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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

1031彰往考来:2005/01/08(土) 17:55

犀角独歩さん、

>1030
>扱っている富士門の良識・常識、さらに上古・中世の非科学的な部分まで、あまりに真面目に取り扱いすぎておられるようにお見受けします。

 そうでしょうか。もしそう受け取られるとすれば、私の筆力が足りないのでしょうね。
 例えば、私は「家中抄」もよほどのことがないと信じてはいません。精師の時代の現状、「今○○にあり」というようなところですね。これはまあ信じてもよいかと考えます。
 「日代八通の譲状」も私は偽筆と考えますので、その内容は??といういうわけで信じないという立場にたちます。

>上古より、禅師授与漫荼羅が存在していたという前提で論を進められるのか、わたしには不思議に思えます

 う〜ん。考え込んでしまいますね。私が言うのもおかしいですがなぜでしょうね。結局のところ、売りに出されていたものが「本門寺」の文字を頼りに北山に招来したというのも有りとは思っているのです。
 私自身の思い込みが強いのでしょうかね。上古より存在していたと考えると変でしょうかかねえ。それも有りと思いますけどね。
 直接関係ないですが邪馬台国論争も同じです。数少ない資料をたよりに、場所は九州だ畿内だとやっているわけです。
 私は関西出身なので本来は畿内説のほうが自然かもしれないのですが、実際は北九州説なのです。
 これは記紀(古事記と日本書紀)が戦前は、日本国史だったものが戦後一転してすべて作り話となり、最近は記紀の中から見直し論が出ているのと似ていると思いますね。その意味では卑弥呼=天照太神と考えていますし、天岩戸は皆既日蝕と考えています。
 もう一つ。
 犀角独歩さんと意見の食い違いのある理由のひとつは、犀角独歩さんがよく引用される『大石寺誑惑顕本書』を私が所有していないために読んでいないという点があるのではと感じています。
 幸いにも瓔珞出版さんで販売開始されましたので購入して読んでみます。

 参考まで。

 彰往考来

1032犀角独歩:2005/01/08(土) 20:06

彰往考来さん:

禅師授与漫荼羅というのは真筆であるとお考えですか。
すでにわたしは写真を発表しておりますから、他の真筆大漫荼羅と比較は可能ですね。
また、過去の宗宝調査などでも真筆と判断されることはなかった漫荼羅です。
「經」字旁、通常では「ツ」様となっているところが「ソ」となっています。
大廣目天玉の「天玉」は蓮師の筆法と異なっている点は既に指摘しました。
また市中に売りに出ていた骨董美術品であったことは彰往考来さんご自身が指摘されたことでしたね。
このような点から考えて、禅師授与漫荼羅は中世以降に造られた偽筆であるとも考えられるわけですね。そうなると、それを真筆として、禅師が所蔵し、また、東光寺、もしくは南之坊との由緒を考えたりすることは、わたしはどうも納得いきません。

それは恰も、弘安3年5月前後の相貌を持つ彫刻本尊が弘安2年10月に図示された理由を一所懸命に考えるに似ています。上古から見る限り、彫刻本尊の存在は資料からは窺い知れないわけです。それはつまり、そのようなものが存在していなかったことを意味するのでしょう。

同じように、北山、もしくは石山に禅師授与漫荼羅が存在した資料がなければ、そのような漫荼羅は存在しいていなかったと考えることは寧ろ自然ではないでしょうか。ただし、資料として考えられるのは興師『本尊分与帳』ですね。ところが、ここに載る興師文章は、伯耆漫荼羅より、石山所蔵本の加筆と一致しています。そうなれば、伯耆漫荼羅(北山所蔵本)は該当しないことになりませんでしょうか。

元より、わたしは石山本の信憑性をも信じてはいませんが、どちらかと言われれば、石山本が、(仮に偽筆であり、剥離表装されたものであっても)その加筆から正本であると考えるほうが自然であるように思えます。

また、この剥離表装という点ですが、2舗に分かった段階で、加筆部分が文字が欠けたという仮説は立てることは出来ますでしょう。しかし、ならば、何故、わざわざ違えて臨模する必要があったのでしょうか。剥離表装とはまったく同じものを2舗作り出す技法ですね。なのに敢えて加筆部分を換える必要などあったのでしょうか。この点の説明が剥離表装を主張する場合、高いハードルになるとわたしには思えます。

1033犀角独歩:2005/01/08(土) 20:07

―1032からつづく―

なお、彰往考来さんの見解の相違は『大石寺誑惑顕本書』の読不の問題と言うより、資料に現れていないものを「ある」と思うか・「ない」と思うかの違いのように感じます。

ただそれとは別に、禅師授与漫荼羅を万年救護・戒壇本尊と、お宝に担ぎ上げているのはまさに同書です。ですから、斯くも高い評価を与えられたのが同書であれば、この‘時期’にこそ、真偽は別として、この漫荼羅はこのように考えられたと資料は読むべきではないでしょうか。それ以前に、もし禅師授与漫荼羅が「万年救護」「戒壇」本尊ということが言われていなかったとすれば、この書が、この漫荼羅にこの評価を与えた張本人であると読むべきであるとわたしには思えます。いわば、禅師授与漫荼羅を「当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊」と言い切り、保田の第16大本尊に匹敵し、石山の彫刻本尊と同じ戒壇義を有する重宝であると主張したのは実は『大石寺誑惑顕本書』の作者その人なのではないのかとわたしには思えるわけです。ただ、この思いは、それ以前の資料に禅師授与漫荼羅を「万年救護戒壇本尊」とするものがあれば、違っていることになるでしょう。

わたしの一番の関心事は、禅師授与漫荼羅に斯くも高い評価が冠せられた書が流通したときと、禅師授与漫荼羅(伯耆漫荼羅ではなく、石山所蔵本)が売りに出された時期がほぼ一致している点です。また、この時期には石山は大火に見舞われている点も留意します。「万年救護戒壇本尊」とまで賞賛されるものが、剥離表装され2分されるのも変ですし、なにより、売りに出されること自体おかしなことです。同漫荼羅を売りに出したのが阿部さんが言ったように北山であり、かつ『大石寺誑惑顕本書』が北山方の誰某かが記したものであるとすれば、まさにこの書と同漫荼羅の販売は脈絡があることになるとわたしは考えます。また、それにまんまとはまったのが石山方と言うことになるのでしょうか。両山問答では、たしか、この書が投げ込まれたのを讃岐本門寺であるとしていたはずで、当時また、三寺三つ巴の確執もあったと読んだ記憶もあります。

(参:霑師云「先年貴山の先住日信師より讃岐法華寺へ御投与なりし御書とて大石寺誑惑顕本抄と題せるいと珍らしき御名文の書を此の頃始めて拝見」)

まあ、そのような点で、禅師授与漫荼羅を読み解くうえで、この書は必読書と言えようかと思います。

また、同書は禅師授与漫荼羅について陳べ、石山彫刻本尊日有偽造論を展開するばかりではなく、もっと興味が惹かれる物語で始まっています。それは何かといえば、先に名の挙がった「鉄砲漫荼羅」を石山が自分たちが買い取って所蔵していると主張しているという書き出しになっています。また、鉄砲漫荼羅と「神君」との物語はここに載るので、彰往考来さんには禅師授与の件と共に、こちらも興味を惹かれることでしょう。
読後のご感想を楽しみにしております。

1034愚鈍凡夫:2005/01/08(土) 23:12

横レス失礼します。う〜ん。
「本門寺」=「北山」・・・・・。少し首を傾けてしまいました(アヤヤほど可愛くありませんが・・・・・。なにぶんオッサンですから)。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
別に禅師漫荼羅を「本門寺」に返すのであれば、「西山」でも良かったのじゃないでしょうか・・・・・。
「北山でなくっちゃダメっ。と言う理由が分かりません」
禅師漫荼羅が、本来「北山」にあったという確たる証拠が希薄であると思うのは小生だけでしょうか?

1035犀角独歩:2005/01/08(土) 23:56

> 1034

いやいや、愚鈍凡夫さん、わたしもそう考えます。

1036愚鈍凡夫:2005/01/09(日) 11:15

あっ犀角独歩さん、どうも。
禅師授与漫荼羅の経緯について、以前、空き缶さんに質問したと思いますが、未だに釈然としません。

1037犀角独歩:2005/01/09(日) 11:28

> 1036

あ、そうでしたっけ。空き缶さんとそんな遣り取りがありましたっけ?

1038愚鈍凡夫:2005/01/09(日) 12:41

はい。(⌒^⌒)b
確か、何故日禅師が蓮祖に賜った漫荼羅が重須に存在するのか。そして、自身が建立した寺院の重宝にしなかったのは何故かといった質問だったと思いますが・・・・・。 (^^ゞ

1039犀角独歩:2005/01/09(日) 14:20

まず、自己レス。1032に『本尊分与帳』と記しましたが、正信会『日興上人』(継妙新聞社)によれば、「一般に略称として『本尊分与帳』と称する向きもあるが、これは間違い」(P365)で、『弟子分帳』が略記としては正しいとのことでした。

ただ、「弟子分与申」という題名、「でしぶんにもうしあたふる」と読むそうですが、わたしは「弟子に分け与え申す」のほうが自然な気がします。ここを「弟子分に申し与ふる」とするのは、本文中の「申し与ふる」となっているからでしょうが、題名では「…與申」で本文では「申與」の相違があります。その他、思うところはありますが、いまは記さないことにします。

さて、愚鈍凡夫さん、疑問とされるところは、わたしも同意するところです。
ただ、もう少し突っ込めば、先に記したとおりで、いまある禅師授与漫荼羅は?と疑問符が付くわけです。

まあ、それは置くにしても『弟子分帳』に「申し与ふる」と言い、禅師の下にあることが明言されているわけですから、たしかに北山にあればおかしなことになりますね。

わたしはここいらのところは、どうも不案内なのですが、御筆漫荼羅への興師の加筆と『弟子分帳』の記載の一致(たとえば、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と弟子分帳は一致)は、つまり、興師が自ら御筆漫荼羅に加筆したものをまとめたのが『弟子分帳』であるという関係なのでしょうか。

興師の弟子は蓮師滅後、漫荼羅を興師の下に持参し、もしくは興師が尋ね、そこに加筆し、今度は興師が与え申すことで、師弟子関係を再契約するような意味がそこにあったのでしょうか。どうもこのようなやり方は判然としません。もし、蓮師を継いだ次の師として興師が加筆ということであれば、その次の師も・その次の師も…とでもなりそうですが、そうはならなかったわけですから。蓮師聖筆に、躊躇いなく筆を入れることは、(いろいろ言い訳がましい文章はありますが)なかなかのことですね。合理的な措置なのか、祈祷的な意味なのか、どうも斟酌しかねます。

まあ血脉両抄なんかでも後代の書き込みは多数あるわけですね。
わたしが学生のときに読んだ池田さんの講義では「後代の書き込みは歴代上人のもので、血脈相承の方の文であるから大聖人の仰せと同様に扱う」なんて内容であったような記憶があります。まあ、そんなことと同様の意味があるのでしょうか。でも、そうなると興師の代で終わりとなれば、当時はそんな考えはなかったことになりますね。

話は横道にそれましたが、興師自ら「申與」と記した以上、その手元になかったことだけは確実でしょうか。となれば、北山に禅師授与漫荼羅が招来したのは、やはり古美術経由のときとなりますか。彰往考来さんのご投稿が楽しみです。

1040おおい:2005/01/09(日) 21:05
だあれも、犀角独歩さんの日禅曼陀羅原本説に反論しないの?

1041犀角独歩:2005/01/10(月) 00:59

おおいさん、はじめまして?
何で煽りますか?(笑)

1042彰往考来:2005/01/11(火) 07:41

犀角独歩さん

>1032 >1033> 1039

色々とレスをいただきありがとうございます。
『大石寺誑惑顕本書』を読んでみないとなんともお答えしがたいところが多々ありますね。
すでに発注していますので、読ませていただいたあと議論させていただきたいと思います。

禅師授与漫荼羅が真筆であるかどうかの判断は私には難しいですね。
これは以前犀角独歩さん自身もどこかのスレッドで述べておられたと思いますが、真贋判定は相当スキルが必要ですし、仮にも間違った判断をすると大変です。
ただ広目天玉の天玉ですね、これについては私は別の考えを持っています。現在Photpshopなどの画像処理ソフトを使いこなす練習中でして、おいおい興味のあるデータが出てくると自分自身に期待しています。
しかしこれは>1040でおおいさんが呼びかけておられることに呼応するものではありません。
私は彫刻本尊はパッチワークであるとの犀角独歩さんの説に反論する気はありません。
なぜなら基本的な論理構成はそのとおりだと考えるからです。でも細部では異論もあり、これについては今後熱のこもった議論になることを期待しています。
犀角独歩さん、よろしく!

