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素朴な疑問

895犀角独歩:2003/11/17(月) 12:27


> 当時の信徒の基本的な信仰形態
> 御本尊を授けられていなかった人
> 聖人が御本尊を顕される以前
> 本尊を拝む事を中心とした信仰ではなく、
> お題目を唱える事が主体になっていたのでしょうか?

この疑義の立て方のなかにも、不躾ながら、ドプチェクさんのなかに胚胎す学会を含む石山系グループによって刷り込まれた“常識”が胚胎していると感じるわけです。もちろん、けっしてドプチェクさんが軽んじ、批判しているわけではありません。同一信仰に属する人々すべてに相通じる問題点です。

学会布教以降、信者といえば本尊(漫荼羅)安置が当然という刷り込みです。
わたしはこれはまったく論外であると思っています。
これまた三学無縁さんと主に語り合ったことですが、漫荼羅は勧請の法具として取り扱われていたのではないのかとわたしは想像しています。
つまり、道場で修業するとき、諸尊勧請を漫荼羅奉掲をもって行うということです。
当時のお弟子の多くは天台宗寺院に寄宿していたわけです。ですから、自らが修業するときには漫荼羅奉掲・勧請をもって道場を荘厳(しょうごん)したのであろうと思うわけです。言い換えれば、漫荼羅奉掲の場所は林中であれ、園中であれ、道場として荘厳されるということです。
しかし、このような用途は、蓮師門下でも特に出家、あるいは入道・尼という僧門に係る弟子のみの用途であったのではないでしょうか。
日蓮信者であれば=本尊安置などというのは現代の常識に過ぎません。
仰るとおり、「但行唱題」こそ、中心であったのではないでしょうか。

ここで石山の“常識”を一つ開陳します。唱題も石山では漫荼羅本尊の前以外で行わないのが宗是です。これしかし、わたしは蓮師の祖意とまったく違っていると思うわけです。

> どこの宗派・教団であろうとも…
> 人間としてのモラルに反する間違った行為だと思うのです。

この点に関してはもちろんのこと、まったく同感です。


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