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素朴な疑問

894犀角独歩:2003/11/17(月) 12:27

―893からつづく―

これが重須の“独自教学”以前に垣間見られる門下の蓮師の漫荼羅観であったと思える節はあります。つまり、漫荼羅は曼陀羅であって、本尊として扱われていなかったのではないのかということです。

> 勤行は本尊の為にするものですか・・・
> 正直、私には、どうもピンと来ません。

やはり、そうでしょうね。
わたしが学会から石山に移って、いちばんビックリしたのはこの点でした。
また、なにより、学会時代は勤行の際の「御観念」をまるで意味もわからず、“おまじない”のように唱えていたことに気付いたわけです。
いまの学会教本がどうなっているのか知りませんが、石山の経本では観念の次第は、神への法味供養、本尊(漫荼羅)供養、三師(蓮興目)並びに歴代への法要供養、広宣流布祈念、謗法罪障消滅、諸霊回向の次第です。この中で自分のためにしているのは、実は「謗法罪障消滅」一つだけです。
こう記すと「いや、自分の祈念もしている」という人はいるかも知れません。しかし、改めて、経本を見直していただければわかりますが、石山で言う祈念とは「広宣流布大願成就」一点であって、そのために各人の謗法罪障消滅が条件となっているという構造になっており、個人の欲求を祈念する余地は、勤行次第のなかには実は含まれいません。ですから、所願成就は、別途、寺院に願い出ることになります。これはつまり祈祷師、自分本人ではなく、蓮師以来、師弟子の道を継ぐ出家にあらざれば適わないという伏線もあります。

横道に逸れました。ともかく、以上の勤行次第は元来、諸堂バラバラで営まれていたものを中世に一点集中化して手抜きに仕上げた結果でした。

元来は、天拝は露地に土壇を設け野外で行い、三師供養と言えば、それぞれの御影像に行い、ついで漫荼羅本尊に向かい、それぞれ勤め行われていたのでしょう。

このような勤行次第は神仏供養、漫荼羅本尊供養、祖師供養を意味したものであって、各人の願望成就を祈念する「祈祷」とは明らかに分別されたものであったのが祖型でしょう。

勤行が、自分たちの願望成就の手段であるというのは、実は創価学会によって刷り込まれた常識であったことに、信心35年にして初めて気付かされたわけです。
ですから、ドプチェクさんがこの点にピンとこないのも致し方のないことであると思うわけです。

> …松戸行雄氏の著書を読んだ影響

この点はわたしはちょっと意味を取りかねます。

> 日蓮聖人ご在世当時、本尊や勤行に関しては、
> いったい、どのような捉え方をされていたのでしょうか?

本尊は、蓮師所持の釈迦一体仏像を久遠本門釈尊。そして、法華経(妙法蓮華経)。
勤行は、原則的には比叡山の法式に則りながら、蓮師は独自に方便・寿量の両品のみの読経説を立てていたのではないでしょうか。(いやしかし、わたしは浅学ですから、方便寿量読誦を蓮祖義と即断してしまいますが、そのアイディアは蓮師はなにがしから採ったものであるかも知れませんが)


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