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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

1339犀角独歩:2005/09/10(土) 04:09:57

【1338の訂正】

誤)公安2年10月12日
正)弘安2年10月12日

1340犀角独歩:2005/09/10(土) 05:06:52

誤)日憲・当家諸門流系図事
正)日憲・当家諸門流継図事

1341宮本:2005/09/10(土) 19:44:39
犀角独歩さん

 詳細にわたり、説明して下さり
ありがとうございます。

1342彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/10(土) 21:02:17

>1337 宮本さん

彰往考来といいます。
>他宗の事であり、破門である以上、もう大石寺に行く事のない我々には、関係の無い事

平成14年4月1日施行の創価学会会則では、第2条に、

この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_6.htm

とあります。ご案内のように今日にいたるまで聖教新聞や創価新法ではあいかわらず、日蓮正宗管長(日顕さんです)に対して大御本尊を偽物扱いした不届き者として口汚く非難しています。つまり創価学会は、いまだ戒壇本尊を信奉している、少なくとも対外的には本物として扱っていて偽物とはしていないと判断されます。貴殿の周りの創価学会内でもそうなっているはずです。

冷静に考えればこれはちょっと変ですね。貴殿がおっしゃるようにもう関係ないのなら、創価学会が堂々と戒壇本尊偽物論をキャンペーンして日蓮正宗を攻撃すればよいのではありませんか? 今では日蓮正宗の血脈や本尊書写などすべて否定しているわけですから。

少し調べれば戒壇本尊が後世のものであり、4〜5代目くらいの代物であることくらい分かります。5代目は幕末どころかきっと戦後のものです。初代〜3代目までは度重なる大石寺の大火で焼失してしまったと考えます。創価学会の大幹部だって知っているはずです。
なのに秋谷会長以下、創価学会の大幹部は偽物とはしていないのです。そりゃあ、ついこの前まで会員に登山させ拝ませていたのですから、いまさら偽物だなんて言えるかよ!ということかもしれませんけど、私はこのような態度は偽善だと思います。早く真実は真実として発表していただきたいと希望しています。

1343犀角独歩:2005/09/10(土) 22:24:45

彰往考来さん、彫刻否定だけではまだ手ぬるいでしょう。
創価学会が彫刻本尊と決別すると言うことは日寛と決別すると言うことです。
そこまでやらなければ、結局、整合性は採れないでしょう。
もはや、そこまで、転がり来ています。

1344パンナコッタ:2005/09/10(土) 22:40:18
蛇足ですが、
青年教学試験の出題範囲に、分段ベースの「観心ノ本尊抄」をやっているので、
まだまだ無理な気がいたします。 
若手の人たちは解りませんが、教学部の幹部達は完全に確信犯でしょうね。

1345宮本:2005/09/11(日) 00:04:13
彰往考来(しょうおうこうらい)さん

>・・・早く真実は真実として発表していただきたいと希望しています。

 私だって、そうしてもらいたいです。
犀角独歩さんの見解は、大筋、正しいと
思いますから。(私が、言ってもなんの意味もありませんが)
 ただ、まだ当分、無理だと思いますが。いつか、大多数の人に
認められると思います。

1346古池:2005/09/11(日) 16:16:37

彰往考来さん

はじめまして

>少し調べれば戒壇本尊が後世のものであり、4〜5代目くらいの代物であることくらい分かります。5代目は幕末どころかきっと戦後のものです。初代〜3代目までは度重なる大石寺の大火で焼失してしまったと考えます。

と記されておりますが、よろしければ初代から4、5代目までは、それぞれいつ頃どなたによって造立されたのか教えていただけないでしょうか。
なのに秋谷会長以下、創価学会の大幹

1347彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:42:57

スレッド1342で現在の戒壇本尊が4〜5代目であると述べました。これを受けスレッド1346で問い合わせが来ています。この考えは平成17(2005)年3月20日に実施されたオフ会で「大石寺の大火と伝・弘安2年板本尊の関係」という表題で講演し大石寺の本門戒壇の大御本尊(=彫刻本尊:伝・弘安2年板本尊、以下“戒壇本尊”と略します)が4〜5代目であるとの私説を披露しましたものの掲示板などでは紹介していませんでしたので以下その時のレジュメを抜粋し若干加筆修正して投稿いたします。なお現在の戒壇本尊が4〜5代目であるというのは、各種資料を付き合わせるとうまく説明できるということにすぎず、あくまで仮説のひとつに過ぎないということを予めお断りしておきます。

犀角独歩氏は『プレリリース版 必携図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』(平成16年、瓔珞出版事務局、85頁)で戒壇本尊の座配を伝えるものに四種類あり複数存在したのではないかと指摘されています。同書には「彫刻本尊は一体ではなく、時代時代によって再造されながら、数世代、複数存在してきたという仮説を立てました」(同書、92頁)とあります。氏に直接伺ったところでは、「現在の彫刻本尊は慶長元年(元治2年)の大石寺大火の後、造立されたものではないかと考えている」ということでした。
ここでいう四種類の座配とは以下のとおりです。
(a) 日憲図 … 慶長5(1600)年頃。日憲(下総峰妙興寺)「当家門流継図之事」日宗全18巻149頁
(b) 完則図 … 明和年間(1764年)頃。窪田哲城『日蓮聖人の本懐』所収
(c) 木下図 … 昭和30年代か。木下日順『板本尊偽作の研究』口絵
(d) 柳沢図 … 明治44年熊田葦城『日蓮上人』記載写真の解読。柳沢宏道『石山本尊の研究』など

日憲図に対する従来の考え方は、「偽筆なり、とする第一の理由に勧請形式(身延派あたりでは好んで勧請という)を挙げ、おそらく日憲の記録をそのままウノミにしたものであろう。(中略)日憲は何を見てきたのか知らないが、弘安二年の本門戒壇の大御本尊は、日憲のいうのとは、まったく違う」(創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会 批判を破す』昭和37年、鳳書院、24頁)というものでした。つまり日憲図は戒壇本尊の相貌を正しく現していないというものです。
戒壇本尊が時代時代によって再造されながら複数存在してきたのであれば、異教徒による破壊や焼失、強奪など消滅した理由があるはずです。消滅理由のうち最も起こりやすいのは火災による焼失でしょう。いざ火災となった場合に文書や紙幅の御本尊などとは異なり、「重さが推定でも75キロ(半丸太説に従えば270キロ)」(美濃周人『日蓮正宗創価学会 謎の大暗黒史』1994年、三一書房、27頁)の戒壇本尊を火災の際に持ち出すのは極めて困難と考えられるからです。そこで戒壇本尊が何回か火災で焼失しているのか文献・資料上で検証してみました。
検証方法のロジックは
①各種の資料に記載された戒壇本尊の内容と何回か発生した大石寺の火災記事とを時系列で並べる。
②火災の前後で戒壇本尊記載内容に変化点があるか検証する
③②で変化点がある場合は、戒壇本尊が焼失し再造されたと仮定する
④②で変化点がない場合は、戒壇本尊はその火災では焼失していないと仮定する(小さい火災もここに含める)
としました。

検証の結果、驚くべきことに戒壇本尊が火災で焼失し再造され複数存在したとの仮説がうまく説明できるということになりました。以下、検証結果を記します。

1348彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:43:40

1347の続きです。

 『富士年表』(昭和56年、富士学林)を紐解くと富士大石寺の火災記事は以下の11件がみられました。
(1)永禄12(1569)年 大石寺焼失
(2)寛永8(1631)年(寛永12年説あり) 大石寺諸堂焼失
(3)文化4(1807)年 大石寺塔中理境坊焼失
(4)安政7(1860)年 大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失
(5)元治2(1865)年 大石寺客殿・六壺・大坊焼失
(6)慶応元(1865)年 大石寺蓮葉庵坊焼失
(7)明治42(1909)年 大石寺塔中百貫坊焼失
(8)大正13(1924)年 大石寺塔中本境坊焼失
(9)昭和5(1930)年 大石寺塔中本境坊焼失
(10)昭和8(1933)年 大石寺塔中蓮葉庵焼失
(11)昭和20(1945)年 大石寺大坊〔対面所・大奥・書院・六壺〕・客殿等500余坪焼失

 これらのうち、(3)はその前後である明和年間(1764年頃)に書かれた完則図の寸法と文政6(1823)年の「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集第5巻』昭和53年、創価学会、334頁)で戒壇本尊の記載寸法に差がなく、(4)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)はそれぞれ小規模な火災のため戒壇本尊の焼失はなかったと判断できるでしょう。(11)は当時戒壇本尊が御宝蔵にあったと考えられるので焼失は免れたと思います。
 では残った3件の火災記事と上記(a)〜(d)に記載した四種類の配座図記述時期をはめ込んでみましょう。

(1)永禄12(1569)年 大石寺焼失
(a)日憲図 … 慶長5(1600)年頃。(丈151.5cm x 幅72.7cm)
(2)寛永8(1631)年(寛永12年説あり) 大石寺諸堂焼失
(b)完則図 … 明和年間(1764年)頃。(丈143.9cm x 幅65.1cm)
(5)元治2(1865)年 大石寺客殿・六壺・大坊焼失
(d)柳沢図 … 明治44(1911)年。(丈141cm x 幅66cm)

ここで(a),(b),(d)は時系列的にうまくはまり、(c)の木下図ははまらないことがわかりました。木下図は出所・作成年が不明ですが仮に昭和30年頃としても明治44年の本尊写真を基にした柳沢図と一致せずはめ込めないのです。なお(d)の柳沢図は熊田葦城著『日蓮聖人』(明治44年、報知社)記載の戒壇本尊写真の解析図ですが、柳沢師の『石山本尊の研究』(平成9年、はちす文庫)では寸法を143.92 x 65.15 cmとしています。これは「富士大石寺明細誌」もしくは完則図にある長四尺七寸五分 横二尺一寸五分とある記載の尺貫法からメートル法への換算(1寸=3.03cm)と思われます。そこで柳沢図での寸法は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院)記載の戒壇本尊寸法を採用しました。
(1)、(2)、(5)の火災規模はどうだったのでしょうか。(1)の永禄12(1569)年の火災は大石寺焼失とあるので規模は大きかったと考えます。このすぐあと、日主師がお虫払いを実施していますが、「御筆(大聖人)数十二通、御筆の大本尊一包同く三包」(『富士宗学要集 第八巻』昭和53年、創価学会、43頁)とあるように記録された霊宝はごく僅かで惨憺たる内容です。これは火災の規模が大きかったことを示唆しています。主師の記録では戒壇本尊の記載がみられませんので戒壇本尊が焼失した可能性を否定できません。

1349彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:44:25

1348の続きです。

(2)の寛永8(1631)年(寛永12年説あり)の火災規模も大きかったと考えます。寛永12年説をとる『地湧からの通信⑦』(1991年、はまの出版、152頁)では天保9(1838)年に大石寺が韮山の代官に出した口上覚を紹介していますが、それによれば「寛永十二年十月十二日之夜寺中より出火本堂山門坊舎不残焼失仕」とあります。寛永12年説をとるなら、「戒壇の御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置・・・この只今の御影堂は三百四十年前(引用者注:寛永9年)の建立」(日達上人御指南「大日蓮」昭和48年2月号)とあるように当時、戒壇本尊は本堂(御影堂)にあり、本堂とともに焼失したということになるでしょう。もちろん寛永8年説であっても戒壇本尊は焼失した可能性があります。
(5)の元治2(1865)年も大火であったと考えます。「露上御自伝」によれば、「二月廿八日ノ夜半大坊ノ下男部屋ヨリ出火シ構内一宇モ残ラズ焼亡スト 是ヲ聴キ大愕非動シ遽ニ東行ヲ止メ直チニ帰山ヲ計ル」(『地湧からの通信 別巻②歴史編』1993年、はまの出版、27頁)とあり大惨事であったようです。“構内一宇も残らず焼亡す”とのことですから、戒壇本尊も焼失してしまった可能性が高いでしょう。

ここで戒壇本尊の寸法に注目しましょう。時系列でみると、(a)→(b)→(d)といくにつれて特に戒壇本尊の丈が除々に小さくなっていくのがわかります。これは焼け残った楠板(半丸太?)を基に再造された可能性があることを示唆するものではないでしょうか。

戒壇本尊の配座を記した3点の戒壇本尊図が火災のあった時点から40年くらい後に成立しているのが非常に興味深いところです。再造期間が30〜40年程度かかるということでしょうか。また日憲師、完則師、熊田師の3師は皆石山の信者ではありません(熊田師は『日蓮聖人』執筆の後入信しました)。焼失してから再造までは当然ながら誰にも見せられず再造されると、待ってました!とばかりに他門流の者にも見せているのではないかと思えるほどです。

さて、完則図には天照大神と八幡大菩薩が配座していないという不信点があります。弘安期の蓮祖御本尊であればこのようなことはなく、完則図の信憑性を疑問視する向きもあります。これ対して私は、完則図に書かれた「伝・弘安2年板本尊」を作成する際に使用した原本の御本尊にある天照大神と八幡大菩薩がかなり下方に位置していて、腰書(右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主弥四郎国重 法華講衆等敬白)を入れるためにはバランスが悪いので戒壇本尊作成者が除去したためではないかと推定します。このような天照大神と八幡大菩薩が首題の日蓮より下方に座する例は『奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)の第57番や『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)に記載のある富久成寺蔵の御本尊など日有師の御本尊にみられます。日顕さんが「河辺メモ」で「その他は時師か有師の頃の筆だ」(『法主詐称』、2003年、エバラオフィス、94頁)と仰っていることを考え併せると興味深いものがあります。

富久成寺蔵の有師本尊は日精師の「家中抄」に記載があり、「小野里八郎授与の本尊に「文明七年」云云、又幸島富久成寺の守本尊に「土佐吉奈右京太夫に之を授与す文明八年七月十五日日有判」已上」(『富士宗学要集 第五巻』257頁)とあります。ここで出てきた文明八年の守本尊は『三和町史』に記載がなく富久成寺では曾存したものと思われます。精師は時系列的に見れば完則図で著わされた戒壇本尊を造立した可能性を持つ法主と考えますが、文明八年の有師本尊は守本尊のため小振りと推定できますのでこれが原本になったとは考え難いでしょう。

1350彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:45:10

1349の続きです。

もうひとつ言えることは、火災のあと引退した御隠尊猊下が再登座する例がみられるということです。寛永8(1631)年(寛永12年説あり)の火災後には18世日盈師に替わり17世日精師が再登座していますし、元治2(1865)年の火災後には53世日盛師に替わり52世日露師が再登座しています。まさに異常事態といえます。本来ならば現役法主が火災の後復興に向けて陣頭指揮をとるはずなのですが、戒壇本尊焼失により石山が深刻な事態となり急場をとりまとめるため御隠尊猊下が再登座したのではないかと考えます。
明応2(1493)年の「重須日浄記」に「日有此頃未見未聞ノ板本尊ヲ彫刻シ」とあることから、永禄12年の火災である(1)以前に戒壇本尊があったのは確実であり、この初代(?)戒壇本尊は永禄12年に焼失してしまったのではないでしょうか。本仮説を基に数えると明治44年熊田葦城『日蓮上人』記載写真の戒壇本尊は4代目ということになります。
最後に現在の「伝・弘安2年板本尊」は昭和40年代にできたレプリカであるという説があります。玉井禮一郎師の『創価学会の悲劇』(平成4年、たまいらぼ)に「富士大石寺明細誌「末代不朽の為に楠の板に書く、厚サ二寸二分、堅(タテ)四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」(富要集五巻三三四頁)と書かれてあるこの板本尊のホンモノは、半円筒型の半丸太に文字を彫ったものであるが、現在の正本堂に鎮座しているソックリさんは、創価御用達の仏具屋に作らせた新品といわれ、古いほうはそのとき大石寺の若い僧たちが肩にかついで宝蔵にしまったといわれている。このとき、板本尊をかついだ僧侶の話では、大石寺の明細誌にあるような、二寸二分の厚さをもつ板ではなく、半丸太で、下部はすでに腐りかけていたという。」(同書、25頁)とあるのです。板本尊で下部が腐りかけているということは相当量の水を吸ったためでしょうか。つまり火災に遭い消火のために大量の水をかけられたと示唆されるわけです。もしレプリカ説が真実であれば、現在の戒壇本尊は5代目となります。
つまり初代は有師の時代、2代目は主師か昌師の頃、3代目は精師の時代、4代目は応師の時代、そして5代目があるとするなら、それは達師の時代ということになります。