>北山に禅師授与漫荼羅が招来したのは、やはり古美術経由のときとなりますか。

おやおや、ひょっとして私は犀角独歩さんに“動執生疑”を起こさせている?
イヤ、まさかそのようなことはありますまい。(笑)
あの、弁舌さわやかな論客犀角独歩氏がそのような・・・。

引き続き投稿いたしますが>1024で述べました加筆に移動がある点などは次回以降になります。

管理人さんへ、

いつも掲示板を利用させていただきありがとうございます。しかんせん長文の投稿をさせていただいていますので、なにかご指摘事項がありましたらメールででも連絡ください。
私も富士門流信徒の前向きな議論を期待しているものです。

彰往考来

1043彰往考来:2005/01/11(火) 07:43

>1042

すみません。訂正です。

誤:Photpshop
正:Photoshop

1044彰往考来:2005/01/11(火) 07:46

禅師授与漫荼羅の動向について〔6〕

スレッド1026の続きです。

〔5〕で天正10年霜月(11月)15日の「日春請文」により重須本門寺に8幅の御本尊が戻ってきたとしました。今のところこの「日春請文」にでてくる8通(8幅の意味と思います)という数字が一番信憑性があると考えています。なぜなら数字に矛盾がないからです。もちろん8幅であったことが確実とまではいきません。さらに〔5〕で現在重須(北山)本門寺には11幅の日蓮大聖人の御本尊があるとしました。11幅あるといっても立正安国会の『御本尊集目録』に入集している北山本門寺蔵御本尊は鉄砲漫荼羅(第33番目)だけですから大半は模写、偽作の疑いのあるものです。11幅という数字も確定的なものではありません。なにせ『日蓮宗寺院大艦』や富士山本門寺根源公式サイト
http://park16.wakwak.com/~honmonji/
にあるように北山本門寺の公式見解(?)は“十余幅”ですから実際のところ現在何幅所蔵されているかは不明です。可能な限り詳細をみてみましょう。「富要集八巻」などの文献にでてくる北山本門寺蔵御本尊は以下のとおりです。〔〕内は記載のある資料名の記号です。

(1)建治2年2月(鉄砲漫荼羅)     〔A,B,C,D〕
(2)建治2年卯月            〔A,C〕
(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり) 〔A,C〕
(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与)    〔A,C〕
(5)弘安3年5月9日(禅師授与)    〔A,B,C〕
(6)弘安3年11月 (子安漫荼羅)   〔A,B,C〕
(7)弘安4年10月(俗平太郎□□□)  〔A,C〕
(8)文永5年5月27日(京極光綱授与) 〔B〕
 <資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
      B:『本門寺並本末寺院縁起』
      C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
      D:山中喜八編『御本尊集目録』
となって11幅中8幅の情報が得られましたが「富要集八巻」に入集しているのは7幅です。
(8)は文永5年ということで佐前のものであり、偽筆の疑い濃厚なものです。そのためかAやCには入集していません。北山に11幅あるとして、3幅の詳細が不明ですがこの3幅は箸にも棒にもかからない代物なのでしょう。(もし反論のある方は資料なり写真なりをご提示ください。)Bは縁起のあるもので、これだけで真偽判断はできませんが、縁起がある御本尊は無い御本尊より重須(北山)本門寺が重要視していた御本尊なのでしょう。怪しげな代物では出開帳の目玉にならないと考えます。その点を踏まえ資料としてとらえました。真偽の議論とは別の観点です。CはAと同一であることから、Aの記載を履修しているものと判断されます。
先に述べたようにDに入集しているのは(1)のみのため、(2)から(7)は危ない(御真筆ではない疑いが濃厚)ということになります。(8)は論外でしょう。稲田海素師も「祖書讃仰史談(第四回)」で、「重須では興師存命中に盗難に逢ひ、十代日殿の時には武田勝頼の臣下抜刀して乗込み寶蔵を開けて重寶を持出された為に目星い重寶は無くなり、以上の物(引用者注:御真蹟一(上野殿御書断片)、興師寫本十一、日澄寫本十二、日順寫本、御真蹟断片六)は幸いその厄を逃れたものであるとの話であった。成程こゝには宗祖の御本尊と稱するものも数幅あるが、鐵砲曼荼羅一幅を除いては悉く疑はしい。」(『大崎学報 第89号』昭和11年、111頁)と述べています。となると、今更なにをくどくど検証しているのだ早く進め、とお叱りを受けそうですがもう少しお付き合いください。

1045彰往考来:2005/01/11(火) 07:47

禅師授与漫荼羅の動向について〔7〕

さて、上記のうち4幅の御本尊((2)(3)(5)(7))は「富要集八巻」などで重複所蔵がみられます。ということは模写もしくは剥離表装などの可能性が高いということになります。そこでそれぞれ資料ではどのようになっているか整理してみました。
<資料>は A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
        B:『本門寺並本末寺院縁起』
        C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
       D:山中喜八編『御本尊集目録』
        E:日目上人奉賛会『御本尊集 奉蔵於奥法寶』  です。

まず(2)の建治2年卯月御本尊は、
北山本門寺 〔A,C〕
藤本勘蔵(勘吉) 〔C,E〕
の2箇所に所蔵されています。両者が同じ御本尊に基づくものであるかは不明です。ただ藤本勘蔵氏所蔵御本尊は資料E(平成12年覆刻版、8頁)によりますと裏書に、

「宗祖日蓮大聖人
御真筆御本尊ニ相違無者也
明治卅三年八月九日 五十六世日応花押」

とあります。ここで出てくる日応師とは、あの『河辺メモ』で禅師授与漫荼羅とともに華々しく登場した富士大石寺56世大石日応師です。応師・・・ちょっと何かありますね。
空き缶さん(現在のHNは名無し@富士門流さんでしたね)が当スレッドの907で、北山が御本尊を売りにだしたという記録になるのではないかということで「奥人第3号8頁」(『奥人(全)』(平成13覆刻版、興門資料刊行会))にある藤本家文書の日応上人御状を紹介されています。これは日付が(明治)三十三年七月二十五日であることと藤本勘吉氏宛であることから禅師授与漫荼羅に関するものではなく建治2年卯月の御本尊に関するものであると思います。この御状のすぐ後に藤本氏へ当該御本尊が渡ったと考えます。『奥人』の記録から応師の紹介で明治33年に藤本氏が御本尊を購入したことは確実で、出処は禅師授与漫荼羅と同じ北山本門寺であると推定します。以上の考察から、どちらかが模写あるいは剥離表装ではないかと考えるわけです。
法道院が禅師授与漫荼羅を所蔵するようになったのは明治43年6月です(『法道院百年史』平成10年、日蓮正宗法道院、151頁)から実にその10年も前の出来事です。

追って応師が絡んだ御本尊を別途整理します。その時点で色々解ってくるでしょう。
末筆ですが空き缶さんの日応上人御状に関する資料調査に敬意を表します。資料調査は本当に大変で私も一日それに費やすこともありご苦労は察するものがあります。反面よい資料を探し出せた時の喜びは例え難いものです。

1046彰往考来:2005/01/11(火) 07:48

禅師授与漫荼羅の動向について〔8〕

次に(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり)の御本尊です。これは、
北山本門寺 〔A,C〕
日向定善寺 〔A〕
大阪市某家 〔C,D〕・・・Dの39番
の3箇所に所蔵されています。3箇所ということで、重複分は剥離表装ではなく模写の疑いが濃厚です。剥離表装で3つに分けるというのは困難と考えるからです。
資料D(『御本尊集目録』)の第39番目注記には、「日向国某寺(引用者注:日向定善寺)の所蔵にかかる建治二年八月の御本尊は当御本尊の摸写と推定されるが、その御花押の円内に『亀弥護也』という四字を在し、かつ広目・増長二天の配座をみない。当御本尊の広目、増長二天は、恐らくは後人の加筆なるべく、授与書はこれを削損したもののようである」とあり、日向定善寺蔵のものは模写とされています。また「富要集八巻」(215頁)によれば北山本門寺蔵御本尊の「亀弥護也」の四文字は他筆とのことです。
大黒喜道氏の『日興門流上代辞典』(2000年、興風談所)の「亀弥」の項(113頁)には「今、それぞれの複写を拝すると、北山本門寺蔵御本尊も模写と判断され、その順序を考えれば、まず宗祖正筆を模写したのが北山蔵本尊であり、その北山蔵模写本尊をさらに模写したのが定善寺蔵本尊と考えられる」とあります。また大黒氏は当本尊と一連のものと考えられる38番、40番にそれぞれ授与書が存在することから、「本来存在した「亀弥護也」の四字は、北山蔵の模写本が作成された後に、何らかの理由で削損されたものと推測される」(同書、113頁)としていますが果たしてそうでしょうか? 
私はDの39番しか拝見していないので異論を提するのは恐れ多いのですが、あえて愚論を披露すると、日向定善寺のものは模写、北山のものは大阪市某家蔵とペアの剥離表装ではないかと考えます。
大黒氏の記述によると、3幅の相違は、大阪市某家蔵 > 北山蔵 > 日向蔵 の順で似ているということです。私は大阪市某家蔵 ≧ 北山蔵 > 日向蔵 ではないかと思うのです。つまり某家蔵と北山蔵はほどよく似ているが、これら2幅と日向蔵はあまり似ていないのではないかと思うわけです。そうであれば山中喜八氏が資料Dで日向定善寺蔵のもののみを摸(模)写とされ、北山本門蔵のものについては触れられていなのも何となく解る気がするのです。また日向定善寺蔵のものは資料Cに入集していません。模写と判断されているのでしょう。北山蔵のものが資料Cに入集しているのと対象的です。但し、北山のものに限っては結果的にA=Cという内容になっています。資料Cは日蓮正宗の山口範道師によるものですから山口師が北山のものを拝見できたか不明です。日向定善寺は日蓮正宗ですから山口師は少なくとも写真は拝見できたと考えます。よって日向蔵を模写とされたので資料Cに入っていないという考えはまず間違いないでしょう。なお、資料Cを読む限り山口師は剥離表装品も真筆として扱って入集させておられるようです。
さらに、北山蔵のものに授与書があり某家蔵では削損されているのは禅師授与漫荼羅における「本門寺・・・」の加筆部分に対する扱いと同じ現象です。剥離表装の際に正本のほうは授与書を削損して出処を隠すということでしょうか。
北山蔵が某家蔵の剥離表装により作成されたとの考証は私の仮説です。北山蔵、日向蔵とも模写である可能性も高いことを念のため付記しておきます。

引き続き『禅師授与漫荼羅の動向について〔9〕』で禅師授与漫荼羅の加筆部分の表記差などについて私なりの考察を加えたいと思います。肝心なところは次回投稿となりました。一生懸命やっているのですが、なかなか筆が進みません。お詫び申し上げます。

by 彰往考来

1047犀角独歩:2005/01/11(火) 09:53

彰往考来さん:

>…“動執生疑”を起こさせている?

