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素朴な疑問
992
:
犀角独歩
:2003/11/25(火) 12:39
990 アネモネさん:
このスレッドは「素朴な疑問」。当然の決めごととして了解してきたけれど、実は解けていない素朴な疑問にこそ、実は自分の信仰の落とし穴が潜んでいたのではないのかと思う昨今です。
> 菩薩道は正法を広める…菩薩道は菩薩道を広める…堂々巡りに思えてしまいます
堂々巡りですか。そう見えるかも知れませんね。けれど、法華経では五十展転随喜は重要なテーマでした。絶えざる精進の道を歩むことなので、堂々巡りになっては、むしろいけないのでしょう。
> 菩薩道の実践=菩薩道の広報宣伝
広宣流布という言葉はいまで言えば、広告宣伝にいちばん近い言葉かも知れません。もちろん、商業的な意味合いを抜いた場合です。ですから、類似語である広報宣伝…広く報じて宣(よ)く伝える…意味も準じているとわたしも考えます。
ただし、法華経のなかで弘法は大きなテーマですが、それだけではありません。
六度(布施・持戒・忍辱・精進・禪・智)が具体的な道として示されています。
布施とは自分の功徳を我が菩提の資糧とせず、衆生に施すことでした。それは戒を持(たも)ち、堪え忍び、精進し、深い禅定と智慧を修することによって実践されるということでした。この布施行のなかにこそ弘法が含まれるのであるとわたしは思えます。
いまの時代、ボランティア、福祉、社会還元などという考えは一つも新しいものではなく、既に実践されていることです。けれど、いまから2000年昔、このような福祉が既に主張され、実践されていたことにわたしは驚きを禁じ得ないのです。
ここのところ、蓮師三宝義を論じるに、仏(釈尊)・法(妙法)・僧(四菩薩)と、僧は菩薩という伏線で記してきました。これしかし、法華経成立当時、菩薩は上座部その他の寺院に籠もる僧侶を意味したのではなく、在俗の実践者であったのでしょう。法華経創作者もたぶん、在家の実践活動家であったのではないのかと想像できます。法華経は法華経創作をした集団に限って、書かれていますから、法華経を広めるテーマが大きく、そこに菩薩道が摂取される憾みがあります。そして、他の経典を排斥するとすれば、結局、それが法華経の限界そのものを意味することになるのでしょう。この点でアネモネさんの杞憂と同一の思いをわたしも懐きます。
> 法華経に説かれてることとは、結局そういうこと
法華経そのものに内在する法華経そのものへの極端な賛美、まさにもっとも問題にされる点でした。法華経のなかに繰り返し記述される迫害の物語は、創作者集団が「自分たちだけが正しい」とする偏狭さを持っていたために起きた事実を記したものであったかも知れません。そして、2000年を経ていまに至るまで法華経によってもたらされる人格形成はその点から脱却していないようにも見えます。
> ここにある種の限界を感じてしまう
そうですね。わたしも同様に感じます。
しかしもし、法華経を信奉する実践者=菩薩道を目指す人と集団が、その限界を越えようとするとき、それは補完されるのではないのかとわたしは楽観的な予測を立ててはいます。否むしろ、法華経信奉者は、その偏狭な信仰姿勢から、文字通りの大乗精神に漕ぎ出す必要があると思います。
> 法とは何か…菩薩道
菩薩としての生き方、道としての法。それを法華経のみに呪縛したとき、アネモネさんが仰るような堂々巡りに陥ることになるのだと思います。
偏狭な一経主義に法華経創作者が陥った過ちを2000年を経たいま、超克することができれば、アネモネさんの疑問はあるいは解消されるかも知れませんね。
愚鈍凡夫さんへの問いかけで「マザーテレサは菩薩道」と記されていましたが、まったく仰るとおりであろうと思います。法華経のなかに菩薩道は記されています。しかし、法華経がはじめて菩薩道を説いたわけではありません。菩薩道は善意の実践のなかに、その遡型があるのでしょう。菩薩道実践の人がいたからこそ、菩薩道をテーマにした経典が創られたという時系列です。法華経もその一つです。その意味からすれば、法華経を知らずとも菩薩道を歩む尊い人々がいることはなにも不思議なことではないと、わたしには思えるわけです。
過去数千年前に興った救済者思想の継承者であり、菩薩精神もまた、同じ源から生じた勝れた人間精神であったのであろうと思います。それはたぶん、イラン・ミトラ教のミトラを遡型とするミトラ信仰が、ミシュラン、メシヤ、マイトレーヤ(ミロク)と姿形を変えながら新約世界ではイエス・キリストとなり、大乗経典郡では弥勒菩薩を濫觴とする救済者=菩薩思想へと展開していった源を同じくする救済者思想であったというのがわたしの結論です。それを一教一宗派に封じ込めることこそ愚かなことであると思うわけです。
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