以上の内容をまとめると、

・ 戒壇本尊が焼失するような大石寺の大火は、永禄12(1569)年,寛永8(1631)年(寛永12年説あり),元治2(1865)年の3回あった。
・ その結果、戒壇本尊は何回か焼失し再造された可能性がある。
・よって日憲図、完則図、柳沢図が異なっているのは戒壇本尊の再造の為という仮説が成り立つ。反面、木下図は時期不明で正しい配図かどうかわからない。
・完則図に天照大神と八幡大菩薩が配座していないのは、該板本尊の作成者が腰書を入れるために削除したのではないかと考える。
・現在の戒壇本尊は4〜5代目の可能性がある。

ということになりました。

by 彰往考来(しょうおうこうらい)

1351犀角独歩:2005/09/12(月) 10:43:01

横レス、失礼いたします。

1347〜50、興味深く拝読いたしました。

火事との相関で彫刻本尊の再造をお考えになる御説、先のご発表と共に興味深く承っております。

ここで彰往考来さんが述べていらっしゃらないのは、では、初代はいつ造立されたのかという点。あと、これはオフ会でのフリートークの話ですが、正本堂建立時、奉安堂建立時などで突然、彫刻本尊がきれいになるという現象は何に由来するのかという点も再造を論じるテーマとしては考慮される点であろうと思えます。

初代のことについてはれんさんをはじめ、皆さんのご賢察が参考になりますので、ここでは取り敢えず置きます。(わたしは有師造立説、また、示書からの類推には落着していませんが)

「きれいになる」というのは、堂宇建立遷座に併せた修繕(お清め)ということでしょうが、これが黒漆・金箔張文字という仕上げによる正式な作業であれば、数ヶ月から半年はかかります。まさか「本門戒壇の大御本尊」を修繕するのに、カシュー・ラッカーやら、金色の塗料で誤魔化すようなことはしないというのが常識的な感覚です。しかし、ここ半世紀の石山の歴史を見るに昭和30年に奉安殿に、昭和47年に正本堂に、平成10年に奉安殿に、平成14年に奉安堂にと次々と‘遷座’されていったわけですが、移動直後に拝観した人の話を聞くと一様にきれいになったというわけです。また、富士(桜)さんがたしかご投稿くださったことですが、ある日、突然、ピカピカになったという話、また、ある時から、腰書(右造立如件…弘安二年十月十二日)の文字に金箔が入ったという話など不可解な拝観感想が寄せられてきました。

実際の話、以上の移動(遷座)、もしくは「きれいになった」その前に数ヶ月単位で、拝観が停止されたという事実はあるのでしょうか。もしなければ、ここでも彫刻本尊は複数存在するか、もしくは安価な速乾性の塗料で直していることになるわけです。このようなことから「本当に楠材なのか? 漆・金箔なのか」「何体かあって、修繕しては取り替えているのではないのか」という再造とは別の、現代型(禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為された彫刻)のものでも何体か複数にあるのではないのかという疑惑が生じることになるわけです。

そうなると4〜5代という再造説に併せて、複数説というものも考慮されなければならないことになります。

まあ、禅師授与漫荼羅原本の臨模・作為を弘安2年10月12日日蓮直造と言って憚らない大石寺のこと、以上のような次第であっても今さら驚くに値しないかも知れません。

1352彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 12:54:22

>1351犀角独歩さん

>初代はいつ造立されたのかという点

これは難しいです。戒壇本尊の文献上の初出は、明応2(1493)年の「重須日浄記」にある「日有此頃未見未聞ノ板本尊ヲ彫刻シ」(『本宗史綱』247頁)との記載ですが、「紫宸殿御本尊」の模刻のこととの反論もあり、これをもって有師が初代を造ったと言いきれるかどうかということになります。私は有師が極めてクロに近いという考えではあります。

>正本堂建立時、奉安堂建立時などで突然、彫刻本尊がきれいになるという現象・・・数ヶ月単位で、拝観が停止されたという事実はあるのでしょうか

正本堂建立時にきれいになったかどうかわかりませんが、あの時は数ヶ月単位で拝観が停止されたことはなかったと記憶しています。
私事ですが、私の初登山は高等部(高校3年)の時で昭和47年8月でした。(年がバレちゃいますね。)戒壇本尊拝観場所は奉安殿で、狭いところで「立って、座って」の繰り返しであったのと、戒壇本尊が防弾ガラス越しだったのを記憶しています。そのあと同じ年の10月に正本堂が完成し、間なしに記念登山でした。8月の段階でまだ奉安殿で拝観できたわけですから、その間に造り直しは無理でしょう。ただ防弾ガラス設置の際は当然、拝観停止になっていたはずで、その間に入れ替えは有りえることだと考えています。ガラス越しになったことで見え難くなる・・・ということは交換した事実が発覚し難いわけです。あくまで推定ですが。
もちろん当時月末は登山がありませんでしたからやる気ならいつでも入れ替えはできるでしょう。レプリカ作成は戒壇本尊の写真をとって写真を基に製作されるわけですから、数ヶ月の拝観停止がなくても交換はできると考えます。

4代目がもし、御宝蔵にでも納められていて、その代わりに現在の5代目が奉安堂に安置されているなら、5代目は4代目の“御前立本尊”ということになるでしょう。しかし、それを蓮祖の御真筆と主張するとどうでしょうか。それはおかしいと思うわけです。

思えば初登山の昭和47年から少々疑問に思い、それから調べ出したわけで、いやはや30年以上経ってしまったなあという思いです。

1353独学徒:2005/09/12(月) 18:15:27

>彰往考来さん

ご発表のあったオフ会には参加できなかったので、火事と彫刻の関係について、初めてご見解を拝聴いたしました。
素晴しいご投稿を拝見でき、彫刻に関する新たな理解が深まったと感じました。
有難う御座います。



>木下図は時期不明で正しい配図かどうかわからない。

この木下図は、二次資料・三次資料を元に書かれているような気が致します。
本化妙宗聯盟の高橋智遍師の著作『創価学会が真実なら』−私は日蓮聖人の信仰をやめる−には、ほとんど木下図と同様の彫刻座配図が出てきます。

木下図と高橋図の違いは、
①木下図は手書き、高橋図はワープロ(タイプ?)
②木下図は「菩薩」を略文字の「丼」を使っているが、高橋図は略さず「菩薩」となっている。
③作成縁起内の「法華講衆等」(木下図)の部分が、高橋図では「法華講衆」となっており、「等」が抜けている。
④「年月日」が木下図では、1行で書かれているが、高橋図では「年」で1行、「月日」で1行の2行書きとなっている。
⑤木下図は旧字を新字に改めている(例:大持國天王の「國」を「国」としている)が、高橋図は旧字を使っている。

しかし、勧請諸尊の種類と座配、上部に八の字に「福過十号」・「頭破七分」の散文があること。
主題直下は2列で「日蓮 花押」となっているところ等、全体感はほぼ同じものといった感じです。

どっかにこれら両者の原図となったものがありそうなんですが、、、
やはり高橋図も出所不明です。

1354古池:2005/09/12(月) 21:45:38

彰往考来さん

詳細で内容の豊かなご説明に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
よく熟読いたします。
心より御礼申し上げます。

1355犀角独歩:2005/09/13(火) 00:02:07

彰往考来さん

わたしが有師造立に疑義を示す理由は実に簡単です。
たとえば引用される『重須日浄記』というのが正本が存在するのでしょうか。
わたしは日浄記もさることながら、その資料的証憑性を考証しない本宗史綱、宝冊、大石寺誑惑顕本書などの信頼度は極めて低いと考えます。故に有師造立説は根拠が薄いという考えです。

あと、完則図の漫荼羅相貌に天照八幡がない理由は下にあったから削除したという御説には反対です。わたしは、この漫荼羅が奉安されていた当時、たぶん、大石寺には八幡を祀る社と天照大神を祀る垂迹堂、もしくは天主堂があり、分社勧請されていたので、この二神を漫荼羅が削ったのではないのかと考えています。日量の大石寺明細誌などの記述を見ての考えです。


独学徒さん

菩薩の代わりに置かれる時は「丼」ではありません。これは「草冠にサ」と書く菩薩を意味する略字です。一節には空海が考案した字であるといわれています。日蓮聖人もこれを踏襲しているわけです。

1356犀角独歩:2005/09/13(火) 00:03:18

一節は「一説」の間違いでした。訂正します。

1357独学徒:2005/09/13(火) 00:18:16

>1355
犀角独歩さん、

ご指摘有難う御座います。
よくよく眼を凝らしてみてみれば、仰せの通りですね。また一つ勉強になりました。
先の私の投稿は、木下師にも大変に迷惑な投稿となってしまいました。
申し訳ありませんでした。

1358犀角独歩[TRACKBACK]:2005/09/13(火) 00:24:46

独学徒さん

そういえば、この件は過去に投稿したことがありました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033939859/r74-r76

このジャンプ先のjpgはクリックしても飛びませんので、コピペして[アドレス(D)]に貼ってください。

『省書』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg

1359独学徒:2005/09/13(火) 07:00:49

犀角独歩さん、お早う御座います。

画像の方、保存させていただきました。
再度のご教授感謝申し上げます。有難う御座いました。

1360彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:32:31

>1355 犀角独歩さん

> 引用される『重須日浄記』というのが正本が存在するのでしょうか。
そうです。従って有師造立説がいいきれるかどうかということでしょう。確実性のない資料に基づくと思わぬ落とし穴にはまる可能性があります。

> 大石寺には八幡を祀る社と天照大神を祀る垂迹堂、もしくは天主堂があり、分社勧請されていたので、この二神を漫荼羅が削ったのではないのか・・・日量の大石寺明細誌などの記述
う〜ん。日量の大石寺明細誌などの記述を基に再考してみましょう。

1361彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:36:16

>1351 犀角独歩さん

> 現代型(禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為された彫刻)のものでも何体か複数にあるのではないのか

これは面白い視点ですね。そんなバカなと言い切れない部分があります。状況証拠を整理していずれ投稿したいと存じます。

1362彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:44:08

>1353 独学徒さん

木下図についてまとめてみました。ご指摘のように木下図にはAとBの2系列があります。
独学徒さんが指摘されたその特徴は、

A系列:菩薩が略字の井(草冠にサ)である、法華講衆等とある、弘安二年十月十二日で1行、旧字を新字に(例:國→国)
B系列:菩薩が略字ではない、法華講衆(“等”がない)もしくは法華衆等(“講”がない)、弘安二年で1行、十月十二日で1行の2行書き、旧字のまま(例:國)

というものでした。

これら2つの型式が、どの資料に記載されているかというと、
【A】:
(1)木下日順『板本尊偽作論の研究(再版)』(発行年不詳、本門社、巻頭口絵)
【B】:
(1)高橋智遍『創価学会が真実なら』(昭和35年12月28日、信人社、49頁)
(2)村上重良『創価学会=公明党』(昭和42年11月15日、青木書店、70頁)
(3)玉井禮一郎『創価学会の悲劇』(昭和63年11月25日、たまいらぼ、26頁)

となっていてA−1の木下図以外はBタイプです。Bタイプのうち法華講衆とあるのがB−1,3、法華衆等とあるのが、B−2です。A−1は発行年不詳ですが、巻頭写真に日達師の写真(大石寺66代 細井日達と紹介されています)があるので、昭和34年11月(達師の登座は昭和34年11月15日)以後であることが確実です。また参考資料に「創価学会発行 批判の妄説を破す」があり、これが昭和37年に創価学会教学部発行の「日蓮正宗創価学会 批判を破る」(この書に「「創価学会批判の妄論を破す」が入集しています」と考えられることから昭和37年以後であり、同じく参考資料に大白蓮華(月間)約百冊とあり、同雑誌は昭和30年創刊ですから、創刊号から百冊目は昭和39年5月号となるはずですからA−1は昭和39年頃の執筆と考えてよいでしょう。そうするとA−1はB−1とB−2の間の発行となります。つまりB−1のほうがA−1より古いのでB−1がA−1を参照したということは有り得ません。またA−1がB−1を元にしたとは考え難いものがあります。このような相貌図の場合、簡略図を書くならともかく、原本にない略字などはわざわざ使うとは考えられませんからAの特徴はBを写して書いたとは思えないのです。よってA−1、B−1ともそれぞれネタ本があったと考えます。B−2、B−3はB−1を履修したのではないかと思います。

1363彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:44:35

1362の続きです。

さてA−1の木下図ですが、これの情報提供者は日蓮正宗のO師であるという情報があります。文献資料では確認できず信憑性は解からない話ですが、O師が第二次世界大戦中、御本尊写真(恐らくは戒壇本尊)をお守りとして配っていたという証言があることから(『地涌からの通信26』(1993年、はまの出版、206頁)A−1記載の戒壇本尊写真はO師から入手したものと考えることもでき、O師による情報提供も有り得る話と思います。誰が情報提供者であれ、A−1やB−1にネタ本があったことは確実ですがどうもそのネタ本の相貌が間違っていたようです。
相貌が間違っていることを示す例としてA−1に代表される一連の木下図では第六天魔王、転輪聖玉、大龍玉が見られないことが上げられます。弘安期の蓮祖御本尊では66番、70番、72番、90番といった略式以外は必ず第六天魔王はお出ましになっているからです。戒壇本尊の相貌でこれらの諸尊の配座が見られないのは少なくとも蓮祖御本尊の配座図とすれば致命的欠陥とも言える疑義があるわけです。また、妙楽、竜樹、阿修羅玉などを欠いているのも不信です。これら諸尊を欠く内容がA−1とB−1で完全に一致することから、A,B2系列は同一のネタ本が使用され、各々の著者が不鮮明な戒壇本尊写真を基に解析したのではないと判断いたします。
“國”字と“国”字ですが、現代仮名遣いでは“国”の旧字は“國”です。ところが禅師授与漫荼羅、第92番、第93番など蓮祖の御本尊における大持国天玉は“国”字なのです。これは現代仮名遣いの考えからみると逸脱するように見えますがそうではありません。例えば“からぐらねっと” に真蹟写真からの立正安国論の「国」字体解析が紹介されています。

http://www.ginpa.com/karagura/library.html

それによれば立正安国論の「国」字は4種類72箇所に分類され、囗構えに「民」の字体が56箇所、囗構えに「玉」の字体が11箇所、囗構えに「或」の字体が4箇所、囗構えに「王」の字体が1箇所となっています。つまり “国”の旧字が“國”というわけではなく 蓮祖は“國”と“国”を併用されているのです。上述のとおり蓮祖御本尊では明確に“国”字が使われていますからB−1で“國”字となっているのは著者による作為と考えます。もしそうだとするなら、この作為は初歩的なミスでお粗末なものです。恐らくB−1で使用されたネタ本は“国”字となっていたはずで、B−2,3とも“國”字となっていることからこの2つはネタ本からの解析ではなくB−1の履修であることが裏付けられるでしょう。“菩薩”の略字も同様と考えます。このことからA−1の木下図が最もネタ本を忠実に現わしているといえるのではないでしょうか。
このネタ本がなぜ諸尊の欠落をもたらしていたのでしょうか?これは今となっては推測するしかありませんが情報提供者が戒壇本尊の御開秘の際に見た記憶をたよりに作った相貌図であって遠くから見ていたために部分的な欠落を生じたというようなことなのでしょう。いずれにせよA−1もB−1も戒壇本尊の相貌を正確には現わしていないと言えるわけで、木下図は信憑性に欠けると判断いたします。

by 彰往考来(しょうおうこうらい)

1364独学徒:2005/09/13(火) 08:08:04

彰往考来さん、お早う御座います。

朝のお忙しい時間の中、木下図に関しまして、種々お教えいただき有難う御座います。

1365犀角独歩:2005/09/13(火) 08:59:15

彰往考来さんのご投稿が乗ってきて、俄然、活気づいてきました。
独学徒さんも、おはようございます。

クニの字についてですが、仰るとおり「国」の旧字が「國」ではありませんね。
ご指摘のとおり、『立正安国論』の日蓮自著の題名は「国」になっていますから。
また、真筆漫荼羅の大持国天玉のクニの字も「国」です。

