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素朴な疑問

995アネモネ:2003/11/26(水) 01:40
犀角独歩さん

>このスレッドは「素朴な疑問」。当然の決めごととして了解してきたけれど、実は解けていない素朴な疑問にこそ、実は自分の信仰の落とし穴が潜んでいたのではないのかと…

お寺にしろ組織しろ、その中で自分の居場所を求めるとなれば、質問そのものが憚られるというものでした。そんな疑問が素朴に投稿できる掲示板は、やはり貴重な存在だとつくづく思います。

>絶えざる精進の道を歩むことなので、堂々巡りになっては、むしろいけないのでしょう。

菩薩道の随喜がなんであるのか、そこから学び知ることが大事なことなのではないでしょうか。しかしそれも菩薩道の実践のなかに本当に知ることが出来るものなのでしょう。だけど、その菩薩道が完全に組織勧誘や供養や財務といった行為に置き換えられてしまっているといえるわけですね。これも確かに実践活動ですから、菩薩道だと信じて実践し、その上成果も出れば、随喜となるわけでしようね。

>布施とは自分の功徳を我が菩提の資糧とせず、衆生に施すことでした。

このことは、とても重要なことだと思います。
衆生に施すということ。このことを私は、お寺で一度も聞いたことがありませんでした。
組織に対してご供養や財務をすることは、仏法に対する供養と称した布施行とされてしまっています。
ということであるならば、そのような名目で集金をしている組織は、供養した信徒になり代わって、集めた資金を広く衆生に対して施すことをしなければならないと思うのです。そうでなければ、個々の信徒の供養の厚意を無にしているといえるでしょうね。

私は、信仰に入る人というのは、その大半は人を救いたくて入るのではなく、自分が救われたくて入るものだと思うんですね。創価学会が破竹の勢いで躍進した時代背景を考えてみても、多くの民衆は戦後の貧しさの中、明日をも知れぬ生活不安を抱えていた時代だったわけですから、むしろ社会的にも施しを必要としていた人々といってもよかったといえるでしょう。そのような人々が、社会や他人からの施しを当てにせず、自力で生き抜くための拠り所として、信仰を求めたものだろうと思うのです。そのことは、在家の立場で信仰を求める志として、何も間違いではないですし、何もとがめられることでもないでしょう。
だけど、聖職者の立場となると話は違ってきますね。自分が救われる為に聖職者となることすれば、その志は邪なものといえるものでしょうし、本来的には菩薩精神にのっとり、自分の成仏を捨てても他(民衆)を済度する志で聖職者とならなければならないものだと思うのです。
つまり、組織的に供養や財務を集めている聖職的立場の人たちは、布施行を託している信徒に成り代わって、その集めた資金を広く衆生に施す責任の立場にあるのではないかと思うのです。
施すべき衆生とは、救いを求める「不信の人」ですね。それをしなければ、救いを求めて布施行を託した「信の人」も救われないものでしょう。

>この布施行のなかにこそ弘法が含まれるのであるとわたしは思えます。

済度を目的とする弘法なのでしょうね。
ところが、いずれの組織も済度の名を借りた我田引水といえます。
しかし、まあ、私がレスをすると、どうしても組織批判になってしまいますね。長らく、組織を離れているのでそんなに感情的になることもないのですが、こうして書いているうちに、ついつい苛立ちを覚えます。


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