・・・。)
次の“もし稲田・・・”の箇所はちょっといただけないと思います。仮に稲田師が戒壇本尊を見たとしても自分自身の発言ではない日憲の誤記を正す必要があるわけではなく、それをもってして、“妄説のうわぬり”とか“何の根拠もない”とはいえないはずです。
稲田師自身は『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)や「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』111頁)などで戒壇本尊には言及していませんので上述の証言は一級資料ではないことは事実です。従ってこの記事を持ってして稲田師が戒壇本尊を見たというのは早計でしょう。しかし、記事の内容からは稲田海素師が戒壇本尊を見たことを強く示唆はします。
片や戒壇本尊を見なかった(見せなかった)という資料がある一方で見たという資料があります。これはどういうことでしょうか。どちらか片方が真実を現していないというのが普通の考えでしょうが、それにしては双方の証言とも真実味があります。私は稲田師は明治36年の調査の際は戒壇本尊を見ることができなかったものの、その後、例えば堀師が法主であった大正15年(昭和元年)から昭和3年の間などに見る機会があったのではないかと推定しています。というのも明治36年以後で大石寺の戒壇本尊が他門徒に公開された事実があるからです。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、101頁)には『大日蓮』(昭和十年三月号)の「日布上人をしのび奉りて」という一文「ある時姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあつた。上人の御導師で戒壇の大御本尊の御開扉、終りて徐ろに參詣者に向直られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、佛祖三寶も御滿悦のことゝ存ずる。― 各々が無始以来の罪障消滅現當二世の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南無妙法蓮華經 ― 』と一拶された」(『大日蓮』昭和十年三月号)を引用し、日布師が東京帝国大学教授姉崎正治博士、国柱会幹部の山川智応氏、長瀧智大氏らに「戒壇御本尊の御開扉」を受けさせたという事実を紹介しています。時期については「この御開扉がおこなわれた年月を特定するのはむずかしいが、推測すれば、国柱会が結成された大正三年から日布が死去した大正八年の間ということになるだろう」(『地涌からの通信 別巻②歴史編』103頁)としています。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/10/355.html
ここで「姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生」の箇所で“等”が記されているので他にも参加者があったことが示唆され、あるいはこのとき稲田師もいた可能性もあるのではないかと考えます。
1461
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/14(金) 04:12:24
1460の続きです。
この記事で記載された姉崎博士らへの御開扉が明治45年の熊田氏の『日蓮上人』による戒壇本尊写真の公開以後であることは非常に大きな意味を持ちます。私自身はスレッド1347〜1350にて投稿しましたように、戒壇本尊は慶応元(1865)年の大石寺大火で焼失あるいは損傷し、明治41年に法道院に奉蔵された禅師授与漫荼羅を基に再造されたと考えていますので、この記事は時期的に矛盾しません。それに対して明治36年に戒壇本尊を稲田師が見たとすると時期的に矛盾するのです。もし明治36年に戒壇本尊を稲田師が見たとするのが真実であるなら、明治41年頃の再造説は瓦解することになりますが、上述のとおり明治36年には見なかったと考え得ることから再造説の瓦解はないでしょう。明治36年には見せようにも見せられなかったというのが実態だったのではないでしょうか。
最後に稲田師が持っていたという戒壇本尊の配座図です。 「高田聖泉居士の所で老師の筆写だといふものを見せてもらったが、これは座配遥に実物より簡略で到底臨写とは思へない」という松本氏の証言から、稲田師は座配の欠ける相貌のものを持っていたということが解ります。この“座配の欠ける相貌”がキーワードです。木下師の『板本尊偽作の研究』に紹介されている座配図(以下、木下図と略します)はまさに欠けている諸尊があるのです。具体的には木下図と戒壇本尊(彫刻本尊)を比較しますと、木下図は大六天魔玉、轉輪聖玉、阿修羅玉、大龍玉、竜樹菩薩、妙楽大師の6尊も欠けています。(犀角独歩『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』(平成16年、瓔珞出版事務局、93頁) 木下図と第82番本尊(紫宸殿御本尊)との比較では、木下図は大六天魔玉、轉輪聖玉、阿修羅玉、大龍玉の4尊が欠けています。竜樹菩薩、妙楽大師の2尊は第82番本尊(紫宸殿御本尊)にもなく、逆に第82番本尊(紫宸殿御本尊)は大明星天玉が欠けています。
松本氏が高田聖泉氏のところで見た“座配の欠ける相貌”すなわち稲田図と『板本尊偽作の研究』記載の木下図が同じものであるかどうか解かりませんが同じである可能性は高いと思います。木下図が世に出る前に松本佐一郎氏が稲田図を見たとするなら、ひょっとしたら木下図と稲田図の出処は同じかもしれません。以前スレッド1361で『板本尊偽作の研究』は昭和39年頃の執筆と推定しましたが、松本佐一郎氏は昭和39年9月に死去していますので、木下図が世に出る前に稲田図を松本氏が見たのは間違いなさそうです。この木下図の情報源は日蓮正宗のO師との情報があります。また『地涌からの通信 別巻②歴史編』254頁によると、安永弁哲氏の『板本尊偽作論』も情報源はO師との話ですから、
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/18/680.html
あるいは稲田図の情報源もO師であったかもしれません。O師は昭和30年に死去(『地涌からの通信 別巻②歴史編』1993年、はまの出版、276頁)していますし、稲田海素師も昭和31年に死去しています。安永氏の『板本尊偽作論』の初版は昭和31年ですから、安永氏、木下師、稲田師とも昭和20年代にO師より資料や情報を得たとすると辻褄はあいます。あるいはもっと昔であったかもしれません。
しかし情報源がO師であったとして、なぜO師が不完全な戒壇本尊図を渡したのでしょうか。O師は正宗僧侶でしたから間近で戒壇本尊を何度も見ていたはずなのです。これは推測するしかないのですが、O師も正宗僧侶の端くれとして真実を明かさなかったのか、ガセネタで金儲けをした(ガセネタであればばれたときも正宗宗務院に対して言い訳がつくからでしょう)か、元々O師の持っていた配座図が間違っていたのかわかりませんが、いずれにせよ大した理由ではないように思えます。少なくとも真実を求めようとする姿勢とはかけ離れています。
by 彰往考来
1462
:
犀角独歩
:2005/10/14(金) 12:00:01
彰往考来さん
非常に詳しい分析、参考になりました。
『創価学会批判』の当該文章を、「金子辨淨編」とするご配慮を、重んじることにいたします。
以上の点は、実はわたしも現在、調査中ですが、文献資料というより、聞き込みでですので、また、違ったご報告ができるようかと思います。話なので、資料性という点では扱えませんが、より現実的なところには迫れるだろうと考えています。わたしは稲田師は「見た」という見解であることを識しておきます。
稲田師の座配ということですが、これは諸尊勧請の座配ではないとわたしは考えます。
では何か、それは『板本尊偽作の研究』P38に載るような図ではないかと考えています。ここの木下師の考証は稲田師との会談を元にしていますので、わたしは松本氏が見たものと、木下師が見たものと同じものであった可能性があると考えます。
彰往考来さんは「私自身奉安殿…数回程度の拝観ではとても判定しうるものではない」と記しておられますが、これはしかし、失礼ながら、彰往考来さんが、ということではないでしょうか。
わたしは、ガリ版ながら木下師が示すあの図(P38)を見て、ただ感嘆しました。なぜならば、愛染・不動にこそ、言及がないものの、彫刻本尊鑑別に必要な要素が、実に簡潔明瞭に整理されているからです。すなわち「板本尊は、四つの部分に分けて考察すればよい」(同)という点です。
稲田師の閲覧は、堀師の許可で極個人的に、しかも、宝蔵で行われたはずです。奉安殿ではありません。となれば、その見聞は極間近ということになるでしょう。仮に短時間であっても、具眼の稲田師にすれば、見るべき要点を速やかに観察し、その場で書き取らないにせよ、あとから、メモすることは容易なことでしょう。『板本尊偽作の研究』に載る図は、そのような種類のものではないでしょうか。稲田師の能力をすれば、ものの5分と掛からないかも知れません。
あと、彫刻本尊の「明治41年頃の再造説」という点は、わたしはもう少し下ると思います。日胤、もしくは日霑の時期ではないのかと、わたしは考えます。また、彫刻本尊が再蔵されたのは東京下谷に程近い辺りだったのではないのかと考えています。
それと、もう一つ。日亨師蟄居は、その実行が石山であっても、その圧力は創価学会であると考えるのが自然ではないでしょうか。何せ、堀師が編纂した『日蓮大聖人御書全集』『富士宗学要集』にしても、その出版権は創価学会が握ったのです。その編集の大部は相学会教学部によるのであり、わたしがよく憤慨するように、その編集は、学会教学に都合のよいように改竄されています。