これはかなり古い記憶に属し、たしか創価学会の、もしかしたら池田さんの講義で読んだことであったと記憶していることなのですが、以下のようなことでした。

国=王(玉)が治めることを意味するクニ
口@民=民から考えたクニ
國=或は武器を意味し、武装して治められるクニ

つまり、おなじクニでも、その字によって意味を殊にしているということです。
これは顕正会批判の海賊ビデオや、松岡氏などがいうような日蓮仏法が民衆仏法であるから口@民であるなどということではなく、日蓮は最低でも3種の見地からクニを論じていたという意味です。この説はたしか池田さんの講義として、30年以上前にわたしは読んだと記憶していることです。いま、資料を捲る時間がありませんが、この根拠はたしか日寛であったとも記憶しています。漢和辞典、字源などで当たれば明確になるでしょう。

クニの字は他にも本圀寺という名称に使われる「圀」などもあり、これまた、意味を異にするのでしょう。クニといえば、何でも一緒というこの単純化は、戦後日本語教育、教育漢字やら、当用漢字、さらに新聞語法、ニュース用法というなかで単純化され、一本化された‘改悪’によって本来の意味を喪っていたのでしょう。

もう一点。木下師のネタ元がO師。安永弁哲師の『板本尊偽作論』もそうであったとのことでしたね。

この是非については置きますが、図に関して彫刻本尊の勧請座拝その他の考証で重要な点は上部に、屋根のように中央から左右に記されてある釈文「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」でしょう。なぜ、この図にはこの文が入っているのか、それも特徴的な書き方です。図の原本を探る鍵になると思います。

1366彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 12:04:33

>1365 犀角独歩さん
> クニの字は他にも本圀寺という名称に使われる「圀」などもあり、これまた、意味を異にするのでしょう。

“圀”は則天武后(そくてんぶこう)の作った漢字で則天文字といいます。“圀”は今でも残る則天文字のひとつで水戸光圀の“圀”で有名です。
彼女(則天武后)は、本来の「国」という字は、玉が囲まれているのが気に食わない、彼女の国は世界の八方を囲むものである、としてこれを造ったとされてます。

http://www.mirailaw.jp/coramu.htm

なお本圀寺ですが、もとは「本国寺」と号しましたが、第十九世日廷(にってい)上人の1680年代に水戸光圀の熱心な外護を受けたことから、本圀寺と改めるに至ったと伝わります。

http://www.kosaiji.org/hokke/honzan.htm

水戸光圀は最初は光国という名前でしたが、“国”の字は幕府に対して恐れ多いということで、一段下の則天文字の“圀”に改名したと聞いたことがあります。則天文字は現在の中国では残っておらず、日本で残っているのは興味深いことです。

1367パンナコッタ:2005/09/13(火) 13:54:58
補足としまして国の字が意味すると云うのは、
 ①(天に対する)地。大地。 = つち。 ⇔ あめ。
 ②国土。国家。日本国。
 ③行政上の一区域。
 ④国ごとに置かれた地方行政府。国府。
 ⑤地方。いなか。村。
 ⑥故郷。ふるさと。
 ⑦国の政治。
 ⑧帝位。皇位。統治権。
 ⑨行政区分上の国よりも小さな地域。郡など。
              旺文社 古語辞典 より引用

形声。國は、ロ(四方の城壁や境界の封を表す)が意符。或(転音コク)が音符。狭い領地あるいは
国都を表す。或は國の原字。戈(守備を表す)・ロ(人を表す)・一(土地を表す)の合字で、
人の集まり住んでいる土地、すなわち、上代の都市国家的なくにの意。本義は広い領土をも含む邦とは別。
国はもと俗字に点を加えたもの。
              大修館書店 新漢和辞典 より引用。

1368独学徒:2005/09/13(火) 20:16:11

犀角独歩さん、彰往考来さん、パンナコッタさん、

皆様、色々と有難う御座います。

全くです。「國」を旧字などとは、日本人にして国語を無視した投稿でした。

自分の無学さをさらけ出すことによって、皆様に助けられ、また一つ勉強になり重ねて感謝申し上げます。
有難う御座いました。

1369彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/14(水) 18:08:38

>1368独学徒さん

>「國」を旧字などとは、日本人にして国語を無視した投稿でした

いえいえ、そんなことはありませんよ。ちなみに手元の漢和辞典(阿部吉雄編『漢和辞典』昭和50年新訂版第3刷)の“国”の項には、

「旧字体の國は、囲む意の囗と、音を表し、同時に、境界を示す或ワク・コクとから成る」

とあります。つまり教育漢字の「国」の旧字体は「國」と教えられているのです。

スレッド1362〜1363で高橋智遍『創価学会が真実なら』(昭和35年12月28日、信人社、49頁)(=B−1)において「國」字が使われているのは、いわば世間の常識(「国」は教育漢字だ→「国」の旧字は「國」だ→だから鎌倉時代は「国」ではなく「國」のはずだ)から変更したと考えられるので作為であると申し上げたわけです。実際に蓮祖の御本尊写真をよくみれば解ることです。その意味で木下日順『板本尊偽作論の研究(再版)』(発行年不詳、本門社、巻頭口絵)にある木下図はネタ本の原型をよくとらえているのではないでしょうか。

そうすると、木下図は無視できないかも知れません。不十分ながら戒壇本尊を実際に見て作成された配座である可能性があるということです。

1370独学徒:2005/09/15(木) 17:24:34

>彰往考来さん

日本語は難しいですね。

木下図の一件は、やはり写真資料の必要性を痛感する次第です。

1371古池:2005/09/19(月) 07:46:21

彰往考来さん

先日はありがとうございました。

1352で「御前立本尊」という言葉を記されていますが、この意味を教えていただければありがたいです。

1372彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 11:57:30

>1371 御池さん

お薦めスレッドの240, 249, 281を参照ください。

彰往考来

1373彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 12:20:31

>1372 誤記訂正

誤:>1371 御池さん
正:>1371 古池さん

大変失礼いたしました。謹んで訂正いたします。

彰往考来               拝

1374古池:2005/09/19(月) 14:45:20

彰往考来さん

御前立本尊について拝見しました。
大変ありがとうございました。

1375犀角独歩:2005/09/19(月) 19:18:23

小池さん、
彰往考来さん

いちおう、見解として述べておきますが、宝蔵、奉安殿、正本堂、奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるという憶測に関しては、わたしは反対です。

なぜならば、あの大きさは、石山文献に載ってきた縦横とほぼ一致しているからです。これらの記述は御前立本尊のものではなく、「本尊」そのもののものであるはずからです。お上に提出した文献が御前立本尊のものであるなどということは考えられないということです。

いずれにせよ、中世の御開帳に、言われるような「御前立本尊」を見せたと、石山僧俗が言うのであればそれは言わせておきましょう。

しかし、いまからわずか40年前、それを正真正銘の本物であるということから800万人から500億円近くを集めたにもかかわらず、「あれは御前立本尊。たがか一般の俗衆に本物など見せるわけがない」などという封建的な暴論を振り回すのであれば、その“屁理屈”は、この現代にあっては、詐欺、ペテンであると、わたしは断言しておきます。

1376犀角独歩:2005/09/19(月) 19:27:40

1375に対する自己レスです。

> 「御前立本尊」…憶測…反対

あれは、まあ、こう考えるほかないような代物だが、そう石山僧俗が主張して責任逃れをすることには反対という意味です。

1377彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/20(火) 15:14:25

ちょっと誤解があるといけないので記します。

正本堂に安置され、現在は奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるかどうかを議論するためには、スレッド1287で問答迷人さんが、
>達師が嘘を言ったとは考えにくいので、正本堂に安置された彫刻本尊は、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊ではなく、そのレプリカであったということ
>御宝蔵、或いは別の場所かも知れませんが、何処かには、半丸太の彫刻本尊が納められている

といわれていることが前提となります。つまり現在、奉安堂に安置されている彫刻本尊はレプリカでかつ板であり、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊(=明治44年発行の熊田葦城著『日蓮上人』にて写真公開された彫刻本尊)は半丸太で御宝蔵かどこかに今も納められていて一般信徒(檀家を含む)には公開されていないという前提です。

レプリカであり、かつそれを礼拝の対象にしていて、さらに未公開のレプリカの基になった本尊があるというのであれば、そのレプリカは「御前立本尊」に該当するような立場であるということです。

しかし、石山では公式には新旧二体あるとはいっていませんし、現在奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるとも言っていませんので、「御前立本尊」と言うには無理があるでしょう。

私が申し上げたいのは、レプリカなら本物ではなく、せいぜい「御前立本尊」がいいところですよということです。まして御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊が幕末から明治にかけての作成とするなら、現在、奉安堂に安置されている彫刻本尊は近年のもののレプリカということになり逆に「御前立本尊」とは言い難いです。

犀角独歩さん、
>1375なぜならば、あの大きさは、石山文献に載ってきた縦横とほぼ一致しているからです。これらの記述は御前立本尊のものではなく、「本尊」そのもののものであるはず

寸法については確かに石山のように「御前立本尊」ではなく“本物”とシラをきるならそうでしょうが、「御前立本尊」の寸法はレプリカである以上、「本尊」そのものと同じ大きさであってもよいのではありませんか? もちろん違う寸法も有り得ます。実はこの点、私はひっかかっているのです。「御前立本尊」の寸法ウンヌンはどちらかと言えば枝葉のことかもしれませんが、創価学会が戒壇本尊の一回り小さい板本尊のレプリカを所蔵していることを示唆するような資料があるからです。なぜ原寸大の板本尊ではないのか疑問なのです。

1378犀角独歩:2005/09/20(火) 15:42:58

彰往考来さん

大石寺で宝物展をやったとき、あそこに展示されたものは日興数珠から何からなにまで、レプリカだったそうで、それを有り難そうに見ていたら、知り合いの警備をやっている法華講青年部員が「あれは全部、偽物ですよ」と耳打ちされたことがありました。まあ、未確認な話です。似たようなことで、学会宝物展で、池田さんが若いとき使っていたという欠けた鏡(片割れを親族が持っていたとかいないとかいうもの)、戸田さんの牢獄の牛乳瓶の蓋で作った数珠など、感動してみたものでしたが、これまた、警備の学会青年部にあれはレプリカですよ」と笑われたことがありました。

御前立本尊が、本物(本物という偽物でしょうが)と同じ大きさでもよいというのは、まあ、それはそうでしょうが、しかしそれはでは、まさにレプリカ、複製、身代わりということになるでしょう。

この議論の発端は複数あると思いますが、一説には(確認された話ではないので、現時点ではあくまで噂話ですが)半丸太の後ろ側が厨子になっていて、そこに信者に公開しているより小さな板本尊が入っており、それは板に墨書きになっている、これが本物だという、こんな議論が先行していたわけです。

いちおう、阿部さんは、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と彫刻本尊が大きさも形も違うと言い、それに追従する法華講員は、わたしが呈示した写真を見て、北山のものと石山のは違うと見当はずれの批判を飛ばしているとのこと、もっと、ひどい連中になると、わたしが創価学会員で、わたしが呈示したことはすべて破折済みで、それで、わたしが謝罪したということになっていると、「大石寺法華講」の訪問を受けた日蓮宗の坊さんが笑っていました(笑)

話が横道にそれましたが、それにしても、元の本尊が本物であれば、御前立だなんだ、複製だなんだという話もわかりますが、元の本尊が偽物で、それに御前立だ、複製だを作っても、偽物の代わりじゃまるで話にならないというのは、彰往考来さんもわたしも同意見といったところでしょう。それが「せいぜい「御前立本尊」がいいところ」という五発言になった点は、勿論、同意します。

1379片瀬江ノ島:2005/09/20(火) 22:33:16
随分と盛り上がってるようですが。

犀角独歩様

最近貴方の本を購入しましたが、正直「こんなものか?」とがっかりさせられました。
値段の割には内容も推理も幼稚。表装も粗雑。
お粗末なもんです。
よくこんな物を世に出せた気がしれません。

時々貴方の名前が講員同士で話が出てきますが、所詮「インターネット」と言う仮想世界で文字と文字
との感情に悶えた妄想としか貴方の文脈からは伝わりません。

この本を本山に御進呈する話をしていたらしいですが、その後はどうなりましたか?
私どもの情報では、若い御僧侶が一冊ネットでわざわざ購入されたのは確認しています。
御法主上人様には全く届いておりませんよ。
当然宗務院にも教学部にも全く届いていませんよ。
ま、ネット社会の中では何を言っても自由なのでしょうから。
言論の自由とは良く言ったもので、「自由」に発言できるからには責任があるでしょう。
ぜひともこんな妄想世界に閉じこもることなく、堂々と社会に呼びかけたらどうですか?
本名で。

禅師授与曼荼羅と大御本尊様は全く違います。
これだけは断言しておきましょう。
一見して御分かりになるでしょう。
パッチワークと申しますが、
1、誰が
2、何のために
3、どのような手法でされたのか。
4、そんな手法が過去どの御本尊様に前例されたことがあるのか。
5、そのような偽物なら「願主 弥四郎国重 」とはなぜこんな名前を彫るのでしょう。

もし、自宗の独善を主張したいだけの話なら、私だったらもっと一般社会に通用出来るようにわかりや
すく作りますね。
パッチワークなどこの平成の世に言えますが、約700年以上も前に誰がこんな事をするというのでし
ょうか。
それにこの禅師授与曼荼羅は、当時大石寺に存在していたのでしょうか?

信仰を離れれば、白も黒に見えてしまう。
また信仰をすれば黒も白に見えてしまう。

近年で言えば、存知の通り学会も今やあれだけ御宗門をはじめ、日蓮正宗信仰とはかけ離れていく。
学会だけではない。
顕正会、正信会も皆、大御本尊様から遠ざかれば遠ざかるほど自説に悶える。

そちらから見ればこちらもまた逆でありましょうか。

日蓮正宗マニアの方々には酷な言い方ですが、このような事をされようが日蓮正宗は潰されもしません
し、迷いもしません。
徒労の人生をかけぬよう、御祈念させていただきます。

追伸
いちおう、阿部さんは、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と彫刻本尊が大きさも形も違うと言い、それに追従
する法華講員は、わたしが呈示した写真を見て、北山のものと石山のは違うと見当はずれの批判を飛ば
しているとのこと、もっと、ひどい連中になると、わたしが創価学会員で、わたしが呈示したことはす
べて破折済みで、それで、わたしが謝罪したということになっていると、「大石寺法華講」の訪問を受
けた日蓮宗の坊さんが笑っていました(笑)

と、ありますが。
日蓮正宗法華講はそんな貴方を相手にはしていませんから。
また「大石寺法華講」など存在しません。
残念!