となれば、を彰往考来さん疑断生信していただくことを期待しましょうか(笑)
ただ、基本的に言うと、彰往考来さんがなさっているような、類推考証は人文科学の結論ではありませんが、幾重にも紡ぐことができるので決定打はないであろうと思います。
けれど、日々新たで、発見があれば、書き換えればよい。ただ、それだけのことです。
過去に自分はこういう発言をしたというコミットメントに固執して、真実を認めないというのが一番の愚であるとわたしは思っています。
まあ、そんな意味で、納得のいく、確実な資料分析があれば、傾聴し、さらに考えを改めることになんら躊躇はないというのがわたしの在り方です。わたしに疑断生信させてくださることを期待します。

なお、石山の禅師授与漫荼羅は伯耆漫荼羅とは相貌その他は違っている・模写である・剥離表層ではないと、その写真を所有している人が述べているようですね。彫刻本尊・禅師授与漫荼羅、その両方の詳細の写真を持っている在野の研究者がいらっしゃるとのことです。

1048犀角独歩:2005/01/11(火) 11:32

今さらという感じですが、模写を考えるうえで亨師(水鑑沙弥)『化義抄註解』の一節は看過できないところがあります。すなわち

「此の判形こそ真仮の分るゝ所…大曼荼羅には殊に判形を尊ぶこと唯一絶対の尊境なるを以つてなり…後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるもの」

この亨師の註解を見る限り石山の歴代住持が御筆漫荼羅の模写をなし、「在御判」とするのではなく、花押まで模写した漫荼羅が存在していることを示唆しているように思えます。信仰面の血脈相承といった規範に基づけば、このような模写(書写ではなく)本尊もまた、蓮師御筆と取りはからったであろうことは容易に想像がつきます。
このような住持模写本尊は(飽くまで信仰面での話ですが)模写もなく、贋作でもないわけで、当然、人づてに伝聞するときも御筆漫荼羅と称することになったのでしょうか。

現代は写真・複写が発達していますから、それを見ればよいわけですが、それ以前は模写に拠るしかなかったわけですね。また、臨模・作為、さらに書写本尊でも、直ちに信仰の対象であった事情もあります。こうして転写されたものを語るときには、常に信仰のオブラートに包まれるわけですから、模写も真筆として扱われ、そう語られたことは、考慮しないと思わぬ誤謬が生じることになるが注意されます。

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』のなかで精道師(のちの達師)は花押の運筆に関する石山の自信を見せていましたが、いったいこの自信はどこから来るものであったものでしょうか。

1049名無し@富士門流:2005/01/11(火) 11:53

犀角独歩さん、今日は。

>石山の禅師授与漫荼羅は伯耆漫荼羅とは相貌その他は違っている・模写である・剥離表層ではないと、その写真を所有している人が述べているようですね。彫刻本尊・禅師授与漫荼羅、その両方の詳細の写真を持っている在野の研究者がいらっしゃるとのことです。

私もこの話しを耳にしました。
どうも「東哲研」やS会大幹部などではなく、あの新階氏らと同様のS会地域役員の人物だとか。

ここの記述をみますと、今年中には出版?でしょうか。

http://fboybbs.dip.jp/

1050犀角独歩:2005/01/11(火) 12:01

1042 彰往考来さん、追伸です。

> 現在Photpshopなどの画像処理ソフト

わたしが鑑別に用いた技法を模倣・踏襲して、異を唱えてくださるとはなかなか頼もしいですね。まあ、楽しみにしております。

1051彰往考来:2005/01/11(火) 17:20

>1050

そうですね。相手と同じ武器であるなら、難攻不落の“犀角独歩城”を落城させることはできないかもしれませんね。
「弘法は筆を選ばず」といいますが、凡夫の身ではとてもとても。
作戦の練り直しですね、これは。秘密兵器を探します。

彰往考来

1052公務員試験不合格者の末路:2005/01/11(火) 17:29
公務員試験不合格者の末路
http://hugoukaku.nobody.jp/

1053愚鈍凡夫:2005/01/11(火) 19:52

横レス失礼します。

単純にこう考えられませんでしょうか。
北山で、「万年救護本尊」とも「戒壇之本尊」とも称される「禅師授与漫荼羅」は、家康の命を救ったとされる「鉄炮漫荼羅」よりも価値が低かった。故に売りに出された・・・・・。と言うことでは。 (-。-;)
何故、価値が低いのか・・・・・。売った本人が偽作であることを知っていたから。

こんな仮説はどうですか?

1054おおい:2005/01/11(火) 21:04
>1053
座布団1枚!

1055犀角独歩:2005/01/12(水) 00:00

彰往考来さん:

おお、秘密兵器ですか。
それは、重ねがさね楽しみです。

1056犀角独歩:2005/01/12(水) 00:02

愚鈍凡夫さん:

わたしは、この仮説には賛成です。
というか、『大石寺誑惑顕本書』と売りに出されたタイミングが一緒というのは、どうにも変ですね。となれば、これは確信犯じゃないのか、と思うわけです。

1057犀角独歩:2005/01/12(水) 00:13

名無し@富士門流さん:

さすが情報通ですね。
本年中に出るとすれば、それは大いに歓迎です。
しかし、この手のウラの取れない話は、実はわたしの元にはごまんとあります。
三学無縁さんともよく語り、笑っているのですが、どっと書いてしまいたい衝動に駆られます。しかし、自分で証拠主義と線を引いてきた以上、そうもいきません。まあ、しかし、ウラの取れない噂話、一挙に放言なんて本は面白いでしょうね。まずはオフ会で開陳…、というところでしょうか(笑)
…まあ、そうなると、近々、オフ会を開催したいなんて思っています。
話は横滑りしますが、そうなると、管理者さんにはぜひともご参加いただきたいと思うわけです。もちろん、名無し@富士門流さんともお会いしたいのですが、叶うでしょうか?
最新の画像を皆さんにお見せしたいと思っております。
また、現在、不死鳥のように蘇ったとある学者さんの講演なんかも企画したいと。
しかし、今月は予定が目いっぱい詰まっています。2月早々に開催したいですね。
…、やや、酒が入っております。話しがスライドしました。失礼。

1058犀角独歩:2005/01/12(水) 00:27

あ、そうそう。おおいさん、はじめまして?
ご挨拶をしておきます。

1059彰往考来:2005/01/12(水) 07:56
>1055

いやいや口だけです。
それはそうとオフ会には私も参加したいですね。

彰往考来

1060犀角独歩:2005/01/12(水) 08:22

オフ会の話題に就き、該当スレッドに移動します。

1061愚鈍凡夫:2005/01/12(水) 15:17

>>1054:おおいさん、初めまして。
座布団有り難う。 (^_^)v

>>1056:犀角独歩さん、ご賛同頂き有り難うございます。 (*^_^*)
何ですよね、根本に横たわる素朴な疑問が、実はとてつもなく高いハードルだったってこと、以外にありますよね。

1062犀角独歩:2005/01/12(水) 18:24

愚鈍凡夫さん、そうなんですよ。

> …根本に横たわる…

このもっとも確認すべき点を等閑にして事実として扱うことによって成り立っている世界に当たり前のように生きてきた習気が、なかなか抜けないんですよね。

1063彰往考来:2005/01/12(水) 18:39
>1053

う〜ん。そうとも考えられますね。ただ「鉄砲漫荼羅」は有名であり、かつ特徴があることから出処を隠しては売り難いですね。
これがあの有名な「鉄砲漫荼羅」でござい、と北山自身が売れば別でしょうけど。

1064愚鈍凡夫:2005/01/12(水) 20:01

>>1063:彰往考来さん、初めまして。

でも、
「鉄炮漫荼羅」の名は有名でも、実物を見た人は関係者以外、そんなにいないんじゃないでしょうか。
今の時代ならインターネットで簡単に写真が見られますが、昔ではそんなに簡単に見れないでしょう。
だから、少し細工を施せば、代役を立てることだって可能なわけですから、もったいなくも「万年救護本尊」を売りに出さなくても良さそうなものではないでしょうか?
もっとも、当時、「鉄炮漫荼羅」こそが「万年救護本尊」であるとの新説が出ていれば、「禅師授与漫荼羅」を売りに出してもかまわなかったでしょうけど・・・・・・。そんな話、聞いたことないし・・・・・。

結局、「禅師授与漫荼羅」に関することは、後付の理論だと思います。

1065彰往考来:2005/01/13(木) 07:37
>1064
愚鈍凡夫さん

レスありがとうございます。
2つの点があると思います。
ひとつは、江戸時代の出開帳は相当頻繁に実施されていたようです。なにせ寺院の金のなる木ですから。
もうひとつは、「鉄砲漫荼羅」は花押の部分に大きな穴があいているのです。致命的ですね。
これは徳川家康との縁起付なら価値はあるでしょうが、そうでなければ価値は大幅ダウンですね。二束三文でしょう。
保存状態の非常によい綺麗なものと、ボロボロのものや破損のあるものとの価値が違うのと同じと思います。
私は御本尊を売る場合、出処が解るものは売れないと思うわけです。
それに対して「禅師授与漫荼羅」は真偽は別として五体満足ですし、大きいですからね。

1066犀角独歩:2005/01/13(木) 09:34

禅師授与漫荼羅の北山売却は、かなりおかしなことであると思います。
先にも記しましたが、『大石寺誑惑顕本書』では「当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊」とまで書いているわけですから。これは言ってみれば、石山が彫刻本尊を売却するようなものでしょう。正式に北山持従が売却したのであれば謀略的なことでしょう。しかし、売ったのは『河邊メモ』によれば「北山の誰かが賣に出し」とあるわけで、北山本門寺としてとは特定できないことと思えます。

また、同書で万年救護本門戒壇本尊というも、それ以前では「伯耆漫荼羅」の伝承も残っているわけです。ではここで、問題になるのは万年救護(戒壇)本尊と伯耆漫荼羅は同一のものであったのかということでしょう。近代の北山では伯耆漫荼羅を直ちに万年救護本尊と呼称はしています。しかし、何せ2舗あり、興師加筆は石山所蔵本であれば、伯耆=万年救護と即断することはできないことになります。

また、鉄砲漫荼羅は同書によれば、幕末当時、石山では北山から買ったと主張してこれをご開帳していたと記されています。この記事を読むと、北山重宝の贋作を捏造して、ご開帳で石山があこぎな商売をしていた(実際、顕本書はそのように主張するわけですが)と見えますが、案外、鉄砲漫荼羅贋作を石山に売りつけたのは「北山の誰か」なのかもしれません。この記事を読み直せば、当時、鉄砲漫荼羅も北石両山にそれぞれ蔵されていたことが窺えます。もっと言い換えれば、禅師授与漫荼羅も、鉄砲漫荼羅も、それぞれ(剥離表層でなんであれ)売却用に複製が作られ複数存在していたということです。しかし、石山は同書の指摘を受け、その後、鉄砲漫荼羅贋作を引っ込めてしまったというのが流れなのでしょう。

なお、鉄砲漫荼羅には花押に穴が空いているから売り物にはならないという彰往考来さんのご意見には、わたしは反対です。この穴は、徳川家康が戦の陣前に掲げていたところ、飛んできた鉄砲玉が花押を貫き鎧に堕ち命拾いしたことから「身代わり本尊」と言われる由来になったものです。戦さの後ち、北山に返されるわけですが、この事件を家康は大いに喜び、その後、北山を数々の恩恵を受けることになったというのが、顕本書の伝えるところです。この漫荼羅は、ある面、保存状態のよい真筆漫荼羅の文字以上の価値があります。徳川家康に由来し、さらに命を救った・身代わり本尊という宗教性を帯びた穴だからです。
「致命的」どころか、ご開帳には、本尊そのものというより、この鉄砲の穴見たさに人々は集まってきたことでしょう。また、石山が贋作を作った(もしくはつかまされた)ときも、真筆と見まがう漫荼羅そのものもさることながら、リアリティをもった「神君」にまつわる花押を貫いた穴を空けてこそ価値を持ったはずだからです。

禅師授与漫荼羅に「本門寺」の文字あり、鉄砲漫荼羅に弾痕ありと、それぞれが「セールスポイント」たりえたということでしょう。

顕本書の、また、玉野志師のあの石山の非をばさばさとなぎ倒すような強い論調からすると、あの当時、北山が贋作をこそこそと作っては金に換えるような姑息なことをやっていたとは思えない気分になります。しかし、「盗人猛々しい」という言葉もあるわけで、そんな狡賢いことをやっていたが故の強気発言なのでしょうか。反面、石山は大火に見舞われ・すべてが灰燼に帰した古文書類その他の重宝類、ましてや、彫刻本尊やら・お肉など、さらに贋作の鉄砲漫荼羅のご開帳、胡散臭さは、確かに石山のほうが勝っているように感じます。こんなことに率直に引け目を感じていたのは布師。霑師はしどろもどろになりながら言いつくろいという印象の答弁が志師との遣り取り。その後、応師などは完全な居直りで口汚い強き発言となっていく…といった流れが当時の石山文書から読み取れる気がします。

1067愚鈍凡夫:2005/01/13(木) 11:59

彰往考来さん、レス有り難うございます。

> 江戸時代の出開帳は相当頻繁に実施されていたようです。なにせ寺院の金のなる木ですから。
> 「鉄砲漫荼羅」は花押の部分に大きな穴があいているのです。致命的ですね。