霑彰往考来さんのご紹介になるとおり、姉崎師ほかが彫刻本尊の開帳を受け、多分、稲田師も受けたのでしょう。堀師自身は、日蓮宗宗学全書の編纂に日蓮宗学僧と一堂に会して協力し、『御本尊集』に3体の所蔵漫荼羅が入集するも、これまた、その協力によるのでしょう。近年では執行海秀師が細井師の招きで大石寺に入ったことは夙に著名なことでした。執行師がまた、堀師と連絡があったことは今さら記すことでもないでしょう。また、故高木豊師の熱原法難研究において、そこに堀師があったことも今さら申すべきことではないでしょう。以上のような次第を、創価学会は伝えずにきたにせよ、実際のところ、石山は各山との通用はあったわけで、そのような慣例は細井師の時代に及んでいます。しかし、創価学会はあの『折伏教典』一辺倒の狭量さを示し驀進していた時期でした。そのようななかで、堀師を蟄居する理由が石山にあれば、ただ、創価学会の顔色を見ること、そうも言っておられないというのが話の筋道であると思います。
1463
:
独学徒
:2005/10/14(金) 14:52:24
彰往考来さん、詳細な分析素晴らしいです。
2級以下の資料になるかもしれませんが、「−創価学会を糾す−日蓮聖人と身延山」(日蓮宗青年会小城地区伝道部編)には、所謂「本門戒壇之大御本尊」の鑑定について、以下のような記述がありました。
***
大石寺の所謂板本尊というのは大石寺九代目の日有という人の作です。北山本門寺の六世、日浄師も三十四世の玉野日志師も日有の偽作であると言っていられます。
又、近代に於いて、この板本尊を学問的に鑑定した権威者が二人あります。一人は東洋大学長であった境野黄洋先生、一人は、日蓮上人の御真筆の鑑定にかけては自他共にゆする稲田海素先生です。
このお二人とも、富士大石寺の板本尊は、日蓮上人の書かれた御本尊ではないと、言っております。
***
境野黄洋先生は初耳でした。どのような方かも存じませんが、「−創価学会を糾す−日蓮聖人と身延山」(日蓮宗青年会小城地区伝道部編)自体が、何を根拠にした記述なのか一切書かれていないので、信憑性はいかがなものかと思います。
ただし日蓮宗内では稲田海素師が所謂「本門戒壇之大御本尊」を鑑定したということが、ずいぶんと広く知られていたのではないかということを物語る小冊子だとは思います。
1464
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/15(土) 07:32:31
>1462 犀角独歩さん
ご指摘の点はそれぞれしごくごもっともです。今となっては分からない点もありますが、事実に迫っていく努力をすべきでしょうね。後世に真実を伝えるためにも今しかできないと思います。その意味で犀角独歩さんお取り組みには敬服しています。
1点質問させてください。
Øわたしは稲田師は「見た」という見解である
私(彰往考来)も稲田師はみたという見解なのですが、明治36年より後という考えです。しかしこれはご指摘のとおり明快ではありません。
犀角独歩さんは、文面から拝する限り明治36年に見たと受けとれるようなのですが、実際のところどうお考えなのでしょうか。
>1463 独学徒さん
資料のご紹介ありがとうございます。この関係の資料は入手困難なものが多いので、とてもすべて眼を通すことができません。その意味では多くの人からご教示をいただくことが大切と痛感しています。
境野黄洋先生・・・私も詳細は存知あげていませんので、調べてみようと思います。
1465
:
犀角独歩
:2005/10/15(土) 12:11:14
彰往考来さん
昨日、勉強会があり、「真っ赤な偽物」とするところ、やや、諸師に、雑談のなかで尋ねてみました。宮崎英修師は稲田海祖師の親しく謦咳に掛かり、直接、種々の話を聞いておられるとのことでした。
彰往考来さんが明治36年とされる理由は、当然『日蓮聖人御遺文対照記』の記述に拠るのでしょう。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049186&VOL_NUM=00000&KOMA=70&ITYPE=0
ここには遺文対照が日記されていますが、その他のことは記されていません。そのことから、確定がむつかしいということになります。しかし、稲田師から直接、話を聞かれた人々はいらっしゃったわけです。
木下師は「客殿」に稲田師が行かれたことを記し、『創価学会批判』には彫刻本尊閲覧を伝えます。朝8時から夜12時まで5日間、単に遺文対照転写をされるばかりではなく、それなりの行動があったことが拝察されます。信者であっても、寺院に寄宿すれば、朝夕の勤行に参列するのは当然のことです。客僧であってもこの点が変わるわけはありません。石山では、朝・夕・丑寅と勤行がなされているのに、大いびきで枕を高くするなどということは考えられないことです。
昨日の雑談とは別ですが、板に彫った本尊が真跡か?という問題が生じます。これは模刻なのであって、彫刻師の作品です。彫刻を日蓮真筆かどうかを問うのは意味をなしません。これは『御本尊集』入集でも同様でしょう。では、その模刻が真筆に基づくのかどうかという点です。
「弘安2年10月12日」という図示日が定まっていれば、彰往考来さんほど、具眼をお持ちの方であれば、だいたいの当時の特徴を挙げられるでしょう。
わたしも、僭越ながら、いくつか挙げられます。
5分間、宝蔵で彫刻本尊が見る機会が与えられたら、わたしが真っ先に見るのは、愛染、「經」字、そして、日蓮花押、そして、日付、授与者(腰書)の「本門戒壇」の4文字。仮にここで時間切れになったとしても、これだけでも、その‘原本’が、日蓮真筆かどうかは、だいたいわかります。それこそ5分と要しないでしょう。
よくオークションで、漫荼羅がネットで公開されていますが、一瞥すれば、真偽を判断するのに、彰往考来さんをはじめ、れんさんも他の方も、ものの数分と掛からないでしょう。ただし、それがいつの頃のものをモデルにしているのか、なにからパクッたのかという点を考えるとき、他の資料を引っぱり出して、種々検討します。この時点でしっかりとしたコメントをするためには時間を要することにはなるというのが皆さん、共通するところであろうと思います。
なにより、稲田師が見たのが明治のことであれば、近代のような「本門戒壇之大御本尊」大騒ぎもなく、諸山通用に、一々「謗法だ」なんだと大騒ぎをするような愚かなこともなかったわけです。こんなときに、一見して偽物とわかるものに接したとき、稲田師のように、鑑識をよくする方はどうするのか。
わたしは、この様を、本ネで聴講した中尾堯師の言説から想像できます。
その日、聴講者の一人が持参したお漫荼羅を、箱から出される段階で頂戴し、まったく真筆を扱うのと同じように鄭重に扱い、見て、それが模写本であるとわかっても、その後、箱にしまうまでも、まったく真筆と同じように鄭重に扱われていました。そして、「寺山の宝として大切になさってください」と丁寧に返却されたのです。問われて、真筆ではないことを告げましたが、このように、識者が、数十年、時には数百年、大切にされてきたものの鑑定を委ねられたとき、如何に、「依頼者の心情を傷つけないようにする」のかという配慮がそこにあります。真筆ではない場合、語らずというのが一番の配慮となるでしょう。
稲田師が石山で彫刻本尊を閲覧され、それが一見でどのようなものであったのか見抜いた、真跡閲覧と5泊寝食の恩義あり、となれば、黙して語らず、が、もっとも矜持ある振る舞いとなるでしょう。このような良識、常識を、考えることのできない昭和30年代以降の学会の好戦的、かつ、暴力的、独断的な発言には、しかし、こんな善意も消し飛ばされてしまうわけです。
稲田師の彫刻本尊閲覧の時期、この点は、もう少し聞き込みを固まれば、投稿しようと思っております。
1466
:
犀角独歩
:2005/10/15(土) 14:44:44
相変わらず、いくつか打ち間違えました。
【1462の訂正】
誤)相学会教学部
正)創価学会教学部
誤)霑彰往考来さん
正)彰往考来さん
(失礼しました)
【1465の訂正】
誤)彰往考来さんが明治36年とされる理由
正)明治36年とされる理由
1467
:
犀角独歩
:2005/10/15(土) 15:51:34
もう一点、修正します。
> 稲田師の閲覧は、堀師の許可
これは少し先走って記しました。
この許可者の件は撤回します。
1468
:
犀角独歩
:2005/10/16(日) 08:38:54
※いったん、日禅授与漫荼羅から離れて、彫刻本尊を鑑別するわたしなりのチェック点を挙げます。
日蓮の漫荼羅図示は、10年ほどの期間であるにもかかわらず、著しい変遷を遂げながら、弘安晩期に、やや定型化される如くです。その経過のなかで、弘安2年10月という時期には、それなりの特徴を有します。奉安堂で入れる人は、なるべく前に座り、遠目でも、見られるはずの以下、二つの特徴を先ず確認されたい。見られなければ、わたしがサイトで挙げた彫刻本尊の写真でも十分に確認できます。
何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
(1)愛染
漫荼羅向かって左に位置する愛染の書法は、10年の間に著しい変遷を遂げていき、年代を割り出す参考になります。
以下は、その時代時代の愛染を並べたものです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/aizen_hensen.jpg
(ジャンプしないときは、アドレスバーにコピペ)
以上の愛染と彫刻本尊のそれを比較してみれば、その書体がまったく日蓮漫荼羅のものではないことは明白です。この一点を取っても、(この部分だけでも)日蓮の筆に拠っていないことはわかります。
(2) 「經」字
「經」字の筆法は、大きく分けて四期に分類されることを発見したのは片岡随喜師であると、片岡邦男師が述べたことはブログで紹介しました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50101473.html