1380犀角独歩:2005/09/20(火) 23:28:52

片瀬江ノ島さん

なかなか、微笑ましいご投稿、暇つぶしになります。感謝することといたしましょう。
人に糖衣錠は自分も応える暗いの正義心はあるのでしょう。
十分に解答ください。

> 本を購入…値段の割には内容も推理も幼稚。表装も粗雑。

それはあなたの見解ですから、承っておきます。
石山が寺で販売している印刷本尊の最低価格3000円と比べてどうでしょうか。
あれは高くないですか。

> 「インターネット」と言う仮想世界

インターネットが仮想現実であると気付けるあなたは、では、日蓮正宗という信仰世界が仮想現実である点には考えは至りませんか。

あなたが以下の点で、ちゃんとした答を呈示するのであれば、あなたのいうことは「文字との感情に悶えた妄想」ではないことになりますが、そもそも、あなた自身がいっていることが非感情的、非妄想的であるというより、むしろ、ここに乗り込んできた感情と、自分の信仰が妄想であると、わたしはお見受けします。

> 私どもの情報では、若い御僧侶が一冊ネットでわざわざ購入されたのは確認しています。御法主上人様には全く届いておりませんよ。

ほお。これは如何なる情報に拠るのでしょうか。
出版元でもないあなたが、本が誰が買い、何冊、売れたかという情報を何故掌握できるのでしょうか。その「確認」された情報、また、阿部さんに届いていないとするというあなたは一体どなたでしょうか。

> 当然宗務院にも教学部にも全く届いていませんよ。

何故そんなことが言えるですか。あなたは宗務院教学部の人ですか。教学部のどなたでしょうか。そうでなければ、このような断定はできないでしょう。

あなたが石山を代表して、わたしと公開の法論をしてくださるのですか。であれば、わたしは実名で応じることに何ら痛痒はありません。第一、昨年暮れの日蓮宗教学研究大会も実名で発表し、それを石山の坊さんは聞いておりましたよ。まさか、そのことをあなたは知らないわけですか。そもそも、あの研究発表大会は、立正大学の卒業生には招待状が送付されています。つまり、石山僧で、立正大学卒業生であれば、あの大会のレジュメは手許にあるわけで、わたしの本名が何であるかは周知の事実でしょう。しかしながら、わたしがHNでここ掲示板に書き込むのはわたしの自由です。この点は批判される筋合いはありません。

1381犀角独歩:2005/09/20(火) 23:29:20

―1380からつづく―

> 妄想世界に閉じこもることなく、堂々と社会に呼びかけたらどうですか?本名で。

はて、人に本名を迫るということは当然、本名なのでしょうか。「片瀬江ノ島」とはずいぶん変わったお名前ですね(笑)
このように自分がしもしないことを相手に迫るのが、このようは批判の特徴です。まず、自分がやって、模本を示したらどうでしょうか。
この言葉は、そのままあなたにお返ししましょう。
あなたの本名は何でしょうか。どこの所属ですか。

> 禅師授与曼荼羅と大御本尊様は全く違います。

そうですか。では、是非、禅師授与漫荼羅の精密な写真と「大御本尊」の写真を、公開し、その差を示してください。口、文字だけでは何とも出も言えるでしょう。
「違う、違う」と繰り返しても、その図形的な証拠を示さなければ、それこそ、ただの妄想、もっといえば、単なる虚偽に過ぎないでしょう。
さて、どこに図形を呈示し、証明してくださるのでしょうか。
大石寺のHPでも、図形を貼っていただけるのでしょうか。

> パッチワークと申しますが、
> 1、誰が
> 2、何のために
> 3、どのような手法でされたのか。
> 4、そんな手法が過去どの御本尊様に前例されたことがあるのか。
> 5、そのような偽物なら「願主 弥四郎国重 」とはなぜこんな名前を彫るのでしょう。

これは、わたし自身興味があります。禅師授与漫荼羅を持って彫刻本尊を作った大石寺は、この点に対して説明義務があるでしょう。寧ろ、こちらお聞きしたいことです。


> パッチワークなどこの平成の世に言えますが、約700年以上も前に誰がこんな事をするというのでしょうか。

700年前? 何の話をしているのですか。あなたはたしか、わたしの本を買って読んだと言っていますが、なぜ、わたしの主張を「700年前」とするのでしょうか。わたしの本を本当に読んでいますか。おかしいですね。

> 禅師授与曼荼羅は、当時大石寺に存在していたのでしょうか?

これも「700年前」だというわけですか。なるほど。わたしの本を読まずに、単に難癖を付けているようですね。読んでいれば、こんな見当はずれのことはいわないでしょう。

> 信仰を離れれば、白も黒に見えてしまう。
> また信仰をすれば黒も白に見えてしまう。

まったくそのとおりですね。

ところで、あなたの主張は、ここではまったく記されていません。
彫刻本尊とは、では、如何なるものなのでしょうか。
ここに解説いただきましょうか。

> 学会だけではない。
> 顕正会、正信会も皆、大御本尊様から遠ざかれば遠ざかるほど自説に悶える。

日蓮正宗という井の中に閉じこもれば、自説におぼれて、それが真実であると思い込むとうことも起きるでしょう。そのような自画像はまるで見えませんか。

1382犀角独歩:2005/09/20(火) 23:29:42

―1381からつづく―

> 日蓮正宗マニアの方々には酷な言い方ですが、このような事をされようが日蓮正宗は潰> されもしませんし、迷いもしません。
> 徒労の人生をかけぬよう、御祈念させていただきます。

別段、偽物の本尊に祈念などしていただく必要はありません。
潰されるも何も、いまや彫刻本尊が偽物であることは白日の下に晒されたわけです。この期に及んで本物であると言うのであれば、実際に彫刻本尊、石山蔵の禅師授与漫荼羅の写真を公開して、並べて、ここがこのように斯くも違うと図形をもって証明すればよろしいでしょう。それ以外、見せもしないで、縁日の見せ物小屋じゃあるまいし、本物だ何だと何だと言ってもはじまりません。
ここに写真、図形をもって、解説をしてください。
それができないと言うことは、もはや、彫刻本尊は偽物、大石寺は終わったと言うことでしょう。あとは、単に事実を認めないあなたのような人々が妄想を信仰だと思って、搾取され続けるだけでしょう。そんな滅びいくものはマニアより醜悪です。

> 日蓮正宗法華講はそんな貴方を相手にはしていませんから。

そうですか。相手にしないのであれば、なんで、ここにわざわざ書き込んでいるのですか。既に、相手にしていますね。これは自語相違というものでしょう。まあ、こういった自己矛盾を解消してから、他人の非は迫るほうが説得性があります。ここでも、どうやら自分の姿は見えていないようですね。

> 「大石寺法華講」など存在しません。

ほお、そうですか。大石寺には根檀家がいるでしょう。大石寺総代などを務める人々は、大石寺の法華講ではないのですか。では、どこの所属ですか。これはこれは驚きました。
まあ、以上のこちらから問に、写真図形をもって解答ください。
是非とも彫刻本尊の詳細な写真は見てみたいですし、石山蔵の禅師授与漫荼羅も見てみたい。この思いはわたし一人のものではなく、わたしの考えに賛同してくれる人々の総意でしょう。

あなたの解答と写真の呈示をお待ちすることといたします。

1383犀角独歩:2005/09/20(火) 23:33:51

【1380の訂正】

誤)人に糖衣錠は自分も応える暗いの正義心はあるのでしょう。
正)人に問う以上は自分も応えるくらいの正義心はあるのでしょう。

1386犀角独歩:2005/09/21(水) 00:36:57

追伸、片瀬江ノ島さん

以下は、最近、わたしがアップしたページです。
ここに示す彫刻本尊と禅師授与漫荼羅を重ねた画像は中央題目は重なって見えませんか。
わたしは重なって見えます。

このように大石寺蔵の禅師授与漫荼羅と、鮮明な彫刻本尊の写真を画像処理して重ねて呈示してください。そうすれば、事実は白日の下に晒せます。

よろしくお願いいたします。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

1387独学徒:2005/09/21(水) 19:17:36

今晩は。
犀角独歩さんの、『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を読ませていただきました。

正直、私には言葉が見つかりません。

私は過去一度だけ「正本堂」に入った事がありますが、不信心だった私は何のありがたみも感じず、「今日は一寸遠出をした」くらいの感覚しかありませんでした。

犀角独歩さんがどのような思いで、この問題に取り組んでおられるかを考えますと、私のような所謂「本門戒壇の大御本尊」に対する思い入れの無い者が、議論に加わってよいものかと感じます。

しかし、この議論を継承していくのも私達の世代の役目だと思いますので、経験不足ではありますが手持ちの資料を基に真偽の考証に参加したいと思います。

「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」とのご意見が御座いますが、そもそも大石寺には日禅に授与された、弘安三年の御本尊が二幅あるはずです。
弘安三年四月日のものと、弘安三年五月九日のものです。前者は全くの非公開のため確認が出来ませんが、後者は同年月日・同授与者の本尊が北山にもあり、その相貌、特に主題の七字は犀角独歩さんがお示しいただいた通り、どう見ても一致します。
また現在は正信会に所属される、大黒師の「日興門流上代事典」でも、後者と所謂「本門戒壇の大御本尊」は相貌も大きさもよく似ていると出てきます。

「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」、これは前者と比較してのことではないでしょうか。

1388犀角独歩:2005/09/22(木) 12:15:31

独学徒さん

> この議論を継承していくのも私達の世代の役目

そのとおりです。わたしはこの件を読ませていただき、勇気づけられました。
ここ50年の「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻の大騒ぎを客観的に歴史化する作業は第2世代に継承される予兆を実感でき、安堵した気持ちがあります。やってきたことが無駄にならないという満足感といってもよいかもしれません。

> 日禅授与の御本尊…弘安三年五月九日…北山…主題の七字…どう見ても一致

そうですね。まったくそのとおりです。

> 大黒師の「日興門流上代事典」…相貌も大きさもよく似ていると

ええ、この点はれんさんもご指摘くださっておりました。
また、わたしの発表後、たぶん、石山僧、もしくはそれを直接聞いたと思われる方から、禅師授与漫荼羅と彫刻の類似性は石山内で囁かれていることを窺わせる投稿をいただいたことがありました。この延長上にある『河邊メモ』であるという認識が必要なのではないのかとわたしは考えてきたわけです。つまり、石山中枢において彫刻が禅師授与漫荼羅を原本としていることは周知の事実なのではないのかという、次なる疑義です。それにも拘わらず、これを弘安2年10月12日(日興合作の)日法彫刻の700年来の究竟本尊と謀ってきたのではないのかという疑義です。このような不誠実な動向に乗じる石山特権階級に、危機感を懐く人々が、この彫刻情報を流出してきたのではないのかという見方もできなくもありません。

いずれにしても、阿部氏はこの事情を熟知したうえで、教学部長を勤め、正本堂建立に讃辞を述べ、さらに猊座に上がり、正本堂破壊、さらに奉安堂建立をして、まだ参拝料で利ざやを上げ続けているわけです。建築事業でも、十分な利益も上げたのではないでしょうか。

では、細井氏は、この事実を知っていたかどうか、わたしは決し切れませんが、しかし、いずれにしても、彫刻を弘安2年10月12日(日興合作の)日法彫刻の700年来の究竟本尊と信じ込まされた800万信徒創価学会員は、謀れた被害者であることは間違いありません。5000年先まで残る偉業とされた正本堂がわずか四半世紀で破壊されたこと自体、金を集める段階のアナウンスが如何にインチキなものであったかを語っています。
このお宝が、禅師授与漫荼羅を原本とした模造であることを知っていたうえで断行した石山、取り分け、阿部氏の罪業はまことに深いものであるとわたしは記さずにはおれません。阿部氏にすれば、自山経営と繁盛、僧侶の食い扶持稼ぎという名目が立つのかも知れません。寺院経営とはそんなものだという議論です。かつて、歯にくっついた肉が生きて成長しているという「御肉牙」議論でも、正信会所属在家の人の、寺院のお宝はそんなもので、信じることに意義があるなどというお人好し発言がありました。しかし、この罪は赦すべきではないと、わたしが思います。なぜならば、彫刻が偽物であるにもかかわらず、それを本物と信じ込まされ善意と信仰心、労力と金銭を擲った800万人、500億円という被害は、戦後日本における最大の宗教犯罪、宗教被害であると、わたしは考えるからです。
石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々をわたしを批判するでしょうが、しかし、その人々も騙されている被害者であり、真実と思うからわたしに憎悪を懐くという構造を、わたしは冷静に受け止めます。このような‘操作された感情’にあること自体も含めて被害者であると認識し、やがて、理解される日を待つことにします。

騙された創価学会は、この彫刻が後世の模造であるという事実を認めたうえで、石山、並びに阿部氏の罪業を責めるのでなければ、本質に迫ったものになりません。
「日顕は戒壇の大御本尊を河邊メモで偽物といった」などという批判は、そもそも彫刻の実態が河邊メモに即したものである以上、本質を突いた批判になっていないわけです。

どうか、これらの点を独学徒さんをはじめ、皆さんが継承してくださり、事実を白日の下に晒し、謀れ、欺かれ、多くの時間と金銭、さらに人間の善意を食い物にされた人々の無念を晴らしていただきたいと思います。もちろん、そのような情念論ではなく、事実を事実として語れる良識を、ここ富士門流のなかで確立していっていただきたいと念願することが前提であることは言うまでもありません。

> 「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」、これは前者(弘安三年四月日)と比較してのこと

なるほど。この可能性は否めませんね。いつもながら、冷静且つ、適宜なご指摘に頷きました。有り難うございました。

1389犀角独歩:2005/09/22(木) 16:46:27

【1388の訂正】

誤)石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々をわたしを批判する
正)石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々はわたしを批判する

1390独学徒:2005/09/22(木) 21:02:53

犀角独歩さん、この議論の継承のためにも、今はしっかり学ばせていただきたいと思います。

以下は離脱僧のHPですが、トップにビデオのリンクがあります。

http://www.nichiren.com/jp/index.html

この動画や、リンクの松岡論文もそうですが、私としては全く意味のないものと感じます。

このHPの全ては余事であって、「本門戒壇の大御本尊」の真偽こそが大事であると思います。
それこそ「本門戒壇の大御本尊」が、大石寺のアナウンス通りのものならば、何がどうあれ宗門に付くべきだと思うからです。

しかし、この問題を真摯に議論できる場所はここしかありません。

今は創価学会を含む、元日蓮正宗系団体は、この議論には触れずにいます。
確かに正本堂時代に、熱心な信仰時代を送られた方々にとってはデリケートな問題かもしれません。
そうであればこそ、なおさらに次代の私どもが真剣に考えていかねばならないと思います。

何分経験不足のため、今後も頓珍漢な投稿をしてしまうことがあると思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

1391彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/23(金) 07:54:59

>1387 独学徒さん

>大石寺には日禅に授与された、弘安三年の御本尊が二幅ある・・・弘安三年四月日のものと、弘安三年五月九日のもの

貴殿がご指摘になっている弘安三年四月日のものにつきまして、もう少し説明していただけませんか? その存在が記載されている資料があるのでしょうか?

1392独学徒:2005/09/23(金) 11:40:53

>1391 彰往考来さん、

失礼しました、私は「第1回 冨士門史学研究会会報」の巻末に掲載された『−編年体−日蓮大聖人御本尊年譜』(前田義夫)を参考に記しましたが、山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」(P154)では、「弘安三年太歳庚辰卯月日」という日付で出てきます。

したがいまして、先の「弘安三年四月日」というのは、正確な表記ではなかったと思います。

さらに山口師の著書には、大石寺・法道院の日禅授与曼荼羅の記述がありませんので、ひょっとしたら単なる記載ミスかもしれません。

1393彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/23(金) 17:37:17

>1392 独学徒さん

山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」(P154)の記載は、私は誤記と考えています。
この本にはこれ以外にも誤記が少しありまして、一度誤記を整理しようと思っているのですが、なかなかはかどりません。

彰往考来

1394犀角独歩:2005/09/23(金) 18:37:14

彰往考来さん

横レス失礼します。

『日蓮正宗史の基礎的研究』については、以前も「剥離表装」の件、その他、わたしもいくつか気になる点があります。松本佐一郎にしても、そうですが、石山僧俗の文章は頭から信頼できるものは何一つないというのが、わたしの偽らざる感想です。

殊に「本尊」につき、誤記とは、なかなか考えづらいものがあります。これは「普通であれば」と付すべきかも知れません。

山口氏の誤記と言うより、「石山の体質」から考えたほうがいいことのような気がします。

諸々の宝蔵記録を見ても、本尊、真筆等の出入りは著しく、また敢えて発表したりしなかったり、その記述に信頼性は頗る低いものがあります。内情に通じた山口氏が記した以上、「誤記」と言うより、存在するが、ご都合に合わせて一般の「ないことにしている」と考えることもできませんか。つまり、情報操作です。(やや話は拡大しますが、『諫暁八幡抄』は完則の宝蔵記録では版本であるのに、現在は真跡蔵となっており、先にも話題になりましたが、『日蓮大聖人御書全集』初版巻頭に載った同抄の影図では「日蓮花押」がなかったのに、あとのものには載っている?(つまり書き足したという疑惑)などという話もまことしやかに囁かれます。また、日興跡条々事など影本を発表せず、異なるいくつもの文章が発表されたうえで日興真筆蔵といって憚りません。こんな宗内研究?は証憑性はありません)

本尊で例を採れば、日有造立の「戒壇の大御本尊」身代わり本尊です。大石日応の『弁惑観心抄』、細井精道の『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で記述されながら、宝物記載で現れたことがありません。「身代わりだから記さない」と言えばそれまでですが、戦乱時ならば、いざ知らず、現在の常識からすれば、記載されて然るべきと、わたしは思います。

元より、石山のアナウンスなど疑うべき点は多く、火災に遭って灰燼に帰した(日布・両山問答)はずが、いつの間にか、また、所蔵されたことになっている「石蔵」の胡散臭さにしても、いま始まったことではありません。切り紙相承の諸記述、いまは記述されない「日興御さくの釈迦一そん一ふく」、諸本尊等、このような入集・添加・廃棄の記載は、まるで恣意的としか映じません。

追える限りの宝蔵記録の延長に、わたしは山口氏の記述も位置づけて考えるべきであると思うのです。単に「誤記」と片づけるのではなく、彰往考来の鋭敏な文献考証を期待します。

1395犀角独歩:2005/09/23(金) 18:38:13

失礼、尊称を落としました。訂正し、お詫びいたします。

> 1394

誤)彰往考来の鋭敏な文献考証
正)彰往考来さんの鋭敏な文献考証

139601:2005/09/23(金) 21:32:40
> 石山が寺で販売している印刷本尊の最低価格3000円と比べてどうでしょうか。
> あれは高くないですか。
確かに高いよね。インターネットでダウンロードすれば無料だし。
でも、塔婆はもっと高いでしょう。1回2,000円。表面を削って何度も再利用。
だいたい、塔婆って、本当に全部書いてんの?
永代供養50万以上ってのも高いよね。
もっと高いのは寺に行くたびの供養だよね。奉安堂参拝料も高いね。
葬式も高い。だいたい、何で、供養、院号代、お車代ってそれぞれに別に包まなきゃなんないわけ?
こうやって書いてみると、正宗寺院も何でも「金、金」だよね。
ぼくがいちばんがっかりしたのは、昔、初詣に行ったとき、供養しないと盃をくれないんだよね。
だから、お流れ頂戴ができない。そんで、「あ、そうか、初詣tって、金儲けなんだ」って始めて気づいた。
でも、いちばん、高かったのは、ここで話題になっている正本堂建立供養だよね。
一生に一度の供養、5000年の未来にとか言って25年で破壊。ひどい話だと思うよ。

1397犀角独歩:2005/09/24(土) 00:34:02

01さん

自分の信念体系と反することは、たとえば1円でも高いと思うのが人情でしょうね。

ところで「初詣t」の‘t’は、例の談義庵語というものですか?

