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素朴な疑問
958
:
犀角独歩
:2003/11/23(日) 12:46
950 空き缶さん:
漫荼羅中、法は「妙法」の二字ですね。
しかし、『本尊問答鈔』では「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊…法華経の題目を以て本尊」でした。では、ここで蓮師がいう法華経題目は“法”なのか、という問題が提示されます。その答えは次下にあるとわたしは読みます。すなわち、
「法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処、若説若読、若誦若書、若“経巻”所住之処、皆応起七宝塔極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何、此中已有如来全身」等云云」
です。蓮師が言う「題目」とは法ではなくて“経典”です。わたしはここのところ、何度も繰り返してきましたが、蓮師は題目本尊論者なのでしょう。そして、この題目は法華経“経典”を指しているわけです。では、これを漫荼羅に「南無妙法蓮華経」と記し、奉掲する理由は、と問われれば、同鈔の次下に(一句飛ばします、後述します)
「天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置せよ、亦必ずしも形像、舎利並びに余の経典を安ずることをもちいざれ。唯だ法華経一部を置け…法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊」
ということから、題目は法華経典の指標であり、その題目を図し、奉掲して法華道場の荘厳たらしめたと見えます。
では、しかし、この題目=経典は、論理展開としてここで畢っているかと言えば、そうではなく、そこに“法”をしっかりと看取されます。すなわち、先に飛ばした一句です。
涅槃経の第四如来性品に云く「復次迦葉、諸仏所師所謂法也、是故如来恭敬供養以法常故諸仏亦常」(復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり)
です。諸仏は法を師とするという記述です。この点から言えば、法が師である、…ここのところの議論で言われる「南無法」…ではないのかと、なります。
けれど、法が師なのだというのは即断であるとわたしは思います。何故ならば、「諸仏の師とする所は所謂 法」という一句は「末代悪世の凡夫…法華経の題目・本尊」と対句をなしているからです。すなわち、諸仏は師とするところはたしかに法であるけれど、末法衆生が本尊とするところは題目経典であるという対比です。
ですから、法は諸仏が師とするところであるけれど、末法衆生が本尊とすべきは題目(法華経典)であるというのが、この鈔の脈絡です。この点を落として、末法無仏・本尊は法としては、蓮師の本尊観と相違するというのがわたしが言いたいことなのです。
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