その四期分類の図に対照すると弘安2年10月という時期は第3期にあることがわかります。(第3期:弘安元年3月・第47大漫荼羅〜同3年3月・第78大漫荼羅、第82漫荼羅も含むべきかは以下-補1-に記す)
a) 彫刻本尊の「經」字は、糸扁に関しては、その筆法は日蓮の特長とは言い難い。(ただし、日禅授与漫荼羅とは相似)
b) 旁に関しては [一/ツ/エ] の形、弘安3年3月以降の第四期で記されている。すなわち、弘安2年10月の時代性を反映していない。この時点では旁は [一/一/エ] で、2段目は「ツ」様の部分が横一筆「一」と記されるのがこの時代(第3期)の特徴である。
1469
:
犀角独歩
:2005/10/16(日) 08:40:12
―1469からつづく―
弘安3年3月第79大漫荼羅
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/079.html
以上、2点は、遠目でも、ネットアップの写真でも容易に確認できる点です。
さらにもう一点、これも既にブログで指摘した点ですが、本尊右下・大廣目天玉の‘玉’の、点の筆法は、特異なものであると指摘できます。
日蓮は天玉を書するに、点の最終画から玉の第1画に連綿と筆を繋ぎ、「三」を連綿と記し、その第1画「一」の中央に筆を戻し、「三」を貫いて、右斜めに筆跡を記しながら、「天」の最終画を下から跨ぎ、細い点を打って書き終えています。
ところが、彫刻本尊では、この通常の筆法に相違し、「天」の最終画は止筆で終え、「王」を書き終えたのちに、「天」の最終画を跨ぎ、あろうことか立て一本に力強い線となっています。
たぶん、この箇所は遠目から確認できるでしょう。このような筆法で記される例は、真筆漫荼羅に数えられない日禅授与漫荼羅にのみに見られるもので、故に同漫荼羅を臨模した証左の一つと考えています。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html
(上記の『大石寺彫刻本尊と日禅授与漫荼羅の、天玉筆法の相似について』をご参考ください)
-補1- 彫刻本尊から、離れますが、第82漫荼羅、(授与者を削損、石山が「紫宸殿」、近日では師資伝という)この漫荼羅は弘安3年3月で、既に第4期に入った位置として第82番目とされますが、第3期の書体ですから、第78番目以前に置くべきであろうと思います。この点は、たしか、れんさんがご指摘なさっていらっしゃったと記憶します。
-補2- 日禅授与漫荼羅の「經」字旁は、2段目が「ソ」様に書される際だった特徴を有します。この点で、わたしはこの漫荼羅が真筆であるか否かを疑いますが、しかし、この筆法は1紙に記され、大きさは著しく異なりますが、第79、第80大漫荼羅と共通します。
『御本尊集』では「当御本尊より、首題の『經』字が第4期の御書体となる」(P117)と備考に記されますが、わたし個人は第79、第80は、さらに分けて第4期第1次とし、それ以降を2次として、分けて、見るべきであると考えます。
すなわち、弘安3年5月9日の日付となっている日禅授与漫荼羅は第4期1次の「經」字の特徴を有しながら、その図示年月日は第4期2次となっている点で齟齬を来していると観察するということです。
なお、この日禅授与漫荼羅を原本として臨模・作為する彫刻本尊は「經」字旁第2段「ツ」の第1画部分を「華」字最終画‘礀’の部分と‘ツ’1画目に充てていることは、既に拙書で指摘したとおりです。
1470
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/18(火) 08:03:38
>1465 犀角独歩さん
本ネで聴講した中尾堯師の言説から想像できます。
・・・まったく真筆を扱うのと同じように鄭重に扱い、見て、それが模写本であるとわかっても、・・・まったく真筆と同じように鄭重に扱われていました。そして、「寺山の宝として大切に・・・」・・・問われて、真筆ではないことを告げましたが・・・鑑定を委ねられたとき、如何に、「依頼者の心情を傷つけないようにする」のかという配慮がそこにあります。真筆ではない場合、語らずというのが一番の配慮となる
これは、書画骨董の世界では当然のことですね。依頼者は寺宝(あるいは家宝)として先祖代々大切に保管してきたものですから、真筆ではないといきなり言われると相当ショックを受けます。相手にショックを与えて鑑定者は何ら得することはありませんから、「依頼者の心情を傷つけないようにする」というのは当然のことです。
下記資料がありましたのでご参考までに。私は中尾氏にお会いしたことはありませんが、中尾氏のお取扱いは鑑定ではなく目利きということになるでしょう。
***************************************
目利きと鑑定の違い
現代社会における「目利き」は、目利きした結果を人に話す必要がなく、あくまで自分のためにする行為だといえます。そのものがホンモノか、ニセモノか、そしてニセモノでも儲かるものか、ホンモノであっても儲からないものか、すべてを自分の頭のなかで判断・分析するのが目利きです。 (中略)
一方、「鑑定」は人に教えるものなのです。だから目利きの人、あるいはプロの骨董商は鑑定をしません。 (中略) 鑑定して鑑定料をもらうということは、プロの目利きの社会から見ると骨董商の仕事ではないからです。
しかも私は鑑定をしてもらいたいという人の気持ちを大切にしますから、プロである商人の立場としてニセモノであってもホンモノであっても何も評価をいいません。がっかりさせたり期待をさせたくないのです。「珍しいモノをお持ちですね」とか「大切にしてください」、それしかいわないものなのです。
自分の商売もしくは研鑚のためにのみ目利きをする骨董商の無言の返答に対し、鑑定業というものは、鑑定料をいただいて生活をすることですから、そもそも仕事の発想が根底から違います。
中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社、232頁
***************************************
中島氏と中尾氏は骨董商と学者という立場の違いはありますが、相通じるものがあります。北山蔵禅師授与漫荼羅がもし相剥ぎの影本であったとしても、中尾氏は何もおっしゃらないでしょう。
1471
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 10:21:41
彰往考来さん
「目利き」ですか。なるほど。
わたしは、拙書で「鑑別」という語彙を使いました。
これはわたしが若いときにやっていた仕事の経験から使ったものです。
わたしが属していた業種では、品物の評価をすることを「鑑定」と言い、真偽を見極めることを鑑別と言って区別していたからです。
しかし、実はこれらの言葉の用法は、お示しいただいた骨董など、業界ごとに区々で、国語の取り決めとは、案外、齟齬が生じていていると思えます。
めきき【目利き】
(1)書画・刀剣・器物などの真偽やよしあしを見分けること。また、それにすぐれた人。
「書画の―をする」
(2)人の性質・才能などを感得する能力があること。また、その人。
(3)目がきくこと。見分けること。
「どの骨仏やら―がならぬ/浮世草子・好色万金丹」
かんてい【鑑定】
(名)スル
(1)科学的な分析や専門的な知識によって判断・評価すること。美術・骨董(こつとう)品の良否や真贋(しんがん)の判断、不動産の評価などにいう。目利き。
「刀剣を―する」
(2)判断すること。また、その判断。
「相対(あいたい)間男ではないかと僕は―するが/怪談牡丹灯籠(円朝)」
(3)〔法〕 訴訟において、裁判官の判断を補助するため、裁判所が指名した学識経験者に専門的知識・判断を報告させることを目的とした証拠調べ手続き。
かんべつ【鑑別】
(名)スル
物事を鑑定して判別すること。
「理非を―する」「雛の雌雄を―する」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)
辞典を見ると、目利き、鑑定、鑑別のそれぞれの説明に、それぞれの語彙が使用されており、上手い説明になっていません。しかし、敢えて読み解けば、目利きは鑑定でも鑑別でもないが、鑑定は目利きの意味を具え、鑑別は鑑定の意味も具えるということになりそうです。
まあ、西尾師と話すことがあれば、「先生の目利きは」とは言い難く、「先生の鑑定は」なら言いやすいかも知れません(笑)
1472
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 14:09:08
実際、本当にわたしはよく打ち間違えますね。
【1471の訂正】
誤)西尾師
正)中尾師
1473
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/18(火) 15:04:50
>1472 犀角独歩さん
このご訂正内容は納得いたしました。
西尾師・・・ ン?と思っていてどなたなのか聞いてみようと思っていました。
彰往考来
1474
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 15:19:25
彰往考来さん、失礼しました。
目利きということで言えば、彰往考来さんをはじめ、れんんさん、その他、こちらの常連のなかには、たくさん、そのような方がお出でですね。
言葉の面で言えば、先には、剥離表装はやめて、相剥が適宜であるとなったり、今回はまた、「目利き」をご紹介いただいたり、なかなか、厳正な点をご呈示いただいており、感謝しております。
そういえば、彫刻についても、「禅師授与漫荼羅の模写が原本」として出発したわたしの論考も、模写、臨写、作為という三つの基準から問われ、「日禅授与漫荼羅を原本として、臨模・作為した彫刻」と定義付けに至ることになりました。