考えようによっては、本物そっくりのレプリカを作って、「花押の部分に大きな穴」を空ければOKと言うことではありませんか。あとは、汚しのテクニックさえ心得ていれば、現代のような精密に年代を測定できる機器がない時代ですから、相当その道に通じた人物でなければ贋作だと見破れないのではないかと思いますが・・・・・。
古いものを新しく見せるのではなく、新しいものを古く見せるのですから、技術的にはそんなに難しくはないでしょう。以前テレビで、宮大工が古い寺の柱を修復する時、創建当時の廃材を燃やして灰にし、新しい柱に何度も刷り込んで、周囲の柱の色と同化させるテクニックを披露していましたよ。
それと、穴の開いた紙の穴を判らないように塞ぐわけではなく、紙に穴を開けるわけですから難しい技術ではないと思います。

何時の時代にも、秘蔵目的で有名な書画骨董を欲しがる人物はいるものだと思います。
犀角独歩さんが>>1066で仰ってますが、「鉄炮漫荼羅」も「禅師授与漫荼羅」も、付加価値が付いていますから、その手のコレクターにはたまらない一品だと思います。

1068犀角独歩:2005/01/13(木) 14:03

なんだか、愚鈍凡夫さんと二人で、彰往考来さんに異論を唱え、1対2みたいになっていますが、決してそんなつもりではありませんので、投稿をぜひ続けてください。

「寺傳に依れば、天正10年2月、重須本門寺第10世日出上人、當時武田征伐中の徳川家康の請に因って、聖祖眞筆の大漫荼羅を陣中守護のために贈ったところ、たまたま武田勢との交戦中、銃丸飛来し、聖筆の花押部分を貫通し去ったが、家康は為に危く何を脱することができたので、同年5月10日、之を本門寺に還納し、朱印を同山に寄進して、篤く加護の恩を奉ずるところがあった。『銕炮曼荼羅』の名稱は茲に由來すると云う」(『御本尊集目録』P51)

鉄砲漫荼羅(銕炮曼荼羅)について、こう山中師は記述していますね。
言うまでもなく、『御本尊集』第33の漫荼羅です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html

穴を紙で覆って見えなくして掲載されています。
わたしは始めてみたとき、「?」と思ったものでした。
銃丸の痕を隠しているわけです。
ここから愚鈍凡夫さんが1067に投稿されたことと関連します。
「どんなふうな穴なんだろうか?、丸いのだろうか? 扁平なのだろうか? 焼け焦げているのだろうか?…」と想像を逞しくしてしまいます。

贋作を造るとき、愚鈍凡夫さんが仰るように、穴を空けると思います。
そうなると、どんな穴を空けるのか、これって、すごいポイントになるわけです。
今の時代でも『御本尊集』からレプリカを作ろうと思えば作れますね。けれど、穴の形がわからない。「画竜点睛を欠く」ではありませんが、この穴を開けなければ鉄砲曼荼羅のレプリカにならないわけですね。となると、『御本尊集』の覆い紙はなかなか心にくい配慮ということになります。

まあ、当スレッドからはやや離れますが、漫荼羅真偽ということでご勘弁ください。

1069愚鈍凡夫:2005/01/13(木) 20:40

でも何ですね、何時の時代でも偉いお坊さんの考えることは同じようですね。 (-。-;)
御開帳と称し、秘蔵の御本尊とやらを「人寄せパンダ」のように見せびらかせて、日銭を稼ぐという発想は同じなんですね。それに、寺の周囲に香具師軍団を呼んで商売させれば、文字通り寺銭も入ってくるし・・・・・。
◯◯◯丸儲けって奴ですか。 (-"-;A ...アセアセ

1070犀角独歩:2005/01/13(木) 21:56

愚鈍凡夫さん、仰るとおり。
それが古今東西変わらぬ宗教ビジネスの有様でしょう。

1071愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 05:47

犀角独歩さん、どうも。
絢爛豪華にしないと、人が集まらないという事情もあるんでしょうね。
寺院があまりにも貧乏臭いと、誰も見に来ないでしょうしね。住職に類い希な人徳があれば別でしょうが。

「鉄炮漫荼羅」について、こんな資料がありましたので紹介します。

**************************************************
鉄砲曼荼羅の霊験と本門寺堀

縁起  天正十年三月徳川家康、織田信長の命に依り武田勝頼追悼の途次、北山の陣屋井出甚之助正次の館に於いて時の本門寺貫首日出上人に謁し、上人の年齢、日出の嘉字なるを聞き武運長久の兆しなりと嘉賞せられ、陣中守護の本尊を乞う、依って当山に唯一幅残れる大聖人御真筆御本尊を授与、家康これを馬前に立て奮闘、折しも甲斐武田方の打ち出したる弾丸、御本尊御花押に的中、危うく難を逃れたり 天正十年五月勝利の帰途再び本門寺に詣で、日出上人に謁し、御本尊を返納更に武運長久を乞い、日出上人に所望するものあらば『何なりと申し出られよ』との御上意 依って上人は先代日殿上人の時武田方の暴徒に御霊宝百八十五点奪われ日殿上人断食祈願、ついに遷化せらることの経緯を具に申し出 御霊宝還住を乞い、尚且当地方の用水の実状を訴え請願す、家康家臣に命じ大聖人御真筆他御霊宝八十点を取り戻し、更に井出甚之助に命じ白糸内野郷横手沢より幅三間全長二里余り 天正十年八月朔日堀割工事起工十一月十五日通水完成、爾来昭和三十八年上水道完成に至るまで旧井出村 北山村 山宮村 万野村 外神村 宮原村 和田村の七ヶ村の飲料水 灌漑用水として重要な役割を果たした。
**************************************************

1072犀角独歩:2005/01/14(金) 09:52

愚鈍凡夫さん、1071は、どこに載る資料ですか。
内容は『大石寺誑惑顕本書』が伝えるところとほぼ同じですね。

ただ、「御本尊を返納」というところが伝説によっては家康が「預けた」といいますね。
つまり、戦勝祈願に貰ったものなので、それを返却というのは理が通らないわけです。そんなことから、「預け」ということなのだと思います。そうなると、身代わり本尊「銕炮曼荼羅」という家康公から預かり物を所持する北山本門寺と、さらに箔が付くことになるわけでしょうね。

しかし、それを自分たちが所持しているといって御開帳を石山が本当にやっていたとしたら、面の皮は厚いですね(笑)まあ、中世の事情なんて、こんな程度のものでしょうが。

あと、これは余談ですが、以上、「銕炮曼荼羅」、また、禅師授与漫荼羅を具に載せる『大石寺誑惑顕本書』、日蓮宗々学全書刊行会蒐集本として、その原稿用紙に書き取られるまでしたのに、なぜ載らなかったのでしょうか。案外、その編集委員のなかに亨師がいた遠慮から、あるいは懇願からだったのでしょうか。この点でも、わたしは興味が惹かれています。

1073愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 11:00

>>1071の説明文は、下記のサイトの「鉄砲曼陀羅」の説明文です。アドレスが変わる前は写真付きだったんですが、どういう訳か、現在は説明文のみになっています。

「富士山本門寺宝物目録」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/houmotu1.htm

1074愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 11:26

今、>>1073で紹介したサイトの「鉄砲漫荼羅」の以前にダウンロードした写真付き説明文を見てみたのですが、写真の「鉄砲漫荼羅」は、表装してある漫荼羅の上に「葵の紋」が四つ並んでいますから、どうやら家康が北山に預けたというのが本当のようですね。
ひょっとして、このページから「鉄砲漫荼羅」の写真を外したのは、誰かからこの辺を突っ込まれたからかも知れませんね。

1075犀角独歩:2005/01/14(金) 12:11

愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。
葵の紋で表装ですか。これは説得性がありますね。

1076愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 12:39

右肩上がりの色の変なカラー写真付ですが、よければ以前ダウンロードしたページを犀角独歩さん宛に「宅ふぁいる便」で送りましょうか。

家紋が「三つ葉葵」なのが渋いです。

1077犀角独歩:2005/01/14(金) 13:06

> 1076

愚鈍凡夫さん、ぜひ送ってください。お願いします。
何せわたしのメーラー、添付ファイルは何でもかんでも自動削除。
送信したファイルまで削除してしまう野蛮設計(笑)

1078犀角独歩:2005/01/14(金) 13:55

愚鈍凡夫さん、早々のご送信、有り難うございました。
たしかに色合いが変わっていますね。不自然といえば不自然な写真ですが、こんな感じなのでしょうか。現物を花押の前の紙をどかしていただいて、ぜひ「御開帳」いただきたいですね。

この葵の紋の配置、どこかで見た覚えがある…、と思ったら、石山山門の屋根でした(笑)

1079彰往考来:2005/01/14(金) 18:09
>1066,>1067

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、

私の1065の書き込みで少々誤解を与えたようです。

マニアックに言えば鉄砲漫荼羅は価値があると思いますよ。徳川家康
の縁起付、ということであれば。

ただ『法道院百年史』にも記載されていたと思いますが、御本尊売却
は売主や理由(多分に経済的理由が多いのではないかと思いますけど)
を明らかにしないのが通常のようです。事実『御本尊集』に入集して
いる御本尊のうち、なぜその寺院が所蔵しているのか解らないものが
たくさんあります。禅師授与漫荼羅も『川辺メモ』によれば北山から
出たということですが、実際のところ『川辺メモ』以外に出処を明き
らかにしている資料はみあたらないというのが現状と思います。
禅師授与漫荼羅のうち石山蔵のものは「本門寺・・・」の箇所が削損さ
れているようですが、これは出処を隠すための処置だと思うわけです。
そうでなければ、わざわざ削損するでしょうかねえ。でもよくよく考
えてみれば、禅師授与ということで、出処は北山と想像はできますね。

※仕事が多忙で、暫く掲示板を見ていませんでしたので、書き込みが
遅くなりました。

1080愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 19:55

犀角独歩さん、どうも。お役に立てたのなら幸いです。
公式ホームページに載せていた写真としてはどうかと思いますが、それはさておき、一舗しか残っていない蓮祖漫荼羅を家康に授与したあと、代替の漫荼羅はどうしていたのでしょうね。
それと、現在の北山では「本堂」=「御影堂」となっていますが、確か伝説では日興師は重須に「本堂」「御影堂」「垂迹堂」の三堂を建立したことになっていますよね。これじゃ、日興師の意志に反するのではないでしょうか。もっとも、地理的には「重須」=「北山」ではありませんが。
現在の北山では、「本堂」=「御影堂」ということは、「蓮祖生御影」の後ろに「蓮祖漫荼羅」といった奉安形式ということなんでしょうかね。また疑問の虫が疼き出しました。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

彰往考来さん、お忙しいのにレス有り難うございます。

「富士山本門寺根源略図」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/ryakuzu.htm

1081愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 20:02

う〜ん。
HPの説明では、「蓮祖生御影」は奉安してあると書いてありますが、「漫荼羅」も奉安してあるとは書いていませんね。保田妙本寺に習って、現在の北山は御影信仰なのでしょうか(なにぶん、行ったことがないものですから)。

1082名無し@富士門流:2005/01/15(土) 00:06

愚鈍凡夫さん、今晩は。

例の「日禅授与曼陀羅」の写真が掲載されている、重須談所守拙庵学室発行・本間日諄著「集録『教箋閑古錐』」によりますと、「『生御影尊奉讃三十万人講』の結成発足により、本門寺伝統の『生御影信仰』の復活普及、本化日蓮大聖人の法華経信仰と実践行学の布教、・・・」とあるところをみますと、昔は生御影信仰があり、しばらく停滞してはいたが30万人講を結成することによって、再び生御影信仰を復活普及したい、といったところでしょうか。

立正大学中尾名誉教授の「日蓮信仰の系譜と儀礼」には、門下一般の祖師像信仰のことが詳しく出ていますが、富士門流の御影信仰と江戸時代に普及した門下一般の祖師像信仰とはニュアンスが違いますので、、、といっても、う〜ん、なんと説明すればいいのでしょう・・・所謂「厄除け祖師」のような祖師像そのものが霊験を発動する主体といいますか、富士門流の御影信仰はそのようなニュアンスのものとは違ったものと思うんですが、どうも勉強不足で言葉が見つかりません。(スミマセン)

