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素朴な疑問

904犀角独歩:2003/11/17(月) 20:47

ついで、福田さん:

みかんさんがHPを紹介してくださったので、一瞥させていただきました。福田さんには悪いですが、わたしにはこれが仏法とは見えません。
ただ、こう書いただけでは単なる悪口なるので、少しだけ。

> 宗祖日蓮聖人の創唱された南無妙法蓮華経の信仰

南無妙法蓮華経の信仰はないと思います。あるのは妙法蓮華経への南無する信仰ではないでしょうか。また、これは蓮師の創唱であれば、三国四師ではなくなり、蓮師の自称と食い違うことになります。

> 無仏の時代…末法…「法」を本尊

法本尊なる教学は、そもそも蓮師とは無縁であって、人本尊・法本尊というのが滅後後世の教学であるとわたしは思います。また、『本尊問答鈔』で見る限り、蓮師の本尊観は法本尊ではなく題目本尊です。題目が法であるというのは短絡以外の何ものでもありません。妙法は法でしょうが、妙法蓮華経は経です。ですから、題目本尊とは経本尊でこそあれ、法本尊ではないはずです。
なお『本尊鈔』でみれば、もちろん、久遠釈尊本尊です。
また、末法無仏は他の教学圏でも散見しますが、そもそもこれは、例えば『本尊鈔』の「不生不滅」その根拠となる寿量品の「常住此説法」に違反します。

…宗祖の弘通も、ただ「法」の流布になる。

これまた、法本尊という脈絡からの結論で、蓮師の真意とは思えません。

> 南無妙法蓮華経の信仰においては「法」と「仏」は根本的に相容れない

佛と法が相容れなければ、仏法にはならないでしょう。わたしには言わんとすることがまるで理解できません。

> 本仏思想、及び、本仏思想的要素のあるものは、すべてこれを排除…

こうなると、法華を本門・迹門と立てる天台義を廃することになり、『本尊鈔』の「寿量佛」が成り立たなくなります。蓮師には寿量佛という本迹の捌きから見る本門佛思想家であったはずです。

> 「仏」を捨てて「法」を取る

こうなると、仏教ならぬ、法教とも言うべきものであって、仏法の体裁をなしていません。


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