無徳さんが別スレで仰っておりましたが、なかなか言語というか、言葉にはむつかしい問題が付いてまわりますね。
…、打ち間違いはそれ以前の問題で、お恥ずかしいところです。
1475
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/18(火) 15:28:18
>1462犀角独歩さん
>『創価学会批判』の当該文章を、「金子辨淨編」とするご配慮を、重んじることにいたします
実は私は最初ちょっとこの意味が不明でしたが、私が「金子辨淨編」としたのは『創価学会批判』の奥付に従ったからです。今回の場合、『創価学会批判』の当該文章を作成された方は記名があり明らかですがその方のお名前を秘匿したわけではありません。
しかし、よくみると内表紙には “日蓮宗宗務院編纂”とあるのですね。ちょっとびっくりしました。編纂者記載が内表紙と奥付で異なるわけです。
結果的には奥付側を採用したわけですが、私はこのような場合、奥付記載の内容を採用しています。
これは、例えば特許紛争などで証拠を特許庁へ提出する場合、公知資料は内表紙、目次、本文、奥付の4点が要求されます。古い資料などで、これらがどうしても揃えられない場合でも、本文は当然として奥付は要求されます。その資料が当該日に公知であるかどうか解らないからです。そのため出版年月日の記載された奥付を重要視する習慣が身についているので、奥付側を優先するという姿勢で臨んでいます。そのため私は図書館などで資料をコピーする場合も、この4点セットをコピーして所蔵しています。
内表紙と奥付で異なる場合、どちらを優先するか決め事はないように思いますが、私の考えは上記のとおりです。特許資料ばかりでなく歴史資料でも、その資料がいつ出版されたかは重要な点ですので、奥付(出版年など)を重要視する必要は変らないと考えます。
まれに記載内容が不十分な書籍がありますが困ったものです。いやしくも出版に携わる方は奥付の重要性を認識して仕事をしていただきたいと存じます。
1476
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/18(火) 15:31:29
>1475
私も打ち間違いを仕出かしました。失礼いたしました。
誤:まれに記載内容が不十分な書籍があります
正:まれに奥付の記載内容が不十分な書籍があります
彰往考来 拝
1477
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 18:25:13
> 1475 彰往考来さん
ご指摘の点、仰るとおりですね。
いま、わたしも奥付を見てみました。「編纂者 教化部長 金子辨淨」となっているのに、扉では「日蓮宗宗務院編纂」で整合性がありません。宗務院=教化部ではないわけですから、この記述は整合性がありません。ただし、発行所は日蓮宗宗務院になっています。
『近代日蓮宗年表』(編者:近代日蓮宗年表 / 日蓮宗現代宗教研究所、発行者:日蓮宗・日蓮聖人第七百遠忌報恩奉行会、発行所:日蓮宗宗務院、昭和56年10月13日第1版第1刷)の昭和30年の項を併せ見たのですが、何と、『創価学会批判』については記述がありません。しかし、発行日に当たる昭和30年7月28日の、その前日(27)から31日までとし
「7・27 日蓮宗中央布教講習会,身延山短期大学にて開かれ,主に創価学会問題について講習するて<〜31>(宗報)」(P485)
と記載されていました。同年、3月11日は「創価学会と討論会を小樽にて行う」(P484)とありますから、当然、これを受けたもので、かつ、タイミングからして、この講習会と同書は関係ありとみるのは自然なことと思います。しかし、何故、書籍の出版が落ちているのか不可解です。
関連して興味が惹かれたのが12月25日の項「立正大学仏教学会,『大崎学報』―本尊特集号を発行する(奥付)」という点です。以前、たしか佼成図書館で閲覧した記憶があるのですが、今回の拙書を出すのに、資料として落としていました。彰往考来さんは、当然、お読みになっておられるでしょうか。
1478
:
彰往考来
:2005/10/20(木) 12:31:53
> 犀角独歩さん
>『大崎学報』―本尊特集号・・・彰往考来さんは、当然、お読みになっておられるでしょうか
これは昔、神田の古書店で求めまして所蔵しています。これについては追って投稿します。
1479
:
犀角独歩
:2005/10/20(木) 16:00:11
1478 彰往考来さん
楽しみにしております。
1480
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/21(金) 07:28:20
>1477『大崎学報』―本尊特集号・・・ 犀角独歩さん
私はちょっと勘違いしているのでしょうか。本尊特集号がみあたらないのです。その近傍で該当するのは『大崎學報 第102号』ですが「創立五十周年記念特輯」とありまして、これのことでしょうか。確か昭和30年発行の103号は本尊特集号ではなかったと記憶しています。もう少し確認しますが。
『大崎學報 第102号』奥付には、
発行日:昭和29年10月13日
編輯兼発行人:望月歓厚
発行所:立正大学仏教学会
とあります。目次は、(( )内は頁です)
巻頭言 望月歓厚
日蓮聖人曼荼羅図集 (1)
解説 山中喜八 (97)
日蓮聖人消息花押集 (1)
解説 鈴木一成 (30)
口絵写真 弘安五年図顕曼荼羅 京都 本隆寺蔵
となっています。
1481
:
犀角独歩
:2005/10/21(金) 14:14:27
彰往考来さん
たぶん、以下の号を言うのだと思います。
大崎学報 104
http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/0-00069-000104.html
1482
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/21(金) 15:59:24
>1481犀角独歩さん
よく解りました。で、104号は雑誌、コピーとも
所蔵していませんでした。ごめんなさい。
1483
:
犀角独歩
:2005/10/21(金) 21:04:19
彰往考来さん、有り難うございました。
近く、どこかでコピーしてきます。
お送りします。
1484
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/22(土) 11:56:35
>1483 犀角独歩さん
ご配慮誠にありがとうございます。
彰往考来 拝
1485
:
犀角独歩
:2005/10/22(土) 15:56:39
彰往考来さん
わたしも勘違いしていました。かつて読んだ本尊特集はご所持の102号でした。
本日、104号共に閲覧してきましたが、こちらは際立って彫刻本尊に触れている箇所もありませんでした。
ただ、影山尭雄師『御本尊造像史』のなかで
「日興門流の中で大石寺では特定の樟板の本尊に限ると主張する。このいわゆる板本尊については身延でも早い時代に造立せられた文献があり、また大石寺の板本尊を写真で拝する御書体からして、石山で主張する年代の精査が必要かと思うが、後日の別稿に譲る事とする」(『大崎学報』第104号P60)
とあるばかりです。
しかしながら『編集後記』を読むと
「今回の大崎学報は『本尊特集』である。斯学の最高権威四師が轡を並べて執筆されたこの号は、いわば今日の日蓮教学の最高水準を示すものであり、所論はそれぞれに異同はあるものの、『本尊問題』についての最も学問的な結論が論述されているわけである。勿論、この結論を更に如何に止揚し、統一し、如何に現実面と契合せしめるかは宗門今後にかかっているが、尠くとも学問の世界においてはこれが終止符であり、金字塔であることは異論のないところであろう…」(野村生)
と記されています。この年はじめに、小樽問答が開催されたことを意識した記述と読めます。
2、3日中にお送りします。
1486
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/23(日) 08:18:16
>1485 わたしも勘違いしていました。かつて読んだ本尊特集はご所持の102号でした
犀角独歩さん、そうですか。102号が話題になりましたので、簡単に102号の内容についてまとめておきます。
『大崎學報 第102号』(以下、「大崎学報102号」と記します)は「創立五十周年記念特輯」とあり奥付には、
発行日:昭和29年10月13日
編輯兼発行人:望月歓厚
発行所:立正大学仏教学会
とあります。目次は、(( )内は頁です)
巻頭言 望月歓厚
日蓮聖人曼荼羅図集 (1)
解説 山中喜八 (97)
日蓮聖人消息花押集 (1)
解説 鈴木一成 (30)
口絵写真 弘安五年図顕曼荼羅 京都 本隆寺蔵
となっていて、「日蓮聖人曼荼羅図集」は、『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版、以下「真蹟の世界 上」と記します)に、「日蓮聖人消息花押集」は、鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』(平成2年第3刷(初版:昭和40年)、山喜房佛書林、以下「文献学的研究」と記します)にそれぞれ収録されていますので、『大崎學報 第102号』がなくてもこれら二冊の本があれば内容を確認することはできます。そのため現在は「大崎学報102号」を参照することはほとんどありません。
なお、「真蹟の世界 上」では分類した御本尊分類記号に対応する御本尊写真が掲載されているのに対して、「大崎学報102号」は口絵写真の一幅を除き御本尊写真は掲載されていません。また「日蓮聖人消息花押集」は双方とも同じ花押写真が掲載されていますが、花押写真の印刷状態は「大崎学報102号」のほうが「文献学的研究」より良好です。
