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素朴な疑問
968
:
ガンコ
:2003/11/23(日) 17:54
独歩さん
>と釈迦仏像を造ったことを蓮師が褒めちぎる書です。ですから、引用される箇所も、漫荼羅の記述ではなくて、その結論部は「釈尊一体を造立」に掛かっています。つまり、仏像についての記述です。
これですが、わたくしは曼荼羅だと考えたんです。ちょっと前に独歩さんがおっしゃっていた総帰命の根拠がこれではないかと。
で、仏像を嫌う理由ですが、この半年ばかりいろいろ考えてきて、わたくしは“大聖人の御意に叶う仏像本尊は存在しないし、今後も出現しない”というしかないと思っております。
つまり、「一閻浮提第一の本尊」ははたして造立されたのか? もし、造立されなかったのであれば、もはや大聖人がましまさない以上、どうしようもない、ということです。
それこそ、四菩薩に相当する人が出てこないとムリですし、もっといえば、わたくしは四菩薩とて仏像本尊は造れない、と考えました。
「我が弟子之を惟へ、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林最後にも訪はす、不孝の失之有り。迹門の十四品にも来たらず本門の六品には座を立ち、但八品の間に来還せり。」
地涌千界は久遠の弟子であって、久遠実成の釈尊にまみえる時間はそれこそ長遠であったろうから、その方たちがお出でになって仏像を造れば、印度の釈尊ではなく、法華経の中の釈尊をお造りになられるかもしれません。しかし、それは“仏”のすがたではなく、じつは“法”なのではないか・・・という風に考えるのですが、未だじぶんのなかでじゅうぶんにまとまっていません。まだまだ、時間がかかりそうです。
少なくとも、大聖人は守護国家論で「今は法華経の中の仏を信ず」と仰せであって、御自らはもっぱら御文字でもって御本尊を御認めであられます。よって、それを法華経の中の仏と認識しております。当然、南無釈迦牟尼仏に異論はありません。
なお、日眼女抄の問題は、半年ほど前に考えをまとめようとしていたのですが、途中で挫折しました。(本仏論のスレッドに無残な記録が残っています)
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