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素朴な疑問
996
:
アネモネ
:2003/11/26(水) 01:41
(つづき)
>これしかし、法華経成立当時、菩薩は上座部その他の寺院に籠もる僧侶を意味したのではなく、在俗の実践者であったのでしょう。法華経創作者もたぶん、在家の実践活動家であったのではないのかと想像できます。
ここでもまた素朴な疑問ですが、いわゆる法華経成立の時代、法華経創設者のいうところの「菩薩道の実践」とは、一体何だったのでしょう。
何を菩薩道として何を具体的に実践したのかということに、私としては興味をもつところです。
それが、いわゆる今日でいうところの慈善事業やボランティア的なことだったのか。それとも、仏像建立や経典創作、または建造物の建立だったのか。
実践といってもいろいろあると思うんですね。
>そして、他の経典を排斥するとすれば、結局、それが法華経の限界そのものを意味することになるのでしょう。
>華経のなかに繰り返し記述される迫害の物語は、創作者集団が「自分たちだけが正しい」とする偏狭さを持っていたために起きた事実を記したものであったかも知れません。
そのことが事実だとするならば、なぜ、そのようなことになったのか、その背景を知りたいと思いますね。
>法華経を信奉する実践者=菩薩道を目指す人と集団否…法華経信奉者は、その偏狭な信仰姿勢から、文字通りの大乗精神に漕ぎ出す必要があると思います。
菩薩道の実践とは何であるのかということが重要だと思います。その菩薩道が、宗教的観点、つまり宗教的精神性において心から随喜を感じることが出来るとき、広める価値がある教えといえるのではないでしょうか。
法華経が説くという不軽菩薩の精神でいうならば、人を敬う心のこと、つまり人を差別することなく遍く思いやる心を培うことではないかと思うんですね。
法華経が広めるべき心とは、信心ではなく、不軽心ではないかと私は思うのです。
法華経を読みもしない私が、偉そうに言ってはいけませんが…。
>愚鈍凡夫さんへの問いかけで「マザー・テレサは菩薩道」と記されていましたが、まったく仰るとおりであろうと思います。
マザー・テレサの行為というのは、きっと聖職者として、もしくは宗教家として、実は当たり前のことなのかもしれません。
世間に名が出ることのない一介の人の中にも、マザー・テレサのような慈愛の実践者はいらっしゃることと思います。このことは、私などより、愚鈍凡夫さんや独歩さんのほうがはるかに実感として体感されていらっしゃることと思いますし、まさに実践者でもいらっしゃること、私は一目置いております。
>菩薩道は善意の実践のなかに、その遡型があるのでしょう。菩薩道実践の人がいたからこそ、菩薩道をテーマにした経典が創られたという時系列です。
ここは重要なところではないかと思います。
>法華経もその一つです。その意味からすれば、法華経を知らずとも菩薩道を歩む尊い人々がいることはなにも不思議なことではないと、わたしには思えるわけです。
世界中に、古の時代から信仰者はいるわけですが、ほとんどが経典も聖典も読めない文盲の信徒が多かっただろうと思います。
最近知って驚いたことですが、あの宗教裁判にかけられて処刑されたジャンヌ・ダルクも全く字が読めなかったといいます。しかし、ジャンヌ・ダルクは、自分が戦いが終わると、自陣の戦死者はもちろんのこと、戦った相手の亡骸をも抱きしめ涙していたとのこと。
文盲でありながらも、「汝の敵を愛せよ」というイエスの心を理解していたことに、私は驚きました。
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