「日蓮聖人曼荼羅図集」の内容ですが「大崎学報102号」と「真蹟の世界 上」で差がないといってよいでしょう。もちろん若干の差異はあります。例えば、「大崎学報102号」(97頁)に「石山」とあるのが、「真蹟の世界 上」では、「石山(静岡県富士宮市大石寺)」とより丁寧になっています。また若干の編注が「真蹟の世界 上」には付記されています。
また所蔵場所の記載は、例えば、「大崎学報102号」(25頁)に「東京 永岡家蔵〔御本尊集第三十六〕この御本尊は、現在、東京妙寿寺三吉日照師の護持するところである」とあるのが、「真蹟の世界 上」では、「東京都台東区 永岡家蔵〔御本尊集第三十六〕この御本尊は、現在、東京都世田谷区鳥山の妙寿寺に格護されている」となっているなど、編纂の新しい「真蹟の世界 上」では区名の追記や修正をされています。しかしながら山口範道著『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の出版前の発行であったためか、第82番本尊などの所蔵場所は「大崎学報102号」、「真蹟の世界 上」とも記載がありません。なお、「大崎学報102号」(77頁)にある蓮祖御本尊の分類記号で「C(Ⅱ)二O」とあるのは前後関係から「D(Ⅱ)二O」の誤植で、「真蹟の世界 上」では訂正されています。
解説は「大崎学報102号」では図集の後ろ、「真蹟の世界 上」では図集の前にて収録されていますが内容は同じです。
「大崎学報102号」は蓮祖御本尊を研究する上で座右の書でした。「大崎学報102号」は昭和29年発行の学術誌ですから国立国会図書館などで拝読することはできるものの入手は困難でした。「真蹟の世界 上」の発刊で蓮祖御本尊を研究するために「大崎学報102号」を手元に置く必要がなくなりましたので現在ではあまり文献などで引用されることも少なくなりました
1487
:
小池
:2005/10/23(日) 09:10:32
彰往考来さん、独歩さん
曼荼羅で、四大天王で「王」でなく、「玉」としているのはなぜなのでしょうか。
また、不動・愛染明王について、曼荼羅に書する意味は何なのでしょうか。さらに梵字で書している意味は何でしょうか。
お教え頂ければ幸いです。
1488
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 15:55:12
彰往考来さん
> 「真蹟の世界 上」の発刊…「大崎学報102号」
今回、『大崎学報』の復刻版を瞥見して、「あ、そうか、これを『真跡の世界』は編集したのか」と、いまさら、気付いたわけです。「何を寝ぼけたことを」とお思いでしょう。
ご承知のとおり、わたしの居住は立正大学に近く、また、かつて池上本門寺脇にあった池上図書館に蔵された多くの仏教文献、日蓮文献が移された図書館が近くにあること、また、小1時間の労を惜しまなければ、佼成図書館も近く、もちろん、国会図書館も30分ほど行ける場所です。そんな環境から、図書館に出向けば、事足りるので、資料蒐集には怠慢できました。よって、1486の如きレクチャーはたいへんに有り難いところです。
この『真跡の世界 上』は、凡例に「用字については、本来であるならば御真跡の原本に忠実であるべきだが、読者の解読の便宜を最優先して、論稿に併せて正字・意字・当て字をほとんどすべて常用漢字に改めた」(xv)など、惜しい点はありますが、それを補って余りある書であることは彰往考来さんのご投稿のとおりでしょう。
同書に載る久寿の山中喜八師の『自序』には感激と落涙を禁じ得ません。
「私は小学校卒業直後、某出版社の丁稚となり、爾来いずれの学校にも通学していない…片岡随喜先生の門に入ってからは、訓育教導を蒙る…正規の教育機関の授業を受けていない」(xi)
斯く記す師の為された偉業を、独り片岡随喜師に寄せますが、しかし、「昭和24年6月、随喜居士の遷化に遇うも…悲願を継承」(『序』vi)されるところは、師にも帰着するというのは皆通じた感慨でしょう。。
先に立正大学で開催された公開講座で無料配布された『沙羅』(3)を開くと『小松教授の日々是修学』という一文が載り、その見出しは「学ぶことに終着点はない。意欲をもつ人には常に門戸が開かれています」とありました。
殊にここ富士門流信徒の掲示板に集う在野の研究者の皆さん方にとって、山中師、また、小松師の文章は大いに励みになるところであろうと思います。
わたしが、市中の独覚を称したワラシナ師に、願ってお会いし、また、彰往考来さんにもわたしからお願いし、お会いいただいたのも、終着点なき学ぶ経緯に拠ります。また、小松邦彰師、松山俊太郎師をはじめと諸師の学習会、西山茂師の開催する本化ネット学習会に足繁く通うのもその動機に拠ります。福神の上杉清文師、澁澤光紀師の学恩。また、楠山泰道師、貫名英舜師というわたしをカルト禍から救ってくださった諸師、さらに行明師から学ぶ国際感覚は、いまもわたしの学びです。
しかし、ご多忙の皆さんは、わたしのように平日の昼間自由に時間を割くことができないでしょう。ですから、出来る限り、見聞したことは、当掲示板、ならびにわたしのブログ、HPに紹介し、学恩を共有したいと思い、わたしなりの努力をしてきました。
問答名人さんが管理される当掲示板を、わたしが「現代のサンガ」と評したこの場に、昨年の日教研の発表以降、活発なご投稿をくださり、また、オフ会でも研究を惜しみなく発表くださる彰往考来さんに、改めて敬意を表し、御礼申し上げるところです。
1489
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 15:55:33
1487 小池さん
> 曼荼羅で、四大天王…「玉」
この点を記した日蓮の真跡遺文は存しなかったと思います。
しかし、日蓮の筆法のおいて、たとえば、漫荼羅図示では特に付点は重要な意義を持つようであることは相伝文から窺えます。
「点を王に必ず打ち給ふ心如何、師の曰はく法華は諸経中王の故に大王の故に、小王の時は此の点無し、大王経の眷属の故に・又守護なる間点を打ち加へ給ふなり」(御本尊七箇相承)
> …不動・愛染明王…曼荼羅に書する意味
> …梵字で書している意味
この点もまた、まったく真跡遺文には見られません。
相伝文等に載るばかりです。
「梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり」(同)
1490
:
小池
:2005/10/23(日) 16:54:06
独歩さん
大変ありがとうございました。
「曼荼羅」と記さず、「漫荼羅」と記すことが日蓮の特徴ですが、うる覚えなので間違っていたら失礼しますが、123幅のうち確か初期の一幅が曼荼羅で残りは全て漫荼羅と記していたかと…。「漫」は当て字なのでしょうね。
1491
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 17:08:09
小池さん
> うる覚え…
これはご自身で確認なさってみてください。
以下サイトでは、山中師の備考も載っています。
Nichiren Shonin Gohonzon Shu
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
> 「漫」は当て字なのでしょうね。
これは仰る意味がわかりません
マンダラとは、mandala ですから、音写に宛てた字の違いで漢字自体に意味があるわけではないと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9
先に彰往考来さんがご引用なさった『日蓮聖人真跡の世界 上』では「聖祖は、大漫荼羅、大曼荼羅、あるいは大曼陀羅、大漫陀羅など種々の表記を用いられている…御本尊の御讃文にもっとも多く用いられ、しかも晩年になって定型化した『大漫荼羅』」(凡例 xvi)となっています。
これもまた、上記、サイト、また、真跡遺文からご自身でお調べになってみるとよいと思います。
1492
:
小池
:2005/10/23(日) 17:28:28
独歩さん
大変ありがとうございます。
不勉強ですみません。よく拝見してみます。
1493
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/23(日) 22:26:55
>1487 小池さん
すでに犀角独歩さんが答えておられますし、回答になるか解りませんがとりあえず記します。
不動・愛染の二尊を梵字で書いている件については、正長2(1429)年の日杲授本尊聞書(妙本寺文書151号:『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』平成13年、千葉県、242頁)に
「本尊皆漢字也、何不動・愛染ノ二尊ヲ梵字ニ書耶、被云、大師悉旦梵字知ル故ニ梵漢ニ通義顕給也、」
とあります。本尊は皆漢字であるが、不動・愛染の二尊を梵字で書いているのは、蓮祖は梵語にも明るいので広くインド、中国に通じるという義である、といった意味でしょうか。
おなじ内容(但し、書き下し文)が「本尊三度相伝」(『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年3刷(初版昭和49年)、創価学会、39頁)にあります。
また、玉の字については、「御本尊七箇之相承」(『日蓮宗宗学全書 第二巻 興尊全集興門集』(昭和43年(初版昭和34年)、山喜房佛書林、42頁)に記載があります。
「點ヲ王ニ必打給心如何、師ノ曰、法華ハ諸經中王ノ故ニ大王ノ故ニ、小王ノ時ハ此ノ點無シ、大王經ノ眷属ノ故又守護ナル間点(引用者注:「點」ではなく「点」ですが原文のママ)ヲ打チ加ヘ給フ也」
点を王に打つのは、法華経は諸経の王、大王であるためであり、小王の時には点を打たない、大王の眷属であって守護されるために点を打つのである、といった意味でしょうか。
おなじ内容(但し、書き下し文)が「御本尊七箇相承」(『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年3刷(初版昭和49年)、創価学会、31頁)にあります。
