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素朴な疑問

977犀角独歩:2003/11/24(月) 13:22

―976からつづく―

○本尊は仏とは限らない

真跡を具に見ると、蓮師は本尊という語を仏に限って使っているわけではありません。

「此れ等の人々を絵像木像にあらわして本尊と仰ぐ」開目抄
「智証大師の本尊慈氏菩薩」報恩抄

この点は写本遺文においても同様です。

「達磨大師を本尊とする」諸宗問答鈔
「畜類を本尊として男女の愛法を祈り」是名五郎太郎殿御返事
「漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき」四条金吾殿御返事
「儒家には三皇、五帝を用て本尊とする」本尊問答鈔
「達磨を本尊」新池殿御消息

そして、その類型の一つとして法華経本尊という特異な記述も見られることになります。しかし、なぜか日蓮本仏圏では本尊といえば仏、本仏であるという暗黙の決めごとに存しているように見受けます。

これはまた、有師などの日蓮“本尊”論の誤謬とも大いに関連していると、わたしは観察するわけです。
有師が「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というとき、蓮師を仏と言っているわけではありません。それは次文を見れば明らかです。「未断惑の導師を本尊とする」と明らかです。

ところが、勝れた、それも仏を本尊とするという刷り込まれた固定観念がある場合、元来、日蓮本尊は、ただちに日蓮本仏と解釈されることになります。これしかしながら、まったく短絡です。有師の脈絡は人師本尊から日蓮本尊を言っているものでした。

以上の誤謬は、いわゆる凡夫本仏論にもたしかに踏襲されているとわたしは見ます。
ここで凡夫本仏と言わず、“凡夫本尊”を言うのであれば、元来の富士教説と矛盾を来すことはなかったように見えます。

本尊といえば、仏、それもいちばん勝れた仏・本仏という論法が、人法一箇・日蓮本仏論を生んでいった躓きであったとわたしは観察しているわけです。


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