どなたかフォローいただければ幸です。

1083通りすがり:2005/01/15(土) 00:35
愚鈍凡夫さん
今日は、北山本門寺本堂(御影堂)奉安の本尊曼荼羅は、本間住職の説明では
宗祖日蓮大聖人御筆御本尊を宮殿厨子に安置していると伺いました。
前片山住職が存命だった当時に、絵葉書(本門寺全山の写真)に開帳した際の
写真がありましたが、弘安式の本尊だったと記憶しています。
余談ですが、御殿場市にある北山末の久成寺http://www.myouhou.com/
記念寺誌を発刊して、同市の市立図書館郷土資料室に、その記念寺誌が閲覧出来
ると思いますので、参考にして見て下さい。
実成山久成寺縁起誌 1998年 314ページ

1084愚鈍凡夫:2005/01/15(土) 14:15

>>1082:名無し@富士門流さん、レス有り難うございます。

祖師像信仰といえば、真言宗の信者が御大師さんといって空海を身近な存在として崇めることと似ているようなニュアンスを感じますね。確かに言われてみれば、大日如来よりも空海の方が身近に感じられますよね。

>>1083:通りすがりさん、レス有り難うございます。

蓮祖漫荼羅も本堂(御影堂)に奉安してあるんですか・・・・・。有り難うございます。
やはり「日禅師授与漫荼羅」は広宣流布の暁に戒壇堂を建立して、そこに奉安申し上げるという段取りなんでしょうね。

お二人とも情報有り難うございました。とても勉強になりました。 m(_ _)m

「鉄砲曼陀羅」について検索していたら、関連する資料としてこんなのがありました。

「二箇の相承紛失の顛末」
http://homepage3.nifty.com/y-maki/myoukyou/nika0401.htm

1085愚鈍凡夫:2005/01/15(土) 23:20

なんとなしに、下記の記述を読んでいたのですが、石山の伝説では日興師は、200㎏を優に超える「戒壇之本尊」をお一人で身延の山奥から大石ヶ原まで運んできたことになっているのに対し、北山では日興師は「生御影尊像」を身延から奉持してきたことになっているんですね。

「日興さん、あんたは超人ハルクかぁ?」 (ノ゚⊿゚)ノびっくり!!

それはさておき、この説明では、重須の「御影堂」には「蓮祖生御影」、「本堂」には「大漫荼羅」が奉安されていたんですね。と言うことは、「御影堂」と「本堂」は別棟であったことを示唆していると思うのですが、いつ頃から「御影堂」が「本堂」を兼ねるようになったのでしょうか?
寺院のその時々の事情があるんでしょうが、「漫荼羅正意」から、徐々に「生御影正意」へと変わっていったと言うことなんでしょうね。

**************************************************
日蓮大聖人の高弟 開山日興上人は、身延を下り、広大無双の冨士南麓、重須の勝地を選ばれて、法華経本門弘通の根本道場を開創されました。
 上人は、日蓮大聖人がこの日本国に生誕せられた深いわけを広め、法華経本門の教えこそ末法の濁悪乱世を救う最第一の教えであることの真実を確信せられ、はるばる身延から奉持してこられた大聖人の御像、「生御影尊像」を永劫に生きませる御影像と崇め慕い、生涯かけて給仕報恩の誠を捧げられました。
 本門寺根源の道場を開創せられるや、この生御影尊像は御影堂に安置せられ、後生本堂と呼ばれる妙法蓮華経堂には、法主大聖人御染筆大曼荼羅御本尊を奉安せられ、ひたすら法華本門三大事の実現と、立正安国の楽土建設に向けた新教田の開拓確保と、門弟檀越の教化育成など、上人念願の初一念は着実に進められました。
(後略)

「重須本門寺御山会 生御影尊奉賛三十万人講 趣意書並びに入会案内」より
***************************************************

「生御影尊奉賛三十万人講」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/index2.htm

1086犀角独歩:2005/01/16(日) 00:08

北山本門寺で30万人ですか。それはすごいですね。
ところで盗まれた正御影は、どんな経緯でもだったのでしたっけ?

それと、上述の議論とはぜんぜん関係ありませんが、北山本門寺は、興師の正墓をちゃんと掃除し、整備もしたほうがいいと思います。
あの荒れ果てた様は墓参に行く度に胸が痛みます。

1087犀角独歩:2005/01/16(日) 00:35

とは言うものの、目師の墓もない石山より、まだ正墓がある北山のほうがましですが。
郷師が持ち帰り、下之坊に収めた半身の目視の遺骨はどこに行ったんでしょうか?
以前、考証したとおり、いま石山で蓮師灰骨と言われるものがそれでしょうか?

またまた、余談ですが、抜けた歯にくっ付いていた肉でさえ、生きて増殖しているのに、全身を荼毘にするとは、血脈付法の興師はなんということをしたんでしょうか…お肉が本物であればの話ですが…。

1088犀角独歩:2005/01/16(日) 00:36

…間違えました。目視は目師です、もちろん。
興師血脈不法も事実なら…です。

1089名無し@富士門流:2005/01/16(日) 01:35

愚鈍凡夫さん、今晩は。

>1085

なるほど、この本門寺公式HPの記述は「集録『教箋閑古錐』」の記述と全く同じですね。

しかし、愚鈍凡夫さんの情報収集力はすごいですね。

1090愚鈍凡夫:2005/01/16(日) 19:58

名無し@富士門流さん、どうも。
ここのスレの名無し@富士門流さんのレスを読み落としていました。 m(_ _;)m ゴメン!!

> なるほど、この本門寺公式HPの記述は「集録『教箋閑古錐』」の記述と全く同じですね。

「集録『教箋閑古錐』」のことは知りませんが、これからも色々とご教示下さい。m(_ _)m

1091名無し@富士門流:2005/01/17(月) 00:01

脱線しますが、厄除け祖師を見つけました。

http://www.city.miyazu.kyoto.jp/sight/miyazu/teramachi1.html

う〜ん、読経像ですね。
読経像って、どの門流に多かったのでしたっけ?

たしか保田や実成寺も、要法寺も大石寺も西山も北山も読経像ありますね。
でも厄除け祖師ではないよな〜、、、

1092名無し@富士門流:2005/01/17(月) 00:36

あらら〜、日郷師を開山とする妙国寺にも「厄除け祖師」がありました。

http://www.mnet.ne.jp/~hogen/temp/index2.html

それにしても鬼子母神や大黒天など、非常に日蓮宗らしくていいですね。(爆笑)

1093愚鈍凡夫:2005/01/17(月) 01:07

「万年救護本尊」を検索していて、こんなのを見つけたんですけど、皆さんはどう思われますか?

**************************************************
ここで、『家中抄・稿本』は原文を、

  日興宛身所給等者是万年救護御本尊事也、今在房州妙本寺也(研教6-P361)

と記している。頭注によれば因師が「万年救護」を「板」に、「房州妙本寺」を「當山」に訂正したと伝えられている。そのためか、精師以後、因師に至るまでの大石寺歴代は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」とは万年救護本尊と考えていたというが真実か、と聞かれた。結論から云おう。否である。
『富士学林教科書研究教学書総目録』によれば、『家中抄・稿本』の成立は「明暦二年」(総目録P8)、『家中抄・中』の成立は「明暦三年五月八日」(総目録P8)となっている。つまり、『家中抄・稿本』は『家中抄・中』の下書であることが分かる。『家中抄・中』はどのように記されているだろうか。歴全本・富要本・聖典本は改竄されていると思う人がいるかもしれないので研教本を挙げておく。『家中抄・中』には、その該当箇所(写真参照)は、

  日興宛身所給等者是板御本尊事也、今當山在(研教6-P120)

と記されている。明暦三年、すでに精師は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」を万年救護本尊とは考えていなかったことが分かる。では、なぜ、『家中抄・稿本』に『日興跡條條事』第二条をさして「万年救護御本尊…妙本寺」と記したのだろうか。察して云えば、その前の箇所に保田文献を引用していること、精師は弘安二年に万年救護本尊が興師に授与されたと考えていたこと、それによって誤って記したものと思われる。宗史を志す人、宗史論文を書いたことのある人ならば経験があると思うが、原稿を書いている時点では史実の誤認が多々見られるものである。そうして幾度も推敲を繰り返して雑誌なり、本なりで発表されるのである。それと同じように、『家中抄・稿本』は下書・案文の類であって精師の真意は『家中抄・稿本』より後の成立である『家中抄・中』にあると云わなければならない。

**************************************************

「BRAND NEW TOMORROW:精師文献について」
http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/9975485.html

1094犀角独歩:2005/01/17(月) 10:27

愚鈍凡夫さん:

『日興跡条々事』が興師正筆か?と言えば、石山はこれを公開しないわけですから、要は偽物なのでしょうね。秘蔵厳護などというのは、結局のところ、ばれるのがこわいと言っているようなものですよね(笑)

まあ、それはともかくとして、この文書が造られたころ、すでに石山では戒壇本尊が作られていたのでしょうか。造られていなかったでしょうね、たぶん、まだ。

キーワードは三つです。一つは「弘安二年」、一つは「大本尊」、もう一つは「本門寺」です。
「弘安二年」は『御伝土代』に記される「二千二百三十余年・日興上人」漫荼羅でなければ整合性はつきません。
「大本尊」はいわゆる万年救護本尊にしか書かれていない語彙です。条々事が作られた段階で、この本尊の存在を石山はどれくらい意識していたのでしょうか。
一番のポイントは「本門寺」ですが、条々事が作られた時点で、広宣流布の暁に寺号を本門寺と改めるという考えはあったのでしょうか。「本門寺建立の時」というのは字句どおりではないのでしょうか。つまり、石山とは別に、本門寺が建つという意味です。こう思うのは、3項目に「大石寺」と本門寺との対句で記されているからです。

「万年救護」という成句は要山でしょうか。「大本尊」は蓮・興・目・郷相承、保田の旗印ですね。「本門寺」は北山の旗印。それらを折衷し、全部が全部、うちのもんとやったのが石山でしょう。

二箇相承を北山が捏造し、興師正統を主張した。これを真に受け、この相承は自分たちのものだと図々しく言い出したのは、どこら辺からでしょうか。精師ぐらいですか。二箇相承に「本門寺」とある以上、戒壇建立地を自寺であると主張するためには、どうしても寺号改称という伝説を編まなければならなかったわけですね。


繰り返しますが、条々事の「弘安二年…大本尊…本門寺」は、興師在世の富士では、弘安二年興師に授与された「二千二百三十余年・日興上人」と図された上人号下賜漫荼羅でなければ実はならないのだろうとわたしは思います。しかし、それは盗難に遭い、北山で紛失。さらに北山では二箇相承を作って本門寺戒壇を言い出す、そこで戒壇本尊を造って自寺こそ戒壇嫡地、未来寺号改称という伝説が次々と編まれていった…、その過程に精師の添削があったのではないかとわたしは見ます。

1095愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 02:40

犀角独歩さん、どうも。

**************************************************
明暦三年、すでに精師は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」を万年救護本尊とは考えていなかったことが分かる。では、なぜ、『家中抄・稿本』に『日興跡條條事』第二条をさして「万年救護御本尊…妙本寺」と記したのだろうか。察して云えば、その前の箇所に保田文献を引用していること、精師は弘安二年に万年救護本尊が興師に授与されたと考えていたこと、それによって誤って記したものと思われる。宗史を志す人、宗史論文を書いたことのある人ならば経験があると思うが、原稿を書いている時点では史実の誤認が多々見られるものである。そうして幾度も推敲を繰り返して雑誌なり、本なりで発表されるのである。それと同じように、『家中抄・稿本』は下書・案文の類であって精師の真意は『家中抄・稿本』より後の成立である『家中抄・中』にあると云わなければならない。

「精師文献について」より
**************************************************

もし、この人が弁護士だったら、死刑囚が沢山出るんだろうなぁっと、ふと思ったものですから・・・・・。
( ̄Д ̄;;

1096犀角独歩:2005/01/18(火) 08:49

愚鈍凡夫さんのユーモアはシニカルで、心憎いですね(笑)

1097愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 11:30

犀角独歩さん、どうもです。

小生、少しばかり性格が歪んでますかね。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
プンプン( ̄^ ̄メ)\(_ _ ;)ハンセイ…

1098れん:2005/01/18(火) 18:13
日興跡条々事の初出?文献は九世日有師の連陽房聞書に出てくる大石寺置文でしょうか。しかし、六世日時師の大石記にも「日代は数通の御譲り状を持ちたりと云へども、既に迹門得道の上は争てか言うに足るべけんや、此の上付法の旨は其の証拠をば上々の御事なり(中略)此の方にも上人の御筆を載せたるなり」と日興跡条々事の存在を匂わせる文がありますから、その存在は時師の代まで溯れます。気になるのは時師の明徳三年七月日の東坊地論争にかかる「訴状」に「副進、一巻 当所管領ノ証文等案」(歴全第1巻303ページ)とあることで、もし当所管領ノ証文等案=日興跡条々事だとすると、条々事は時師が作成した可能性もあるかもしれませんね。彫刻本尊はしかし、いつ頃の成立か、文献学的には多少の難があるものの、十四世日主師の日興跡条々事示書に「大聖ヨリ本門戒壇御本尊」(歴全第1巻459ページ)とあり、これが確かなものならば、主師の代には条々事も彫刻本尊も出揃っていたことになりましょうか?