参考までに他門流では康正3(1457)年の「本尊相傳事」(『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』昭和53年新訂複製版(初版昭和42年:原本初版明治42年)、臨川書店、6頁)に、
「四天王ノ々ノ字ニ點ヲウチテアソハシタル事ハ如何トナレハ先ツ事相テイヘバ祏蘄ノ點也落居ハ王頂ノ玉ナレハ法華ノ實体ヲ顕シ玉フ也而ニ王ノ字ニ點ヲウチテアル証據ニハシヤウギノ駒ノ王玉ヲ出スヘキ也」
とあります。将棋の駒に王、玉とあるのが玉と打たれている証拠ということのようですがちょっと意味不明です。
これらの解釈は後世に成立したものと思われます。なぜなら蓮祖の御書にはこのような記述はありませんし、「梵漢ニ通義顕給也」は、御義口伝の「南無妙法報蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり」(『日蓮大聖人御書全集』昭和46年67刷(初版昭和27年)、708頁)とある考え方に通じるものがあるからです。
本当のところは私にはなぜそうなっているのかよく解らないのです。解釈はどうあれ、蓮祖は御本尊に玉と梵字を使用されていたという事実があるということだけなのです。
1494
:
犀角独歩
:2005/10/24(月) 10:10:09
『本尊相伝事』ですか。なるほど。この引用もありですね。
以下のような記載があります。
・御本尊ノ點ノ習イ
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=13&ITYPE=0
・四天王ノ々ノ字ニ點
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=15&ITYPE=0
彰往考来さん、「祏蘄ノ點」の‘祏’は[示*右](祐)ではないでしょうか。
1495
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/24(月) 20:14:52
>1494 犀角独歩さん
>「祏蘄ノ點」の‘祏’は[示*右](祐)ではないでしょうか
これはご指摘のとおりでした。
なお、1493で原本初版明治42年としていますが、
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=140&ITYPE=0&L=0
では明治41年になっています。印刷者も異なるのです。おそらく私が所有している臨川書店の復刻版の奥付が別のものとすりかわっているのではないかと思います。
1496
:
犀角独歩
:2005/10/25(火) 01:56:45
彰往考来さん
> 奥付が別のものとすりかわっている
ほお。そんなことがあるのですか。
新鮮な驚きがあります。
1497
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/25(火) 06:47:21
>1496 犀角独歩さん
この本の奥付は書籍名がありません。そのため、奥付だけをみた場合、どの本の奥付なのかわからないのです。
そのため復刻版作成の際に編集ミスがあったのではと推測しています。
まれに書籍名など必要事項を欠落した奥付があるのですが、それがこのような事態を引き起こす遠因と思います。出版されるかたはプロですからプロとしての自覚を持って編集していただきたいと思います。
出版元には回答いただけるかわかりませんがとりあえず問い合わせる予定です。
彰往考来
1498
:
犀角独歩
:2005/10/25(火) 07:19:00
彰往考来さん
> この本の奥付は書籍名がありません
今回、『大崎学報』を瞥見したわけですが、この奥付には通号、また書名表示がないのです。立正大学情報センターに蔵されているものは数号ずつまとめた復刻版なのですが、そのため、しばしば、違う号の奥付と間違えそうになりました。
1499
:
小池
:2005/10/25(火) 08:57:36
1493 彰往考来さん
お礼が遅くなり失礼しました。
大変ありがとうございました。
1501
:
犀角独歩
:2006/04/02(日) 11:01:06
『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』(724〜726)から、こちらに移動します。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/725-727
ご投稿は大変に興味深い内容です。明治44年発刊の熊田葦城著『日蓮上人』掲載の彫刻本尊写真は、すでに弘安3年5月9日の日禅授与漫荼羅の相貌特徴を有しています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
また、他の伝聞では、彫刻本尊は正本堂移管の際に、腐朽した部分があったといいます。
ご投稿内容が、事実であった場合、彫刻は、明治年間には既に日禅授与漫荼羅を原本とし臨模・作為されたものであったこと、昭和20年前後に腐朽し、さらにまた、日禅授与漫荼羅を原本とし修繕されたこと、さらに昭和40年代には再び腐朽し、またまた赤沢朝陽がその修繕を請け負ったということになります。
ただ、わたしの曾祖父母・父母は、昭和21年に東京大空襲という戦災に遭っています。その模様は、親からも叔父叔母達からも繰り返し、聞かされてきました。町を焼き尽くした戦火の勢いは凄まじいものであり、隅田川の水面を炎が這い走り、水中に避難していた人まで焼き殺したと謂います。法道院所蔵日禅授与漫荼羅は焼失を免れたのでしょうが、彼の猛火の隅田川付近で、土中とはいえ、被害に遭うとすれば、腐朽より、焼失、炭化といったようなことのほうが、先に思いつくのは、その地域に暮らしていた親類をもつ身上からです。しかしながら、その情報が虚偽であると申し上げるものではなく、情報として認識させていただきました。
1502
:
犀角独歩
:2006/04/03(月) 00:10:43
おっと、間違えました。東京大空襲は昭和20年でした。
1503
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/04/03(月) 07:11:27
>1501
戒壇本尊写真を法華講員が御守り替りに所持していたという件については下記の話があります。
「辻(引用者注:辻武寿参議会議長) 愛別(引用者注:北海道上川郡)の法宣寺さんといえば、こんな話もあった。この件は北海道の野村さん(野村光雄北海道副総合長)が詳しいから、ご本人から直接話してもらおう。
―どういう問題だったんでしょうか。
野村 実は戦時中、愛別村から戦地に行った法華講員に、お守りとして、名刺ぐらいの大きさの御本尊の写真を渡していたことがあるんです。これは八木住職(引用者注:八木直道法宣寺住職(当時))と深いつながりのあった小笠原慈聞が、持ってきたもので、信心も教えず、勤行も教えず、お札みたいに当時二円の御供養でみんなに配っていたんです。
―そんなことがあったんですか。小笠原といえば、戦時中に軍部と結託し、神本仏迹論を唱えた人物ですね。
野村 そうです。昭和二十九年ごろ、戸田先生が北海道に来られたとき、そのことを報告したんです。私も戦前は法華講員だったもんですから、その写真の御本尊を持っていたんです。それをご覧になった戸田先生は、メガネをはずし、顔を写真にすり付けるようにして、じっと見られて「これはどこから出てきたんだ。本当にもったいないことだ」と言われたことを今でも鮮明に覚えています。そのご様子に私は、これは戒壇の大御本尊の写しではないかと思ったんです。
―えっ、一閻浮提総与の大御本尊様を写真に撮って、ですか。
辻 そう。戸田先生もあまりのことにどれほど悲しまれたことか。宗門の御本尊に対する考え方は〝信心〟ではない。もっと話したいけど、今回は、このぐらいにしておこう(笑い)。
(後略)」(『大白蓮華[1992-3]特別号②』平成4年、聖教新聞社、62頁)
なお、『地涌からの通信26』(1993年、はまの出版、206頁)には上記『大白蓮華[1992-3]特別号②』の「実は戦時中〜配っていたんです。」の箇所を引用しています。
1504
:
犀角独歩
:2006/04/03(月) 08:07:06
> 1503
「この話はまったくのでっち上げだ、ウラが取れない」というその筋の人もいます。
それにしても『大白蓮華』という創価学会公式の月刊誌に、辻武寿参議会議長・野村光雄北海道副総合長という実在の学会幹部が話し合ったことを対談として載せているわけですから、創価学会の公式発表という、「大石寺の」ではなく、「創価学会発表」としての資料性を有していることになりますね。
上述のでっち上げだと言った人は、「現物を持っている人が誰一人いない」というのが、ガサネタであるという根拠なのですが、しかし、この記事では、北海道の副総合長である野村氏は「その写真の御本尊を持っていた」と発言しているわけですね。
わたしが興味があるのは、では、今でも持っているのか、持っていないとすれば、その後、どのようにしたのか、捨てたのか、焼いたのか、寺に納めたのか、学会に納めたのか等、考えられるわけです。
「持っていた」は過去形でしょうから、何らかの形で処分したのでしょうか。
なお、宗門の信心を云々し「二円の御供養でみんなに配っていた」などと嘆いているわけですが、日寛本尊を写真製版して縮小して携帯本尊とか言って5000円で頒布している創価学会は、端から見れば五十歩百歩、目くそ鼻くそを笑うの類としか思えません。
まあ、いずれにしても、野村氏に再度、登場してもらい、後日談、2円名刺写真本尊の処分の顛末を語ってもらいたいものです。
1505
:
ニセ本尊
:2006/04/04(火) 22:59:46
おや、わたしの投稿(昭和の板本尊伝説)は消されたのですね。
何故でしょうか?
