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素朴な疑問

970犀角独歩:2003/11/23(日) 19:26

968 ガンコさん:

『日眼女釈迦仏供養事』の該当部分は間違いなく、仏像についてです。

> 「一閻浮提第一の本尊」ははたして造立されたのか

これは造立ではないでしょうね。「可立」です。

> 法華経の中の仏

ここでもガンコさんは勘違いしているでしょう。
「法華経の中の仏」とは権大乗を簡んで、本門寿量仏を言うわけです。
法華経が文字で書かれているから仏は文字で、法であるなどということではありません。蓮師はこれを本門本尊と言い表した。その相貌は文字であれ、仏像であれ、意味するところは同じです。寿量品の意義を具えた仏格をとらえるかどうかにあるわけでしょう。

> 四菩薩とて仏像本尊は造れない

この根拠は何ですか。
一つ、しっかりと富士の勝手な言い分を一つ、わたしは指摘しておきたいと思います。
仏の相貌は文字でしか表せないというのは勝手な憶測です。
わたしは文字ですら表せるはずはないと思いますよ。
絵像、彫像にはたしかに表現の限界があるでしょう。けれど、文字も同様です。
我々は漢字文化圏の人間だから漢字で書かれた漫荼羅の諸尊・聖衆のだいたいの意味はわかります。しかし、漢字がわからない文化圏の人からすれば、絵よりさらに漢字で書かれた漫荼羅は何がなんだかわからないのです。

あと、一点、蓮師の教学を考えるうえで、絶対に落としてはいけないことがあります。それは「結縁」ということです。例えば、法華経がある。法がある。それがあれば、衆生が成仏するかと言えば、しないわけですね。もっとも必須条項があるわけでしょう。それが結縁です。たとえば、極楽でも法華経の説法は阿弥陀如来はするでしょう。でも、その阿弥陀如来の説法を我々が聞いても成仏しない。何故か。それは阿弥陀如来は娑婆世界の我々とは無縁の仏だからです。我々と有縁の仏は釈迦如来のみです。ですから、釈迦如来との結縁を得て、釈迦如来の法華経を聞き、結縁の次第を覚知しなければ我々は成仏しないというのが蓮師教学の根幹です。「念仏無間」とは、そのような結縁の次第から他仏へ情を寄せる過ちを突いたものであるわけです。法だけでは成仏はありえない。そこには結縁の仏とその導き手の菩薩(僧)が必要である。ここのところの議論は、この「結縁」という重大事が欠落しているとわたしは思うわけです。まあ、この点はガンコさんに記すところではないかも知れません。福田さんに申し上げたいことでした。


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