1398彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:17:21

>1392、1394 独学徒さん、犀角独歩さん

大石寺蔵禅師授与本尊の年号が弘安3年卯月との山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、154頁)の記載はやはり誤記と考えます。その理由は下記のとおりです。

(1)該当箇所である『日蓮正宗史の基礎的研究』の154頁(大聖人御本尊現存目録(安国会目録外・要集等)には備考欄に引用資料が書かれていて、同書には
「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之 同(引用者注:大石寺) 同(引用者注:要八‐一七八)」
とあって、同書の記載が『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』の178頁からの引用であることが明らかであり、引用元の記載が弘安3年5月9日であること
(2)『日蓮正宗史の基礎的研究』の該当頁には大石寺蔵である「弘安三年太歳庚辰五月九日 比丘日禅授与之」の記載がないこと、すなわち大石寺に二体あるという記載ではないこと
(3)卯月(4月)と5月といった極めて近い時期に同一人に蓮祖御本尊が連続して授与された例がないこと

『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』の178頁には、「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅に之を授与す」とあり、「弘安三年太歳庚辰卯月日」の記載はありませんので、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』を引用している山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の“大石寺蔵禅師授与本尊の年号が弘安3年卯月”との記載は誤記であると判断いたします。

本件はこれにて終了としたいところですが、念のため山口師の当該本をもう少し検証いたします。

まず第一に『日蓮正宗史の基礎的研究』には同様の誤記があるのでしょうかということです。もしあれば、この本は誤記の目立つ内容ということですし、誤記が他の箇所には全く無く“この箇所だけ”ということであれば著者(山口師)の意図的なものがある可能性があり、その場合は必ずしも誤記とは言えなくなるからです。結論から言えば、他の箇所にも同様の誤記がありますので、“北山本との関係で相剥(剥離表装)や摸写の可能性を隠匿したのではないか”というようなことはないと考えます。他の場所の誤記は意図的な改竄が考えられるような箇所ではありません。山口師の他の論文を読んでもそのような姑息なことをするお人柄には見えませんし、それであるからこそ正信会に一時所属していて日顕法主とも対立していた時期があったのではないでしょうか。但し、山口師は晩年石山に戻られました。私自身は故山口範道師のこの間の行動がどういうお考えに基づいたものであったか把握していませんので誤解があるかも知れません。
『日蓮正宗史の基礎的研究』の154頁には大石寺蔵蓮祖御本尊8幅の一覧があるのですが、ここに戒壇本尊の記載がありません。『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』には記載があるのですから、ほかの御本尊ならともかく日蓮正宗の本で戒壇本尊を脱漏することは有り得ないはずです。これは山口師の精一杯の自己表現ではなかったのかと私は思っています。『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』に記載があっても自山分について明確に摸写、偽筆の疑いのある御本尊を山口師は『日蓮正宗史の基礎的研究』には記載していません。古文書解読に厳格な人が戒壇本尊を記載していないのですからこれはそれなりの意味があると考えるべきでしょう。

1399彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:19:07

1398の続きです。

さて『日蓮正宗史の基礎的研究』には同様の誤記があるのかということです。誤記の例を上げましょう。同書157頁には「大聖人御本尊曽存宝量」として曽存した御本尊が記載されています。ここには日乾目 昭定三−二七四六とありますので、『昭和定本 日蓮聖人遺文 第三巻』(昭和63年改訂増補版発行(昭和29年初版)、總本山身延久遠寺)の2746頁にあります慶長8年10月15日の日乾師による「身延山久遠寺御靈寶記録(乾師目録)」からの引用であることは明白です。同書157頁に「弘安二年太歳己卯二月日」が三幅記載されています。それぞれ、優婆塞日成、□□□加治左馬助□□、沙弥日春に授与されたものです。ところが原本たる『昭和定本 日蓮聖人遺文 第三巻』で確認しますと、同書2747頁に優婆塞日成に授与された御本尊は弘安二年太歳己卯二月日とあり(但し“絹”と脇書があります)、□□□加治左馬助(昭和定本では左馬助の後ろの□□がありません)へ授与された御本尊は二月ではなく四月と記載されています。従って『日蓮正宗史の基礎的研究』での□□□加治左馬助□□の箇所は四月の誤記と考えます。また沙弥日春授与の御本尊は見あたらず、同書2746頁に「弘安二年太歳己卯七月日 沙門日春授興之」とあるのが該当すると考えます。ここでも二月ではなく七月です。沙弥ではなく沙門なのです。ひとことでいえば『日蓮正宗史の基礎的研究』はかなり誤記があるのです。これらの誤記は編纂段階での単純な記載ミスと考えられ特別な意図はないと思います。少なくとも引用資料原本を照合すれば誤記であることは解かりますし、資料の引用元を記載している以上姑息なことはできないでしょう。なお“沙門日春”ですが、山中喜八氏の『御本尊集目録』の第105番に“僧日春”に授与された弘安4年4月5日の御本尊が入集しています。『御本尊集目録』の備考に、「「遠沾亨師臨寫御本尊鑑」(五五頁)は、『弘安二年太才己卯七月日 沙門日春授興』の御本尊が身延山に寶蔵されていたことを傳えているが、『沙門日法』(本集第六五)と『比丘日法』(同第一○○)の場合と同様に、當御本尊の被授者との同異は速斷し難い」(山中喜八『御本尊集目録』昭和56年訂補3版、立正安国会149頁)とあり“沙門日春”と“僧日春”が同一人物か別人か判断し難いとされています。いずれにせよ“沙弥日春”との記載は誤記です。

同一人に複数の蓮祖御本尊が授与された例はあります。『御本尊集目録』によれば、沙門天目は文永11年6月の第11番本尊と弘安5年卯月2日の第120番本尊を授与されていますし、日昭師には建治2年卯月の第37番本尊(但し、沙門日照とあります)と弘安3年11月の第101番本尊(いずれも玉沢法華経寺蔵)を授与されています。日向師も建治2年卯月の第35番本尊(但し寺傳)と弘安2年4月8日の第61番本尊を授与されています。山中喜八氏は『御本尊集目録』の82頁(第53番本尊の備考(3))に日昭師や日向師などの例を受け、「文永・建治の御本尊の被授者に重ねて弘安の御本尊を加授されたことを語るもの」と記しています。つまり文永期もしくは建治期の御本尊授与者に再度弘安期の御本尊を授与した例があるということです。しかしながら弘安期に2幅の御本尊が授与された明確な例はありません。上記“日春”のケースは別人と考えます。渡部宝陽師は「大曼荼羅と法華堂」(『日蓮と教団 第1集』昭和51年、平楽寺書店、104頁)で、聖人(蓮祖)は四条金吾の妻に弘安2年2月2日『日眼女釈迦仏供養事』という書間を送っているが、四条金吾の妻に授与された弘安3年2月日の第72番本尊について、定遺327『日眼女釈迦仏供養事』に「御守書(キ)てまいらせ候」あることから、守とは御本尊をさし、実は『日眼女釈迦仏供養事』は弘安3年2月2日の執筆と考えられるとしています。「大曼荼羅を2年にわたって同月に授与されることはまず考えられない・・・書状の後一年後に大曼荼羅を図顕したことは考えられない」(104頁)からです。『日眼女釈迦仏供養事』の御真筆は明治8年の身延大火で焼失しているので確かめようがありませんがあり得ることであると考えます。
今回の禅師授与の御本尊では弘安3年4月と5月ですから1箇月後であり、まず連続した二体授与は考えられません。やはり4月は5月の誤記と考えるべきでしょう。

1400彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:23:18

>1399の続きです。

私は、「富士一跡門徒存知事」に記載された日興上人の本六の順番と、その本六の方々が蓮祖から御本尊を授与された順番(乗師は日興上人書写御本尊)が一致するのではないかという考えを持っています。
「富士一跡門徒存知事」(高橋粛道『日興上人御述作拝考Ⅰ』での本六の順番と各自が授与された御本尊の年号を並べてみると、
(1)日目・・・弘安2年2月日(第60番本尊)
(2)日華・・・弘安3年5月8日(第92番本尊)
(3)日秀・・・不明
(4)日禅・・・弘安3年5月9日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』178頁)
(5)日仙・・・弘安4年4月25日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』178頁)
(6)日乗・・・永仁4年卯月8日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』179頁)
となります。順番が経時的によく一致するのです。高位の弟子から御本尊が授与されたはずですから、これはある意味当然かもしれません。
秀師へ授与された御本尊は不明ですが、第93番本尊(沼津妙海寺蔵)が弘安3年5月8日の図顕であり、かつ「右下隅に授興書が存したのを、削損した形跡がある」(『御本尊集目録』134頁)ということですから、あるいはこの第93番本尊が秀師へ授与された御本尊であったのかもしれません。この順番から日禅授与の御本尊は弘安3年卯月(4月)とは考え難く弘安3年5月9日が妥当ということになります。もちろんこれは、「富士一跡門徒存知事」に記載された日興上人の本六の順番と、その本六の方々が蓮祖もしくは興師から御本尊を授与された順番(乗師は日興上人書写御本尊を授与されています)が一致するという仮定の基での結果です。

以上のことから『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載である弘安3年卯月の禅師授与御本尊は弘安3年5月9日の誤記と考えます。同書に大石寺が禅師授与御本尊を二体所蔵しているとの記載はないので弘安3年卯月と弘安3年5月9日の二体の禅師授与御本尊が大石寺にあるとは思えません。但し、同書には北山本門寺に「弘安三年太歳庚辰五月九日 比丘日禅授与之」とある大石寺蔵とは別の御本尊が所蔵されていることが記載されていることを付記しておきます。万一大石寺に禅師授与御本尊が二体あるとするなら私は弘安3年5月9日のほうが妥当な日付と考えますので、弘安3年卯月本は摸写・偽筆の類ということになるのでしょうが、『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載からは大石寺に日付の異なった禅師授与御本尊が二体あり、それらの相貌が異なるというようなことは考え難いというのが私の結論です。
なお、上記結論は『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載に対する私の考えです。大石寺に模写・形木・偽筆の類の禅師授与御本尊が存在する可能性を否定するものではありません。

by 彰往考来

1401犀角独歩:2005/09/24(土) 22:44:15

彰往考来さん

詳細のご回答、有り難うございます。
概ね、仰ることは理解できますが、以下の点については、賛同しかねます。

> …卯月(4月)と5月といった極めて近い時期に同一人に蓮祖御本尊が連続して授与された例がないこと

これは要するに禅師授与漫荼羅を指すわけですね。
彰往考来さんは、そもそも弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅については、偽筆の立場ではありませんでしたか。となれば、上述は立論は成り立たないのではないでしょうか。

また、本来、「五月」と書かれたものを「四月」と誤記するならばいざ知らず、「卯月」と誤記するというのは、どうもわたしには説得性を感じません。故に末尾にお書きになった如く

> 大石寺に模写・形木・偽筆の類の禅師授与御本尊が存在する可能性を否定するものではありません

とするほうが、わたしは頷けるのです。

> 同一人に複数の蓮祖御本尊が授与された例…天目…第11番…120番本尊を授与

この二つの本尊は授与とすべきところが「受与」となっています。
このことから山中師は『御本尊集目録』に

「日常上人直授」伝える「御本尊授与書証文相伝」は、
 既ニ大聖人御自筆等ニ授与ノ二字之在リ、其中ニ天目“模”ノ本尊モ沙門天目受与之云云。
 と言い、また
 一、天目本尊ノ事。示云。沙門天目受与云云。此七字ハ“謀筆”也…」(P17)

といい、この第11本尊を「模」「謀筆」とする説を紹介し、支持する如くです。
ただし同じ天目“受与”の第120にも備考して

「当御本尊(第120)の授与書は聖筆、妙満寺の其れ(第11)は他筆と拝するのが至当のようである」(P168)

と言います。斯かる本尊をもって同一人に複数の本尊の例と引くことは不可であると思いますが、如何でしょうか。

なお、山口氏が姑息かどうかは別段どうでもいいのですが、

> 古文書解読に厳格な人が戒壇本尊を記載していないのですからこれはそれなりの意味がある

とか、精一杯の抵抗であるなどという物言いにはわたしはまったく納得しません。
もし、斯様に山口氏が了解していたのであれば、日蓮の教えは正直捨方便、我不愛身命但無上道であるところ、彫刻が偽物であるとわかっていながら、正直にそれを示すこともなく、ぬくぬくと石山僧侶を続けること自体、日蓮に対して恥ずかしくないのかと弾劾するほかありません。「謂徒才能」とはこのことでしょう。

このような点で、わたしは一切妥協はいたしません。

1402犀角独歩:2005/09/24(土) 23:57:03

【1401の訂正】

誤)上述は立論は成り立たないのではないでしょうか。
正)上述の立論の例とはならないのではないでしょうか。

1403独学徒:2005/09/25(日) 17:52:40

彰往考来さん、この度も詳細なるご投稿に接し、また勉強になりました。
有難う御座います。

私が最初に参考にしました前田義夫氏の「−編年体−日蓮大聖人御本尊年譜」ですが、参考資料として「富士宗学要集 第8巻」と「日蓮正宗史の基礎的研究」が上がっていました。
恐らく前田氏は両文献に記載されたものを、何の疑いもなく列挙したものと思われます。

140401:2005/09/25(日) 20:41:33
>t
そうです。意味は知ってますよね。

1405犀角独歩:2005/09/26(月) 05:37:24

01さん

わたしは談義庵語など、何を意味するのか知りませんよ。それに第一、ここでそんなものを記すのはおやめになったらどうでしょうか。

1406彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 09:51:41

>1401 犀角独歩さん

1398〜1400の私の投稿内容は、記載された各々の御本尊が御真筆であるとの前提で論を進めています。
そのため、偽筆あるいは模写の御本尊がある、混ざっているということになりますと、その前提が崩れることになります。その点は一番最後に書いたつもりなのですが、ちょっと筆不足でした。また天目授与の第11番本尊も偽筆ということであれば、複数授与された例として掲げるのは適切ではないということになります。偽筆あるいは模写の御本尊がある、混ざっているとするなら正しい姿とは言い難いですが近い時期に複数の御本尊が授与された形になっていても当然でしょう。

