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素朴な疑問
905
:
犀角独歩
:2003/11/17(月) 20:49
―905からつづく―
> 末法の成道は、衆生が「法」を「信」の一字をもって受持したその中にある
末法の成道とか、いついつの成道とか、そんな区別があるのではなく、蓮師は三時においては修業の法軌の相違を述べるに過ぎないはずです。行学不要・信偏重は、寛師が「観心の本尊」を「信心の本尊」と言い換えたデマゴギーを彷彿とします。
やや横道ですが、信のみを強調する宗教にろくなものはありません。
「法」…諸法実相の理…具体的には十界互具
諸法実相は理に違いありませんが、久遠本仏によって証明しようとする十界互具が教学的見地に立てば「事」です。故に上記解釈には異論があります。また十界互具が理であるならば、ここでは法を理法のみで終え、事法の側面が落ちています。事理両面の説明がなければ、単なる理の法教となるでしょう。
> …仏と衆生は本質的に平等であり、自己以外に仏は存在しない
生仏一如の焼き直しでしょうが、自己以外の仏を認めないとなると、他者の仏界を認めないことになります。これでは諸法実相も、十界互具もあったものではなく、衆生無差別ならぬ、自己以外の他者を認めないと誤認されても致し方のないことになります。
> 世間法の究極こそが仏法
これは「一切世間治生産業皆与実相不相違背」(法華玄義)、あるいは「法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書)などから言われるところであろうと思えます。しかし、これら釈・書が言おうとするのは世間法の究極が仏法であるというのではなく、「不相違背」あるいは「世間法の全体が仏法」ですから、「究極」とは意味するところが違います。また、法のみで仏が要らないのに、ここで何故、「仏法」というのか理解に苦しみます。
> 「戒壇本尊」…衆生一人一人の成道
> 「法」が断絶しないことが真実の血脈義である。
> 勤行は理行
先二つは自己本尊=法ということから来る結論でしょうが、根拠を示すべきでしょう。勤行は理行とする考えはわかりますが、ここでは肝心の自行が欠落しています。
以上、わたしはまったく納得できない解釈の羅列です。
わたしには、なぜ、このような解釈をする必要があるのか、まったく理解できません。単に石山の板漫荼羅、血脈論のアンチテーゼから、限りなく創価教学に類似してしまった己義偏向としか映じません。
もちろん、それを信じる福田さんの人格を否定するものではありません。あくまで、感想です。また、詳しく調べて記したわけではありませんので、このわたしの感想への、異論反論、ご意見は、もちろん歓迎です。
稔りある議論をいたしたいと思います。
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