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素朴な疑問
962
:
犀角独歩
:2003/11/23(日) 14:51
アネモネさん:
横レス失礼します。
“法”ということなのですが、どなたが、どの著述で明言していたことなのか失念したのですが、読書で頷いたことがあります。
それは仏法と仏道は同じ意味であるということでした。
つまり、法は道(どう)であるというのでした。
まあ、インドなどでいうダルマ(ダンマ)は実に多義に亘る意味を凝らした語であって、上述の限りではないですし、それは中国から日本への伝播、三国における内観分析や、羅列主義とも映ずる論の展開でますます煩瑣の度合いを増していきました。
こうなってくると、法とは何なんだか、わけがわからなくなってきます。
法華経で言う、正法(サ・ダルマ)、妙法などと言い出すとますますわかりませんね。
960にも記したとおり、それが何であるのか、まるで説かれていないと見えるのが法華経だからです。
けれど、法と道、より正確に言えば、法の実践が道なのではないのかと、わたしは考えて見ることにしました。こうなると、法は道(実践)のなかでしか見えませんから、そもそも別に論じること自体意味をなさないことになりますね。
この視点で、もう一度、法華経を読み直します。すると、法華経の中にまざまざと浮かび上がる“法”があります。何でしょうか。おわかりになると思います。「菩薩道」です。つまり、法華経の中に説かれる正法とは菩薩道であると見ると、この経典が元来、言おうとしていた意味が初めて見えてくるとわたしには思えるわけです。
難信難解だというのは、法をこねくり回し、わけをわからなくしてきた解釈にその原因があったのではないのか、遮蔽物となっていたのは一念三千という解釈にあったのではないのかというのが、最近、夙に思うところです。
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