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素朴な疑問
935
:
犀角独歩
:2003/11/20(木) 10:40
福田里敏さん:
> 関師も重要視
関師が、どうお考えになるか、ではなく、「自分が」がです。
当板は当人の自覚に基づいて議論をする場です。特定集団・個人の代理発言をする場ではありません。ですから、福田さんのお考えをお聞きしたいと思います。もちろん、「○○はこう言っている。それに対して、自分は考証の末、こう思う」ならば承ります。
> 釈尊を蓮師は、尊敬
尊敬していたのではなく「南無」していたのです。これは日蓮本仏論者にも同様に申し上げたいことですが、蓮師の漫荼羅を拝しながら、何故、その図示と相違したことを口にするのか、わたしはこれを三業不一致と責めるわけです。漫荼羅には、明らかに「南無釈迦牟尼仏」と記されています。「南無妙法蓮華経」と同様、帰命を意味する冠頭語です。尊敬というレベルではありません。また、一体仏の生涯随身は、帰命を表してのことでしょう。
> 成仏するのに、三宝が必要でしょうか?
そもそもこの遮難ははじめの一歩で躓いていませんか。三宝の要不を言うのではなく、蓮師は“報恩”という視点から三宝を仰ぐのでしょう。
「仏家」という言葉があります。たとえば子が親と同居しているとします。その子が「家と食事があれば、親は要らない。家を建てたおじいさんはもう死んでしまったから不要」と言ったら、その不知恩、忘恩は非難されるところとなるでしょう。
仏教集団とは釈迦牟尼仏に始まる一切の教法と集団を言います。蓮師もそれ故、「南無釈迦牟尼仏」と漫荼羅に明示されるのでしょう。僧に就き蓮師は「伝持の人無ければ、猶お木石の衣鉢を帯持せるが如し」と言い、経法流布が僧侶によってなされたことを言われます。それにも関わらず、釈尊を祖とし、それを伝持した尊い人々のお陰をもっていま我々が仏法に縁することができているにもかかわらず、何として「仏・僧は不要」と言えることができるのでしょうか。要不で論じるのではなく、その報恩の念から仰ぐのではありませんか。さらに申し上げれば、「成仏するのに、三宝が必要」かと問われれば、仏僧なくして、祖も伝持もない故に、わたしは「必要」と応えるものです。
> 蓮師が、絶対なる三宝をたてられたでしょうか?
先に記したとおりです。
> 万民が簡単に修業できる、題目行を唱えられた
蓮師の唱題行はそれ以前の釈尊に始まる一切の仏教と対立した形で立てられたものではありません。その行法、教法も台家を踏襲しています。仏家である蓮師が三帰を廃するわけはありません。
『守護国家論』「仁王経に云く_…三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如くならん。外道に非ざる也。多く我が仏法を壊り、大罪過を得、正教衰薄し、民に正行無く、漸く悪を為す」
『顕謗法鈔』「三宝を破るが故に、則ち世間の正見を破す」
『太田入道殿御返事』「大涅槃経に…三宝を供養するが故に地獄に堕せず」
『道場神守護事』「設ひ科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか」
『富木殿御書』「賢慧菩薩の法性論に云く…三宝清浄の信、菩提功徳の業なり」
『兵衛志殿御返事』「四季にわたりて財を三宝に供養し給ふ。いづれもいづれも功徳にならざるはなし」
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