1099犀角独歩:2005/01/19(水) 08:59

れんさん、少しくお久しぶりです。
ちょっと、質問させてください。

> 日代は数通の御譲り状…日興跡条々事

こうなると、重須本堂を相承された代師が条々事を譲られたその人ということになってしまうように思えますが、この点はどのようにお考えになりますか。
しかし、反面、「当所管領ノ証文等案」は、それらしく思えますね。
ご投稿を拝読して、代師譲状と当所管領ノ証文は別のものである、けれど、後者は条々事を指すように思えました。このような考えはどうでしょうか。

なお、時師条々事作成は説得力があります。
また、主師示書を真筆とした場合、たしかに当時既に「戒壇本尊」は成立していた如くですね。有師が第82漫荼羅を模刻した史実があるわけですから、これが当時、それに啓当していたのだろうかと、個人的には考えたりもしています。

ついでに『大石記』についての思うことを記せば、「身延澤に立て申したりし御佛をも入れ申す」という一文を、石山では漫荼羅本尊(戒壇本尊)、もしくは蓮師御影としますが、わたしは、やはり、釈迦像であると思うわけです。精師が『家中見聞中』に「日興御さくの釈迦一そん一ふく」と記した点との脈絡を考えています。

大石記
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/oisiki.htm

1100れん:2005/01/19(水) 20:43
犀角独歩さん。「日代数通の譲り状…日興跡条々事」高橋師の通解を読むと独歩さんの仰る通りですが、原文を注意深く読むと「此の方にも上人の御筆を載せたるなり」があり、此の方=石山、上人の御筆=日興跡条々事と読み込んだ次第です。高橋師は此の方…載せたるなり、の部分を通解してないので、高橋師の通解から亥文を読みますと独歩さんのように解することができますね。
当所管領証文=条々事、この推定が的を得たものならば条々事が後世作成の文献ならば、時師作成と見るのが妥当と思います。
主師示書が真筆とした場合当時既に戒壇本尊は成立…有師が第82曼陀羅を彫刻…これが当時それに啓当していた…
主師文献が真筆ならばですが、第82曼陀羅には「弘安三年太才庚辰三月日」とありますから、‘御図顕年月日’を意図的に削除したうえで「戒壇本尊」として使用された可能性はあると私も思います。
大石記…身延沢…入れ申す…この文の御仏とは現在の石山では蓮祖御影か曼陀羅本尊のことを指すようですが、興師の原殿御返事に「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」とありますから、御仏=釈尊で独歩さんの仰る通りだと思います。

1101犀角独歩:2005/01/19(水) 21:01

> 此の方=石山、上人の御筆=日興跡条々事

れんさん、なるほど。
たしかに『大石記』全体に窺える北山、また、代師への、対抗意識とも思える感情から、自山顕彰の証文が、このとき、既に作られていたと考えても不自然ではないですね。
参考になりました。ご教示有り難うございました。

1102愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 01:37

ふと、また疑問の虫が囁くものですから。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

もし富士年表の記述が正しいとすれば、蓮祖は1274(文永11)年に図顕した通称「万年救護本尊」を、何故1279(弘安2)年に日興師に授与したのでしょうか。小生は、「万年救護本尊」の有名な讃文は、聖滅後に興門の誰かが書き込んだのではないかといった疑問を持っています。勿論、仮説でしかないのですが。
「万年救護本尊」は、もともと№15の滋賀県妙経寺蔵漫荼羅と同じような感じであったと思うのです(勧請されている諸尊の数の違いはありますが)。もしそうだとすると、5年も後に授与した理由が分かりません。

1103顕正居士:2005/01/20(木) 05:56
>讃文は、聖滅後に興門の誰かが書き込んだのではないか

どういう理由からでしょうか。「上行菩薩」とあるからでも何でもよいのですが。

妙経寺のはよく似ていますが、同じ時期の曼荼羅はだいたいは似ています。
妙本寺のが有名なのは讃文があるからで、だから(褒美として)日興に授与されたのでないでしょうか。

日目が天奏の際にもこの曼荼羅に言及し、それを日郷が相伝し郷門の重宝になった。
讃文が後に付加されたなら、それは日蓮か日興によることになりませんか。天奏の効果を期待して
日目や日郷が付加しても、その後に興門の重宝にはならないでしょう。

1104愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 14:04

顕正居士さん、ご無沙汰しております。レス有り難うございました。

1274(文永11)年図顕(とされる?)漫荼羅(№12〜№18)の特徴としては、授与書がいずれもないことだと思います。それと、№13と№18の漫荼羅を除けば「四天王」が勧請されていないということも特徴といえるでしょうか。
日目師が天奉の際に№16の漫荼羅を持参した理由の一つは、この授与書が記されていないということが一つのポイントではなかったでしょうか。ただ、当時、日目師の手元に授与書の記されていない蓮祖漫荼羅が他にあったかどうかを調べる術はないよう思いますが。
判らないのは、1274(文永11)年には、№18のように大きさでいえば大漫荼羅(20紙)と呼ぶに相応しい漫荼羅があるのにもかかわらず、№16の漫荼羅にだけ「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」と記されている理由は何でしょうか。もしよければ、ご教示願いたいのですが。
それと、この漫荼羅が特別である理由の一つは、その相貌にあるのでしょうか。それとも、図顕された時期にあるのでしょうか。小生には、他の漫荼羅と比較して、何れも理由にならないとしか思えないのです。したがって、聖滅後にこの讃文が記された可能性を捨てきれないのです。

1105れん:2005/01/20(木) 18:09
横レス失礼します。宮崎定善寺には日郷師書写「万年救護本尊讃文」(康永三年太才甲申卯月十六日、模之とあり)現存します。日興門流上代事典には「日郷の記名等は見えないが、定善寺蔵の正本の複写により日郷の筆跡と判断してここに収録した。本書が定善寺に現蔵されているところから、恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測される。日穩編『日叡縁起』に『又康永三年甲申正月二十六日国ヲ起チ、同四月二日房州吉浜谷御坊ニ参リ着キ給フ。一夏日々夜々修学鑚仰シ給フ』とあり、この康永三年四月十六日前後における日叡の妙本寺滞在を知ることが出来るからである」とのべています。この康永三年(一三四四)の郷師書写の万年救護本尊讃文によると郷師の代には既に大覚世尊…始弘宣之の讃文が十六号曼陀羅に記されていたことがわかりますね。十六号曼陀羅の讃文は、その筆跡を見るかぎり、目師・郷師の筆跡とは異なるので、やはり蓮祖あるいは興師による加筆ではないでしょうか。以上の点から私としては、顕正居士さんのご意見に賛同いたします次第です。

1106愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 18:48
「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」

「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。(新尼御前御返事)

№16の漫荼羅図顕が1274(文永11)年12月、「新尼御前御返事」が1275(文永12)年2月執筆ですよね(日付けが近いのは偶然かも知れませんが)。
この二つの存在を知っている興門の誰かが、蓮祖の漫荼羅正意を証明するために、手元にあった№16の漫荼羅に讃文を書き込んだのではないかと思うのですが、可能性は極めて低いでしょうかね。

> 日興門流上代事典には「日郷の記名等は見えないが、定善寺蔵の正本の複写により日郷の筆跡と判断してここに収録した。

ここにある「定善寺蔵の正本の複写」とはどういう意味でしょうか。他に、日郷師の署名の入った先師遺文の写しが現存するという意味でしょうか。

1107れん:2005/01/20(木) 19:55
愚鈍凡夫さん
。16号曼陀羅と新尼御前御返事の二つの存在を知っている興門の誰かが蓮祖の曼陀羅正意を証明するために手元にあったNo.16の曼陀羅に讃文を書き込んだ…
新尼御前御返事は日蓮聖人真蹟集成によると真筆断簡が愛知長福寺に現存しますが、同書の解説によると身延日遠師等の目録等によれば巻子仕立てで身延に曽存したとのことですから、長福寺の断簡は身延曽存のものから切り取られ流失したもののようです。身延所蔵の蓮祖遺文新尼御前御返事を初期興門流の僧が知り得たかどうか、またその文を参考にNo.16曼陀羅に讃文を書き入れることが広布時造像論が主流であった初期興門で行われたか否かは計りかねますが、可能性は皆無ではないと思います。
「定善寺蔵の正本の複写本」とは、正本の御筆写真のコピー(複写)という意味ではないでしょうか。つまり興風談所に定善寺蔵の「万年救護本尊讃文」の御筆写真のコピーがあり、事典の編者が妙本寺等から提供された他の日郷師の筆跡の御筆写真と比較照合して、定善寺蔵の「万年救護本尊讃文」の筆者を日郷師に同定したということだと思います。ともあれ定善寺蔵「万年救護本尊讃文」は康永三年(一三四四)の模写ですから、No.16曼陀羅に大覚…の讃文が書き入れられたのは、康永三年以前のこととするのが妥当だと考えます。とすると、書き入れをすると考えられるのは蓮・興・目・郷の四師、No.16曼陀羅の讃文の筆跡は、目・郷の筆跡と異なりますから、蓮・興いずれかのものと考えられます。

1108顕正居士:2005/01/20(木) 20:12
>>1104

>この漫荼羅が特別である理由の一つは、その相貌にあるのでしょうか。
>それとも、図顕された時期にあるのでしょうか。

時期でありましょう。文永11年は特別な年ですから。この年の終わりが
例の賛文が記されるのに最もふさわしいでしょう。

文永10年(1273)

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を述作。

文永11年(1274)

2月 佐渡流罪を赦免。
3月 佐渡出発、鎌倉帰還。
4月 平頼綱と会見、蒙古襲来の近きことを諫言。
5月 鎌倉を発ち、身延入山。
10月文永の役勃発。
12月通称万年救護御本尊を図顕。

15番の曼荼羅は同年の11月。18番は両部の大日如来を勧請、図顕の
年月日はない。Webの『御本尊集』は2つありますが、こちらが詳しい。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

1109愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 21:36

れんさん、いつもながらご丁寧にご教示下さり、有り難うございます。
顕正居士さん、小生の疑問に誠実に答えて下さり有り難うございます。

1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、同月「撰時抄」が著されています。今、「撰時抄」を改めて読み返しているのですが、通称「万年救護本尊」に関する記述はありませんね。

「釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと梵帝日月四天竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや」(「撰時抄」創価版P265)

ただ、この文証が№16の漫荼羅の讃文を連想させますが。

もし、蓮祖があの讃文を書き込んだとしたなら、その目的は何でしょうか。それと、あの讃文が後にも先にも一舗の漫荼羅にしか存在しないのは何故でしょうか。

1110愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 21:47

訂正
誤→1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、同月「撰時抄」が著されています。

正→1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、富士年表によると同月「撰時抄」が著されています。

です、悪しからず。 m(_ _)m

1111名無し@富士門流:2005/01/21(金) 01:48

1111ゲット!!