山口師の本では引用資料が明らかになっている以上、誤記と考えるのが妥当と思います。その引用資料(『富士宗学要集 第八巻』)は創価学会から相当部数発行されているので見比べをする気なら容易であるからです。石山しかないような特殊な引用資料ではないのです。もし別の意図があるなら、私だったら引用資料は記載いたしません。引用資料と記載内容が異なるからです。あの箇所は引用資料が備考に記載されているだけで、引用資料記載がなくても成り立つ内容です。

卯月と四月・・・これで誤記であるかどうかの判定はできかねるでしょう。私事で恐縮ですが、最近はエクセルやワードで文章を作りますが類似文章の場合、コピーして貼り付けという作業はよくやります。その時、蓮祖の御本尊がは通常“卯月”となっているので、貼り付けた文章も“卯月”です。そして類似文章を修正せず次の行へいったら・・・! 実はこれと同じミスを過去に私が仕出かしたことがあるのです。そのため、なおさら、山口師も似たようなことをやっているなあという想いがあります。ただこれは個人的感傷にすぎず、誤記であるかどうかとは別かもしれません。まあ、このあたりは次回のオフ会ででも、皆様のお考えを拝聴いたしたいと存じます。
なお蛇足ですが、色々な資料の中に原本の御本尊が卯月とありながら四月と記載されているものがあります。これは卯月=四月ですから編集者がそう記載したので誤記とはいえませんが私は原本に忠実であるべきという考えですから、このような書き方は感心しません。

私は禅師授与御本尊が偽筆との考えではありません。北山のものは明らかに相剥の影本で正本のほうの検証ができないので模写の類なのか判断できないという考えです。すでに何度か述べましたが、北山のものは加筆と思われる箇所が相当あります。これでは正本にあたらない限り模写・偽筆の類なのか、御真筆の影本なのか判定は難しいでしょう。加筆された影本など模写相当品にすぎないといわれるのであれば仮に正本が御真筆であったとしても影本は御真筆とはいえないでしょう。石山のものは公開されていないので、北山本の正本であるかどうかを含め真偽判定できず、真筆あるいは偽筆、模写といった判断はできないという立場です。

『日蓮正宗史の基礎的研究』の蓮祖御本尊一覧についての検証を追って「蓮祖及び門下の曼荼羅について」のスレッドに投稿予定です。併せてそちらもお読みください。

彰往考来

1407犀角独歩:2005/09/27(火) 11:40:58

彰往考来さん

いつもながら、精査な資料分析に敬服します。
山口氏の記述その他に限れば、たしかに「卯月」禅師授与漫荼羅は誤記と見えますね。
ただ、石山のこと、この点について、わたしは慎重に考えようと思います。

> 禅師授与御本尊が偽筆との考えではありません

とのことですが、中尾堯師は本年6月に北山本門寺根源に宝蔵調査に入っています。
その後、3カ月を経過していますが、特に「新しい真筆本尊」の発見を発表していません。この後発言はかなり大胆というか、間口の広い見解と思えます。

> 北山のものは加筆と思われる箇所が相当あります

この点なのですが、真筆でも補修の際には、このようなことは為されるのではないでしょうか。実際に真筆大漫荼羅の補修に当たっている中尾師もそのように言っておりました。また、本化ネットの勉強会の際、補修課程を示した写真が回覧されたのですが、それこそ、ぼろぼろになった大漫荼羅の紙片を元の位置に「置いていく」ような作業課程がありありと看取されました。また、中世に行われた補修課程も分析され、坑が空いた箇所に端の紙を取り、埋め、墨を入れて補うなどの工程があったことも紹介されています。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html

1408ラキ:2005/09/27(火) 19:46:59
独歩さんのプログを見ていて「死番虫」なる気になる名前が出ていたので、ググッて見ましたが、
ビブリオマニアには天敵なんだとw
(3種類の印刷写真をを用意して、どれが最初に被害に合うか?とくだらない事を思い付いたのは、信心の無い私だけでしょうね・汗)

「本の修理と保存」6.3. 防虫
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/hon_kataru/katudou/021.html

1409れん:2005/10/04(火) 21:30:36
ふと、「日蓮宗の本山めぐり」の小泉久遠寺の紹介記事の寺宝の項にある「客伝に奉安する板本尊は、宗祖が身延在山の砌、弘安四年、日法上人に命じて彫らせ給い、興師が大石寺へ移し、南条七郎が守護していたものを、建武元年正月、上野より小泉に移したのであるが、大石寺もこれに慣って板本尊を作製したものだという」を読んでふと思ったのですが、この弘安四年とか建武元年とかの記事そのものは無批判には信用できませんが、“大石寺もこれに慣って板本尊を作製した”という伝承は案外史実ではないかと思いました。確か誰だか忘れましたが富士東光寺に弘安の板本尊があると述べていたのを、どこかのサイトで見かけたことがあります。小泉久遠寺のも、富士東光寺のも、勿論後世の作製の彫刻でしょうが、石山の彫刻本尊よりは先行して作製されたものではないかと考えがいたりました。つまり、小泉久遠寺や富士東光寺が先ず板本尊を作製して、これは蓮師の板本尊だと宣伝して信者を集めた。郷門の小泉久遠寺や重須末の富士東光寺は石山から見れば、無論敵対していた門流の寺院ですから、これらの寺院やその信者に対して‘いやいや小泉久遠寺や富士東光寺の板本尊は偽物でござる、蓮祖正統の当山(石山)の板本尊がまごうことなき宗祖の板本尊でこざる’と自山の正統性を主張する目的で作製されたのが、石山の‘初代’の彫刻本尊ではないかということです。とりあえずこれは類推ですが小泉久遠寺の「大石寺もこれに慣って板本尊を作製した」という伝承は史実の一面を伝えたものと思います。小泉久遠寺・富士東光寺の板本尊が科学的に調査され、その製作年代が特定されれば、初代石山彫刻本尊の成立年代を上記小泉久遠寺の伝承からある程度推定できるものと思いました。

1410れん:2005/10/05(水) 07:39:08
1409:
誤、客伝
正、客殿
ちなみに、室町初期?石山六世日時師の代までに作製されたと見られる「日興跡条々事」に記される「日興宛身所給弘安二年大御本尊〇日目授与之」についてですが、これは所謂、当板1409でふれた小泉久遠寺の板本尊作製に触発?されて造られた石山初代彫刻本尊ではなく、これは石山上代に曽存したと推定される蓮師弘安二年図顕の大曼陀羅ではないかと考えております。これは蓮師のものをはじめとする石山の上代の歴代の御本尊集(有師までのもの、蓮師のものについては存疑を含む)奉蔵於奥法寶(平成十二年覆刻版)に掲載された曼陀羅の写真によります。蓮師の弘安二年図顕の大曼陀羅は首題の経字は山中喜八師の分類からいえば第三期の書体ですが、奉蔵於奥法寶掲載の行師の文和二年三月十二日の一幅、時師の至徳四年七月日・明徳三年卯月十三日の二幅、影師の応永二十年八月時正の一幅、有師の文安四年五月十九日・宝徳四年四月十三日・長禄四年七月十八日の三幅がこの蓮師第三期の経字書体で書写されております。特に時師の明徳三年卯月十三日の書写曼陀羅は大持国天玉・不動の梵字は欠損しているものの首題の全体の筆法、愛染の書体、諸尊の座配など全体の雰囲気が弘安二年前半の蓮師書顕の大曼陀羅に似ており、明徳三年の時師筆曼陀羅に関しては、かなり正確に弘安二年書顕の蓮師大曼陀羅を書写したものではないかと愚考しております。時師のこの曼陀羅の帝釈の名号については、この時期の蓮師の規格に反して「釋提桓因大玉」と書写されておりますが、道師の暦応元年太才戊寅十月十三日の書写曼陀羅には「大釋提桓因玉」と書写した例もありますから、この例ならば弘安二年十一月以前にも蓮師書顕の大曼陀羅に一例ありますので石山曽存と推測される弘安二年の大曼陀羅は大釋提桓因玉としるされていた可能性もありと思います。

1411彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 07:40:52

>1409 れんさん

興味のある投稿でした。ひとつ教えてください。
ご紹介の「日蓮宗の本山めぐり」ですが、出版社、出版年、編集名など知りたいのです。
つまり読んでみたいので探しているのですが、どうもうまく特定できません。

よろしくお願いします。

1412れん:2005/10/05(水) 08:22:36
1410の続き:
石山六世日時師の明徳三年卯月十三日書写曼陀羅の相貌により、後世に作製された石山彫刻本尊とは別に、蓮師が弘安二年に図顕した大曼陀羅が上代石山に曽存した可能性はあると考えます。石山曽存の弘安二年蓮師書顕の大曼陀羅を比較的正確に書写したと推定でしる時師の明徳の曼陀羅に相似した蓮師書顕の弘安二年中の大曼陀羅は弘安二年二月日釋子日目授与の大曼陀羅ですので、石山曽存の蓮師書顕の弘安二年の大曼陀羅は恐らく弘安二年二月日・釋子日目授与の大曼陀羅と同日書顕と推測しております。なお、時師の明徳の曼陀羅は先師が鬼子母神の右に龍樹・天親・妙楽、十羅刹女の左に天台・章安・傳教と記されており、これは奉蔵於奥法寶に掲載された写真でみる範囲という前提ですが、道師〜有師の書写にかかる曼陀羅で十界広式四聖先師帰命式の曼陀羅様式のものでは先師勧請はこの式で統一されており、いままで述べてきたところの石山曽存の弘安二年の曼陀羅も先師勧請は上記の明徳の時師曼陀羅と同じと推測しております。
石山が初代彫刻本尊を作製した理由は、上代にその存在が推測できる弘安二年の曼陀羅を比較的早い時期に紛失ないし焼失してしまったこと、先に成立した敵対する小泉久遠寺や富士東光寺の板本尊に対抗するための理由から、石山上代からの「弘安二年」の伝承と、厚原本照寺あたりから神四郎信仰を摂取して作製されたものと愚考しております。

1413れん:2005/10/05(水) 08:41:21
>1411 彰応考来さん。お問い合わせの「日蓮宗の本山めぐり」ですが、出版社はニチレン出版、出版年は初版は昭和46年11月14日ですが、私が所持しているのは、平成10年にこの手の古書の取り扱いで有名なT堂で見かけて購入したもので、昭和56年の第五版のものです。編著者は中野裕道師(本書では清水市妙福寺住職と紹介されている)です。これは古書ですから出版元に問い合わせてもおそらく絶版だと思います。ですから、入手方法はやはり例のT堂で予約して、在庫がはいったら連絡してもらうようにして、購入するのが一番確実だと思います。以上ご参考になれば幸いです。

1414彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 09:16:56

>1413 れんさん

早々のご回答誠にありがとうございました。

1415れん:2005/10/05(水) 09:36:22
1412の投稿文につき訂正です。

誤、推定でしる
正、推定できる

以上の論考は、写真とロジックからの推考ですが、小泉久遠寺の客殿の板本尊や富士東光寺に秘蔵されるとされる板本尊が科学的に研究されれば、その作製年代から、また小泉久遠寺の伝承から、ある程度石山の初代彫刻本尊の製作年代を特定することは可能になると思います。それによって、いまひとつ謎であった、石山初代彫刻本尊の成立史が明らかになると思うので、これら寺院の所属する日蓮宗の研究者の方々の精密な当該板本尊の科学的調査とその成果の公表を期待したいと思います。

1416犀角独歩:2005/10/05(水) 11:19:26

れんさん、初代・石山彫刻本尊造立に関わる謎に迫る御説、たいへんに興味深く拝読しました。有り難うございました。

以上の御説はもちろん、肯定的にわたしは拝読させていただいたのですが、弘安2年日興授与大漫荼羅のことで一つ、お考えをお聞かせ願いたいのです。

当掲示板の議論で、弘安2年日興授与大漫荼羅は『御伝土代』に載る「日興上人と遊ばされた」大漫荼羅が、日興(と、その門下)における最大重要な本尊ということなろうかと思います。

この『御伝土代』の記述は、細井精道氏(のちの日達)に言わせれば、日蓮・日興合作の本尊だそうですが、どうも、わたしはこの考えは馴染めません。こうした筋から堀日記などを引用してまことしやかに語られる、彫刻本尊の腰書、殊に「弘安二年十月十二日」が日興筆であるという話も生じたのではないのかと穿ってみています。

『御伝土代』の当記述が信頼がおけるという前提ですが、素直に読めば、これは授与者名が「日興上人」となって、日興に上人号允可をなした大漫荼羅と見るのが至当であると思えます。

この前提からなのですが、そうなると、弘安二年日興授与大漫荼羅は最重宝として、日興が所持していると考えられると思うのです。となれば、この宝蔵は日興所在の北山檀所と見るのが至当と思われます。

れんさんは、これを日目に付し、石山に移管されたとお考えでしょうか。
たしか彰往考来さんは否定的なご意見であったと思いますが、盗難に遭って喪失したのがほかならぬ、この弘安2年大漫荼羅ではなかったのでしょうか。盗難説を信じ、かつ、石山に弘安2年大漫荼羅があったとすれば、まさに犯人は石山ということになるわけですが、まあ、この真偽はともかく、れんさんが仰る石山曽存弘安2年本尊とは、この大漫荼羅を指してのことでしょうか。

1417れん:2005/10/05(水) 13:39:25
犀角独歩さん、お尋ねの私が推定した弘安二年の蓮師曼陀羅は、ご指摘のように恐らく時師が「日興上人御伝草案」に記した所謂「日興上人と御本尊に遊ばす」の上人号授与の曼陀羅の可能性はあります。時師の明徳三年の曼陀羅の相貌から類推すれば恐らく弘安二年二月に図顕し、同年十月十七日の“聖人等御返事”以降に上人(聖人?)号を付して興師に授与したものと考えます。ただ、これがご指摘の重須からの盗難品か、あるいは目師に授与されたものか、現時点では決しきれません。かつての議論の如く室町期の石山と重須との敵対関係を興目両師の在世にスライドさせて考えると、なるほど石山が盗難の犯人と容易に推測できますが、残念ながら、興師在世に重須重宝の盗難の史実順師血脈から証明出来るものの、石山がその犯人だと断定できる資料はありません。もし、石山が盗難の犯人ならば、室町期当時の重須と石山の敵対関係からすれば、当然敵対する石山蔵の盗難品の返還を公権力に訴えてでも半ば実力行使でも迫る筈ですが、現存の史料から見るかぎり、そのようなことはありませんでした。どの史料か失念しましたが、戦国期の重須の先師が重須の盗難品の御影が讃岐本門寺にあると書いた文書があったのを記憶してますが、石山に対するこの手の記述は見たことがないので、弘安二年の興師授与曼陀羅が重須からの盗難品という線は薄いと考えます。興師は正慶元年十一月三日の書写曼陀羅に目師を「一中一弟子」と記してますから、弘安二年の曼陀羅については目師に授与されたものと思います。今の常識からすると寺の霊宝は厳格に寺有財産として所蔵寺院に継承されますが、この当時は実際は教義も霊宝の類も師弟関係によって継承されていたことを考えれば、興師のものならば北山にあって当然ではないかと考えるのは、逆にやや早計と私には思えます(だからといって石山流の唯授一人の血脈相承を肯定しているわけではありません、わたしは、十二箇条法門も三口一徹相伝〈日目直授相承〉も恐らく石山を掌握した日時師が編纂したものと見ています。つまり石山の血脈相承観の原型は時師にそのらんしょうがあると愚考している次第です)。
彫刻の成立等についてはここで記したことで腑に落ちたので、現代板で現代進行形で議論されている法華経成立史その他の議論を拝聴して、私も深く勉強致したいと存じます。犀角独歩さんの深い御見識のさらなるご披瀝をお願い申し上げるものです。

1418れん:2005/10/05(水) 13:50:17
1417の訂正です。
誤、弘安二年の曼陀羅については目師に授与されたものと思います。
正、弘安二年の曼陀羅については目師に授与された可能性の方が高いと思います。m(__)m

