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素朴な疑問

911犀角独歩:2003/11/18(火) 00:05

909 福田里敏さん:

わたしの勝手な感想に真摯にお応えくださいまして、有り難うございます。
空き缶さんも薦められている書籍、探して読んでみることにします。

なお、以下の点、関師のご見解をお聞きいただけることがあったら、是非、ご投稿、報告いただければ参考になります。

> 経と法が、同じ

このような認識に立つ日蓮僧俗は大部を占めるでしょう。
この点、関師がどのような見解の持ち主であるか興味が惹かれます。

> 末法には、絶対的な仏はいるわけではなく我々、一切衆生が、みんな仏

これは法華経の経説とは明らかに矛盾しています。
法華経全編に一貫しているのは「見仏」ということであって、衆生が皆仏であるなどということではありません。法華経に説かれていることと違うことをいいながら妙法蓮華経(法華経)に南無するというのでは矛盾しているとわたしには思えるわけです。

なお、法勝人劣という点ですが、日蓮本仏を離れ、凡夫日蓮と見れば、至極当然の帰結ですね。矛盾するのは日蓮を本仏と見ながら、法勝人劣という如き在り方です。そもそも三身相即と言いながら、かく言うこともおかしなことですが、南無妙法蓮華経仏と日蓮を仰ぐ教学圏の信者が法勝人劣というとき、その自語矛盾に気付けないことを、殊のほか、わたしは奇妙に感じます。特に日蓮を無始古仏と見てしまえば、法も仏も無始でそこに差別を認められないことになるからです。

反して、日蓮本仏を脱却した立場から、関師が、法勝人劣=妙法勝日蓮劣の立場を採るというのであれば、矛盾はないことになりますね。

福田さん、わたしは率直にものを言いますが、悪気はありません。
主張が最後まで躓かないものであるかを見るために、執拗に突っ込みますが、質問をする相手の人格・信仰を否定しようとするものではありません。
立論が納得のがいくものであるかどうか、それを見ているだけです。

あと、わたしは蓮師も、法華経も無謬とは思っていません。ですから、

> 信じきるのが、大切ではないでしょうか

と問われれば、「大切であるとは思わない」と答えるほかありません。
しかし、無謬でない日蓮、後世の創作には違いない法華経ですが、そこに説かれる菩薩・見仏思想は恭敬の対象ではあります。その点で、躓きのない立論を愛敬の対象です。
稔りある議論を期待します。今後ともよろしくお願いいたします。


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