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素朴な疑問

960犀角独歩:2003/11/23(日) 13:59

951 愚鈍凡夫さん:

横レスへの横レスです。

> 法灯明

単に法灯明ではなくて、「自灯明・法灯明」が対になっています。
「自らを灯明となし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明となし、法をよりどころとして、他をよりどころとせず、すすめよ」でした。

在世のシャキャムニが、自分のことを拝ませたか? そんなことはなかったでしょう。
ですから、ここで拠り所とされたのは、愚鈍凡夫さんが言うとおり、ダルマ(法)であった、しかし、その法を拠り所とする前提は自分自身が正しく道(どう)を歩むという前提にあったのでしょう。道とはまさに法なのであろうと思います。

滅後、仏教徒である指標とは三帰五戒であって、ここに三宝帰命が仏教徒である証となっていったわけですね。この段階で自灯明の精神が損なわれたかと言えば、わたしにはそう思える節もあります。殊に教団信仰へ転落すればするほど、自己評価を貶めることによって集団・指導者への依存度を増すという“操作”がそこに看取されます。ここでは自灯明というシャキャムニの遺言は影を潜めてしまっています。これではいけないと思うわけです。

> 法華経

『六法全書』を例に採ります。これは法律をまとめたものですが、法律そのものではありません。法律をまとめた本です。
同じように法華経は正法(羅什師が言う妙法)に基づく本ですが、法そのものではありません。経典です。

愚鈍凡夫さんが引用された三品、譬喩品では「此經」、寳塔品では「此經」壽量品では「經典」となっています。“法”ではなく、経典です。実はこの点が重要なのだとわたしは思います。

> 「法華経」を通して「釈迦牟尼仏」を拝謁する

この視点に賛同します。これが要するに「見仏」ということなのであろうとわたしは思います。

少し横道に逸れますが、わたしが法華梵本直訳を読んでいちばん驚いたのは、全編を通じて記されていないことが二つあった点でした。一つは正法と言いながら、その法が何であるのか記されていない、もう一つは仏が「この上なく完全なさとり(阿耨多羅三藐三菩提)に到達したとしながら、このさとりがどのようなものであるの記されいないという二点です。

これを羅什師は諸法実相九如としますが、これは意訳でした。また、智邈師はここを十如三千で湛然師が一念三千としてこれが法であるといいますが、これが羅什師から智邈師、最澄師を経って蓮師受け継がれる台学の有様でした。この系譜にはわたしは大いに異論はあるのですが、ここでは蓮師の素意を考えますので、この異論はさておきます。

梵本法華経で、強調されるのは経典崇拝という一点でした。法華経典を通じて如来を見(まみ)えるという見仏思想です。そして、経巻崇拝はまた菩薩道のなかに摂取されます(法師品「若有得聞是經典者 乃能善行菩薩之道」

ところが羅什師が九如の意訳をなし、ここに新たな教学運動が起こるとそれは一念三千という法華経そのものにはまったくない教学解釈が添加されていくことになります。法華経の中でどこが一番大事なのかという部分論が展開されていきますね。八品だ、一品二半だという話です。さらにそれが題目だと言ったのが蓮師でした。そして、その理由は『本尊鈔』「不識一念三千者仏起大慈悲五字内裏此珠令懸末代幼稚頸」と言い、その題目が大切なのは仏がこの五字に一念三千の珠を裏(つつ)んだからであると蓮師は言って、ここに題目本尊が成立していくのであろうと思います。これまた、余談ですが、漫荼羅は本尊であるというより、その首題・妙法蓮華経の五字が本尊であるというのは押さえるべき点でした。

ここで疑問に挙げるのは、何故釈迦本尊ではなく、題目本尊なのかという点なのでしょう。『本尊問答鈔』が果たして真跡か、という大きな問題は残りますが、「南無妙法蓮華経」は動かし難い事実です。わたしはしかし、福田さんに投げかけた問題点は漫荼羅には明確に「南無釈迦牟尼仏」と記されている、これまた動かし害対事実である、それなのに、なぜ富士門徒はこの点を等閑にするという点でした。

この点は、日蓮本仏論者は避けたい議論のようで、どうも皆さん、議論を横道に逸らしてしまいますね。残念です。


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