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素朴な疑問

939愚鈍凡夫:2003/11/21(金) 12:17
アネモネさん、レス有り難うございます。
さすがですね。 (^_^)v
安逹義景の娘(堀内殿、後の覚山尼)に関する資料を見つけたので投稿します。

『駆込寺 東慶寺史』より抜粋

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1 堀内殿

 開山覚山尼は秋田城介(じょうのすけ)安達義景(よしかげ)〔1210〜53.44歳〕の女(むすめ)、母は北条時房〔1175〜1240.66歳〕の女、時房は尼将軍政子〔1156〜1225.70歳〕の弟、いずれも鎌倉の名門である。建長四年(一二五二)七月四日、鎌倉長谷甘縄の安達邸で生まれた。『吾妻鏡』には、この日の条に、

天晴、午刻秋田城介義景妻、女子平産云々、号堀内殿者也。

 とある。日本女性史上の代表的人物となる覚山尼こと堀内殿の誕生を祝うがごとき晴天であった。のちに夫となる時宗は、この前年五月十五日に同じこの安達の邸で生まれたのである。
 堀内殿には兄泰盛〔1231〜85.55歳〕以下八男三女の兄弟姉妹があるが、この翌年父が逝き、兄泰盛が城介となり父代りとなる。『徒然草』にも出てくる障子の切り貼りをして、世を治むる道、倹約を本とすとわが子時頼に教えた松下禅尼は安達義景の妹であるから、堀内殿には叔母であり、後に時宗夫人となっては外祖母になる人であるが、同じ甘縄の邸内に住んでいたから、少女時代に訓育感化をうけたことであろう。
(中略)
 建長五年〔1253〕六月三日、堀内殿が満一歳にもならぬ前に父義景は四十四歳で死んだ。この年十一月に建長寺が落慶した。この寺は時頼の本願で、建長三年十一月起工、開山は宋から渡来の蘭渓道隆〔1213〜78.76歳〕である。
(中略)
 弘長元年(一二六一)の四月二十三日に、時宗十一歳、堀内殿十歳で結婚、安達邸から時宗邸に移った。早婚であり、近親結婚であるが、当時は珍らしくない。堀内殿から見れば時頼は従兄弟であるが、ここで舅と嫁の間柄となる。北条家の若君、後の執権となるべき時宗の妻として、その家柄、その人物最も適格の者として松下禅尼の推挙したものであろう。
(後略)

 3 日蓮の法難と時宗夫人

 これより先、日蓮〔1222〜82.61歳〕は『立正安国論』を著わして時頼にささげたが、彼は黙殺した。文永五年、蒙古の来状を聞いて日蓮は時宗に書状を送り、建長寺の蘭渓、極楽寺の忍性〔1217〜1303.87歳〕にも書状を与えて挑戦したが、誰も返答しない。文永八年〔1271〕六月、幕府は忍性に雨を祈らせた。これを日蓮は猛烈にやじった。ついに九月十二日、竜ノロで首の座に引据えられた。この時、刀が折れたとか、奇蹟があったとかで、日蓮宗では「竜ノ口の御法難」と称するほど有名な事件であるが、事実は時宗夫人の懐妊のゆえに、俄(にわ)かに死罪を赦されて佐渡に流罪となったのである。

「なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿(相模守時宗)の御だい所の御懐妊なればしばらく切られず」(「種々御振舞御書」)

 と、日蓮自身がのべているとおり確かなことで、これについては辻善之助博士も『日本仏教史』に詳論され、すでに学界でも定説となっている。ともかく時宗夫人のお蔭で、日蓮はあやうき命を助けられたことになる。

 この年十二月二日に、貞時〔1271〜1311.41歳〕が生まれた。夫人二十歳の時である。

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関連資料(HP内それぞれの青色書籍名をクリックすると関連部分が閲覧できます)

「『北条時宗』 参考文献」
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/tokimune-sankobunken.htm


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