1419犀角独歩:2005/10/05(水) 14:40:00

れんさん、有り難うございます。
非常に参考になりました。

そうですか、日目への譲りですか。わたしはこうは考えていませんでしたので、やや再考してみようと思います。先には彰往考来さんが、重須盗難はなかったのではないかと仰っていましたが、なかなか考証の余地がございますね。

1420彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 21:45:21

>1410 れんさん
第60番本尊は左不動(通常は向って右に不動明王がある)です。蓮祖御本尊の中では竜王女の座配が見られる特異的な諸尊の相貌です。そして天親菩薩の配座は見られません。『奉蔵於奥法寶』(平成十二年覆刻版)にある時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊についてスレッド1412で
>時師の明徳の曼陀羅に相似した蓮師書顕の弘安二年中の大曼陀羅は弘安二年二月日釋子日目授与の大曼陀羅です
とご指摘されていますが、時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は蓮祖の第60番本尊よりも、興師の例えば嘉元三年卯月八日の書写御本尊(『日興上人御本尊集』平成8年、興風談所、104頁)の相貌のほうが近いというのが私の考えです。詳細は略しますが、私はこの興師の御本尊型式をB−4型と分類しています。蓮祖の第60番本尊と相貌が一致する興師の御本尊は別にありまして、正応五年十月十三日の書写御本尊(『日興上人御本尊集』50頁)が該当します。蓮祖の第60番本尊と相貌が一致する興師の書写御本尊を私はB−2型と分類しています。
B−4型の特異点は天親菩薩の配座が見られることです。天親菩薩の配座が見られる蓮祖御本尊は第53番と第54番の2幅しかありません。ところがB−4型の興師御本尊には提婆達多の配座が見られるのみ対して、第53番と第54番の2幅の蓮祖御本尊には提婆達多の配座が見られません。弘安期の蓮祖御本尊においては提婆達多の配座は弘安二年二月の第60番本尊以後にみられる特徴です。
B−4型と相貌の差が提婆達多の有無だけである興師の書写御本尊の型式が別に存在します。これを私はB−1型と分類していますが、B−1型は第53番と第54番の配座特徴をよく有していまして、恐らく興師B−1型の原本は蓮祖御本尊の第54番本尊であろうと考えています。『日興上人御本尊集』によれば、B−1型の初出は、正安三(1301)年十月十三日のNo.5本尊(富士大石寺蔵)で乾元二(1303)年八月十三日のNo.35本尊(富士妙蓮寺蔵)を以ってひとまず終了し、以後は正和二(1313)年の1幅(No.122)を除いて見られず、主としてB−4型に切り替えられています。B−4型の初出は嘉元元(1303)年十月十三日のNo.38本尊(西山本門寺蔵)です。興師御本尊の初期はB−1型であったこと、1303年8月のB−1型の終了とともに1303年10月からB−4型へ切り替えられていること、B−1型に相当する蓮祖御本尊は第54番本尊があるのに、B−4型に相当する蓮祖御本尊が見あたらないことなどから、私はB−4型はB−1型の相貌に興師が提婆達多を加えられた独自のものと考えています。
時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊はB−4型であり、明らかに興師書写御本尊の影響を受けていると思われます。また時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は“日蓮聖人 在御判”とあります。『日興上人御本尊集』によれば“日蓮聖人”とあるのは、初期の3幅(正応三(1300)年のNo.4、正応五年のNo.7、正応□年のNo.8)だけです。そのため時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊はごく初期の興師御本尊が書写の原本となった可能性があります。ただし、こう考えるには大きな疑問点があります。時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は左に“有供養・・・ 謗者開・・・”右に“若悩乱・・・ 讃者積・・・”(右は切れていて判別困難なのですが辛うじて“若□□□頭破七分 讃者□・・”が見えます)との讃文がありますが、この型式(『日興上人御本尊集』388頁によれば6型)の讃文の初出は正和三(1315)年十月十三日のNo.129本尊からですでにB−4型に切り替わった時期でやはり時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は日興上人の中期以後のB−4型本尊が基になったと考えるべきだろうと思われます。なお、釋提桓因大玉はB−4型であれば通常見られます。

以上の論考は主として諸尊の配座から組み立てたもので、筆法や書体は考慮していません。これらを考慮するとあるいは別の視点があるのかもしれません。そのため今回の考証は少し考察不足であることをお詫びしつつ投稿します。
弘安二年の興師授与曼陀羅の有無については私自身もう少し考証が必要です。

by 彰往考来

142101:2005/10/05(水) 23:11:50
曼荼羅の諸尊というのは、書く側からすれば、うどんのトッピングみたいなもんだと思うね。
だから、うどん(中央題目・日蓮花押・四大天王)はありで、ほかのものはお客さんに合わせるんじゃないかな。
そんなことからすると彰往考来さんの論法は、どうもカップヌードルだよね。

1422れん:2005/10/05(水) 23:48:22
>1420 彰徃考来さん。懇切丁寧なご指摘痛み入ります。
私も「日興上人御本尊集」掲載の興師曼陀羅を分類しるとすれば仰るとおりと思います。ただし、今回の私の論考は時師の明徳三年の曼陀羅の題目の全体と経字の筆法・書体、ならびに欠損していない梵字の愛染の起筆と梵字全体の筆法・書体に特に注目して推定したものです。
ご指摘の、「B−4型はB−1の相貌に興師が提婆達多を加えられた独自のもの」については私もそう考えていたのですが、明徳三年の時師の書写曼陀羅の経字や梵字の特徴から、現存する蓮師曼陀羅には、確かにB−4式の曼陀羅は現存しないが、興師のB−4式の書写曼陀羅の原本となる蓮師曼陀羅がかつて有り、それが、曽存の興師へ授与された弘安二年の曼陀羅ではないかと推定してみたものです。ですから、推定推測にすぎないと言われればそれまでなのですが、B−4式の蓮師曼陀羅の曽存の可能性を、時師の明徳三年の書写曼陀羅から窺える以上、B−4式の曼陀羅がかならずしも興師の独自のものと言えないのではないかと、推察・愚考した次第です。

1423彰往考来:2005/10/06(木) 08:38:11

>1422 れんさん

> 興師のB−4式の書写曼陀羅の原本となる蓮師曼陀羅がかつて有り、それが、曽存の興師へ授与された弘安二年の曼陀羅ではないかと推定

この可能性の有無が私にとっても疑問なのです。その存在が確証できれば、

> B−4式の曼陀羅がかならずしも興師の独自のものと言えないのではないか

ということになるでしょうね。もう少し全体を検証すべきと思います。
私の1420の投稿を受けてのれんさんの1422のご投稿で基本的な視点は同じであることがわかりました。
ありがとうございました。

1424犀角独歩:2005/10/06(木) 12:26:07

れんさん

『御本尊集 奉蔵於奥法寶』第42、87頁、所蔵の日時筆・明徳3年卯月本尊につき、ご論考拝読させていただいております。

ご採用の分類に関して、特に異議を唱えるということではないのですが、わたしはどうも座配勧請諸尊のみで捌くのではなく、ここに日蓮の筆法の変遷を併せ考慮したほうがよいと思うのです。

日時の本尊を一瞥して、まず眼に着くのは愛染の形貌です。この筆法は『御本尊集』(立正安国会)で見ると、第40番台、つまり、建治年間のものに似ませんか。

わたしは、拙書、また、HPでも論及しましたが、愛染の頭が弘安2年の段階では●になって、その後、変更がないことに着目してきました。ところがこの日時本尊は‘ ┓’となっています。この形は、弘安2年10月の第67大漫荼羅とは著しく異なっています。
(大漫荼羅では‘ ┳ ’となっていますが、その略形、草書に該当するのが‘ ┓’ではないのかとも考えます)

このような筆法の相違は題目のたとえば「經」の字でも顕著です。糸扁の筆法が弘安2年という時代性をまるで反映していません。

以上の点は、しかし、日興の段階で言えることで、日興の記す愛染は、日蓮の筆法変遷と比較すると、やはり、建治年間に似ます。(『日興上人御本尊集』P386)また、「經」作りは [一/ツ/乙] と時代変遷をはらむ旁第二画が‘ツ’となっており、弘安2年10月当時の日蓮の筆法をまるで写しません。(同 P378)

日興の「經」の筆法と、日時の該当本尊のそれは違っています。

字の書き方は各人の癖と言えば、それまでですが、しかし、宗旨に関わる題目の筆法、また、重要な要素である不動・愛染の筆法は、やはりお手本に(大)漫荼羅本尊があればこそ、「書写」とも言うとわたしには思えます。形を似せて書写するところから始めると考えるほうが自然です。

まあ、こう記せば、日興を崇拝する人々の怒りを買うかも知れませんが、そもそも日興は、弘安2年以降の日蓮大漫荼羅は、拝したことがあったのであろうかという疑問すら生じます。

あと、日時の該当本尊では「書写」との認めが確認できません。書かれていないとすれば、書かないなりの意義を考えることも至当であるとわたしには思えます。

以上の点は、れんさんは、どのようにお考えになられますか。

1425れん:2005/10/06(木) 15:23:58
>1424 犀角独歩さん。先ず第一に明徳三年日時本尊の愛染の形貌について、私が一瞥したかぎり、全体的に一番相似しているのば御本尊集第六0番の愛染というのが、わたしの感想です。ご指摘の「愛染の頭が弘安2年の段階では●になって…」ですが、山中師の解説により御本尊集に当たりますと「不動愛染の二明王を表す梵字の起筆の部分が、弘安二年四月八日の御本尊(第六二)から変貌し第六五(弘安二年七月)に到って其の頭部が完全なる宝珠型となり、弘安五年に及んでいる」ことが看取できます。弘安二年二月の時点における日蓮曼陀羅の梵字の起筆部分は建治・弘安元年に引き続き┳ですので、日時明徳三年の曼陀羅の原本が弘安二年二月〜四月八日の間に日蓮が書顕した曼陀羅であるならば、特別異とすることはないと思います(大曼陀羅では┳、その略形・草書に該当するのが┓ではないかとのご教示、私もそのように思います)。次に糸扁について、これは、恐らく明徳の前の日時筆・至徳四年七月の曼陀羅の糸扁を参照するかぎり、日時の書き癖の表れと考えます。經の旁は、まさに蓮師曼陀羅の經字における山中師の書体分類の第三期を表しており、最も相似する書体を現存の日蓮曼陀羅で見る限り第六十番(弘安二年二月)になります。この二点から私が日時が初期に曼陀羅書写の原本とした日蓮曼陀羅は弘安二年二月〜四月八日の間の曽存曼陀羅ではないかと考えます。そしてその勧請座配は明徳三年の日時曼陀羅がよく表現しているのではないかと愚推した次第です。

1426犀角独歩:2005/10/06(木) 15:48:07

れんさん、わたしは少し勘違いしてご質問を投げかけたようで、日時本尊は弘安2年10月「日興上人」授与大漫荼羅を写した日興書写本尊を手本にしたというご見解なのかと思いました。

たしかにご指摘のとおり、第60大漫荼羅は不動・愛染の左右の逆転はあるもののたしかに相似しておりますね。先の「建治に似」という感想をここに撤回します。

この第60大漫荼羅は、それにしても、不動愛染の逆転のほかにも、実に種々特異点がありますね。日蓮花押と大廣目天玉の間に「釈子 日目 授与之」と記されてあるのにも驚かされますが、さらに「(削損シアリ)」(目録 P91)とのことであれば、元は何が記されていたのかも大いに気になります。

不動愛染の逆転しない、同時期の大漫荼羅であれば、なるほど、合点がいきます。

ご教示、有り難うございました。

1427れん:2005/10/06(木) 15:53:44
1425の続き
日興曼陀羅の經字の旁についてですが、正応五年十月十三日の日興曼陀羅を見ますと、明らかに原本は御本尊集第六十番と看取できるにもかかわらず、原本第六十番の日蓮第三期の書体ではなく、日蓮第四期のごとき書体で「書写」していますから、これはこれで、日興の書き癖と判断するよりほかはないと考えます。
>日興は弘安二年以降の日蓮大曼陀羅を拝したことがあったか疑問…
この点については、御本尊集の弘安二年以降の七六、九二、一00、一0四、一0七、一一六の日蓮曼陀羅に日興自身が添書していますから、この疑問はこれによって散じます。
>日時の該当本尊では書写との認めが確認できません。
これは日時のみではなく日目ならびに日行〜日有の奉蔵於奥法寶に掲載されたすべての曼陀羅について言えますね。日興が書写之を記さないのは写真公開されているものでは正応三年十月八日と元徳二年閏六月一日のものだけですが、日目の写真公開されている三幅はすべて「書写之」の記述を省略して記しておりません。このことから日行〜日有は、この点に関しては日目の曼陀羅書写様式を伝承したと見るべきなのでしょうね(ちなみに日郷も写真公開されている二幅の曼陀羅については日目と同じく書写之を省略して記してません)。

1428犀角独歩:2005/10/06(木) 16:16:12

れんさん、やり取りが交叉して恐縮です。
弁明のようになりますが、1424において、「日興は弘安2年以降を見ていないのか」というのは、余りに日蓮大漫荼羅から字体がかけ離れているので、これは筆の勢い。一つの疑問の投げ方で、ご指摘のとおりであろうと存じます。

> 書写之を省略

この点についてですが、わたしはこの点が実に気になります。
「書写之」という文言を本尊書写の一つの形式と取れば、それは「省略」と見なすことができますでしょうが、しかし、この有無を文字通りに見れば、「書写」とあるものは書写。そうないものは、実際に書き写したのではなく、特に手本を写さず、図したものという2分類の類推は立たないのでしょうか。

日目は「書写」と記さない。そうであれば、重須と石山では別の本尊図顕の所作に基づいていたわけで、極論すれば、日目、日行から日有は書写という意識ではなく自ら図示という認識であった可能性も強ち否定できません。わたしの手許にはないのですが、日道はどうであったのでしょうか。また、日郷も「書写」と記さないのであれば、その意識は図示であると考えられます。

本尊を書くに当たって、自ら図示と思うか、書写と思うか、この心地には天地雲泥の差があるわけで、わたしは興味が惹かれるわけです。

1429れん:2005/10/06(木) 20:07:53
犀角独歩さん
>1426 「不動愛染の逆転しない同時期の曼陀羅…
私が推定したのはまさにそれでした。
なお、第六十番の欠損部分ですが、山中師は目録の第六十番の備考で「大廣目天王の右側に日興聖人の添書が存在したのを削損してある。今『王』字の點の中に『日興』の二字が残存している」と述べられていますので、第九二番の日興添書の例などから類推して、恐らく日興「本尊分与帳」の「新田卿公日目者日興第一弟子也にんべん+乃所申与如件」の如き日興添書が存在したのだろうと、想像を逞しくしております。
>1428 書写之…この有無を文字通りに見れば「書写」とあるものは書写。そうないものは、実際に書き写したのではなく、特に手本を写さず図したもの
お言葉の通りの分類も可能かもしれませんが、私はどっちにも決しきれてはいません。図顕・図示となれば日昭・日朗・日常の諸師の如く首題(題目)の直下に自らの日号の署名と花押を書し、日蓮を先師勧請の中に列するべきと思うのですが、日目の影本が公開されている三幅の内、正中三年卯月日・元弘三年十月十三日の曼陀羅は首題の下は「日蓮聖人」、正慶二年二月彼岸の曼陀羅は「日蓮御判」とあり、この点は日興の曼陀羅書式の特徴を継承しています。ちなみに以下の諸師は首題の下は、日郷二幅は「日蓮聖人」、奉蔵於奥法寶収録の日道二幅「日蓮在御判」(この二幅には書写之があります)、日行三幅の内、一幅「日蓮在御判」二幅「日蓮御判」日時十五幅「日蓮聖人在御判」日影一幅「日蓮聖人在御判」日有三幅「日蓮在御判」とあり、概ねこの点に関しては日興の書式を守っておりますので、意識としては、日興の書写に近いものではあると思います。日時は自著日興上人御伝草案において「佛滅後二千二百三十餘年か間一閻浮提之内未曾有之大曼陀羅也ト図シ給御本尊」の文の“図”に「うつ」とルビを付して「図シ」わざわざ“うつシ”と読ませていますので、形式としては「書写之」と記さない分、図(ず)示に近いながらも、意識の上ではうつす=書写と認識しているのではと愚考いたしました。

