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素朴な疑問
949
:
犀角独歩
:2003/11/22(土) 09:46
福田さん:
> 多宝如来や、四菩薩や、他の菩薩にも、南無
ええ、もちろんでしょう。日蓮上行を言う人からすれば馴染まないでしょうが、日蓮は一介の僧として四菩薩に南無していたのでしょう。そして、もしや自分は地涌の流類かも知れないという襟度をもって書かれるのが真跡です。まず四菩薩が現れ、そして、久遠釈尊仏像を通して見仏を示す、所持の法は妙法です。この証明をなすのは多宝如来ですから、帰命の対象でしょう。ここに蓮師の三宝観はしっかりと看取できます。
また、漫荼羅によっては一切の諸尊聖衆に南無を冠するいわゆる「総帰命」と称される漫荼羅図示もあります。これはすなわち、釈尊在世、その許の有縁の衆は過去五百塵点、あるいは三千塵点已来の結縁の基づいて参集した尊い衆生であるという見地によると拝せるのだと思います。
法華経では釈尊は久遠五百塵点に成道し、その寿命はその数に倍して残っている。心清く柔らかく信心堅固の人には、その仏と見(まみ)えることができるというのがその骨子です。無仏どころか、この娑婆世界に常に住し説法教化し続ける仏を説き表すのが法華経です。
南無妙法蓮華経と唱えるとき、その妙法蓮華経を流宣する四菩薩、その四菩薩の師仏・久遠釈尊への南無を意味します。南無妙法蓮華経は単なる南無経(法)ではなく、南無仏・南無僧(四菩薩)、すなわち三帰の意義を含めた唱題であるというのが蓮師の立場であると拝せます。
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