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素朴な疑問

838アネモネ:2003/09/28(日) 22:01
(つづき)
それと、ガンコさんはお感じになったことがおありかどうかわかりませんが、実際、仏法や仏教をくても、思いやりと慈愛に満ちた方がいらっしゃいます。ところがそのような人々のことさえ教団では、「不信の人」とか「悪縁の人」と蔑むわけですね。私はそれがどうしてもいやなのです。馴染めないのです。どっちが悪縁なのだろうかと思うばかりです。

去年のオフ会で独歩さんが指摘されていたことなのですが、そもそも法華経では「常住此説法」とあって、この世のどこにあっても、教団に所属しようがしまいが、また信じようが信じまいが、仏様は常にこの法を説いてくださっているとのこと。つまり、どんな時でも、いかなる場所でも、自分の心がけ次第で人生のあらゆる機会において、仏の法を学ぶことが出来るのではないかと、私はそのような心持ちでいようと思うようになりました。もはや法華経が絶対だとは思っていませんが、そのようなことを心がけたいと思っています。

>もうひとつの問題・・・たとえ入学しても卒業できない人はどうするか・・・ということの意味は、ぞくの言葉で“ハマッテいる人”ということではなく、ようは、落第生のことです。

落第か卒業かは、それを見る人の心によって違うでしょうね。もちろん、私は自分で卒業だと思っていますが、ガンコさんは今、ご自分を落第だと思っていらっしゃるのですか?
卒業した私の目から見ると、ガンコさんも少しずつ卒業に向かっていらっしゃるようにも見えますが。

>つまり、アネモネさんはみごとに卒業され、いまは新たな道を歩んでいらっしゃるわけですが、それはそれ相応の能力をお持ちだったからではないのか? という気がするわけでして、

別段、新しい道なんて進んでないですよ。組織にいたときと比べて寺院参詣とか活動とか登山とかがなくなっただけで、その他の生活状況はほとんど何も変っていません。
変化としては、前にも申し上げたように自分を追い込む強迫観念がなくなったことで、気持ちを楽に日々を送っているということが最大の変化といえるでしょうね。それと、活動をやめた分、時間を有効に使えるようになったということもあります。わずか8年でしたが教団信仰に捧げた時間と社会交流を、これから少しずつ取り戻したいと思っています。

ただ、これはぜひ書いておきたいのですが、法華講の30万登山が終わってからは、信徒の方からの勧誘の電話や訪問はピタリとなくなりましたね。静かな生活になりました。また時には町で信徒の方とバツタリお会いすることもありますが、快くご挨拶を交わしてくださり、懐かしんでくださる方もおられます。そんなときにさりげなく信仰上からの心配をかけてくださることもありますが、話に聞いていたような陰湿ないやがらせはないです。恐らく想像ですが、30万登山もひと段落したことで、信徒の方々も折伏成果目標の数字の重圧から精神的に解放され、少しばかり気持ちにゆとりが出ていらっしゃるのではないでしょうか。

>能力のない人は卒業ではなく落第であり、いずれは除籍となるわけで、

除籍や破門を気に病むことはないです。私は全然平気ですよ。
日蓮さんだって清澄寺からは破門されたような立場ではなかったでしょうか。第一、私たちは在家の身であって、出家者ではないのですから、よく考えてみれば破門される筋合いのことではないでしょう。宗教家にとって、世間一般の人も信徒も、遍く民衆は救うべき対象のはずです。その救済対象を、悪縁だ除名だ破門だと切り捨てること自体が、既に宗教家としての志を忘れた失格者といえるのではないでしょうか。
なにごとも先人に学んだ後は、別の道を行くことに躊躇することはないでしょう。何のための仏法なのかという原点を考えれば、自分の歩む道もそれぞれにおいて自ずと決まってきます。それも移りゆく時の流れと受け止めて進んでいく生き方もありだと思っています。


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