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素朴な疑問
997
:
アネモネ
:2003/11/26(水) 01:42
(つづき)
私は、法華経をはじめとする経典や聖典を否定するものではありません。だけど、「経典信仰」ということになると、違うのではないかなと思うのです。その意味では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のあり方にも大きく疑問を持ちます。と同時に、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が持つ聖典信仰のあり方に、法華経信仰の姿が酷似していることも気になるところでもあります。成立した時期や地域が近いことからも、その親和性みたいなものがうかがえるものでもあります。
私も、もともとはクリスチャンですから、聖典信仰のその思想性は非常に理解できるところでありますし、事実、法華講入信のときは、仏像信仰ではない、法華経信仰というスタンスに対してまるで違和感を感じなかったものでもあります。
ただし、御本尊下付から、なにか偶像崇拝(器物崇拝)ではないかという疑義を感じたのも事実でした。
恐らく、今、ここで議論されてきた本題の流れとは、何が本尊であるのかということだったのだろうと思うのですが、私に限っていえば、「本尊」という言葉そのものが馴染めないところなのです。
たぶん、本尊=偶像崇拝(器物崇拝)と感じてしまうのでしょう。
ただし、もっと突き詰めれば、偶像や器物を立てるまでもなく、聖典信仰そのものが究極の偶像崇拝ではないだろうかと、そんな思いももっています。
それは、決して聖典を否定するものではないのですが、聖典そのものを信仰の対象や本尊と崇めるといった宗教観に対して、私は疑義をもっています。
なにより、聖典を読んでいる人よりも、聖典も読めない人に、聖典の心を理解している場合があるという事実を知るからです。
>それはたぶん、イラン・ミトラ教のミトラを遡型とするミトラ信仰が、ミシュラン、メシヤ、マイトレーヤ(ミロク)と姿形を変えながら新約世界ではイエス・キリストとなり、大乗経典郡では弥勒菩薩を濫觴とする救済者=菩薩思想へと展開していった源を同じくする救済者思想であったというのがわたしの結論です。
非常に感覚的なところでの見解ですが、私は最初はキリスト教から宗教を知り、そして成人してから日蓮仏教によって法華経に触れたわけですが、聖書のいわゆる救世主信仰と、法華経の済度思想は、非常に似通ったものだと感じました。本当に感覚的に、そう思いました。
>それを一教一宗派に封じ込めることこそ愚かなことであると思うわけです。
私もそう思います。
法華経成立の背景というものも、概ねわかってきているわけですね。同時に、聖典の限界も見えてくるわけです。決して絶対的なものではないということを認めることも、仏教精神にかなったことではないでしょうか。
だからといって、完全否定するものではありません。絶対的、信仰の立場も否定の立場もとらないで、学ぶべきところを自らの判断で掴むということが求められるところだと思いますね。
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