ウィキペディアの大石寺のノートを参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
>>1502
東京大空襲は、昭和20年3月、某寺院は、法華講員の手により、
本堂や庫裏は、類焼をまぬかれたという話です。
大空襲の後は、空襲は、ほとんどなかった、と聞いています。
某寺院へ行けば、いまでも生き証人がいるでしょう。
1506
:
ニセ本尊
:2006/04/04(火) 23:12:07
昭和の板本尊伝説は、しかし、板本尊を誹謗中傷する目的のでっち上げではない。
それどころか、古参の法華講員が、若い講員に対して、「物信仰」に陥らないように、
指導するときに話す内容なのだ。
つまり、「750年前の真筆で無ければならない」という発想は、根本から間違っているということだ。
某寺院の法華講の伝統は、板の真贋には関わらない、議論しない、というポリシーである。
それは、即物的なものの考え方が、ややもするも、判断を誤らせることになるからだ。
1507
:
犀角独歩
:2006/04/05(水) 00:39:20
ニセ本尊さん
本来ならば、管理人さんがご指摘なさることだと思いますが、あなたの投稿は消えていません。スレッドが違います。
あなたが投稿したのは『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』(724〜726)で、ここではありません。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/725-727
また、仮に、当掲示板は、彫刻を批判したからといって削除されたりしません。
そんなことで削除されるのであれば、わたしの投稿はとうに消えていますよ。
まあ、一点指摘すれば「即物的なものの考え方」とは、まさに板漫荼羅信仰そのものを指すことですね。そんなことは言いつくろうが何しようが、器物崇拝というモノ礼拝から一歩も出ません。
1508
:
ニセ本尊
:2006/04/05(水) 06:41:19
おお!大変失礼しました。
1509
:
れん
:2006/04/07(金) 12:49:40
以下は、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」における大石寺彫刻本尊の座配図が正確であればという前提にて、備忘・参考までに記すことです。
現彫刻本尊の首題・四天王・不動・愛染は、犀角独歩さんの著書によるご指摘にあるように、日禅授与漫荼羅からのものですが、目を勧請十界諸尊に転じますと、柳澤師の座配図によれば迦葉尊者を「南無迦葉尊者」帝釈天を「釈提桓因大玉」と記入しております。
立正安国会の日蓮大聖人御真蹟御本尊集収録の日蓮聖人御筆漫荼羅を拝見しますと、「釈提桓因大玉」の表記は弘安二年十一月日図顕の六九番を初見とし、南無迦葉尊者と記すのは、八二番を最後とし、八一番の所謂臨滅度時本尊以降は迦葉が勧請される場合は「南無大迦葉尊者」の表記で統一されています。
柳澤師による彫刻本尊の座配図における帝釈と迦葉の表記に注目しますと、彫刻本尊の十界諸尊の表記の特徴は弘安二年十一月〜弘安三年三月までの蓮祖図顕漫荼羅の特徴を有していると考えられ、迦葉・帝釈の表記から、柳澤図が正確であればという前提ですが、十界諸尊については、日禅授与漫荼羅(この漫荼羅における迦葉の表記は南無大迦葉尊者)とは別の、弘安二年十一月〜弘安三年三月の間に蓮祖が図顕した大漫荼羅に拠っている可能性があると思います。
十界諸尊とくに迦葉・帝釈の表記から見ましても、弘安二年十一月を上限としますので彫刻の腰書きに記される「右…十二日」の記述と漫荼羅本体から推定される原本の図顕年月日が全く相違して噛み合わないので、右…十二日の腰書きは全く後世の作文であることが分かります。
現彫刻の首題・四天王・不動・愛染は弘安三年五月九日付けの日禅授与漫荼羅から、その他十界諸尊は迦葉・帝釈の表記から見れば原本は不明ながら原本の漫荼羅は弘安二年十一月を上限・弘安三年三月を下限とすると云えます。それプラス腰書き…。
やはり、現大石寺彫刻本尊は寄せ集めモノの感が在りますね。
1510
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 23:24:17
所謂「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻に就き、過去に公開していた廃止HPから転載した大判の同写真を、再度、アップいたしました。
彫刻真偽を考える材として頂ければ幸甚です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/kaidanmandara/kaidanmandara.html
1511
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2006/05/14(日) 13:48:56
犀角独歩さん、ご無沙汰しています。
どうやら年内か、1年以内ぐらいに創価学会が戒壇本尊偽作論の新説を
出すようです。
私は紙幅の正書写御本尊がその鍵を握ると思っていましたが、どうやら
そうではないようなんですよ。
キリバリしているのでは?という推測は過去からありましたが、どうやら
キリバリした御本尊のオリジナルが暴かれるのではないか?というお話
なんですね。
どうやら紫神殿本尊なんてぐらいのものではないようです。
1512
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 08:49:54
> 1511
興味深い情報、有り難うございます。
1513
:
仁
:2006/05/19(金) 15:45:52
釜ハキリ、くそみたいなネタ話をまき散らすのは2ちゃんだけにしとけ。
1514
:
仁
:2006/05/19(金) 15:52:37
追伸
富士門の方々お騒がせしました。この釜の言うネタ元はとある学会崩れの脳乱者がさもありげな絵空事をもっともらしく書いただけです。
1515
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 23:33:07
> 学会崩れ
とは、顕正会が、わたしを侮蔑した言葉と同様の造語です。
内容の如何に問わず、投稿者に侮蔑的な言辞を吐くような在り方は、他者を批判することは、常識に違反し、かつ、当掲示板の投稿ルールに違反します。
しかしながら、それはただちに斯かる投稿内容を、わたしがただちに信頼するということでもありません。他の情報を照らし合わせ勘案してみようと思うばかりです。
1516
:
ひきこもり
:2006/06/08(木) 22:23:32
>>1510
怖い!です。
今御本尊に唱題している私には、怖いです。
1517
:
ひきこもり
:2006/06/09(金) 02:08:34
信心が根本です。
唱題根本で行きましょう!
本門の戒壇の大御本尊を拝見致しました(涙)。
富士門流の信徒はみんな唱題根幹で行きましょう。
1518
:
犀角独歩
:2006/06/09(金) 05:09:02
石山の彫刻は、わたしは何百回と見ました。
しかし、これは日禅授与漫荼羅を原本と、臨模・作為された模造品です。
信心をするならば、本物を拝みましょう。
何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
1519
:
ひきこもり
:2006/06/10(土) 15:52:04
創価が大御本尊を否定して、宗門の碩学の方が大御本尊を否定されるのでは困ります。
過去の創価の出版物は全て無効になり、戸田先生自体が否定されてしまいます。今御本
尊に向かう時、昔の日寛上人の御本尊に向かう時、その法会写しの時の大御本尊が偽作
であったならば、もう創価の教義は根本から覆されることになります。
「いかなるものも妙法の当体であって、拝むものは何でも良い」これを創価は「折伏教
典で非難しています。日蓮正宗の大御本尊以外には救済は無いと言うのです。ではこの
大御本尊が偽作であったならば、もう駄目ですね。もう唱題する気が起きません。最近
は鬱状態です。
戸田先生の著作や講演集の通りならば、現在の創価はかなり違います。時代によって変
わるのが当然ですけれども。
1520
:
問答迷人
:2006/06/10(土) 16:13:45
ひきこもり さん
戒壇板曼荼羅を日蓮聖人が建立されたのでないことは、既に明らかだと思っています。日蓮正宗や創価学会が、日蓮聖人の教えで無い物を、日蓮聖人の教えで有るかのごとく宣伝した事は否定されるべき事です。しかしながら、それは元々日蓮聖人の教えとは違っていたのですから、戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではないです。何か混同されていませんか。
1521
:
独学徒
:2006/06/10(土) 17:01:24
ひきこもりさん、はじめまして独学徒と申します。
創価学会や正信会はどこかで謝罪を含め、教義的な総括とリセットが必要だと感じます。
特に創価学会はその時々の情勢で、ころころ主張を変えて、過去の主張との矛盾にそっぽを向いて知らん振りでは、多くの活動会員を抱える教団としては、あまりに無責任だと思います。
本門戒壇之大御本尊についてですが、最初から偽物と思っていた人は、おそらくここにはいないと思います。
管理人さんも、犀角独歩さんも、受入れがたい事実を受け入れ、そして今日があると思います。
是非1518でご紹介の論考をご覧下さい。
1522
:
ひきこもり
:2006/06/11(日) 20:50:30
問答迷人さん、独学徒さん、レス有り難う御座います。
私は最近鬱状態になり、仕事にも支障が出て来ています。創価畑の私にとって、大御本尊を
否定されることは死刑判決を受けることと同じですから。
独学歩さんのの言う通りですが、そうしたら退転、脱会者が続出しますし、自殺者まで出ま
すよ。正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?