1430犀角独歩:2005/10/07(金) 02:11:35

れんさん

本日、本化ネットワークのつどいがあり、立正安国会・片岡邦男師による『本尊雑録』を聴講してきました。この内容は、追ってブログで紹介しようと思いますが、それはさておき、終了後の二次会で、この「書写」について、皆さんにお尋ねしたのです。

どうやら他門では「書写」と書くことはないということで落着していました。
西山茂師は「如何にも日興上人らしいお話だ」と「書写」とする姿勢を感嘆されていました。

首題下に「日蓮」と記さず、自分の日号記すことは広く行われていますが、しかし、日蓮と書く例もあります。参加されていたこちらでもご投稿くださる栴檀さんが日親筆の本尊には「日蓮」とするもの、「日親」とするものの両方を見たと話しておりました。

日蓮宗では漫荼羅図示は「法主一人の権能」などということはなく、教師であれば、本尊は書けるでしょう。しかし、この場合、自分の日号を記すことはしません。貫首クラスの地位にでもない限り、そのようなことをしませんでしょう。「日蓮大菩薩」等と記すのが一般です。わたしの手許にある1幅を広げたところ、「謹写」となっていました。本日、勉強会ご参加の方々の御発言はつまり、れんさんがお引きになったよう例のことのようでした。

いずれにしても、日興は書写という姿勢で貫いたことは敬意を表する値します。
しかしながら、『御本尊集 奉蔵於奥法寶』において、石山上古歴代が「書写」とは記さず、しかも「首題・日蓮聖人」とするのは、日興とも、その後の化儀とも違っている点は一応、留意し考えてみたいと思います。

ただし、これは書写としないことが法義違反であるという意味ではありません。
わたしの感覚からすれば、「書写」「図(ウツ)す」は、二転の感覚が否めません。
先にわたしが記したような二分類にいう図示と書写はあくまで仮設であって、そのような使い分けは、もちろん、存しません。しかし、敢えて、この分類を採用すれば、図示(本紙)、書写(二転)で、これが自ら書したものであって同様の分類になるという感覚がわたしにはあります。

堀氏の言に「後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写」(水鑑沙弥注解)という一節は夙に著名ですが、これは通常の書写とは違い、形貌、日蓮花押までも忠実に模写することを指すのでしょうか。このような場合、模写人の書名花押がなければ、真筆と分別に悩む事態も出来することになります。いまのように『御本尊集』などで、真筆写真を閲覧できるときとは違い、「日蓮花押」まで模写され、「写」であることを紙面にことわらなければ混乱を来すことは必至です。そのような意味で日興の姿勢は実に堅実なものであるということになります。しかしながら、自ら漫荼羅を図示し、それが何を写したものでもない場合、日蓮漫荼羅を模したからといって、これが書写に当たるのかといえば、必ずしもそうは言えないとわたしには思えます。もちろん、これは日蓮門下一般の話であり、一人にしか漫荼羅書写を認めない石山という特例を俎上に載せたことではありません。

いずれにしても、漫荼羅論考の一つの視点として、以上のことは含ませて考えたいと思います。

1431栴檀:2005/10/07(金) 09:56:27
おはようございます。

犀角独歩さん、昨日はお疲れ様でした。
署名の件ですが、茂田井教亨師は大曼荼羅を書く際に首題の下に自分の名を入れることは絶対にしないと言われていましたし、
また自身が礼拝するにしても、やはり首題下に末師の署名があるものは抵抗があると言われていました。
(最近出ました師の『観心本尊抄を語る』の巻頭に先生自筆の大曼荼羅が載っておりますが、「日蓮 在御判」です)
大曼荼羅の世界は大聖人が感得された世界であって、果たして自分はそうだと言えるのか、というのがその理由だったと記憶しています。

>日親筆の本尊には「日蓮」とするもの、「日親」とするものの両方を見たと話しておりました。
すみません。ここは日親師ではなく不受不施の日奥師です。確かに奥師のものには両方あります。

1433彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:31:05

「お薦めスレッド」 >320,325 独学徒さん >324 犀角独歩さん

こちらに移して投稿します。
稲田海素師と大石寺との接点に関する資料を拾い出してみました。

稲田海素師の『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)によれば、(一部現代かなづかいに改めました)

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049186&VOL_NUM=00000&KOMA=70&ITYPE=0&L=0

「同(引用者注:明治三十五年十二月)十九日 北山本門寺の檀信にして本と會津藩士森田翁と同道にて大石寺に詣り、始めて執事等に面談し、固く至急に御眞蹟拜照し得る様に取り計ふ事を約し畢て」(113頁)とあり、引き続き「明治三十六年一月十一日 富士大石寺(貫主大石日應上人)より御眞蹟拜照せしむべきに付來山すべき旨の書状に接し (中略) 其日(引用者注:一月十二日)當山(引用者注:伊豆本立寺)を辭し、大石寺に詣る直に塔中の寂日坊を宿舎に定められ、毎朝八時より夜十二時まで五日間録内外の御聖教三十七章を拜照し、外に録内外に漏れたる聖教斷編共に十三章を拜寫せり」(115頁)、「御眞蹟等を拜照せし時、監督の傍ら終始熱心に拜照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山澤在中は勿論、其己後も御遺文拜照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の讀者に代て一言以て之を感謝す」(118頁)、「同(引用者注:一月)二十二日 當山(引用者注:富士大石寺)の靈寶拜見も無事に結了せし故に、午後三時より寂日坊を辭して西山に過ぎり」(127頁)とあります。

つまり稲田海素師の大石寺訪問は、まず明治35年12月19日に北山本門寺信徒森田氏と共に大石寺の執事を訪問して御真蹟の拝写を要請し、明治36年1月11日に大石寺日応貫主より拝写を許可する旨の書状を受領、大石寺で1月12日から5日間、塔中の寂日坊を宿舎に、毎朝八時より夜十二時まで聖教を拝写したというものです。この時見張りをしたのが堀師です。16日に終了したはずなのですが、『日蓮聖人御遺文對照記』では22日に大石寺を辞したことになっていて記録に6日間の齟齬があります。118頁に“五日間”とあることから127頁の「同二十二日」は“十六日”の誤記ではないかと考えます。稲田師が聖教を拝写したのは一月ですからお虫払の時期ではありません。

なお、『日蓮聖人御遺文對照記』の127頁に、明治36年2月19日に稲田師が保田妙本寺を訪問したとの記載があり、「時に下谷常在寺の堀師も見えられたり」(127頁)とありますので、堀師は稲田海素師の保田妙本寺訪問に同行していたことが解かります。

1434彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:31:49

1433の続きです。

稲田海素師は大石寺塔中の寂日坊で御真蹟の拝写をしていたのでしょうか?
稲田師の大石寺での聖教拝写については同師の「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』(昭和11年、立正大学宗學研究室、111頁))に「思ひ出せば明治三十六年正月十六日に全部調査するまで前後五日間、黎明に床を出で宿所寂日坊から雪を踏んで大石寺へ通ひ、夜は十二時を過ぎてから歸坊したのであつた。容易に他見を許さゞる石山の重寶を、念願叶つて披見を許された喜びに雪中の苦勞も忘れて通つたものである」とありますので寂日坊で拝写をしていたのではないことが解かります。稲田師が大石寺のどこで聖教を拝写したのかは大橋慈譲師の証言があります。「日亨上人を偲び奉る(九) 亨師は、古文書に関心持たれたのは四十歳代からであると聞く、稲田海素師が御書編纂を志され、立正大より大石寺所蔵関係の御遺文を読みに来た。稲田師は、確か、宗務院脇の旧塔中食堂の部屋と聞いた。そこで御宝蔵の御書を一巻づつ持ち出して、一文一句書写された。本山からその番兵の意味を含めて亨師が立会いをさせられ、四六時中相手となった。それから亨師も古文書に関心が出来、爾来御遷化迄五十余年研究されたという」(『佛教思想と富士教学』昭和56年第2版(初版昭和53年)、日蓮正宗佛書刊行会、271頁)というもので“宗務院脇の旧塔中食堂の部屋”で書写をしたという証言です。この“塔中食堂”は『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、251頁)記載の「昭和初期の大坊建物配置図」で確認することができます。この地図によれば宗務院玄関を入ってすぐ右に塔中食堂があります。宗務院玄関を出て東に真っ直ぐ石畳を歩き大書院の前の玄関に入り回廊(屋根付き)をさらに東に進むと太鼓橋を渡って客殿に着きます。ここを左(北へ)に曲がって進むと御宝蔵へとつながります。残念ながらこの客殿は昭和20年6月17日の出火で焼失してしまいました。
当時客殿にはどのような御本尊が安置されていたのでしょうか?文政6(1823)年の日量師による「富士大石寺明細誌」によれば、「客殿正南面、向拝造 間口十四間奥行十二間。(中略)仏壇中央板漫荼羅日興筆の写」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』(昭和53年、創価学会、324頁)とあり、さらに客殿焼失前の昭和14年に雪山書房から発行された『富士宗學要集 第七史料類聚』の268頁(同じ内容が『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(昭和53年、創価学会、202頁)にあります)に「總本山客殿の板本專(引用者注:“專(専)”は“尊”の誤記か)、日興上人御座替本尊彫刻」とありますので客殿の本尊は日興上人御座替本尊を彫刻した板本尊であったことがわかります。蛇足ながら『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(新版)の記載は『富士宗學要集 第七史料類聚』(旧版)を新かなづかいに直しただけで内容は同じです。従って両書とも昭和14年当時の編纂内容であるといえます。このことは『富士宗学要集』の新版(山喜房版・創価学会版)だけを読んでいると気がつきませんので注意が必要です。新版は旧版(雪山書房版)の復刻ではなく改版していますので頁など一致しません。「新旧富士宗学要集所載資料比較対照一覧」は『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、220〜230頁に記載されています。

1435彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:32:23

1434の続きです。

「日興上人御座替本尊」(紙幅)は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所、46頁)に入集しています。「十六枚継の大幅の御本尊」との記載はありますが、寸法欄は空欄になっています。寸法は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、91頁)に記載があり、丈185.7cm、幅87.5cmとのことです。同書同頁には、「現在、大客殿にご安置の御本尊は、第二十四世日永上人が、宝永三年(一七○六)六月十五日、この御座替御本尊を板に写し奉り、彫刻せしめられた御本尊である」とありますので、焼失した客殿に安置されていた御本尊は永師彫刻の本尊と思われます。昭和20年6月18日付宗務院の通達では、「御寶蔵竝ニ各□□御(本)尊ハ幸ヒ無事安泰ナルヲ得」(『地涌からの通信 別巻①資料編』(1993年、はまの出版、167頁)とあることから客殿の御本尊は焼失を免れたと考えます。

この稲田海素師による聖教の拝写について『大百蓮華 第67号(昭和31年12月号)』に掲載された昭和31年2月25日の「三大秘法と戒壇の歴史 =堀日亨猊下を圍んでお聞きする=」での堀日亨(明治36年当時は堀慈琳)師の証言があります。「稲田のほうは、大石寺にきたことはあつた。唯御書を見にきただけなんだよ。それを堀さんとは兄弟同然につき合つたなんていつているが、親友だなんていうばかなことはない。要求する御書だけは見せたが、御本尊はとうとう見せなかつたなんていつているが、見せものじやあるまいし御本尊を見せてやれるわけがない」(『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、124頁)というもので、これによれば稲田海素師は正式には石山の御本尊を見ていないということになります。稲田師が宿坊の寂日坊から雪の中を移動中にたまたま客殿の中を通り、掲げてあった御本尊を非公式に眺めたようなこともあったのかもしれません。あるいは内々に堀師が客殿の中を稲田師に案内したのかもしれませんが想像の域を出ません。堀師の証言はずいぶんそっけない言い方で、上記『日蓮聖人御遺文對照記』で堀師が稲田師の保田妙本寺行きに同行したことなどを考え併せると事実をしゃべっているとは考え難く堀師と稲田師がかなり親しい関係であったことは間違いないでしょう。

今回の考証で、明治36年1月に実施された稲田海素師の富士大石寺における御書書写の模様がかなり明らかとなりました。私自身ここまで突き止められるとは当初思ってもみませんでした。これも断片的ではありますが先師が証言を残されたお陰であり感謝いたします。

書物というものは、所詮は、先行する文献を集成して成立するものである。架空の人物にしろ、<聖徳太子>のような遠い過去の人物の伝記であってみれば、そのことは避けようがない。とすれば、重要なのは、いかなる目的あるいは理念のもとに、過去の資料を集成し、そのうえに新たな見解を加えて一書をなしたのかということであろう。(大山誠一「『上宮聖徳法王帝説』成立試論」(大山誠一編『聖徳太子の真実』収録、2004年、平凡社、153頁))ということが今回、少し理解できた気がします。

引き続き、稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊はどれであったかなど推論を交えながら考証したいと考えます。

by 彰往考来

1436れん:2005/10/07(金) 21:26:11
犀角独歩さん
>1430
>首題下に日蓮と記さず、自分の日号を記すことは広く行われていますが、しかし、日蓮と書く例もあります
私も彼の有名な行学院日朝師の曼陀羅において経題の下「日蓮在御判」と「日朝(花押)」の両方の書式のものを拝見したことがあります。
日興上人御本尊集には未収録なので、興風談所では存疑扱いだと思いますが、静岡県史通史編に日興本尊として写真が掲載されている北山本門寺蔵・正応二年十月十三日、周防房授与曼陀羅には「首題・南無日蓮聖人・日興(花押)」でこの本尊には「書写之」はありません。日興上人御本尊集に入集している讃岐本門寺蔵・正応三年十月八日、僧日仙授与曼陀羅は「首題・日蓮聖人」で「書写之」がありません。蛇足ながら、奉蔵於奥法寶の付録「日興門下御本尊集」に写真掲載の北山本門寺三世日妙の康永三年三月十三日の曼陀羅は「首題・日蓮聖人在御判」で「書写之」がありません。これらの点から、これら日興門下諸師は日興初期の曼陀羅(存疑とおもわれる周防房授与のものはのぞいても)の書式形態を継承したとも言えるかもしれません。いずれにしましても、この件につきましては、独歩さんのご指摘を踏まえて考えていく所存です。
話は別の板になりますが、わたしも、松山俊太郎師の御講義を拝聴したい望みがあります。というのも、私が学会員だった時、「法華経とシルクロード展」があり、そこで展示されていたロシア科学アカデミー所蔵のペトロフスキー本やその他のサンスクリット仏典の写本・影本を見たことがあり、私は外国語はまるきしダメ(日本語すらあやしいですが)なので、梵語はまったくダメですが、こっちの方にも興味があります。先程、ケイタイからですが瓔珞出版の方にメールしましたが、もし、よろしければご高配を賜れば幸甚です。

1437独学徒:2005/10/08(土) 02:12:43

彰往考来さん、

>稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊

是非ともこの件に関しての、御所論を拝したいと存じます。
今後の御投稿も注目させていただきます。

1438犀角独歩:2005/10/08(土) 05:07:24

栴檀さん

訂正、有り難うございました。
昨日の講義もたいへんに興味深いものでしたね。
わたしは終電ギリギリでしたが、二次会も実に有意義でした。

茂田井教亨師の漫荼羅図示のお考え、実に頷けます。
石山下では、漫荼羅‘書写’は「法主一人の権能」とかいって、この件に関しては思考停止を強いられています。そのために、日蓮聖人の真筆大漫荼羅ですら、他山にあれば、拝観も謗法という暴挙です。まったく何を考えているのやらと、脱してみれば溜息が出ます。こんな下らないタブーは捨て去って、どんどん、この件も考えてまいろうと思います。よろしくご教示ください。


彰往考来さん

ご投稿、たいへんに参考になりました。有り難うございました。
独学徒さんと同じく、続きを楽しみにしております。


れんさん

「周防房授与曼陀羅」、これは実に興味深いですね。
れんさんがご覧になって、日興筆と思えますでしょうか。

松山師講義でお会いできますね。師は世離れした仙人のような方で、いつも浴衣の着流し。ネコが嫌いで、それとは反対に大好きなものがあります。講義中でも、ところ構わず、その名称を口走りますので、最初は吃驚しますが、何度か、お会いする内に慣れます(笑)


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