皆さん今晩は。

この商品?よく似てますね。勧請諸尊は万年救護と全同ですね。

http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2803.html

本物かどうかはわかりませんが。

1112顕正居士:2005/01/21(金) 05:44
>>1109

>もし、蓮祖があの讃文を書き込んだとしたなら、その目的は何でしょうか。それと、あの讃文が後にも
>先にも一舗の漫荼羅にしか存在しないのは何故でしょうか。

蒙古の侵寇が近い情勢から幕府もついに日蓮を赦免し、最後の諫言を行い、ここに道力折伏(破邪)
の目的は達せられたから、今後は摂受(顕正)を行わなければならない。平頼綱との会見後、直ちに
身延に入山し、その後は弟子の教育に専念された。そして文永11年の10月、ついに他国侵逼の予言
は成就した。『観心本尊抄』で述べた「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」の時期も
近かろう。静かな精神の高揚から賛文をしたためたのだと考えます。これは一回性の霊的事件ですが
その後、「仏滅度後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅」とよく記されるよう
になります。

>今、「撰時抄」を改めて読み返しているのですが、通称「万年救護本尊」に関する記述はありませんね。

なぜなければいけないのかが分かりません。弘安2年の板曼荼羅というイコンを製作することが日蓮の
出世の目的であったような不思議な教学から考えておられませんか。万年救護御本尊が時期と賛文の
ゆえに最も意義のある曼荼羅であっても、それはイコンではないし、この曼荼羅が「大本尊」という意味
ではない。近く上行菩薩が出世して本門の教主釈尊への信仰をひろめ、その後にさまざまな仏教芸術
が生じるであろう、その予感を曼荼羅と賛文で表現されたと考えます。

日蓮の後に「上行菩薩」は出現していない、日蓮は幻想家であって元寇を退けたのは北条氏の功績と
いうこともできるが、日蓮の信者からすれば日蓮自身が上行菩薩の垂迹であったのだとおもうでしょう。
自界叛逆の予言は日蓮の滅後に実現し、徳川氏の日本統一まで戦国の世が続いたのは史実です。
日蓮は祈祷の効果を信じていた。かつ、その祈祷をPCでやるのとMACでやるのとは効果が違うような
ことを主張した。これは半分はまだ迷信を信じていても、もう半分は元寇対策をほんとうにしなければ
ならない北条氏にとって苦悩だったでしょう。けれども一国に二つの政府があれば他国の侵攻を退ける
のは困難とか、他国の侵攻を受ければその経済的疲弊により内戦が喚起されやすいとかは真実です。
当時はこのレベルのマクロな事柄に示唆を与える学問はなく、日蓮はそれを仏典に捜し、北条氏は
自己の知能と経験によって処理し、それぞれに中世から近世への脱化の過程にあったのだと思います。

1113愚鈍凡夫:2005/01/22(土) 05:04

顕正居士さん、レス有り難うございます。

> 弘安2年の板曼荼羅というイコンを製作することが日蓮の出世の目的であったような不思議な教学から考えておられませんか。

石山の通称「戒壇之本尊」と称する板漫荼羅のことは念頭にありません(戒壇之本尊がイコンかどうかは別として)。ただ別の意味で、「遺恨」と言うのであれば、通称「戒壇之本尊」を蓮祖究極の本尊と騙し続けた創価学会に対して、少しは残っているかなといった感じです。

「釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと梵帝日月四天竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや」(「撰時抄」創価版P265)

との文証を改めて拝読すると、通称「万年救護本尊」の讃文を認めた心境の表明ともとれますね。
小生も、蓮祖の心中には「上行菩薩」の先駆けとしての使命感が渦巻いていたと思います。

色々と、ご教示下さいまして、有り難うございました。 m(_ _)m

ただ、この通称「保田妙本寺蔵万年救護本尊」の讃文「自筆説」「他筆説」について、考察を続けて参りたいと思います。また、小生が変なことを言い出したら、軌道修正して下さい。宜しくお願いします。
 m(_ _)m

1114祝8郎:2005/01/23(日) 14:54
スレッドをまちがえましたので、こちらに再掲させていただきます。

彫刻本尊は大石寺では日蓮直筆と主張しているのですよね。
しかもそれは「本門戒壇の本尊」である、と。
もしそうであるならば、真筆の立正安国論や観心本尊抄などの国宝よりも価値があることになりますね。
この掲示板は大石寺の僧や信徒、顕正会の人も見ているとのことなので、彼らは国宝認定の請願運動をすぐにでも起こしていいのではないでしょうか。
なぜそういったことをしないのでしょうか。不思議です。
これは犀角独歩さんの御説の反対するということではなく、大石寺僧俗が彫刻本尊を本物だと言うのであれば考えて当然のことではないか、という疑問です。

1115犀角独歩:2005/01/23(日) 15:11

> 1114

このご意見には大いに賛同です。
「本門戒壇の大御本尊」を国宝にする会でも作るとよろしいですね(笑)
それ以前に、国立戒壇に入れようと言うものの、何の学術・科学調査が行われていないことはおかしなことです。

それにしても石山では、これを「生身の日蓮大聖人」とか言いますが、こういう表現はやめた方がよろしい。これにお肉が生きているなんて話を合わせると、もはやオカルトの領域です。もう21世紀になりましたら、この手の与太話は、恥ずかしいからやめにしましょう。これは相承の有無より、よほど、重大な問題なのに、なぜ、問題にされないのでしょうか。

木で出来た彫刻が生身の日蓮と言ってみたり、700年前に抜けた歯にくっついているお肉が生きているなんていう話は、日蓮本仏論やら、彫刻本尊真偽以前の問題で、「日蓮正宗はオカルトである」という批判を免れ得ないことであると、わたしは、ここで強く再認識すべきであると書き留めておくことにします。

1116彰往考来:2005/01/23(日) 16:16
>1098
れんさん、

「日興跡条々事」が時師が作成した可能性があるかもしれないという貴説を読み衝撃を受けました。前々から「日興跡条々事」は興師の筆と異なるようだと思っていましたが具体的に比較検証できずにいました。今回貴説に接し手元の写真で確認したところ、「日興跡条々事」の筆跡は時師のものと確かに似ていると感じましたので僭越ですが愚論を紹介したいと思います。
確認に使用した写真資料は下記のものです。
(1)『日興上人全集』(平成8年、興風談所)・・・「日興跡条々事」ほか興師筆跡
(2)『1996年10月2日付創価新報』(創価学会)・・・「日興跡条々事」
(3)『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)・・・興師御書写御本尊
(4)『奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)・・・時師ほか御書写御本尊

解析は漢数字の『三』字と『七』字で行いました。具体的には「日興跡条々事」にある「七十三歳」の『七』字と『三』字、「十七之歳」の『七』字、「御在世七年」の『七』字です。『三』字が一箇所と『七』字三箇所です。
文献(1)、(3)を見るとよく解りますが、興師の『三』字は極めて特徴があります。通常は『三』字の場合、真中の第二画が一番短く、一番上の第一画がその次で、第三画の一番下が最も長いというものです。ところが興師の場合は第一画 < 第二画 < 第三画 の順に長く書かれるという特徴を持っています。(例えば、文献(3)の69頁の正安三年や341頁の元徳三年)第一画と第二画がほぼ同じ長さの場合もありますが、全体的に“△”のように末広がりとなるような感じです。それに対して「日興跡条々事」では文献(1)、(2)とも明らかに通常の『三』字で真中の第二画が一番短いという特徴です。時師の場合は、明徳三年の御本尊(42番)、応永十年の御本尊の賛文(三十年)をみても明らかに通常の『三』字です。有師も時師のような書き方ですが、少し縦に長いように見受けられます。
『七』字も特徴的です。『七』字は第一画が横一本で、第二画が縦から入り右へ90度曲がって横になりますが、第一画と大二画のそれぞれ横棒の角度が異なります。「日興跡条々事」では『七』字は三箇所とも横の二本棒がほぼ平行です。それに対して興師は約30〜40度程度の角度を持ちます(例えば、文献(3)の343頁の廿七日や文献(1)の493頁の七月など)。行師は角度を持ちます(文献(4)の御本尊(39番)の頭破七分)。ところが時師は角度を持たず平行なものが多いのです(文献(4)の42番、43番、46番、47番、48番、49番のそれぞれ頭破七分)。影師は第二画の90度曲がっている箇所が角張っていて違う特徴です。(文献(4)の56番の頭破七分)有師は時師と同じで角度を持ちません(文献(4)の57番の頭破七分)が、『三』字の時と同じく平行な二本の間の間隔が縦方向に広いので違った感じを受けます。

綜合的に判断すると「日興跡条々事」に一番良く似ているのは行、時、影、有、各師のうちでは時師で、興師筆跡と「日興跡条々事」とは似ていないという結果でした。
正確に判断するには、警視庁で使っている画間比率法のような解析が必要ですがそれは今後の課題にしたいと思います。

by 彰往考来

<参考資料>(上記(1)〜(4)以外)
町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』(昭和35年、日本評論新社、5頁)
松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻、大成出版社、207,220,548頁)

1117犀角独歩:2005/01/23(日) 17:02

日本の文書というのは、その内容を他人に書かせても、署名・花押を本人が書く、もしくは筆順を教えて書かせた場合、その内容を署名者が認めたことになるというのが慣習です。ですから、このような文書の真偽を諮るのであれば「日興・花押」の真偽から問うというのが定石であると思います。

なおまた、三学無縁さんが指摘されていますが、条々事は一書ではなく、案文ほか、かなり出入りがあり、なにをもって、問うかというはじめの一歩が定まらないところに、その難しさがあるのでしょうね。

1118れん:2005/01/23(日) 19:21
>1116
彰徃考来さん、レスありがとうございます。犀角独歩さんのご指摘のとおり「日本の文書は、その内容を他人に書かせても署名花押しを本人が書く、もしくは筆順を教えて書かせた場合、その内容を署名者が認めたことになる慣習」があります。蓮祖の場合ですと、宮城妙教寺蔵の南条殿御返事(弘安元年四月)の本文は門下某の代筆、署名花押は蓮祖のもの、千葉県法華経寺蔵の富城入道殿御返事(弘安四年十月二十二日)は本文は朗師代筆、署名花押は蓮祖のものというように、いわゆる本文を門下が代筆する例がありますから、条々事も本文は門下代筆の可能性があります。不鮮明ながら条々事の署名花押を見るかぎり、元徳・正慶の興師の御筆の特徴がみえるので、それもありでしょう。以上これは条々事を興師真書と判ずる場合です。偽書とする場合は、本文は当然後人の作文で署名花押を他の興師真書から切り取って貼りつけた、あるいは、模写した…という可能性もあります。この場合は状況的には時師作成の可能性が高いと考えている次第です。この書の真偽は石山が正本・案文・異本・古写本の一切の鮮明な写真を公開しないかぎりは白黒をつけることは、現時点では出来ませんね。条々事が時師作成の偽書だとしても、この書から時師当時の石山における目師観・本門寺観が伺えて興味深く思います。

1119彰往考来:2005/01/23(日) 20:03
>1117,>1118

なるほど、『日』字を松本氏が分析して
いた理由がよくわかりました。
ご教示まりがとうございました。

1120祝8郎:2005/01/23(日) 20:07
条条事の本文の「日興」の文字と末尾の「日興花押」ですが、微妙ではありますが、明らかに字体が異なっているように思えますね。
れんさんが言われるように、

>偽書とする場合は、本文は当然後人の作文で署名花押を他の興師真書から切り取って貼りつけた、あるいは、模写した…という可能性

これは容易に推測することができます。
ただ、せっかく偽作した本文の四文字(およそ、ということですが)を、なぜ削り取ったのか。
大石寺にとってよほど都合の悪い四文字だったのでしょうね。
この部分は、「案文」に記述されているのでしょうか。高橋粛道氏に教えて頂きたいものです。

1121彰往考来:2005/01/24(月) 12:34
>1119

訂正です。みっともないですね。ごめんなさい。

誤:ご教示まりがとうございました
正:ご教示ありがとうございました


彰往考来 拝

1122名無し@富士門流:2005/01/30(日) 17:29:00

彰往考来さんの「日興跡条々事」の「三」字・「七」字判定は、その着眼点といい、解析・判断の内容といい、誠に素晴らしい内容であると思います。

あわせまして、れんさん、祝8郎さん、犀角独歩さんのご指摘を拝見しますと、「日興跡条々事」は後世に作られたものとみてほぼ間違いなさそうですね。

特に東坊地係争との関連が指摘されていますが、郷門にもかつては「日興跡条々事」と良く似た文献があったとされる記述があります。

これは尊門中興で京都要法寺創建者でもある広蔵院日辰師が、その著作「造仏論議 読誦論議」の最後に、後に小泉久遠寺代官分となる兵部阿闍梨日義師の写本を全文引用しているところです。

*************************************************************
日興上人大石寺御置文に云く、

一閻浮提の内諸山寺を半分と為し、日目座主為る可し、其の半分を自余の大衆に之を配る可し、日興遺跡は新田宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人為るは、大石寺の別当と定、寺と云い、御本尊と云い、墓所と云い、又云く仏は水、日蓮上人は木、日興は水、日目は木。