1523
:
独学徒
:2006/06/11(日) 21:38:29
ひきこもりさん、
鬱状態とのこと、お見舞い申し上げます。
今はごゆっくりなされる時かと思いますので、先の私の投稿が、不適切であったならば謝罪します。
体調がもどられましたら、またゆっくりとお話したいと思います。
1524
:
犀角独歩
:2006/06/12(月) 09:54:27
わたしが極度の神経症で倒れたのは、26歳の時でした。52年度路線も終息し、石山・学会の和解も成立した頃でした。わたしの大学時代は、まさにこの宗創問題のまっただ中でした。「絶対に正しい先生」と「唯授一人猊下」の両方が正しいの、その二人がいうこと、やることが根本的に気付いていったものでした。その差が決定的であることがわかっていくなか、また、松山俊太郎師の『蓮と法華経』が載る『弟三文明』、また、仏教界の碩学の論文が載る『東洋学術研究』をくまなく読んでもいました。
安永弁哲師の『板本尊偽作論』を初めて読んだのが、その反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』を記した日達氏三回忌の年、ここからわたしの闘病生活がはじまりました。
この病の原因は、やはり、宗教の根本問題を徹底追究していたなかでの、心が壊れたのだと思います。その根治こそ、実はわたしの脱カルトの体験でした。同じ被害者を二度と増やさないために、いまのわたしの社会活動があり、日蓮の教学と石山の彫刻本尊への再考がありました。
彫刻本尊が偽物であれば、多くの脱会者と、自殺者すら出る。自殺者が出たかどうか知りませんが、大量の脱会者が出たことは事実でしょう。
昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称していました。それがいまでは学会は1000万票が獲得できないわけです。法華講に至っては数10万規模まで凋落しています。
先に著学者の話を聞いたところ、実際の創価学会の活動者数は300万人を割っているというのが大方の分析であることを知りました。要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出したということです。
わたしの恩人、宗教病理学の専門家である精神医・高橋紳吾師はPMCS(Post Mind Control Syndrome = 脱カルト後症候群)の提唱者として知られ、JDCC(日本脱カルト研究会)の初代代表理事も歴任しました。
この師こそ、わたしを医学と仏教の側面から診療、カウンセリングした仁でした。元龍谷大学に学び、仏教を極めるために精神医学の知識が必要であると志して、精神科医となり、宗教病理学を研究した人でした。また、共にカルト問題を闘った先駆者でもありました。
わたしが石山彫刻の真偽を言うのは、以上のような自分史を背負ったうえでのことです。二度と同じ苦しみを味わう被害者を出したくない、自分が人に勧めてしまった本尊と教義の実態を自らの手で再考し、その真実をこの世に遺すこと、いま、苦しんでいる人に救いの手をさしのべること、これがわたしの信念であり、いわば、わたしの信・行・学です。
そもそも創価学会では、間違った本尊によって、人は不幸になると説いてきたわけです。もし、脱会者・自殺者が出るとしたら、その原因は間違った本尊、すなわち、模造の偽本尊にこそ、その原因があることになるでしょう。
『苦悶の選択』とは、過去半世紀の信仰と教義、本尊の実態を暴き、その確執から真実を選択する苦しみを表したわたしの標語です。
事実を選択することは、限りない苦悶を経ます。しかし、それこそ、真実に至る避けることのできない道程です。それはまた、幻想から事実への回帰する禁断症状なのかも知れません。
1525
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/12(月) 13:45:17
>1522 ひきこもりさん 横レス失礼します。
ちょっと冷静に考えてみましょう。
もし、自分の親が国を売るスパイであることを知ってしまったら? 子供である貴方はどうするでしょうか?
そのまま偽善のような生活を続けるか、警察に通報するかでしょうね。
親族であれば、どちらの道も有り得るでしょう。ここで私は偽善のような生活といいましたが、幸せな生活なのかもしれません。でもそれは創価学会の今月の座談会御書で問われた絶対幸福と相対幸福の違いみたいなものでしょう?
私はどちらを選択するかを問うているのではないのです。どちらも有りと思います。人それぞれ立場が異なります。
でも私であれば、きっと断腸の思いで通報するでしょうね。実はこれは海外の実話で、通報された親は逮捕の際に子供に感謝の言葉を伝えたということです。(出典は忘れました。どなたかご存知であれば教えてください)
>正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?
「正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」という問いかけは戒壇本尊の真偽問題にはそぐわないですね。なぜならその正本堂はすでに解体されてこの世に存在しないのです。これをいうなら正本堂を解体した人にいうべきでしょう。戒壇本尊の真偽とは別問題です。
そうではなくて「戒壇本尊のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」というのが本来あるべき問いかけです。命の底からの叫びかもしれません。私も、「戒壇本尊のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」という内容の問いを日蓮正宗に、創価学会に問うているのです。そしてそれはこの掲示板に参加している人たちのひとつの目的というか気持ちであると考えます。
>退転、脱会者が続出しますし、自殺者まで出ますよ。
同じことを、創価学会が日蓮正宗と別れるときに言われました。でも別れました。理由はどうあれ、毅然と対応する時はありますね。戒壇本尊は後世のものです。蓮祖当時のものではないという現実を直視して、それからどうするかが大切だと思うのです。
今、創価学会は変わりつつあると私は感じています。今日明日には無理かもしれませんがいずれ、戒壇本尊から脱却する時代が来ると信じています。そうでないと、22世紀まで続く創価学会は有り得ないと思うからです。すでに創価学会の座談会出席者の半分程度は戒壇本尊を見たことがない人たちです。創価学会内では(少なくとも私の廻りでは)戒壇本尊などもはや話題にものぼりません。創価学会会長は未だホンモノといっているようですが、このような時代感覚のない人はそのうちクビでしょう。すでに大白蓮華の巻頭言も秋谷会長から池田名誉会長に代わっていますしね。
私は戒壇本尊が後世のものであるとは言っていますが、信仰の対象ではないとは言っていません。それとこれは別問題です。ですが、蓮祖の御真筆である、弘安2年の作である、などというのはお止めなさいと言っているだけなのです。そのために膨大な史料と日々格闘して考証しているのです。そして問答迷人さんがおっしゃっているように戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない、ということなのです。
1526
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/12(月) 18:00:40
>1524 犀角独歩さん
>昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称・・・それがいまでは学会は1000万票が獲得できない・・・実際の創価学会の活動者数は300万人を割っていると・・・要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出した
この統計処理はちょっと変ですね。1650万人−300万人=1350万人ということでしょうが、根拠とした母数の出処が異なりますので同列で比較できる数字ではないでしょう。そもそも1650万人という数字は相当上げ底ですし、300万人という数字はかなりシビアに捉え籍は置いていても活動していない人を差っぴいた数字と考えられるからです。
もし比較するなら、昭和後期の『宗教年鑑』での創価学会の信徒数と最新版の『宗教年鑑』での創価学会の信徒数を比較するか、300万人を割っているという数字を出した著学者(某学者?著名な学者?)が昭和後期の創価学会の信徒数を何万人と推定しているかを割り出して比較しないとわからないはずです。少なくとも東京都の人口に匹敵する脱会者を出したということはないでしょう。私は昭和後期とそれほど差がないのではと思います。それは選挙での得票数の比較からくる実感です。もちろん数十万人単位での退会者はあったと思います。
正確な統計処理をと言いながら、実感で申し訳けないのですが。
1527
:
パンナコッタ
:2006/06/12(月) 19:28:02
横レス失礼します。
300万以下という数字は、活動家が一人一冊持つ大白蓮華の発行部数からの試算ではないでしょうか。
1528
:
今川元真
:2006/06/12(月) 19:30:54
私も横レス失礼します。 ひきこもりさん、私は板漫陀羅を見ていないせいか漫陀羅は修行の道具と割り切る事ができました。其れと「身延」には『唱題の信・学・行』が21世紀の鍵になるのでは無いかとかメールしました。「学会」には『信・学・行、其れぞれ一人前で三倍』とメールします(戸田城聖さんが知力・体力・時の運で、三倍と考えていたのか解りませんが)。 家の外を見れば、透百合やら菖蒲やら紫陽花やら小薔薇やらブラシの木(日本原産で無い花もありますが)が花を咲かせてます。「信じる心」とは何も日蓮正宗の保持する「板漫陀羅」だけにあるのでは無いのでは無いでしょうか。冷静に考えて「身延の遺骨」もしくは「日蓮正宗の板漫陀羅」に『日蓮大聖人の魂魄』が宿るなら、貴方自身が命を懸けて確認しなければ貴方の修行方法が間違いである事を認めざるを得ないと考えるのですが如何でしょう。貴方が「戒壇の大御本尊」を信じて仰ぐ理由は何ですか?
1529
:
犀角独歩
:2006/06/12(月) 22:26:41
彰往考来さん
わたしは宗教年鑑の1650万人が底上げをした数字であるというより、統監上の名簿上の人数だろうと思います。それはつまり、入会即脱会という数字を含んでいるでしょう。
彰往考来さんがご存じないはずはないと思いますが、昭和42年の正本堂供養者名簿は実名で800万人でしたね。
わたしが退転といったのは、創価学会と接触した人数は以上の経緯からすれば、東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません。
実際創価学会は、正本堂供養の際、舎衛の三億を達成したという口上で750万世帯でしたか。これは1世帯4人見当であろうと想像できます。当時の日本人口が1億人ですから、その3分の1といえば、3000万人ということになります。
この数が架空であると暴露したのは福島源治郎でした。
昭和後期の1650万人は底上げではなく、退会・没減を含まない統監数でしょう。つまり、まがりなりにも創価学会に縁した人数ではないでしょうか。
パンナコッタさん
これが、ところがそうではないんですね。
投票数からの試算のようでした。
1530
:
犀角独歩
:2006/06/12(月) 23:30:59
彰往考来さん、補足です。
数字統計に関しては、わたしの反論は反証されるかも知れませんが、しかし、
> 日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない
これは違います。日蓮の教えは、間違っています。
検証居士さんもご指摘になっているとおり、妙楽絶対主義に立っているわけですし、天台も踏襲しています。また、法華経が釈迦が説いたものであるしていますし、自分が生きた時代を末法だといったことでも間違いだらけです。
しかし、ただ一つ、日蓮が善意と熱意の人であったという精神面…メンタリテ、スピリチュアリティ…という点では、嘘はなかったというほうが適切であると、わたしは思います。
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