右此の御血脈は御正本房州妙本寺に之れ有り、
天文十三年甲辰極月二十五日謹んで而も之の抄を書し奉る   日義 判

(日蓮宗宗学全書第3巻P485〜486)〈但し原文は漢文〉
****************************************
*********************

大石寺のように条文化されておらず、内容的にも全同というわけではないのですが、意味するところは一致しているように感じます。

「千葉県の歴史」から妙本寺文書をざっと見た限り、該当文献は無く、興風談所「日興上人全集」にも掲載されていないことから、現在は紛失、あるいはこちらも偽書として除外されているかどちらかだと思います。

いずれにしましても、郷門版「日興上人大石寺御置文」が天文十三年に日義師が拝観・書写しているということは、それ以前の、所謂「東坊地係争」の最中に偽作された可能性もあり、行師・時師Vs伝師の争いの中で、互いに目師の正嫡であることを証明するために、かたや「日興跡条々事」を、かたや「日興上人大石寺御置文」を偽作した可能性もありますね。

それにしましても、各文献の主旨が同じであることを考えますと、どちらかが最初に出してきたのを受け、もう片方が慌てて類似文を作って応戦したといった感じでしょうか。

このあたりは、れんさんのご指摘によれば時師側が先で、伝師側が後からつくったと考えるのが妥当でしょうか。

1123彰往考来:2005/01/31(月) 07:31:29
>1122
名無し@富士門流さん

読んでいただいてありがとう。今度はいつになるかわかりませんが
『日』の分析に挑戦したいと考えています。

1124彰往考来:2005/01/31(月) 07:32:56

禅師授与漫荼羅の動向について〔9〕

スレッド1046の続きです。

さて、いよいよ禅師授与漫荼羅です。さんざん議論されているのでいうまでもありませんが、「富要集八巻」には次のように記載されています。

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」(178頁)

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、
(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)、 同上(引用者注:北山本門寺)」(215頁)

ここで、「本門寺・・・」の加筆部分の差が議論となるところです。「富要集八巻」は書き下し分になっていますが御本尊記載の原文はもちろん漢文です。
法道院(現在は富士大石寺蔵)のものの脇書は、『日興上人全集』(平成8年、興風談所、141頁)に記載があります。

「奉懸本門寺可為万年重寶者也」 (引用者注:『日興上人全集』の記載からレ点と一二点を除きました)

そして北山本門寺のものの脇書は、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、155頁)に記載があります。

「懸本門寺可為万年重宝(開山加筆)」

とあり両者を比較しますと、北山のものは、三文字足りません。頭の『奉』字と最後の『者也』字です。
また「富要集八巻」が“他筆”としているのに対して『日蓮正宗史の基礎的研究』では開山(日興上人)が加筆されたとしています。山口師は他筆と開山筆を明確に書き分けています。そしてその内容は今回の例のように必ずしも日亨師の「富要集八巻」と一致していません。このことから山口師は北山のものを見ていてその内容を記載しているのではないかと思われます。私がこのように考える根拠は『日蓮正宗史の基礎的研究』(15頁)にある剥離表装に関する記載です。

「この実例(引用者注:剥離表装)を拝したのは三年前(引用者注:1987年)、富士から持参されたもので、調査の結果、これは影本であることが判明した。」

ここでいう富士とは石山(大石寺)ではないことは確かです。だとすると北山本門寺のことでしょうか。北山蔵の禅師授与漫荼羅が石山によって研究されていたことになります。
剥離表装について触れるべきですが、それはあとで取り扱うこととし先に進みます。

1125彰往考来:2005/01/31(月) 07:33:34

禅師授与漫荼羅の動向について〔10〕

つぎは弘安4年10月(俗平太郎□□□)の御本尊です。この御本尊は千葉随喜文庫所蔵の『御本尊集目録』の第112番と北山本門寺蔵の2箇所の所蔵です。『御本尊集目録』の備考には「駿河国某寺に当御本尊の摸本を蔵するが・・・」とあり、引き続き富士宗学要集の記載内容が出てくることから、ここでいう駿河国某寺は北山本門寺のことと判断されます。また『日蓮正宗史の基礎的研究』には「俗平太郎□□□(他筆)」とあり、日興上人の筆ではないようです。千葉随喜文庫所蔵の御本尊は例によって削損です。

以上が北山本門寺蔵のうち他寺と重複所蔵がみられる4幅の資料内容です。
これ以外に特筆すべきこととして資料A,Cは、(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与) の御本尊を北山本門寺が所蔵していることを記載しています。この御本尊は重複所蔵がみあたりません。この御本尊については『富士日興上人詳伝』(764頁)に「大聖人御筆は、正しくは真偽未決のもので、立正安国会の写真目録にも省いており、ことに「石川新兵衛」以下の興師の弟子分帳の文のごときものは、正しく興尊の御筆に似ないものである。」とあり御真筆ではない(模写?)可能性が高いものです。

さて、北山本門寺蔵のうち他寺と重複所蔵がみられる御本尊は日蓮大聖人ばかりでなく日興上人の御本尊にも広がっています。整理してみますと、

御写年月        御受興       所蔵       資料
嘉元三年五月四日   伴野出羽三郎   東京船橋安太郎   A,C,E
嘉元三年五月四日   伴野出羽三郎    北山本門寺    A,C
延慶二年六月廿九日   □□□      愛知興道寺    A,C,E
延慶二年六月廿九日   円乗房      北山本門寺    A,C,E
正和三年十月十三日  式部房父□□□   東京松島家    A,C,E
正和三年十月十三日  式部房父□□□   北山本門寺    A,C,E

<資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
E:『日興上人御本尊集』

ここで船橋安太郎蔵のものは資料Eでは北山本門寺旧蔵としています。また北山本門寺以外の3箇所はすべて大石寺の末寺か信徒です。
これら重複した日興上人の御本尊が模写の類なのか剥離表装なのか資料がないので不明ですが、いずれにせよ欠字状態から考えてかなり後世に作成されたものと考えます。
延慶二年の円乗房授与御本尊の脇書は、資料Eによると正確には
 駿河国岩本実相寺前住□□□           愛知興道寺
 駿河国岩本実相寺前住円乗房六月廿九日遠忌日也  北山本門寺
とあり、愛知興道寺のものが剥離表装の影本である可能性が高いと思われます。
正和三年の式部房父□□□授与御本尊は、資料Eによれば脇書はほとんど全同です。
 甲斐国蓮華寺□住僧寂日房弟子式部房父□□□   東京松島家
 甲斐国蓮華寺前住僧寂日房弟子式部房父□□□   北山本門寺
とあり、しいていえば東京松島家のものが剥離表装の影本である可能性が高いと思われます。剥離表装であるとして、その時期ですが、少なくとも日興上人御在世に日興上人の御本尊を剥離表装することは有り得ないでしょう。

1126彰往考来:2005/01/31(月) 07:34:26

禅師授与漫荼羅の動向について〔11〕

問題は、これら日蓮大聖人と日興上人の重複御本尊で北山本門寺蔵以外のものは富士大石寺56世大石日応師の裏書のあるものが複数あるということです。
ここで日応師裏書のある御本尊を列記してみます。*印は北山本門寺との重複御本尊です。

図顕(書写)日     所蔵        裏書日       資料
*建治二年卯月    藤本 勘蔵     明治33年8月9日   F
 弘安二年十月    東京妙光寺     明治33年9月20日  G
 弘安三年二月日   永井藤蔵(現大石寺)明治37年1月     H
*弘安三年五月九日  法道院(現大石寺) 明治43年6月1日   H
 嘉元三年二月十三日 東京妙光寺     明治22年12月2日  G
*正和三年十月十三日 松島晃靖      明治29年9月吉辰   G

<資料>
F:『奉蔵於奥法寶』
G:『妙光寺百年史』
H:『法道院百年史』

こうして並べてみると、傾向があることに気づきます。明治20年代は、興師の御本尊、明治30年代は蓮師の御本尊ですが、どちらかといえば小振りのもの、そして最後(明治43年)に大物(禅師授与)というわけです。そして初期のものは剥離表装の影本が多いのではという観があります。資料が見当たらなかっただけで、船橋安太郎蔵や愛知興道寺蔵の興師御本尊も日応師の裏書が有る可能性はあります。日応師は明治27年10月17日〜29日に愛知・静岡地方巡教(『富士年表』昭和56年、富士学林、377頁)であったので少なくとも興道寺は有り得ると思います。
北山本門寺との重複が目立つことから、これら一連の御本尊は北山から日応師が入手したのではないかと考えます。『河辺メモ』では、禅師授与御本尊が北山から出て日応師が購入したと指摘していますので、そのほかの御本尊も北山ルートはありそうです。
北山から売りに出すと仮定して、最初は興師のそれも影本(もしくは模写)を売った。続けて売るには、顧客が蓮師のを欲しいといっている、ということでいつしか蓮師の正本まで販売とあいなったのではと推定します。知恵者がいて、販売の際に剥離表装した片方を売れば、まず信徒にはバレない、寺の重宝の数は変わらないということだったのでしょう。

しかしながら北山本門寺が大石寺に売りに出すでしょうか。このころ大石寺は興門派からの離脱を画作中で、明治33年9月18日に分離独立が認可(『富士年表』383頁)されているように当時の興門派である北山本門寺とは敵対関係であったからです。しかし実際はその時期に販売はされているとみるべきです。ブローカーが存在しそこが緩衝帯となって直接大石寺には売っていないとしか考えられません。北山が古美術商に売る。そしてその商人がどこかへ売るという按配です。北山は大石寺に売るのは避けたかったのではないかと思います。そのためでしょうか、これら日応師がからんだ御本尊を大石寺およびその周辺の信徒や末寺が購入した形跡はみられないのです。大石寺やその周辺に販売する場合、地元の有力な檀那に接触するわけで北山にバレやすいから避けたのかもしれません。日応師は本山周辺ではなく地方の信徒や末寺にばら撒いているのです。末寺といっても有力な檀那に売ったのでしょう。販売先は東京、茨城、宮城など静岡から離れています。もっとも当時本山であった大石寺は金がなかったのかもしれません。

by 彰往考来

1127名無し@富士門流:2005/01/31(月) 18:48:27

彰往考来さん、今晩は。

>末寺といっても有力な檀那に売ったのでしょう。販売先は東京、茨城、宮城など静岡から離れています。

とのことですが、以前当スレッドの論議で引用しましたが、以下の「藤本家文書」なんか関係しませんでしょうか。


○藤本家文書(正本:藤本家蔵)

日応上人御状

大暑の節に候処 弥御清適に御信行大慶之至に存候 野衲義も法用に付出京候得共 無事に法護罷在候間御休神被下度候 却説過般御登山に相成方よりの御咄しに宗祖御真筆大御本尊(其際御拝見に入候)御購求に相成候思召も有之趣に付 売方へも其趣申入置候処 度々の督促 殊に今回同人態々出京 身延派へ売込申様の相談も有之 誠に遺憾の至りに候間 可成御購求相成度 若し御承知に相哉候はば 五六日は滞京に候間 至急御返事相成度
夫迄は右売人へも他に売却は差留置候間 一刻も早く否哉御返事待上候 先は右要用のみ 稹々
三十三年七月二十五日
常泉寺にて 大石
藤本勘吉殿

1128彰往考来:2005/01/31(月) 20:02:15
>1127
名無し@富士門流さん、

スレッド1045で記載いたしましたが、藤本勘吉蔵の宗祖御本尊売買に関連していると考えています。
藤本氏蔵御本尊は、名無し@富士門流さんが指摘された7月25日付けの日応上人御状のすぐ後である8月9日の日応師の裏書があるのです。
よって7月25日状は、藤本氏蔵御本尊の売買に関連して書かれたものであると考えます。

彰応考来

1129名無し@富士門流:2005/02/01(火) 00:51:48

>1128
彰往考来さん、

本当ですね、今「御本尊集奉蔵於奥法寶」の8頁を確認しました。

今後ともご教示の程、宜しくお願い致します。

ところで、この藤本家の御本尊は本物なんでしょうか?

同時期のものと比べると、愛染の筆法が変な気がするのですが、、、

1130彰往考来:2005/02/01(火) 07:18:36

>1129
名無し@富士門流さん、

本件、ちょっと時間をください。どこまでご回答できるか
不安ではありますが、建治期の御本尊と愛染の比較をして
みたいと思います。


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